新日本プロレスとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:31 UTC 版)
「大日本プロレス」の記事における「新日本プロレスとの抗争」の解説
1996年6月30日、「力道山OB会&プロレス」が横浜アリーナで開催した「メモリアル力道山」にメジャー団体、インディー団体、女子プロレス団体を含めた16団体が参加。大日本もケンドー・ナガサキ&山川竜司組対中牧昭二&たにぐちゆういち(現:谷口裕一)組の1試合を提供。しかし、第1試合から第5試合に出場したインディー団体の試合を見た新日本プロレスの長州力、武藤敬司らは挙って、その試合内容を批判する有様であった。特に長州は「俺個人から言わせりゃ、あんなもんプロレスじゃないね」と発言している。 この長州のインディー団体批判に対して新東京プロレスの石川敬士(現:石川孝志)とともに、小鹿が長州の発言に対して「インディー団体を舐めるな!」と反論して論争を続けた結果、9月17日の新日本愛知県体育館大会で小鹿、ナガサキら7名の所属選手が乱入して新日本に宣戦布告をする実力行使に至った。小鹿をはじめとする所属選手達が土足でリングに乱入したことで新日本ファンから大ブーイングを浴びた。この乱入直前、彼らは強い緊張を感じていたという。その一員だった田尻義博(現:TAJIRI)によると「まだ時間があるからと立ち寄った喫茶店で小鹿さんがクリームソーダを注文して緊張で、それどころではない選手たちはとりあえず「俺も」、「俺も」と注文して皆でクリームソーダを飲んでいました」と述懐している。 その後も執拗に乱入を繰り返したことで、1997年1月4日に新日本東京ドーム大会で対抗戦を実現させる形となった。 大谷晋二郎(新日本)対 田尻義博(大日本) 後藤達俊(新日本)対 ケンドー・ナガサキ(大日本) 蝶野正洋(新日本)対 中牧昭二(大日本) マサ斎藤(新日本)対 グレート小鹿(大日本) 以上の4戦が組まれて大日本勢はナガサキ以外すべて敗れたが、小鹿はタキシードに赤髪姿で、中牧は有刺鉄線ボードをリングに持ち込んで試合に臨むなどインパクトを残したほか、田尻は同じジュニアヘビー級の大谷を相手に善戦したことで、後に新日本の「BEST OF THE SUPER Jr.」に参戦して、さらには大日本退団後のアメリカのECWやWWEへの参戦につながった。 当初は「新日本プロレス対インディー連合軍」として、インディー団体のトップレスラー達と新日本による対抗戦を狙っていた。しかし、ラインナップを予定していたターザン後藤や高野拳磁は出場を辞退し、当時大日本のメインイベントに出場していた松永光弘も出場を拒否して最終的には「新日本対大日本」の小規模な対抗戦で終了する形となった。 その後は単発的に新日本と関わっていたが徐々に関係は疎遠になり、後述の金村事件を理由に関係が2009年から断絶されていたが、2018年5月15日に新宿FACEにて開催されたライオンズゲートプロジェクト12に関本大介が出場し、新日本との交流が復活している。
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