力道山の時代
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「インターナショナル・ヘビー級王座」の記事における「力道山の時代」の解説
この王座は、NWA本部が1958年6月に日本を始め世界各国で積極的にNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行って防衛を続けたルー・テーズの実績を認めて、NWA世界ヘビー級王座とは別に、新たにテーズを初代のインターナショナル・ヘビー級王者として認定したことによって始まったものである。このインターナショナル・ヘビー級王座が1958年8月27日、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトルマッチで力道山がテーズに勝利(反則勝ち)し、力道山はこの勝利を理由に王者の資格があると主張する。タイトル分裂。テーズはその後も世界王座を奪回するまで、王者として活動している。後にテーズより王者を名乗る事を認められたと推察される(なお、この王座には専用のチャンピオン・ベルトは存在せず、帰国後に力道山が作成した。2度目に製作されたものが、ジャイアント馬場が1972年に全日本プロレスを旗揚げした時に力道山家から寄贈され、世界ヘビー級王座、後のPWFヘビー級王座のチャンピオン・ベルトとなる)。これ以後、日本に定着することになる。 インターナショナル・ヘビー級王座が力道山に移ってからは日本プロレスの至宝として東京・大阪などの大会場でタイトルマッチが行われ、力道山はドン・レオ・ジョナサン、エンリケ・トーレス、ミスター・アトミック、サニー・マイヤース、プリンス・イヤウケア、ミスターX、ゼブラ・キッド、ジェス・オルテガ、パット・オコーナー、バディ・オースチン、ザ・デストロイヤーなどといった強豪レスラーと名勝負を繰り広げ、またグレート・アントニオやヘイスタック・カルホーン、ムース・ショーラックなどの異能派レスラーとも王座を賭けて戦うなど、インター王座は力道山の代名詞となっていく。力道山は一度もこの王座を明け渡すことなく、19回連続防衛(ただし反則負け防衛が1回ある)を果たした。 しかし力道山は1963年12月4日にザ・デストロイヤーを相手に19回目の王座防衛を果たした後、刃物で刺され予後不良から12月15日に急逝。その後、日本プロレスはインターナショナル・ヘビー級王座について、『力道山一代限りのもの』として封印を決める。
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力道山の時代
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大相撲廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。 1957年には世界ヘビー級王者であった“鉄人”ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル選手権を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。 テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールドリーグ戦を開催。グレート東郷をブッカーとして迎え、世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで『春の看板イベント』として14回行われた。1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。 力道山は1963年12月15日に死去した。
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