新日本プロレスに入門
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力士を廃業した後、プロレスラーへ転向。1993年6月、新日本プロレスに入門。日本武道館での馳浩戦でデビュー。恵まれた体格と格闘センスでポスト坂口征二(坂口から赤いコスチュームと入場曲「燃えよ荒鷲」を受け継いだ)として期待されたものの、大きなチャンスを与えられることもなく、結果を出せない中堅レスラーとしての日々が長く続く。穏やかな人柄で橋本真也らからはヤスティの愛称で呼ばれ可愛がられた。 私生活では根っからのギャンブル好きで借金苦に陥っていたこともあり、家族とも離縁。
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新日本プロレスに入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:38 UTC 版)
中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。入門初日に後のライバルでもある蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビュー。 1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た。カナダのカルガリー地区を中心にモンゴル人ギミックの『ハシフ・カーン(Hashif Khan)』のリングネームで試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。完全に干されたきっかけとなったのはファンの女の子にサインを求められたときに女性器を描き、それを見た親が泣いて激怒し、プロモーターに訴えられたためだと言われている。 1988年暮れのワンマッチ帰国後、1989年(平成元年)1月からはアメリカ合衆国テネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに、サムライ・シンジこと笹崎伸司と『ショーグン&サムライ(The Shogun & The Samurai)』のタッグチームを結成、エースのジェリー・ローラーやビル・ダンディーをはじめ、ブレイク以前のスコット・スタイナーやジェフ・ジャレット、ロード・ヒューマンガスらと対戦した。
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