新日本プロレス参戦 - UWF旗揚げ参加
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「ラッシャー木村」の記事における「新日本プロレス参戦 - UWF旗揚げ参加」の解説
1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択した為、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。1981年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えて貰ったが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」(後述)が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。新日本では人気絶頂の猪木に対する悪役ユニット「国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。 1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr. Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際の後輩であるミスター・ゴーこと剛竜馬をパートナーに、ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取した。以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップ・マッチを2度に渡って行うなど話題を集めたが、IWGP構想の中で次第にメインストリームから外れていき、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散。その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独での参戦を続けた。なお、1983年11月にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに遠征、国際プロレス時代の怨敵ミスター・ヒトとのタッグや、モンゴリアン・ストンパーおよびキューバン・アサシンとの久々の対戦も実現した。 1984年、新日本で勃発した内紛によって、新間寿に請われて前田日明らと第一次UWFの旗揚げに創設メンバーとして参画。UWF草創期の重鎮的存在となったが、数か月で剛竜馬と共に離脱した。
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