プロレス引退後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 15:17 UTC 版)
プロレス引退後の吉村は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりながら事業にも取り組み、プロレス界からは完全に身を引き長く絶縁状態を貫いた(ただし、1974年10月の猪木vs大木戦で「遺恨をマットに持ち込むなら試合を止めろ」とメッセージを両名に送ったことがある)。1990年代にレスラーのOB会会長に就任してからは、会場に姿を見せる機会がわずかながら見られるようになった。 近畿大学相撲部では、のちに大関となる長岡末弘(朝潮、後の7代高砂親方→18代錦島親方)を指導し、2年連続してアマチュア横綱に導くなど手腕を発揮した。尤も、当の長岡の証言によると、当時1年生でひよっこ部員であった長岡に負けてショックを受けてすぐにコーチを辞めてしまったとのこと。 晩年は入退院を繰り返すようになり、2003年2月15日、神戸市内の病院において呼吸不全により76歳で死去。葬儀・告別式は身内だけで営まれ、関係者に訃報が届いたのは2日後の17日だった。
※この「プロレス引退後」の解説は、「吉村道明」の解説の一部です。
「プロレス引退後」を含む「吉村道明」の記事については、「吉村道明」の概要を参照ください。
- プロレス引退後のページへのリンク