新日本プロレスとの交流 - 崩壊とは? わかりやすく解説

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新日本プロレスとの交流 - 崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)

国際プロレス」の記事における「新日本プロレスとの交流 - 崩壊」の解説

1974年2月ストロング小林離脱後は、1975年からはラッシャー木村IWA世界ヘビー級王者としてエース務めたが、人気面では国際プロレス後発新日本プロレス全日本プロレスに次ぐ第三団体という位置付けであり、両団体比較するマイナー感は否めなかった。 小林離脱後、TBSから東京12チャンネルテレビ放映権移行したが、同局の『国際プロレスアワー』の放送形態末期の『TWWAプロレス中継同様に基本的に録画中継で、なおかつ録画中継となった場合収録から1〜2ヶ月後放送となることもあった他、試合生中継番組収録実施する会場1976年まで関東地方開催され興行のみ中継され1977年から関東地方以外開催され興行中継も本格的に開始)、ネット局多く全国をほぼカバーし全国各地興行実況生中継実施していた『ワールドプロレスリング』(NETテレビ朝日)や『全日本プロレス中継』(日本テレビ)と比べ視聴率伸び悩むようになり、観客動員数減少転じる中でも1974年11月20日行われた蔵前国技館大会11月25日に『国際プロレスアワー』で録画中継)は、1階升席空席目立ち主催者発表で4500人)、国際プロレスリングサイド満席にし、かつテレビ中継良く見せよう2階席の観客1階升席誘導したためにリングサイドチケット最初から購入していた観客抗議する事態となった全日本との対抗戦土曜日行われた場合国際プロレス主催でも原則全日本プロレス中継』で生中継され、『国際プロレスアワー』では録画かつダイジェストでの中継となるなど、中継面でも劣勢にたされるまた、当時系列局を1局も持たなかった東京12チャンネルへの移行は、ネット地域大幅に減少させることとなった中京関西地区ではキー局系列局放送され独立局での放送となり、愛知県体育館大阪府立体育館という大会場を控え愛知大阪の2府県では放送されず、さらに当時民放4局が所在しなおかつ札幌中島スポーツセンター宮城県スポーツセンター広島県立体育館という大会場を抱え北海道宮城県広島県におけるネットを完全に失うなど、全国ネット所属選手試合放送される新日本全日本比べマイナー感に一層拍車かかったまた、外国人招聘ルート高額な提携料が必要とされるAWAから、大剛鉄之助ブッカーとする安価なカナダルートに変更させた結果外国人選手ネームバリューにおいても他団体見劣りすることとなった海外ルートでは、新日本プロレス旗揚げ以来もっとも劣勢に立たされていたが、国際AWA提携解消同時期に新日本WWFとの提携開始し外国人選手顔ぶれでも国際凌駕するうになる)。 1970年代後半始まった危機的状況打開するために、1977年には近鉄ラグビー部(現:花園近鉄ライナーズ)に所属していたラグビー日本代表選手原進阿修羅・原)をスカウトしジュニアヘビー級エース育て上げて大々的売り出したが、一方で同時期より退団した選手スタッフ相次ぐ1977年には田中忠治体調不良理由引退した他、名物レフェリーであった阿部脩も参議院選挙全国区落選責任を取る形で『'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ』の北海道サーキットをもって退団1978年には剛竜馬藤波辰巳への挑戦表明し新日本プロレス移籍また、他団体との交流においても変化発生1978年11月25日全日本プロレス協力開催された『日本リーグ争覇戦』の蔵前国技館大会に、新日本プロレスからストロング小林小林邦昭出場し、その見返りとして、新日本同時期に開催していた『プレ日本選手権』の12月16日蔵前国技館大会アニマル浜口寺西勇派遣これに伴い交流戦全日本プロレスライバル団体である新日本プロレスシフトし当時吉原功全日本ジャイアント馬場との代表同士の間で、何らかの金銭的なトラブルがあったことも原因とされる)、翌1979年には両団体傘下とする日本レスリング・コミッションを設立国際IWA世界ヘビー級王座IWA世界タッグ王座新日本WWFジュニアヘビー級王座タイトルマッチ団体間で行われたが、この時期から経営難により給料遅配発生するようになり、これが元で剛竜馬新日本移籍した他、鶴見五郎大位山勝三による独立愚連隊結成のきっかけともなった都内におけるビッグマッチは、東京12チャンネルへのテレビ放映権移行後は後楽園ホールでほとんどが行われ、蔵前国技館大田区体育館における開催数回とどまった入場人員5000人以上の大会場における開催政令指定都市行われるのがやっとの状態となった。 交流先を全日本から新日本変更して危機状況変わらず1980年に入ると団体取り巻く環境はますます悪化2月には東京12チャンネル主導により、TBSプロレス時代グレート東郷獲得できなかった大木金太郎国際プロレス入団したが、大木への交渉事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネルとの間に軋轢生むとなったばかりか大木日本プロレス時代から保持していたインターナショナル・ヘビー級王座防衛戦NWA加盟団体である国際プロレス行ったことから、かつての交流先でなおかつ日本におけるNWA加盟団体であった全日本プロレスから抗議を受けることとなった大木韓国におけるNWAプロモーターであり、日本プロレス崩壊後韓国ではインターナショナル・ヘビー級王座防衛戦行っていたが、日本での主戦場としていた全日本プロレスリングでは行われることがなかった)。 さらに7月26日には、埼玉県大宮市埼玉県道35号産業道路)沿いにあった合宿所道場タクシー突っ込みガス爆発起こし全焼する事故発生。幸い選手前日に『'80ビッグ・サマー・シリーズ』最終戦札幌大会)が開催されたため北海道にいたこともあり難逃れたそうした中、東京12チャンネルは、10月より『国際プロレスアワー』の放送時間月曜20時台から、かつて多団体放送時代の『プロレスアワー』や日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台変更した変更初回滋賀県近江八幡大会生中継で、インターナショナル・ヘビー級王座IWA世界ヘビー級王座IWA世界タッグ王座の3大タイトルマッチ放送された。このうち大木VS上田馬之助インターナショナル・ヘビー級選手権試合に関しては、試合直後大木NWAからベルト返上するよう勧告受けたその後大木は翌11月国際プロレス退団し、後にNWAからのインターナショナル・ヘビー級王座返上勧告受け入れたインターナショナル・ヘビー級王座は翌1981年4月全日本プロレス王座として復活)。大木退団は、もともと東京12チャンネル視聴率アップテコ入れとして半年契約入団させたものの、それほど数字上がらず契約更新されなかったためであり、本人契約延長望んでいたという。 さらに負傷病気による離脱も相次ぎ1980年3月アニマル浜口試合中リング下で後頭部打って長期欠場復帰後の翌1981年4月にも肝臓疾患により戦線離脱1980年6月にはグレート草津右足首骨折で、1981年4月には若松市政急性膵臓炎それぞれ長期欠場完治後もリング離れて営業専念することとなったスネーク奄美脳腫瘍により離脱して長期欠場のまま1981年4月死去するなど、もともと選手不足だった国際プロレスは、ますますマッチメイク苦慮するようになる1981年起死回生を果たすべくルー・テーズより寄贈されベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』を年間として計画決勝まで1シリーズ内で行う全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』や新日本プロレスの『MSGシリーズ』と異なり、『'81新春パイオニア・シリーズ』に前期予選を、『'81スーパー・ファイト・シリーズ』に後期予選それぞれ実施し同年秋に決勝リーグ戦を行う予定だったが、そこまで団体存続させることはできなかった。 3月には前年全焼した合宿所道場再建工事開始されたものの、東京12チャンネル3月28日放送された『'81スーパー・ファイト・シリーズ』宮城県大会3月24日開催をもって国際プロレスアワー』のレギュラー中継打ち切ったその後東京12チャンネル特番放送することを前提として一部大会テレビ収録行ったが、6月25日行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦静岡県清水大をもって特番における収録打ち切られ国際プロレス重要な資金源であるテレビ放映権料を完全に失った以降国際プロレス7月16日に『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を前年よりも8戦削減した13戦の日程開幕させた。参戦した外国人選手同年1月新日本プロレス来日し坂口征二保持する北米ヘビー級王座挑戦して敗れたジ・エンフォーサーエース格とした寂しシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく東日本地区中心のローカル・サーキットとなり(西日本地区興行広島県における2戦のみ)、なおかつ最大5日連続興行のない移動オフ日が設定されさらには会場屋外会場中心で、カードも6試合組まれるのがやっとで、寺西勇菅原伸義冬木弘道それぞれ1戦ずつ欠場するという緊縮日程となったシリーズ後半の北海道サーキットでは、8月6日室蘭にてIWA世界ヘビー級選手権試合木村VSエンフォーサー金網デスマッチ)を、8月8日根室にてIWA世界タッグ選手権試合マイティ井上&原VSジェリー・オーツ&テリー・ギッブス金網タッグ・デスマッチ)を行いながら興行消化。そして8月9日シリーズ最終戦で、なおかつ1972年11月3日以来9年ぶりの興行開催となった羅臼町羅臼小学校グラウンドでの試合最後に興行活動停止した当日メインイベント国際プロレスとしては最後金網デスマッチとなった鶴見VSギッブス戦であった。『'81ビッグ・サマー・シリーズ』は当初15戦の予定で、羅臼大会当初サーキット組まれておらず、根室大会の後8月11日留萌、翌8月12日函館での興行それぞれ予定されていた。留萌大会函館大会中止となったため、急遽サーキット追加され羅臼大会国際プロレス最後興行となった。 『'81ビッグ・サマー・シリーズ』全日終了後は、翌8月10日羅臼から札幌移動8月11日スネーク奄美自宅訪れて焼香上げた直後室蘭移動し資金を底を尽いた中で、室蘭港からフェリー乗船して八戸港向かい八戸から国道4号東北自動車道使って8月12日帰京した東北自動車道通行料金選手バスの運転手自腹負担したという。 東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日テレビ東京への局名変更直前にも行われ同年9月16日5月16日後楽園ホール行われた『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』最終戦)と同年9月23日同年6月25日清水市鈴与記念体育館行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦)に深夜帯で、それぞれ放送された。しかし、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を最後に事実上単独での興行能力失った国際プロレスは、1981年9月30日正式に解散発表し名実共に崩壊認定タイトルであったIWA世界ヘビー級王座IWA世界ミッドヘビー級王座IWA世界タッグ王座封印された。1981年秋に開催予定であったルー・テーズ杯争奪戦決勝リーグも、崩壊に伴い完遂されることなく終わっている。

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