新日本プロレスでの活動とは? わかりやすく解説

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新日本プロレスでの活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:30 UTC 版)

ジョニー・パワーズ」の記事における「新日本プロレスでの活動」の解説

新日本プロレスには1973年初参以降も、NWF王座奪回旗印に、1974年から1977年まではエース格として毎年一度ずつ来日していた。日本では8の字固めともよばれた必殺技パワーズ・ロック武器に、足を中心に執拗に痛めつける冷酷な試合ぶりから死神形容され、タイガー・ジェット・シンアンドレ・ザ・ジャイアントとともに看板外国人として初期新日本プロレス支えたアントニオ猪木奪われNWFヘビー級王座にも1977年3月まで3度挑戦したが、奪回はならなかった(1975年来日では猪木負傷欠場のため、挑戦せず)。 1977年3月来日時は、かつてNWFにも参戦したザ・モンゴルズメンバーだったマスクド・スーパースターニコリ・ボルコフとともに第4回ワールドリーグ戦参加初戦前年度優勝坂口征二勝利するスタート切ったが、NWF奪回専念するためリーグ戦辞退4月1日蔵前国技館にて猪木戦に臨むも敗れ、これが最後NWF挑戦となった。この試合でも蔵前国技館に9500人の観客集め日本でのバリュー衰えてはいなかったが、前述のようにこの年の夏頃を最後に北米でのレスラーおよびプロモーターとして活動休止状態になり、しばらく来日間隔が開くこととなる。 1979年1月の約2年ぶりの来日では、1月26日岡山にて坂口征二敗れ長く保持していたNWF北米ヘビー級王座失った。この時までは新日本マットではシングルタイトル戦以外でフォールまたはギブアップ負けをしたことはなく、このシリーズノンタイトルでの猪木戦も引き分け無効試合で、別格戦績誇っていた。しかし同年11月来日では、新機軸としてテコンドーベースとした格闘技路線打ち出すどしたが精彩欠き、初対決藤波辰巳フォール負けタイガー・ジェット・シンと初タッグ組んで挑んだ猪木&坂口戦でもあっさりフォール奪われるなど、戦績急激に悪化していく。 1980年3月31日当時新日本プロレス提携していた国際プロレス後楽園ホール開催したスペシャルマッチに参戦しラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座挑戦1966年東京プロレス以来14年ぶりに木村対戦する敗退し木村若手時代雪辱果たした。この試合では木村一方的に攻め込み健在ぶりも示したが、直後同年4月開催され新日本プロレス第3回MSGシリーズでは、ストロング小林敗れて予選1回戦負け、さらに敗者復活1回戦でもティト・サンタナ反則負けして予選落ちし、途中帰国同年11月第1回MSGタッグ・リーグ戦にはオックス・ベーカーマスクド・スーパースター代打)と組んで出場したが、途中帰国による2不戦敗を含む8戦全敗最下位という結果終った1980年シングルタッグの両リーグ戦参加するも、ともに全敗途中帰国という、かつての看板外国人とは思えない散々な戦績残しこの年プロレスラーとして最後の来日となった

※この「新日本プロレスでの活動」の解説は、「ジョニー・パワーズ」の解説の一部です。
「新日本プロレスでの活動」を含む「ジョニー・パワーズ」の記事については、「ジョニー・パワーズ」の概要を参照ください。

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