新日本プロレス、UWF、藤原組
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「鈴木みのる」の記事における「新日本プロレス、UWF、藤原組」の解説
横浜高等学校時代はレスリング部に所属。国体2位 という実績を残して1987年3月に新日本プロレスに入門。 1988年6月23日、飯塚孝之戦でデビュー。同年10月22日の飯塚戦で初勝利。前座戦線で佐々木健介と幾度となく対戦し好勝負を繰り広げる。 1989年3月、アントニオ猪木と対戦。同月に新日本プロレスを退団し、4月3日にUWFと契約。 1989年5月に田村潔司のデビュー戦の相手を務め、UWFでの初白星。 1989年11月29日、骨折した船木誠勝の代役で東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミスと異種格闘技戦で対戦したが、4ラウンドでKO負け。後に鈴木は「スミスの強さにビビって大観衆の前で泣いて自らリングに寝転がった」と語っている。 1991年3月、UWFを退団して、船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。 1991年4月1日、SWSと提携して行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、試合開始直後から互いに退け合うように鈴木は張り手を菅原は前蹴りを放ちまともに組み合おうとせず、その挙げ句菅原側がセメント行為を仕掛け、その行為に対して鈴木はコーナーに追い詰め頭突きを見舞い菅原はグーパンチで応戦。まともに試合が成立しないほど泥沼の様相に。レフェリーが間に入り、双方の反則に(頭突きとグーパンチ)注意を入れた所でそのジャッジに呆れた菅原がリングを降りて試合放棄した。 1992年10月、東京ドーム大会で、ソウルオリンピックのレスリング金メダリスト:ゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。 藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまた鈴木に大きな期待を寄せた。
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