プロレス時代とは? わかりやすく解説

プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 08:45 UTC 版)

清美川梅之」の記事における「プロレス時代」の解説

1953年プロレス転向し山口利夫とともに旧全日本プロレス旗揚げ1954年2月には力道山シャープ兄弟招聘して開催した日本プロレス旗揚げシリーズ参加している。1955年からは木村政彦国際プロレス団移籍、翌1956年5月15日木村とのコンビでラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャを破り中南米タッグ王座獲得した団体消滅後は、メキシコ南米アフリカヨーロッパなど世界各地転戦アメリカNWAトライステート地区では、戦前活躍した日本人レスラーのキラー・シクマこと志熊俊一あやかりトーゴー・シクマリングネーム活動1967年5月16日にはシャチ横内組んでジャック・ブリスコ&ゴージャス・ジョージ・ジュニアから同地区認定のUSタッグ王座奪取し10月7日ダニー・ホッジ&スカンドル・アクバ敗れるまで保持した戴冠中はホッジルー・テーズコンビとも何度となく対戦したという。 1970年に14年ぶりに帰国し国際プロレス参戦以後当時ホームリングとしていた欧州マット国際プロレスパイプ役担いマイティ井上鶴見五郎ドイツのハノーバー・トーナメントにブッキングした。自身も同トーナメントにおいて、1966年1970年1973年通算3回優勝果たしている(1970年レネ・ラサルテス同率優勝)。 1973年11月帰国後はレフェリー転向し1974年3月19日蔵前国技館開催されアントニオ猪木 vs ストロング小林戦(NWF世界ヘビー級選手権試合)を裁いている。また、全日本女子プロレスコーチ引き受けジャッキー佐藤マキ上田ビューティ・ペアトレーニングしたその後全日本女子プロレス引退退団した阿蘇しのぶらを擁し女子プロレス団体ワールド女子プロレス旗揚げ画策旗揚げ戦のポスター自身登場するどしたが諸事情により旗揚げ前頓挫している。 1980年10月13日静岡県内にて脳卒中のため死去63歳没。

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プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 07:43 UTC 版)

力皇猛」の記事における「プロレス時代」の解説

廃業から1年後1999年8月全日本プロレス入門2000年3月11日後楽園ホールでのバトルロイヤル井上猛の名でプレデビューする。5月28日同い年親友魁皇武双山応援駆け付けるなか、後楽園ホール力皇猛リングネームで正式デビュー2000年6月プロレスリング・ノア旗揚げ参加し小橋建太リーダー同期小橋付き人小林健太(現:KENTA)らと(新生バーニングというチーム結成した。この時期から、小橋力皇にかけた「チェンジ・ザ・ボディー」という言葉合言葉にして肉体改造試み相撲時代からのアンコ型の体型からお腹出ていない引き締まった体型になった小橋が膝の手術で長期欠場に入ると三沢光晴率いWAVE加入した2001年4月18日日本武道館でのZERO-ONE旗揚げ第2戦において、小川シュートマッチ対策として三沢パートナー抜擢され小川直也&村上和成組に勝利し評価上げる。打たれ強さ活かし小川村上顔面への打撃を受けきり、三沢バックドロップホールド村上からフォール取った瞬間も、場外小川から完全にマウントポジションをとって、打撃放っていた。 同年森嶋猛とのタッグチームWILD II」を結成する2002年2月17日日本武道館大会でWILD II」として大森隆男&高山善廣組を倒しGHCタッグ王座戴冠。しかし、9月23日日本武道館大会で齋藤彰俊&秋山準組に敗れGHCタッグ王座失った2004年半ば頃、オリジナル必殺技無双」を開発した。この技を駆使し11月2728日札幌メディアパークスピカでのヘビー&ジュニアヘビー・ミックスド・タッグ・2デイズ・トーナメントに丸藤正道組んで出場し決勝進出決勝では小橋&KENTA組と対戦小橋無双破り優勝した2005年3月5日日本武道館大会で小橋破り第7代GHCヘビー級王座戴冠9月18日には日本武道館大会で三沢勝利し防衛成功する。しかし、11月5日日本武道館大会で田上明敗れ4度目の防衛失敗したこの年2005年度プロレス大賞殊勲賞を獲得している。 2006年1月22日曙太郎組み小橋&泉田純至組から合体技『リキボノ・スプラッシュ63』で泉田純至2人押しつぶし、曙が泉田からフォール勝ちを収めた2007年4月1日秋山準とのタッグ嶋・モハメド・ヨネ組に勝利第14代GHCタッグ王座に就くも、8月14日から頸椎損傷のため大会欠場出場していたGHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦は、モハメド・ヨネ戦に勝利した試合以外は全て不戦敗となってしまった。 2008年2月28日秋山とのタッグ田上泉田組を相手復帰戦を行った2009年1月モハメド・ヨネ新軍ディスオベイ結党6月14日三沢死去翌日行われた博多スターレーン大会メインイベント潮崎豪GHCヘビー級選手権を戦うが敗北12月6日にはヨネとのタッグ嶋&佐々木健介組を破りGHCタッグ王者となる。 2010年4月14日バイソン・スミス&キース・ウォーカー組に敗れGHCタッグ王座から陥落5月新日本プロレスIWGPヘビー級王者真壁刀義挑戦表明6月19日IWGPヘビー級タイトル挑戦決定したものの、その後ヘルニア発症による欠場発表しタイトル戦キャンセルした2011年11月27日ノア有明大会リング上がり重度頚椎ヘルニア完治しないため年内で現役引退発表2012年7月22日ノア進出となる両国国技館において「力皇猛引退セレモニー大会」と題して興行が行われ、全試合終了後力皇引退セレモニー華々しく執り行われた。今後去就として、翌23日付でGHCタイトル管理委員就任することも発表された。

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プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:10 UTC 版)

大位山勝蔵」の記事における「プロレス時代」の解説

力士引退廃業)後は錦糸町飲み屋働きつつ、当時渋谷にあった国際プロレス道場通っていた。ベンチプレス黙々とこなしていたものの、当初は「練習毎日来ていないから」と入寮許されなかった。しかし、同じく練習生だった田中隆雄(後の鶴見五郎)が入寮条件について伝えると、大位山毎日練習に通うようになっていく。 1971年6月公開形式テスト田中対戦して合格入団後ストロング小林付き人となった同年9月8日栃木県矢板市体育館本郷清吉の胸を借りてデビューする前日シリーズ開幕戦テレビ収録があったが、あえてそこを外して初陣であった同期のジェラール・エティフィア(後の稲妻二郎)が7月2日田中鶴見)は7月12日デビューだったが、本人は彼らに遅れを取ったことに対して「特に焦りとかはなかった」と後年インタビュー述懐している。 同年9月13日大阪府立体育館における小林レッド・バスチェンIWA世界ヘビー級王座戦のアンダーカードとして鶴見初対戦10分間時間切れ引き分け)。その1週間後の福岡市九電記念体育館での鶴見から初勝利を収めた試合に関しては、2016年鶴見との対談鶴見大位山に対して張り手からのボディ・プレスとか、簡単なフィニッシュだったと思うんだよね」と話している。11月4日石川県小松体育館試合では鶴見大位山に初勝利最終的な戦績大位山の2勝1敗9分である。 ヘビー級体格であったことから、1972年春に行われた第4回IWAワールド・シリーズ』では、リーグ戦には未出場だったものの、公式戦外でジョージ・ゴーディエンコバロン・フォン・ラシク、レイ・ゴールデン・アポロン、ティト・コパらと対戦した同年6月アメリカ武者修行出発テネシーNWAミッドアメリカ(後のCWA)において、グレート・フジ(Great Fuji)をリングネーム日本人ヒールとして活動トージョー・ヤマモトパートナーマネージャー迎えトニー・チャールズジャッキー・ファーゴフランキー・レインビル・ドロモジョニー・ウォーカー、そして若手時代ジェリー・ローラーケビン・サリバンなどと対戦した1973年6月海外武者修行から帰国凱旋帰国第1戦では初来日リック・フレアー反則負け、第2戦ではアニマル浜口組んでディック・マードック&スカンドル・アクバから勝利を収めている。デビュー当時リングネーム本名の「松本勝三であったが、同年9月開幕の『第5回IWAワールド・シリーズ』より、相撲時代四股名冠した大位山勝三」へ改名。このときもリーグ戦には未出場だったが、開幕戦日大講堂大会では、メインイベントの6人タッグマッチ小林&ラッシャー木村トリオ組みラーズ・アンダーソンムース・ショーラック、フリッキー・アルバーツ組と対戦した1977年の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されIWA世界タッグ王座争奪トーナメントにもエース木村組んで出場したが、1回戦ビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘス敗れたその後第1試合など前座中心にマッチメイクされることに対して不満を募らせ1979年一時引退する。以後浅草でのしゃぶしゃぶ店「大位山」の経営経て加工会社働いていた。 1979年末、国際プロレス内で鶴見社長吉原功反目選手会除名されたというアングルのもと、団体造反してヒール転向同時期、大位山働いていた加工会社社長国際プロレス懇意だったこともあり、マイティ井上後押しもあって、1980年1月より現役復帰鶴見コンビ組み日本人初のヒールユニットとなる「独立愚連隊」を結成する至った鶴見は、この「独立愚連隊」は吉原鶴見活かすために考えてくれたことだと語っている。初め鶴見一人造反であったが、大位山加わったことで日本人選手によるヒールユニットの登場となり、外国人レスラー渡航費など、経費削減にも繋がったという。マネージャーミスター珍務めた同年4月4日には鶴見とのタッグで、山本小鉄引退試合出場するなどの抜擢受けた山本パートナーは「ヤマハ・ブラザーズ」の星野勘太郎)。「独立愚連隊」の戦績13勝(2反則勝ち38敗(10反則負け12分と振るわなかったものの、鶴見は「勝ち負けよりも、1年3ヶ月60回以上も大位山さんと組んで暴れられたことが何よりも楽しかった思い出だよ」と述懐している。 1981年には『ルー・テーズ杯争奪戦後期予選出場したが、当時国際プロレス末期的な経営状態となっており(ファイトマネー1週間1万円だったという)、巡業途中3月19日最後に離脱そのまま引退した国際プロレス崩壊する5か月前のことであったその後プロレス界からは離れていたが、1995年にレスリング・ユニオンやIWA格闘志塾リングに特別参戦IWA格闘志塾では鶴見とのシングルマッチ行われた

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プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:27 UTC 版)

維新力浩司」の記事における「プロレス時代」の解説

大方の予想通りすぐにプロレスラー転向。兄(後述)の所属する全日本プロレス敵対する同時に最も資金力のあったSWS新弟子として入団入団まもなくアメリカ海外武者修行出発テキサス州ダラスにて対ジェフ・ジャレット戦でデビュー。しかし大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋道場)に入ったSWSほどなくして崩壊し後継団体NOWWAR経て内臓疾患により引退WAR提携していたLLPW所属穂積詩子結婚し1994年には「どりんくばぁー『維新力の店』」を東京都吉祥寺オープン。 店は続けながら、後にプロレス界に復帰2006年以降維新主催プロモーションどすこいプロレス』、『RIKIマニア』の開催携わる一方50歳を越えてからもフリーとしてI.W.A.JAPANWAP、アジアンプロレスに参戦している。 自主興行時の最後締めは「1(ひい)2(ふう)3(みい)どすこい」。

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プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:47 UTC 版)

佐野浅太郎」の記事における「プロレス時代」の解説

1968年2月国際プロレス入門豊登道春付け人経て同年5月27日稚内大会で大磯武相手佐野 東八(さの とうはち)のリングネームデビュー。しかし翌1969年6月15日秋田県中仙町大会で寺西勇対戦した際、カンガルーキックを左胸に受けて肋骨折れて肺に刺さる重傷を負う。その後復帰し9月には豊登命名佐野浅太郎改名1970年2月豊登引退し佐野サンダー杉山付け人になる。5月には東南アジア遠征参加。翌1971年1月佐野 先風(さの せんぷう)に改名し将来期待され矢先1月31日デビル紫戦で再び左肺痛め長期欠場その後7月復帰する7月10日宮城球場大会のエティフィア・ジェラール(稲妻二郎)戦を最後にドクターストップにより引退した

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