新日本プロレスとの交流 - 崩壊
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「国際プロレス」の記事における「新日本プロレスとの交流 - 崩壊」の解説
1974年2月のストロング小林の離脱後は、1975年からはラッシャー木村がIWA世界ヘビー級王者としてエースを務めたが、人気面では国際プロレスは後発の新日本プロレスと全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けであり、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。 小林の離脱後、TBSから東京12チャンネルへテレビ放映権が移行したが、同局の『国際プロレスアワー』の放送形態は末期の『TWWAプロレス中継』同様に基本的に録画中継で、なおかつ録画中継となった場合は収録から1〜2ヶ月後の放送となることもあった他、試合の生中継や番組収録を実施する会場も1976年までは関東地方で開催された興行のみ中継され(1977年から関東地方以外で開催された興行の中継も本格的に開始)、ネット局が多く全国をほぼカバーし、全国各地の興行で実況生中継を実施していた『ワールドプロレスリング』(NET→テレビ朝日)や『全日本プロレス中継』(日本テレビ)と比べ、視聴率は伸び悩むようになり、観客動員数も減少に転じる。中でも1974年11月20日に行われた蔵前国技館大会(11月25日に『国際プロレスアワー』で録画中継)は、1階の升席に空席が目立ち(主催者発表で4500人)、国際プロレスはリングサイドを満席にし、かつテレビ中継を良く見せようと2階席の観客を1階の升席に誘導したためにリングサイドのチケットを最初から購入していた観客が抗議する事態となった。全日本との対抗戦も土曜日に行われた場合は国際プロレス主催でも原則『全日本プロレス中継』で生中継され、『国際プロレスアワー』では録画かつダイジェストでの中継となるなど、中継面でも劣勢に立たされる。 また、当時は系列局を1局も持たなかった東京12チャンネルへの移行は、ネット地域を大幅に減少させることとなった。中京、関西地区ではキー局系列局で放送されず独立局での放送となり、愛知県体育館と大阪府立体育館という大会場を控える愛知・大阪の2府県では放送されず、さらに当時民放4局が所在し、なおかつ札幌中島スポーツセンター・宮城県スポーツセンター・広島県立体育館という大会場を抱える北海道・宮城県・広島県におけるネットを完全に失うなど、全国ネットで所属選手の試合が放送される新日本や全日本と比べ、マイナー感に一層拍車がかかった。また、外国人招聘ルートを高額な提携料が必要とされるAWAから、大剛鉄之助をブッカーとする安価なカナダルートに変更させた結果、外国人選手のネームバリューにおいても他団体に見劣りすることとなった(海外ルートでは、新日本プロレスが旗揚げ以来もっとも劣勢に立たされていたが、国際とAWAの提携解消と同時期に、新日本はWWFとの提携を開始し、外国人選手の顔ぶれでも国際を凌駕するようになる)。 1970年代後半に始まった危機的状況を打開するために、1977年には近鉄ラグビー部(現:花園近鉄ライナーズ)に所属していたラグビー日本代表選手の原進(阿修羅・原)をスカウトし、ジュニアヘビー級のエースに育て上げて大々的に売り出したが、一方で、同時期より退団した選手やスタッフも相次ぐ。1977年には田中忠治が体調不良を理由に引退した他、名物レフェリーであった阿部脩も参議院選挙全国区の落選の責任を取る形で『'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ』の北海道サーキットをもって退団。1978年には剛竜馬が藤波辰巳への挑戦を表明し新日本プロレスへ移籍。 また、他団体との交流においても変化が発生。1978年11月25日、全日本プロレスの協力で開催された『日本リーグ争覇戦』の蔵前国技館大会に、新日本プロレスからストロング小林と小林邦昭が出場し、その見返りとして、新日本が同時期に開催していた『プレ日本選手権』の12月16日の蔵前国技館大会にアニマル浜口と寺西勇を派遣。これに伴い、交流戦は全日本プロレスのライバル団体である新日本プロレスにシフトし(当時、吉原功と全日本のジャイアント馬場との代表同士の間で、何らかの金銭的なトラブルがあったことも原因とされる)、翌1979年には両団体を傘下とする日本レスリング・コミッションを設立。国際のIWA世界ヘビー級王座とIWA世界タッグ王座、新日本のWWFジュニアヘビー級王座のタイトルマッチが団体間で行われたが、この時期から経営難により給料の遅配が発生するようになり、これが元で剛竜馬が新日本へ移籍した他、鶴見五郎と大位山勝三による独立愚連隊結成のきっかけともなった。都内におけるビッグマッチは、東京12チャンネルへのテレビ放映権移行後は後楽園ホールでほとんどが行われ、蔵前国技館や大田区体育館における開催は数回にとどまった。入場人員5000人以上の大会場における開催は政令指定都市で行われるのがやっとの状態となった。 交流先を全日本から新日本へ変更しても危機状況は変わらず、1980年に入ると団体を取り巻く環境はますます悪化。2月には東京12チャンネルの主導により、TBSプロレス時代にグレート東郷が獲得できなかった大木金太郎が国際プロレスに入団したが、大木への交渉を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネルとの間に軋轢を生む形となったばかりか、大木が日本プロレス時代から保持していたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦をNWA非加盟の団体である国際プロレスで行ったことから、かつての交流先でなおかつ日本におけるNWA加盟団体であった全日本プロレスから抗議を受けることとなった(大木は韓国におけるNWAプロモーターであり、日本プロレス崩壊後も韓国ではインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を行っていたが、日本での主戦場としていた全日本プロレスのリングでは行われることがなかった)。 さらに7月26日には、埼玉県大宮市の埼玉県道35号(産業道路)沿いにあった合宿所兼道場にタクシーが突っ込み、ガス爆発を起こし全焼する事故が発生。幸い選手は前日に『'80ビッグ・サマー・シリーズ』最終戦(札幌大会)が開催されたため北海道にいたこともあり難を逃れた。 そうした中、東京12チャンネルは、10月より『国際プロレスアワー』の放送時間を月曜20時台から、かつて多団体放送時代の『プロレスアワー』や日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台へ変更した。変更初回は滋賀県近江八幡大会の生中継で、インターナショナル・ヘビー級王座、IWA世界ヘビー級王座、IWA世界タッグ王座の3大タイトルマッチが放送された。このうち大木VS上田馬之助のインターナショナル・ヘビー級選手権試合に関しては、試合直後に大木はNWAからベルトを返上するよう勧告を受けた。その後、大木は翌11月に国際プロレスを退団し、後にNWAからのインターナショナル・ヘビー級王座返上勧告も受け入れた(インターナショナル・ヘビー級王座は翌1981年4月に全日本プロレスの王座として復活)。大木の退団は、もともと東京12チャンネルが視聴率アップのテコ入れとして半年契約で入団させたものの、それほど数字が上がらず契約が更新されなかったためであり、本人は契約の延長を望んでいたという。 さらに負傷や病気による離脱も相次ぎ、1980年3月にアニマル浜口が試合中にリング下で後頭部を打って長期欠場、復帰後の翌1981年4月にも肝臓疾患により戦線を離脱。1980年6月にはグレート草津が右足首骨折で、1981年4月には若松市政も急性膵臓炎でそれぞれ長期欠場、完治後もリングを離れて営業に専念することとなった。スネーク奄美も脳腫瘍により離脱して長期欠場のまま1981年4月に死去するなど、もともと選手不足だった国際プロレスは、ますますマッチメイクに苦慮するようになる。 1981年は起死回生を果たすべくルー・テーズより寄贈されたベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』を年間の柱として計画、決勝まで1シリーズ内で行う全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』や新日本プロレスの『MSGシリーズ』と異なり、『'81新春パイオニア・シリーズ』に前期予選を、『'81スーパー・ファイト・シリーズ』に後期予選をそれぞれ実施し、同年秋に決勝リーグ戦を行う予定だったが、そこまで団体を存続させることはできなかった。 3月には前年に全焼した合宿所兼道場の再建工事が開始されたものの、東京12チャンネルは3月28日に放送された『'81スーパー・ファイト・シリーズ』宮城県泉大会(3月24日開催)をもって『国際プロレスアワー』のレギュラー中継を打ち切った。その後も東京12チャンネルは特番枠で放送することを前提として一部大会のテレビ収録を行ったが、6月25日に行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦静岡県清水大会をもって特番枠における収録も打ち切られ、国際プロレスは重要な資金源であるテレビ放映権料を完全に失った。 以降、国際プロレスは7月16日に『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を前年よりも8戦削減した全13戦の日程で開幕させた。参戦した外国人選手は同年1月に新日本プロレスに来日し、坂口征二が保持する北米ヘビー級王座に挑戦して敗れたジ・エンフォーサーをエース格とした寂しいシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく東日本地区中心のローカル・サーキットとなり(西日本地区の興行は広島県における2戦のみ)、なおかつ最大で5日連続で興行のない移動、オフ日が設定され、さらには会場も屋外会場中心で、カードも6試合が組まれるのがやっとで、寺西勇、菅原伸義、冬木弘道がそれぞれ1戦ずつ欠場するという緊縮日程となった。 シリーズ後半の北海道サーキットでは、8月6日に室蘭にてIWA世界ヘビー級選手権試合(木村VSエンフォーサーの金網デスマッチ)を、8月8日に根室にてIWA世界タッグ選手権試合(マイティ井上&原VSジェリー・オーツ&テリー・ギッブスの金網タッグ・デスマッチ)を行いながら興行を消化。そして8月9日、シリーズ最終戦で、なおかつ1972年11月3日以来の9年ぶりの興行開催となった羅臼町の羅臼小学校グラウンドでの試合を最後に興行活動を停止した。当日のメインイベントは国際プロレスとしては最後の金網デスマッチとなった鶴見VSギッブス戦であった。『'81ビッグ・サマー・シリーズ』は当初は15戦の予定で、羅臼大会は当初はサーキットに組まれておらず、根室大会の後は8月11日に留萌、翌8月12日に函館での興行がそれぞれ予定されていた。留萌大会と函館大会が中止となったため、急遽サーキットに追加された羅臼大会が国際プロレス最後の興行となった。 『'81ビッグ・サマー・シリーズ』全日程終了後は、翌8月10日に羅臼から札幌へ移動。8月11日にスネーク奄美の自宅を訪れて焼香を上げた直後に室蘭へ移動し、資金を底を尽いた中で、室蘭港からフェリーに乗船して八戸港へ向かい、八戸から国道4号と東北自動車道を使って8月12日に帰京した。東北自動車道の通行料金は選手バスの運転手が自腹で負担したという。 東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日のテレビ東京への局名変更直前にも行われ、同年9月16日(5月16日に後楽園ホールで行われた『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』最終戦)と同年9月23日(同年6月25日に清水市鈴与記念体育館で行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦)に深夜帯で、それぞれ放送された。しかし、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を最後に事実上単独での興行能力を失った国際プロレスは、1981年9月30日に正式に解散を発表し、名実共に崩壊。認定タイトルであったIWA世界ヘビー級王座、IWA世界ミッドヘビー級王座、IWA世界タッグ王座も封印された。1981年秋に開催予定であった『ルー・テーズ杯争奪戦』決勝リーグも、崩壊に伴い完遂されることなく終わっている。
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