力道山死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 07:09 UTC 版)
「リキ・スポーツパレス」の記事における「力道山死後」の解説
しかし自らの“城”の完成を見た2年後の1963年に、力道山は刺殺される。リキパレスの経営を含む、力道山の莫大な副業が全て借金により賄われていたことから、遺族が引き継いだリキ・エンタープライズはすぐに借入金利子・運営費などで事業継続が困難な状況に陥り、リキパレスも西山興業から建物を担保として融資を受けていた上で運営していた。 当時、東京各地にボウリング場が相次いで開業したことや、「リキレストラン」も利用客が減少し、運営が悪化。当時、日プロの取締役営業部長であった吉原功は、「リキパレスを、リキ・エンタープライズから日本プロレス興業が買い取るべきだ」と主張し、実際に資金の一部も自己の責任で集め始めていた。しかし、同時期に日プロの分裂(社長豊登の追放、彼による若手の引き抜きと東京プロレス旗揚げ)があり、過敏になっていた取締役経理部長の遠藤幸吉らは、吉原の動きに対して「吉原は資金を集めて日プロそのものを買収しようとしている」と妙な吹聴をして妨害した。この対立に敗れ、吉原は日プロを単身で辞職し、国際プロレスを旗揚げするという大事件に発展した。 最終的にリキパレスは、担保物件として債権者である西山興業へ取られることになり、日プロの事務所も移転を余儀なくされた。西山興業は1967年、赤坂のキャバレー「ミカド」で成功を収めていた近畿観光株式会社に5億円で売却した。近畿観光はすぐに、プロレス会場を全面改装してキャバレー「エンパイヤ」とし、サウナなどは残した上で運営したが、立地条件の悪さ、その後のキャバレーという業態そのものの衰退によって、近畿観光は当地でのキャバレー業継続を断念。吹き抜けやサウナ用の配管など、そのままではオフィスビルとして全く転用できなかったこともあり、土地建物を売却、1992年に取り壊された。 跡地には現在、ヒューマックス渋谷ビル(サイバーエージェントなどが入居していた)が建っている。 リキ・エンタープライズは百田光雄の個人事務所として存続し、力道山の遺品などの管理を行っている。
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