プロレス時代
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1953年にプロレスへ転向し、山口利夫とともに旧全日本プロレスを旗揚げ。1954年2月には力道山がシャープ兄弟を招聘して開催した日本プロレスの旗揚げシリーズに参加している。1955年からは木村政彦の国際プロレス団に移籍、翌1956年5月15日に木村とのコンビでラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャを破り、中南米タッグ王座を獲得した。 団体消滅後は、メキシコ、南米、アフリカ、ヨーロッパなど世界各地を転戦。アメリカのNWAトライステート地区では、戦前に活躍した日本人レスラーのキラー・シクマこと志熊俊一にあやかり、トーゴー・シクマのリングネームで活動。1967年5月16日にはシャチ横内と組んでジャック・ブリスコ&ゴージャス・ジョージ・ジュニアから同地区認定のUSタッグ王座を奪取し、10月7日にダニー・ホッジ&スカンドル・アクバに敗れるまで保持した。戴冠中はホッジとルー・テーズのコンビとも何度となく対戦したという。 1970年に14年ぶりに帰国し、国際プロレスに参戦。以後、当時ホームリングとしていた欧州マットと国際プロレスのパイプ役を担い、マイティ井上や鶴見五郎をドイツのハノーバー・トーナメントにブッキングした。自身も同トーナメントにおいて、1966年、1970年、1973年と通算3回の優勝を果たしている(1970年はレネ・ラサルテスと同率優勝)。 1973年11月の帰国後はレフェリーに転向し、1974年3月19日に蔵前国技館で開催されたアントニオ猪木 vs ストロング小林戦(NWF世界ヘビー級選手権試合)を裁いている。また、全日本女子プロレスのコーチも引き受け、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアをトレーニングした。 その後、全日本女子プロレスを引退・退団した阿蘇しのぶらを擁し、女子プロレス団体『ワールド女子プロレス』旗揚げを画策。旗揚げ戦のポスターに自身も登場するなどしたが、諸事情により旗揚げ前に頓挫している。 1980年10月13日、静岡県内にて脳卒中のため死去。63歳没。
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プロレス時代
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廃業から1年後の1999年8月、全日本プロレスに入門。2000年3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルで井上猛の名でプレデビューする。5月28日、同い年で親友の魁皇と武双山も応援に駆け付けるなか、後楽園ホールで力皇猛のリングネームで正式デビュー。 2000年6月にプロレスリング・ノア旗揚げに参加し、小橋建太をリーダーに同期で小橋の付き人・小林健太(現:KENTA)らと(新生)バーニングというチームを結成した。この時期から、小橋が力皇にかけた「チェンジ・ザ・ボディー」という言葉を合言葉にして肉体改造を試み、相撲時代からのアンコ型の体型からお腹の出ていない引き締まった体型になった。小橋が膝の手術で長期欠場に入ると三沢光晴率いるWAVEに加入した。 2001年4月18日、日本武道館でのZERO-ONE旗揚げ第2戦において、小川のシュートマッチ対策として三沢のパートナーに抜擢され、小川直也&村上和成組に勝利し評価を上げる。打たれ強さを活かし、小川や村上の顔面への打撃を受けきり、三沢がバックドロップホールドで村上からフォールを取った瞬間も、場外で小川から完全にマウントポジションをとって、打撃を放っていた。 同年森嶋猛とのタッグチーム「WILD II」を結成する。2002年2月17日、日本武道館大会で「WILD II」として大森隆男&高山善廣組を倒し、GHCタッグ王座を戴冠。しかし、9月23日の日本武道館大会で齋藤彰俊&秋山準組に敗れ、GHCタッグ王座を失った。 2004年半ば頃、オリジナルの必殺技「無双」を開発した。この技を駆使し、11月27〜28日の札幌メディアパークスピカでのヘビー&ジュニアヘビー・ミックスド・タッグ・2デイズ・トーナメントに丸藤正道と組んで出場し決勝に進出。決勝では小橋&KENTA組と対戦、小橋を無双で破り優勝した。 2005年3月5日、日本武道館大会で小橋を破り第7代GHCヘビー級王座を戴冠。9月18日には日本武道館大会で三沢に勝利し防衛に成功する。しかし、11月5日の日本武道館大会で田上明に敗れ、4度目の防衛に失敗した。この年、2005年度プロレス大賞殊勲賞を獲得している。 2006年1月22日、曙太郎と組み、小橋&泉田純至組から合体技『リキボノ・スプラッシュ63』で泉田純至を2人で押しつぶし、曙が泉田からフォール勝ちを収めた。 2007年4月1日、秋山準とのタッグで森嶋・モハメド・ヨネ組に勝利。第14代GHCタッグ王座に就くも、8月14日から頸椎損傷のため大会を欠場、出場していたGHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦は、モハメド・ヨネ戦に勝利した試合以外は全て不戦敗となってしまった。 2008年2月28日、秋山とのタッグで田上・泉田組を相手に復帰戦を行った。 2009年1月、モハメド・ヨネと新軍団ディスオベイを結党。6月14日、三沢死去の翌日に行われた博多スターレーン大会のメインイベントで潮崎豪とGHCヘビー級選手権を戦うが敗北。12月6日にはヨネとのタッグで森嶋&佐々木健介組を破り、GHCタッグ王者となる。 2010年4月14日、バイソン・スミス&キース・ウォーカー組に敗れ、GHCタッグ王座から陥落。5月、新日本プロレスIWGPヘビー級王者の真壁刀義に挑戦を表明。6月19日のIWGPヘビー級タイトル挑戦が決定したものの、その後ヘルニアの発症による欠場を発表し、タイトル戦をキャンセルした。 2011年11月27日、ノア有明大会にリングに上がり、重度の頚椎ヘルニアが完治しないため年内で現役引退を発表。 2012年7月22日にノア初進出となる両国国技館において「力皇猛引退セレモニー大会」と題して興行が行われ、全試合終了後に力皇の引退セレモニーが華々しく執り行われた。今後の去就として、翌23日付でGHCタイトル管理委員に就任することも発表された。
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プロレス時代
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力士引退(廃業)後は錦糸町の飲み屋で働きつつ、当時渋谷にあった国際プロレスの道場に通っていた。ベンチプレスを黙々とこなしていたものの、当初は「練習に毎日来ていないから」と入寮を許されなかった。しかし、同じく練習生だった田中隆雄(後の鶴見五郎)が入寮条件について伝えると、大位山は毎日練習に通うようになっていく。 1971年6月、公開形式のテストで田中と対戦して合格。入団後はストロング小林の付き人となった。同年9月8日、栃木県矢板市体育館で本郷清吉の胸を借りてデビューする。前日はシリーズ開幕戦でテレビ収録があったが、あえてそこを外しての初陣であった。同期のジェラール・エティフィア(後の稲妻二郎)が7月2日、田中(鶴見)は7月12日のデビューだったが、本人は彼らに遅れを取ったことに対して「特に焦りとかはなかった」と後年のインタビューで述懐している。 同年9月13日、大阪府立体育館における小林とレッド・バスチェンのIWA世界ヘビー級王座戦のアンダーカードとして鶴見と初対戦(10分間時間切れの引き分け)。その1週間後の福岡市九電記念体育館での鶴見から初勝利を収めた試合に関しては、2016年の鶴見との対談で鶴見が大位山に対して「張り手からのボディ・プレスとか、簡単なフィニッシュだったと思うんだよね」と話している。11月4日の石川県小松体育館の試合では鶴見が大位山に初勝利。最終的な戦績は大位山の2勝1敗9分である。 ヘビー級の体格であったことから、1972年春に行われた『第4回IWAワールド・シリーズ』では、リーグ戦には未出場だったものの、公式戦外でジョージ・ゴーディエンコ、バロン・フォン・ラシク、レイ・ゴールデン・アポロン、ティト・コパらと対戦した。同年6月、アメリカ武者修行に出発。テネシーのNWAミッドアメリカ(後のCWA)において、グレート・フジ(Great Fuji)をリングネームに日本人ヒールとして活動。トージョー・ヤマモトをパートナー兼マネージャーに迎え、トニー・チャールズ、ジャッキー・ファーゴ、フランキー・レイン、ビル・ドロモ、ジョニー・ウォーカー、そして若手時代のジェリー・ローラーやケビン・サリバンなどと対戦した。 1973年6月、海外武者修行から帰国。凱旋帰国第1戦では初来日のリック・フレアーに反則負け、第2戦ではアニマル浜口と組んでディック・マードック&スカンドル・アクバから勝利を収めている。デビュー当時のリングネームは本名の「松本勝三」であったが、同年9月開幕の『第5回IWAワールド・シリーズ』より、相撲時代の四股名を冠した「大位山勝三」へ改名。このときもリーグ戦には未出場だったが、開幕戦の日大講堂大会では、メインイベントの6人タッグマッチで小林&ラッシャー木村とトリオを組み、ラーズ・アンダーソン、ムース・ショーラック、フリッキー・アルバーツ組と対戦した。1977年の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されたIWA世界タッグ王座争奪トーナメントにもエースの木村と組んで出場したが、1回戦でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗れた。 その後、第1試合など前座中心にマッチメイクされることに対して不満を募らせ、1979年に一時引退する。以後、浅草でのしゃぶしゃぶ店「大位山」の経営を経て、魚の加工会社で働いていた。 1979年末、国際プロレス内で鶴見が社長の吉原功と反目、選手会を除名されたというアングルのもと、団体に造反してヒールに転向。同時期、大位山が働いていた加工会社の社長も国際プロレスと懇意だったこともあり、マイティ井上の後押しもあって、1980年1月より現役に復帰。鶴見とコンビを組み、日本人初のヒールユニットとなる「独立愚連隊」を結成するに至った。 鶴見は、この「独立愚連隊」は吉原が鶴見を活かすために考えてくれたことだと語っている。初めは鶴見一人の造反であったが、大位山が加わったことで日本人選手によるヒールユニットの登場となり、外国人レスラーの渡航費など、経費の削減にも繋がったという。マネージャーはミスター珍が務めた。同年4月4日には鶴見とのタッグで、山本小鉄の引退試合に出場するなどの抜擢を受けた(山本のパートナーは「ヤマハ・ブラザーズ」の星野勘太郎)。「独立愚連隊」の戦績は13勝(2反則勝ち)38敗(10反則負け)12分と振るわなかったものの、鶴見は「勝ち負けよりも、1年3ヶ月で60回以上も大位山さんと組んで暴れられたことが何よりも楽しかった思い出だよ」と述懐している。 1981年には『ルー・テーズ杯争奪戦』後期予選に出場したが、当時の国際プロレスは末期的な経営状態となっており(ファイトマネーは1週間に1万円だったという)、巡業途中の3月19日を最後に離脱、そのまま引退した。国際プロレスが崩壊する5か月前のことであった。 その後、プロレス界からは離れていたが、1995年にレスリング・ユニオンやIWA格闘志塾のリングに特別参戦。IWA格闘志塾では鶴見とのシングルマッチも行われた。
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プロレス時代
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大方の予想通りすぐにプロレスラーへ転向。兄(後述)の所属する全日本プロレスと敵対すると同時に最も資金力のあったSWSに新弟子として入団。入団まもなくアメリカへ海外武者修行に出発、テキサス州ダラスにて対ジェフ・ジャレット戦でデビュー。しかし大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(道場・檄)に入った。SWSはほどなくして崩壊し、後継団体のNOW、WARを経て内臓疾患により引退。 WARが提携していたLLPW所属の穂積詩子と結婚し、1994年には「どりんくばぁー『維新力の店』」を東京都吉祥寺にオープン。 店は続けながら、後にプロレス界に復帰。2006年以降、維新力主催プロモーション『どすこいプロレス』、『RIKIマニア』の開催に携わる一方、50歳を越えてからもフリーとしてI.W.A.JAPAN、WAP、アジアンプロレスに参戦している。 自主興行時の最後の締めは「1(ひい)2(ふう)3(みい)どすこい」。
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プロレス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:47 UTC 版)
1968年2月に国際プロレスに入門、豊登道春の付け人を経て、同年5月27日の稚内大会で大磯武相手に佐野 東八(さの とうはち)のリングネームでデビュー。しかし翌1969年6月15日、秋田県中仙町大会で寺西勇と対戦した際、カンガルーキックを左胸に受けて肋骨が折れて肺に刺さる重傷を負う。その後復帰し、9月には豊登の命名で佐野浅太郎に改名。1970年2月に豊登が引退し、佐野はサンダー杉山の付け人になる。5月には東南アジア遠征に参加。翌1971年1月に佐野 先風(さの せんぷう)に改名し将来が期待された矢先、1月31日のデビル紫戦で再び左肺を痛め長期欠場。その後7月に復帰するも7月10日宮城球場大会のエティフィア・ジェラール(稲妻二郎)戦を最後にドクターストップにより引退した。
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