アメリカ武者修行
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7月の神戸ワールド記念ホール大会でNOSAWA論外とのタッグでTOZAWA圏外として帰国、一時的に凱旋試合を行った。 戸澤はその後も再渡米し、武者修行を再開。アメリカでは全く無名の戸澤は興業に出場する機会に恵まれず、Dragon GateとのパイプがあるPWGですら興行は月1回であった。最低で月に1、2試合という時期もあり、酷い時にはギャラが現金ではなくブリトーであるということもあった。武者修行を始めて4ヶ月後、9月のPWGのバトル・オブ・ロサンゼルス2回戦となるクリス・ヒーローとの対戦がPWGにおけるマッチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。その翌日から戸澤に試合のオファーが次々と届き、オースチン・エイリース、ケビン・スティーン、エル・ジェネリコ、ロウ・キーなど名だたる選手たちとのシングルマッチを組まれることも多くなった。武者修行初期のほとんど仕事がなかった状況から一転し、週末には試合を組まれない日が無かったほどであった。この時について戸澤は「どこへ行ってもクリス・ヒーローとの試合を見たぞって言われるんや。こんなこともあった。アメリカのアパートに住んでたときのことやけど、ご近所さんが昨日観たよとか言ってくるわけや。そのおっちゃんは絶対に俺がレスラーってことを知らないはずなんや。でもお前はファイターだろ?みたいなことを言ってくる。ファイターには違いないけど、その後ジムへ行っても昨日観たぞと。オレってそんなに有名になったのかなと。PWGとかDGUSAとかみんな見てるのかなと思って、不思議な感じやったんやけど、4人目くらいで気づいたんや。どうやらオレに似た日本人選手が金網マッチ(ケージフォース=総合格闘技)で試合をしてたらしくて、その人と勘違いしていたと。道端で握手とかしていた自分が恥ずかしくなったわ」と話している。 確実に力をつけACWやチカラなどで主要レスラーとして活躍するまでになった。そしてドラゴンゲートのアメリカ興行でもシングルプレイヤーとしての自信を高める試合をするようになる。さらに並みいる強豪を倒し絶好調のPAC相手にブレイブゲート王座にも挑み、あと一歩のところまで迫る試合となった。結果は破れてしまったものの、更なる自信を付けた。アメリカで骨を埋める気で武者修行を続けていた戸澤は当時すでにインターネットで日本の情報が簡単に手に入る時代であったにも関わらず日本の情報は軽く確認する程度であった。2011年に入ってからも先々までアメリカでの予定が入っている状態であったが、ブラッド・ウォリアーズの仲間達から日本で一緒にやらないかと誘いを受けた。
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アメリカ武者修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:07 UTC 版)
1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している(同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である。
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