日本プロレス - 男子3団体、女子1団体時代とは? わかりやすく解説

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日本プロレス - 男子3団体、女子1団体時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:03 UTC 版)

プロレス中継」の記事における「日本プロレス - 男子3団体、女子1団体時代」の解説

1953年力道山日本最初本格的プロレス団体日本プロレス協会立ち上げ新しプロスポーツとして注目されプロレスは、早速その旗揚げ戦からテレビ中継が行われた。その端緒となったのは、日本テレビおよびNHKだが、やがて後発民放・ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)、大阪テレビ放送(現:ABCテレビ)も中継参入した。ただし当初は、主要な試合不定期に中継するけだった(特に民放場合提供スポンサー流動的だった)。なお旗揚げして間もない頃は、NHK民放とも、ラジオでの中継盛んに行われたまた、NHK大阪放送局実験放送間中1954年2月6日全日本プロレス協会主催の「マナスル登山後援日米対抗試合」が大阪府立体育館からテレビ中継された。本放送でないことを考えなければ、これが日本最初テレビによるプロレス中継である(詳細はこちら)。 1957年日本テレビ毎週土曜日夕方に、プロレス普及を図る目的定期番組プロレス・ファイトメン・アワー」を開始(この番組途中から、後年提供スポンサーとなる三菱電機が付く)。これを発展させた形で1958年8月29日から、日本テレビ金曜20時枠の「三菱ダイヤモンド・アワー」(三菱電機単独提供)にて、日本プロレス試合独占中継する定期番組開始した当初テレビ映画ディズニーランド」との週代わり放送であった)。また大阪テレビ放送では1957年に「OTVスポーツファンシート・プロレスアワー」を開始テレビスタジオ内にリング設け力道山解説付きによる定期中継番組開始した1968年には、吉原功ヒロ・マツダ手を組んで旗揚げした団体国際プロレス」の中継1月3日からTBSが「TWWAプロレス中継」のタイトルスタートさせる。また日本テレビ放送していた「三菱ダイヤモンド・アワー内の日本プロレス中継も、2月23日から毎週金曜20時枠放送移行した1969年7月2日当時NETテレビ(現:テレビ朝日)がプロレス番組参入し、「ワールドプロレスリング」を水曜21にて(後に月曜20時枠移動開始する。しかし、メインイベンタージャイアント馬場ナンバー3坂口征二選手試合、および主だったタイトルマッチなどは日本テレビ独占中継としていたため、同団体ナンバー2地位にいたアントニオ猪木関連試合放送するに留まった(即ち、メインイベント中継は殆ど不可能だったということになる)。だが、1971年猪木が同団体解雇(日プロ協会として成り立っていたため、公式には除名である)される。猪木という主役失ったNETテレビは、日プロ馬場試合中継要求し、日プロ側は快諾した。だが日本テレビ側には了承取っておらず、1972年4月3日NETテレビ日本テレビとの協定破り馬場試合中継したため日本テレビ関係者激怒1972年5月12日放送分を以って日本テレビ日本プロレス中継打ち切りとなった。これにより、日本プロレス中継NETテレビ独占する事になり、1972年7月28日には金曜20時枠進出しNET日本プロレスリング中継」をスタートさせ、9月まで月曜・金曜並行放送となった1972年10月日本テレビ後ろ盾となって馬場をトップレスラーとする全日本プロレス旗揚げされると、同時に日本テレビ全日本プロレス中継(以下、全日中継)を、1972年10月7日から土曜20時枠スタートさせた。一方猪木1971年新日本プロレス旗揚げしていたものの、こちらはテレビ中継が無いこともあり人材難資金難で、倒産時間の問題とされた。新日本側がかつて猪木試合中継していたNETテレビ放送再開求めたところ、既に崩壊寸前であったプロ残留していた坂口加入絶対条件という回答があり、新日本坂口に「トップ猪木対等条件」を出して引き抜く(だが、新日本入団後対等ではなく、常に猪木黒子に回らざるを得なかった)。このことで1973年4月6日より、新日本プロレス中継する新番組としてのワールドプロレスリング」(以下、WPW)が金曜20時枠スタートする引き替え日本プロレス中継1973年3月30日終了し日本プロレス同年4月20日以って崩壊した女子プロレスは、1968年日本女子プロレス協会中継女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」(東京12チャンネル=現:テレビ東京)が定期番組として登場し、高視聴率挙げた1年余り終了その後団体活動休止)。その後実質的に女子プロレス団体は、全日本女子プロレス1団体のみとなったが、同団体定期番組として「全日本女子プロレス中継」がフジテレビ放送された。解説として後援デイリースポーツ記者就き実況元日本テレビアナウンサーの志生野温夫2002年番組終了まで務めた因みに全日本女子プロレス中継」を製作していたのは、スポーツではなく芸能バラエティ番組担当する部署だった)。 一方東京12チャンネル同じく1968年に「プロレスアワー」のタイトル海外プロレス中継開始当時同局としては人気番組とも言える10%近い視聴率出し15超え記録した国際プロ1968年中継開始以降TBS中継請け負っていた(一時団体名も「TBSプロレス」と名乗った)。サンダー杉山ストロング小林エースとして団体支えてきたが、ゴールデン撤退30縮小や、小林フリーとなり新日本参戦してしまい経営厳しくなると、1974年3月30日以って諸事情打ち切りとなった。これを受け国際プロレス社長吉原功東京12チャンネル中継再開嘆願し、これが通じて1974年9月23日より東京12チャンネル(現:テレビ東京)で「プロレスアワー」を国際プロレス中継変更する形で月曜20時に国際プロレスアワー」として中継開始するこの中継からはラッシャー木村マイティ井上らがブレイクするものの、東京12チャンネル当時ネット局持っておらず、関東圏以外では放送難しかったことや、これに伴い中京関西圏では愛知大阪の2府県が未ネットとなったこと、当初中継対象会場関東圏のみであったことがあり、全国的な人気を得るまでにはいかなかった(そのため、全日新日団体参戦することもあった)。 このころ試合過激になるが余りに中継における問題点指摘されたりした。特に1962年行われたフレッド・ブラッシー絡んだ試合カラーテレビ中継された時、その流血シーン見たとされる老人らがショック死する事故があり、カラー放送を一旦中止したほか、国際プロレス日本初め試みられた「金網デスマッチ」でも流血シーン放送されたため、当時放映したTBSがその模様一切放映しなかったこともあった。その後国際プロ中継引き継いだ東京12chでは金網デスマッチこそ放送されたものの、凶器攻撃があった場合死亡事故再発をなくすためということで「凄惨な場面ですので、放送ご容赦くださいませ」という字幕出し応援席写したというケースもあった。

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