デビューから1990年代
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「エル・サムライ」の記事における「デビューから1990年代」の解説
専修大学北上高等学校でレスリング部に所属。インターハイ、国体に出場するなど活躍し、卒業後の1985年4月、新日本プロレスに入門。同期に飯塚孝之(後に飯塚高史)がいる。 入門から約3ヶ月後、1986年7月24日、船木優治戦でデビュー。 1991年3月、メキシコへ初遠征。UWAエリアを中心に活動し、マスクマンエル・サムライ(文字通りスペイン語で「侍」)となる。 1992年3月に凱旋帰国し、帰国当初はレイジング・スタッフと試合を行うことが多く、サムライもほぼ、毎回のようにマスク剥ぎに遭う。同年4月、第三回TO OF THE SUPER Jr.に初出場。決勝まで駒を進めるも、獣神サンダー・ライガーに敗れ準優勝という結果に終わる(なお、この時もマスクを剥がされている)。リターン・マッチとなった6月、ライガーを下し第19代IWGPジュニアヘビー級王座を奪取する。8月にペガサス・キッド(クリス・ベノイ、後のワイルド・ペガサス)、10月にディーン・マレンコ、ライガーら強豪の挑戦を退け、3度の防衛を果たすも11月ウルティモ・ドラゴンに敗れ王座から陥落した。 1993年5月、ウルティモにリベンジを果たす形で第23代UWA世界ミドル級王座を獲得するが、わずか4日後のリターン・マッチに敗れ、王座陥落。 1994年4月、スーパーJカップ第一回大会にノミネート。一回戦で茂木正淑を下すも、ザ・グレート・サスケに敗れ二回戦で敗退した。 1995年12月、サブゥーを下し第25代UWA世界ジュニアライトヘビー級王座を獲得。同月にはスーパーJカップ2に出場するも、一回戦でドス・カラスに敗れ、姿を消した。 1996年3月、金本浩二に敗れ、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座から陥落。同年6月、サスケを下して第28代WWF世界ライトヘビー級王座を獲得する。しかし、約二ヶ月後の8月に行われたリターン・マッチに敗れ、王座から陥落した。 1997年6月、BEST OF THE SUPER Jr.IVに出場。決勝戦にて金本を下し、トップ・オブ・ザ・スーパージュニアの時代から数えて6回目の挑戦にして、悲願の初優勝を遂げる。この試合でサムライは、金本の雪崩式リバース・フランケンシュタイナーを受け切ったシーンは印象強く、さらに終盤はマスクを剥がされ完全に素顔が露呈している状態だったため、ファンの間で語り草になる決勝戦となった。サムライはマスクを破られたため、試合後の記念撮影にはミル・マスカラスのマスクを被って応じている。(なお余談ではあるが、試合を決めた雪崩式リバースDDTから垂直落下式リバースDDT(一度目は失敗)の一連の流れはPS用ソフト闘魂烈伝3にて通常よりも大きなダメージを与えられるクリティカルコンビネーションとして設定されている。)さらに、同年7月にはライガーを下し第4代ジュニア7冠王座を獲得。IWGPジュニアヘビー・UWA世界ジュニアライトヘビー・WWF世界ライトヘビーの三王座は自身二度目の戴冠となるなど飛躍の契機を掴むも、わずか一ヶ月後の8月大谷晋二郎に敗れる形で一度も防衛することなく同王座から陥落となった。90年代後半、新日本プロレスが坂口征二社長体制の第二期ジュニア黄金期と呼ばれる時代になるとペガサス・ブラック・タイガー(二代目)・マレンコらと激闘を繰り広げ、金本・大谷・高岩竜一らトンガリコーンズが台頭して来ると、ライガー・保永昇男(保永引退後はケンドー・カシン)とタッグを組み若手の壁としてジュニア戦線を盛り上げた。この時代は、タッグマッチにおいてサムライが攻撃対象になることが多く、執拗にトンガリコーンズ(主に金本)から攻撃を受けたサムライが激昂し、試合度外視でリング外まで金本を追いかけ回して試合が成立しなくなる異例の事態が勃発している。(当時、現場監督であった長州力が練習量の少ないサムライへの示しを含む制裁とハッパをかける意味で、「納(サムライ)を怒らせてみな、おもしろいから」とけしかけたともされ、事態の収拾に長州の腹心、保永が事情を知ってか知らずか試合中に奔走している。)
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