新日本プロレスでの活動
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「ジョニー・パワーズ」の記事における「新日本プロレスでの活動」の解説
新日本プロレスには1973年の初参戦以降も、NWF王座の奪回を旗印に、1974年から1977年まではエース格として毎年一度ずつ来日していた。日本では8の字固めともよばれた必殺技パワーズ・ロックを武器に、足を中心に執拗に痛めつける冷酷な試合ぶりから死神と形容され、タイガー・ジェット・シンやアンドレ・ザ・ジャイアントとともに、看板外国人として初期の新日本プロレスを支えた。アントニオ猪木に奪われたNWFヘビー級王座にも1977年3月まで3度挑戦したが、奪回はならなかった(1975年の来日では猪木が負傷欠場のため、挑戦せず)。 1977年3月の来日時は、かつてNWFにも参戦したザ・モンゴルズのメンバーだったマスクド・スーパースターやニコリ・ボルコフとともに第4回ワールドリーグ戦に参加。初戦で前年度優勝の坂口征二に勝利する好スタートを切ったが、NWF奪回に専念するためリーグ戦を辞退、4月1日に蔵前国技館にて猪木戦に臨むも敗れ、これが最後のNWF挑戦となった。この試合でも蔵前国技館に9500人の観客を集め、日本でのバリューは衰えてはいなかったが、前述のようにこの年の夏頃を最後に北米でのレスラーおよびプロモーターとしての活動が休止状態になり、しばらく来日間隔が開くこととなる。 1979年1月の約2年ぶりの来日では、1月26日に岡山にて坂口征二に敗れ、長く保持していたNWF北米ヘビー級王座を失った。この時までは新日本のマットではシングルのタイトル戦以外でフォールまたはギブアップ負けをしたことはなく、このシリーズのノンタイトルでの猪木戦も引き分けと無効試合で、別格の戦績を誇っていた。しかし同年11月の来日では、新機軸としてテコンドーをベースとした格闘技路線を打ち出すなどしたが精彩を欠き、初対決の藤波辰巳にフォール負け、タイガー・ジェット・シンと初タッグを組んで挑んだ猪木&坂口戦でもあっさりフォールを奪われるなど、戦績も急激に悪化していく。 1980年3月31日、当時新日本プロレスと提携していた国際プロレスが後楽園ホールで開催したスペシャルマッチに参戦し、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。1966年の東京プロレス以来、14年ぶりに木村と対戦するも敗退し、木村が若手時代の雪辱を果たした。この試合では木村を一方的に攻め込み、健在ぶりも示したが、直後の同年4月に開催された新日本プロレスの第3回MSGシリーズでは、ストロング小林に敗れて予選1回戦負け、さらに敗者復活1回戦でもティト・サンタナに反則負けして予選落ちし、途中帰国。同年11月の第1回MSGタッグ・リーグ戦にはオックス・ベーカー(マスクド・スーパースターの代打)と組んで出場したが、途中帰国による2不戦敗を含む8戦全敗で最下位という結果に終った。1980年はシングルとタッグの両リーグ戦に参加するも、ともに全敗で途中帰国という、かつての看板外国人とは思えない散々な戦績を残し、この年がプロレスラーとして最後の来日となった。
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