新日本プロレス入門前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:22 UTC 版)
蝶野の父は愛媛県新居浜市出身で、大手製紙会社の会社員。母は愛媛県大洲市出身、医者の家系でお嬢様育ちの優しい人柄という良家であった。兄と姉がいる。そんな中、英語堪能な父の赴任先となったアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで蝶野は3人きょうだいの末っ子として生まれた。2歳半で帰国し、以後は神奈川県川崎市多摩区、東京都渋谷区、三鷹市で少年時代を過ごす。アメリカ国籍と日本国籍の多重国籍であったが、既に帰化している。 目黒区たちばな幼稚園、渋谷区立猿楽小学校、三鷹市立北野小学校、三鷹市立第五中学校、三鷹第六中学校、東京都立永山高等学校卒業。渋谷区で過ごした小学校時代までは周囲をエリート家庭に囲まれた優等生で過ごしていたが、小学6年で三鷹市に転校した初日、隣のクラスの番長が挑んできた腕相撲勝負に勝ったことで蝶野は番長となってしまい、中学に入学後に頭はアイロンパーマに剃り込み、制服ズボンはボンタンと不良街道を突き進んだ。その一方で、新設された中学にサッカー部が無かったため、蝶野が部を立ち上げるなどサッカー部の活動には熱が入っていた。蝶野もサッカー推薦での私立の強豪高校への入学を希望したが、筆記テストで点数不足だったため不合格、挫折を味わう。あげくに警察沙汰の暴行事件を起こし全てが水泡と消えた。蝶野は、二次募集で受かった高校に入学後もサッカーを続けるが、ここでも暴力沙汰で停学を繰り返し、サッカーでは完全に挫折。高校時代まで三鷹の暴走族に所属し、深夜になるとベランダからこっそり家を抜け出して特攻服姿でオートバイに乗り暴走行為を繰り返していた。「三鷹の蝶野」の存在はその方面ではよく知られた存在で、その名前は当時ブラックエンペラーの総長だった宇梶剛士の耳にも届いていたという。高校卒業後、浪人中に「ワールドプロレスリング」で長州力対藤波辰巳の試合を見てプロレスに興味を抱き、トレーニングを開始。新日本プロレスに入門を許可された後、親を説得する材料として神奈川大学に合格するが、大学は入学式にだけ出席し、そのまま新日本プロレスに入門した。なお、両親ともプロレス入りには反対だったため蝶野は、「厳しい世界で自分を試したい、半年だけでいいからチャンスをください。レスラーとして芽が出ないなら大学へ行くから」と両親に頭を下げて説得。母親は「プロレスを辞めたときのために退学になっていてはいけないから」と蝶野には黙って毎年4月に大学の教務課を訪れて学費を払い続け、学籍を8年間残していた。
※この「新日本プロレス入門前」の解説は、「蝶野正洋」の解説の一部です。
「新日本プロレス入門前」を含む「蝶野正洋」の記事については、「蝶野正洋」の概要を参照ください。
- 新日本プロレス入門前のページへのリンク