包囲戦
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カンダハールでの包囲戦はほぼ1年に渡って展開された。しかしアフシャール朝には攻城砲が不足していたため、大半は戦火を交えることなく終わっている。次第に苛立ちをみせたペルシア人はカンダハールの急襲を幾度も試みたが、パシュトゥーン人は挑発的に反撃した。
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包囲戦
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「カレー包囲戦 (1558年)」の記事における「包囲戦」の解説
カレー近郊のユーの森(フランス語:Forêt d'Eu)の辺りには、衣服、パン、ワイン、火薬、肉などが集められていたという。また、自然の防壁がないため、イギリスによるカレー支配の維持は、莫大な費用によって維持・改良された要塞に依存していたといえる。 1558年1月1日(土曜日)、フランスの前衛部隊はサンガット(フランス語:Sangatte)、フレチュン(フランス語:Fréthun)、ニエール(フランス語:Nielles)を攻め落とすと、続く翌2日リスバン砦(fort Risban)を占領し、3日には砲兵がニューレイ砦(fort Nieulay)とリスバン砦に移動した。1月7日の午前2時、攻撃に圧倒されたトーマス・ウェントワース(Thomas Wentworth, 2nd Baron Wentworth)卿は、町の鍵をフランスに渡すことにし、大勢が決した。 数日後、再征服した後背地では、ギューヌ(フランス語:Guînes)とアメス(フランス語:Hames)のイングランド軍の防衛拠点も陥落した。最終的に1月23日、フランス王アンリ2世がカレーに入城した。フランスの支配下に入ったカレーでは国境の画定、耕地や教区(後述する24教区)の再編成、村や教会の再建などがなされた。 この出来事はイングランドに衝撃を以て迎えられ、数ヵ月後、イングランド女王メアリ1世は死の床で親族にこう言ったという。 When I am dead and cut open, they will find Philip and Calais inscribed on my heart. 和訳すると「私が死んで(その体が)切り開かれたとき、人々は我が心臓にフィリップとカレーの名が刻まれているのを見つけるだろう。」となる。フィリップはメアリの夫でスペイン王フェリペ2世のこと。これはイングランドの共同統治者としての名前である。
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包囲戦
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「セントジョンズの包囲戦」の記事における「包囲戦」の解説
真冬の寒さと雪のせいで、フランスの進軍はかなり遅れた。フランス軍はまず、何ら抵抗を受けることもなく、ベイブルズとフェリーランドを落とし、1月31日にセントジョンズに到着した。スーベルカスはイングランド勢を不意打ちしようとしていたが、その機会は与えられなかった。フランス軍の前衛がこの地に不慣れであり、イングランドの防御の視界に入って来て、砲火で追い払われたからである。フランス軍の殆どがウィリアム砦へと逃走し、スーベルカスはブリガンティーンが来るまでの間、セントジョンズを占領したことで満足しなければならなかった。占領の期間中、彼は捕虜を何人か連行し、女子供をイングランド艦に乗せるため、砦に向かわせた。これでイングランド艦の負担が増し、彼女たちは、フランス軍の防御に大いなる手助けをすることとなった。 およそ2週間に及ぶ包囲戦の後、スーベルカスは、イングランドの士気を削ぎ、条件付き降伏を可能にし、レイサム陣の主導権を握れるかもしれないという計算のもとに、ウィリアム砦とサウスキャッスルの間の伝令兵を利用しようとした。スーベルカスはムーディとレイサムにそれぞれ手紙を送った、ムーディへは自らの名で、そして、レイサムへはあるイングランド人捕虜の名前で送った。レイサムへの手紙には、スーベルカスとムーディとの取引が計画中であることがほのめかされ、スーベルカスが送り込んだスパイが、ムーディとの共同作戦を止めるように、レイサムを説得しにかかっていた。しかしレイサムはこれを拒否し、スーベルカスの努力はむなしく終わった。 包囲は33日間に及んだが、重砲を装備したブリガンディーンは現れず、弾薬も物資も底をついていたスーベルカスの軍は包囲を解いた。そしてセントジョンズの町やフィッシングステージ(魚を加工するための作業台)を壊し、200人の一般人の捕虜を連れて、プラセンティアへ戻った 。またスーベルカスはモンティニと70人の兵を派遣して、冬が終わるまでの間、引き続き、イングランド集落を襲撃させた。
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包囲戦
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「新アッシリア帝国の軍事史」の記事における「包囲戦」の解説
紀元前647年、アッシリア王アッシュルバニパルは、戦争中に街を平らにした。戦争では、スーサの人々が明らかに敵対した。1854年にオースティン・ヘンリー・レヤードがニネヴェで発掘した粘土板において、アッシュルバニパルは、エラム人がメソポタミア人に何世紀もの間侮辱してきたことへ報いる「復讐者」として描かれている。スーサへの包囲戦に成功した後、アッシュルバニパルはアッシリアによる報復について口述している。 スーサ、偉大にして聖なる都市、彼らの神々の住処、彼らの神秘の座。余はこれを征服した。余はその場所に入り、宝物庫を開けた。そこには銀、金、様々な品々と富が積まれていた・・・。余はスーサのジッグラトを破壊した。余は、その輝く銅の角を粉々に砕いた。余は、エラムの神殿を全て破壊し、彼らの神々や女神を風に撒いた。彼らのいにしえの王と最近の王の墓を完全に破壊して太陽の下にさらし、彼らの骨をアッシュルの地へと運び去った。余はエラムの各県を完全に破壊し、その土地に塩を撒いた。 —アッシュルバニパル メソポタミアの平原と肥沃な土地は、戦争に理想的だっただけでは止まらず、実際に戦争を引き起こした。あらゆる国からやって来た侵入者が、アッシリアの土地を欲した。北にはスキタイ人、西にはシリア人、アラム人、キンメリア人、東にはエラム人、南にはバビロニア人。実際、バビロニア人は、アッシリアの支配に対して飽くことなく反乱し続けた。これらの結果、戦車や騎兵が都市の住民を完全に圧倒することがないように、城壁が建設された。城壁の材料は、大抵は泥や粘土が用いられた。なぜなら、建築資材としての石は高価だったし、簡単・大量には入手できなかったからである。敵を倒すために、これらの都市は占領しなければならなかった。そのため、アッシリア人はすぐに包囲戦の技術を習得した。エサルハドンは、エジプトの首都メンフィスを1日もかけずに占領したと主張し、残忍さと当時のアッシリア軍の包囲戦略技術を示している。 余は毎日、妨害を受けることなく、エジプト王にしてエチオピア王であるタハルカと戦った。彼は、全ての偉大な神に呪われている。余は矢尻で彼を5度打ち、決して回復することのない傷を負わせた。それから余は首都であるメンフィスを包囲し、坑道、城壁の一部破壊、はしごなどを用いて、半日でこれを征服した。 —エサルハドン 包囲戦は、人員の面で高くつく。そして、力ずくで都市を奪うために攻撃が開始された場合は、さらに人員を消耗する。ラキシュの包囲戦では、少なくとも1500人を犠牲にし、ラキシュ付近に大量の墓が発見されている。アッシリアが常備軍を導入する以前においては、攻撃を受ける都市の最大の期待は、収穫のためにアッシリア軍が都市占領を諦め、畑に帰らなければならなくなることだった。しかし、ティグラト・ピレセル3世の改革によりアッシリアの最初の常備軍がつくり出されると、それにより、都市が降伏するまでいつまでも封鎖できるようになった。それにも関わらず、アッシリア人は、目標都市を包囲して長期封鎖するよりも、直接攻撃により都市を占領することの方を好んだ。占領が完了すると、アッシリア軍はその都市の住民を根絶するか、あるいは追放したが、この政策は諸都市の住民を恐れさせ、降伏へと導く効果があった。
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包囲戦
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「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の記事における「包囲戦」の解説
フーベは部隊の密度を上げるために、戦線を整理して防衛範囲を小さくするよう命令した。ソ連軍が包囲を完了する直前、フーベは陸軍総司令部に防衛戦を行いながら味方戦線へ機動し、最終的に包囲網を脱出する権限を要請していた。しかし、包囲が完成するころには、状況が変化していた。天候が大雪となったため、戦力を維持するための必要物資が十分に輸送されず、近隣のドイツ軍(南東の第8軍、北西の第4装甲軍)らも救援活動を行えるような戦力を保持していなかった。ジューコフは簡潔な降伏勧告を送付した。「降伏せよ、さもなくば包囲内の全てのドイツ将兵らが慈悲を見ることはないだろう。」 フーベは勧告をけり、あらためて包囲下の部隊の再構築を命令した。4個装甲軍団は解散され、3個集団に再編された。第XLVI装甲軍団司令官ハンス・ゴリック(Hans Gollick)歩兵大将はゴリック集団を、第III装甲軍団司令官ヘルマン・ブライト(Hermann Breith)装甲兵大将はブライト集団、第LIX軍団司令官クルト・フォン・デア・シュヴァルリー将軍はフォン・デア・シュヴァルリー集団をそれぞれ編成した。 包囲内のドイツ軍が再編成を行っている間、マンシュタインは第一装甲軍が救援部隊と連携して包囲網を突破する許可を得るためにヒトラーと議論を重ねていた。激しい議論の後、ヒトラーは譲歩して同意し、フーベに脱出の許可を出した。脱出作戦の経路決定には困難が伴い、フーベは南方のドニエストル川を越え、ルーマニアへ向かうことを考えていた。しかしマンシュタインは第一装甲軍にソ連軍の主攻方向から外れたルーマニアへ撤退されると、南方軍集団が必要としていた装甲部隊を根こそぎ失い、戦線に巨大な穴が開くことになると考えた。これに対し西への突破を行えば、弱体化していたとはいえハンガリー第VII軍団の戦区に入れるため、同軍団の支援のもと直ちに戦線の穴を埋めることが可能であった。結局マンシュタインはフーベを押し切って西方への突破を行うよう命令した。 第1装甲軍はテルノーピリまで突破を行い、そこで支援を行っている第IISS装甲軍団(司令官パウル・ハウサー親衛隊大将)と合流することになっていた。カメネツ=ポリドスキーからテルノポリまではいくつかの川、泥まみれの地域を通って、250Km(150マイル)以上の距離を進まなければならなかった。さらにフーべは包囲網の西側にこそ最も強力な敵の抵抗線があると考えていた。だが命令は下った。フーベは部隊を2つに分けて西へ移動する準備に取り掛かった。
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包囲戦
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「コンスタンティノープル包囲戦 (1203年)」の記事における「包囲戦」の解説
十字軍は力づくでコンスタンティノープルを落とすため、まずボスポラス海峡を渡る必要があった。約200隻の輸送船やガレー船に乗って十字軍兵士が狭い海峡を渡ってくるのに対して、守るアレクシオス3世アンゲロスはガラタ地区の北にビザンツ軍を並べて敵を阻止しようとした。しかし十字軍騎士が船から飛び降りて一直線に騎馬突撃をかけてきたので、ビザンツ軍は南へ敗走した。十字軍もこれを追い、ガラタの塔を包囲した。これは金角湾を封鎖している防鎖の一端をつないでいる場所だった。この塔には、イングランド人、デンマーク人、イタリア人の傭兵が守備隊として入っていた。彼ら守備隊は何度も包囲軍へ突撃したが、そのたびに多大な犠牲者を出し失敗した。最後の守備隊の突撃の際には、十字軍の反攻に遭って塔へ退却できなくなり、ほとんどが斬り殺されるか逃げようとしてボスポラス海峡に沈んだ。今や金角湾の防鎖は解かれ、十字軍側のヴェネツィア海軍がコンスタンティノープルの北海岸に肉薄できるようになった。 7月11日、十字軍はコンスタンティノープル北西のブラケルナエ宮殿を前に陣取った。十字軍が推すアレクシオス4世アンゲロスはコンスタンティノープルの城壁の前でパレードを行ったが、市民の反応は冷淡だった。彼らにとってアレクシオス4世はあくまでも西欧人の傀儡だった。十字軍から見ればアレクシオス3世こそ簒奪者であり正統性がない皇帝だったが、ビザンツ市民にとってはそこまで問題ではなかった。本格的な包囲戦が始まったのは7月17日で、十字軍は陸上の城壁を攻め、ヴェネツィア海軍は金角湾から市の北側に並ぶ海の城壁を攻めた。海側ではヴェネツィア軍は25棟の塔を占拠したが、陸側ではヴァリャーグ守備隊が十字軍を押し返し続けた。その後ヴァリャーグ兵はヴェネツィア軍の掃討に向かったが、ヴェネツィア軍は街に火を放って撤退した。この火は3日間で440エーカー (1.8 km2)を焼き尽くし、2万人の住民が家を失った。 ここでアレクシオス3世は攻勢に転じようとして、約8500人を率いて聖ロマヌスの門から出撃した。この数は迎え撃つ十字軍約3500人を大幅に上回っていたにもかかわらず、アレクシオス3世は戦意を喪失し、一戦もせず城壁内に戻った。 1203年7月18日の十字軍の攻撃の後、アレクシオス3世はコンスタンティノープルを捨ててトラキアへ逃亡した。翌朝になって、コンスタンティノープル市民が囚われていた盲目の先帝イサキオス2世アンゲロスを解放して復位させているのを見た十字軍は大いに驚いた。8月1日、十字軍はイサキオス2世に息子アレクシオス4世を共同皇帝とすることを認めさせ、包囲を解いた。
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包囲戦
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「ジブラルタル包囲戦 (1315年)」の記事における「包囲戦」の解説
カスティーリャ軍の侵攻を受けて、イスマーイール1世はジブラルタルの包囲に備えた。1316年、北アフリカのセウタの Azafidの指導者と同盟を組んだが、マリーン朝の君主ウトマーン2世は支援することを拒否した。1316年の最初の数ヶ月で、軍事的な名声がよく知られたセウタの統治者Yahya ibn Abi Talib al-Azafiの軍がジブラルタル海峡を渡り、カスティーリャ軍の艦隊に勝ち、ジブラルタルを包囲した。ジブラルタル包囲の知らせが届くと、ペドロ王子はコルドバに軍を残したままセビリアに向かい、ナスル朝とAzafiの包囲を破るべく、海軍と陸軍を編成した。トラファルガー岬周辺とジブラルタル湾内部に艦隊を送り、王子は陸路で進軍した。カスティーリャ軍が到着した頃には、包囲軍がすでに配置されていて、南方から攻撃し、ジブラルタルの郊外に侵入した。包囲軍は援軍を見て撤退したので、包囲は終わってしまったように思われた。ペドロ王子はgrandes quittancesを保証し(大まかに言えば二重給料)、報酬を払って援軍を解散させると、コルドバに引き返してグラナダ侵攻を続行した。
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包囲戦
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「ティルチラーパッリ包囲戦 (1743年)」の記事における「包囲戦」の解説
かくして、ニザーム王国とカルナータカ地方政権の圧倒的多数の大軍はティルチラーパッリを包囲するところとなった。 ハティルチラーパッリに立て籠もるマラーター軍は10,000人足らずであり、この大軍にかなうはずもなく、かなり不利な状況に追い込まれた。 8月29日、守将ムラーリー・ラーオは降伏してティルチラーパッリを明け渡し、連合軍は大した流血もなくこの地を奪い返した。
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包囲戦
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「カンバーランド砦の戦い」の記事における「包囲戦」の解説
ゴーラムは状況を調査させた。その守備隊の4分の1近く(60名以上)がエディに捕まえられており、捕獲前にポリーから降ろしていなかった重要な燃料などの物資も奪われていた。その防御は砦のほば全体にわたる急拵えの柵と6門の大砲だったが、その大砲もまだ3門しか据えられていなかった。砦の軍事用人員は士官と砲兵を含めて176名だった。その後の数日間で地元民兵が到着して総勢は200名ほどになったが、病気のために戦闘には適していない者まで含めての数字だった。11月7日と8日、エディの警戒線を抜けて伝令を発しようとしたが、どちらも不成功だった。 11月8日、エディの部隊にはコーブクイドとピクトウから約200名が加わり、11月10日には遂に行動の時が来たと考えられた。エディはゴーラムにその守備隊の降伏を要求する手紙を送った。ゴーラムはこれを拒否し、逆にエディに降伏を要求した。 翌日この地域外の政府がエディの行動を知った。私掠船を求めてファンディ湾をパトロールし、囚われていた渡し船を救出したマイケル・フランクリンはその乗客からエディが活動していることを知った。この報せがハリファックスに届くと、マリオット・アーバスノット副知事は、第15連隊にアナポリスを基地とする船を使ってウィンザーにあるエドワード砦に行き、包囲された砦を解放 するための軍隊を運ぶよう命じた。 ジョージ・コリアー提督はファンディ湾で私掠船が横行しているとの噂に接し、既にHMSバルチャーを派遣していたが、HMSホープにバルチャーの居場所をつきとめ支援させるよう命じた。しかし、ホープは私掠船を捕まえてハリファックスに戻った。ホープは再度補給船を護衛してカンバーランド砦に派遣された。一方バルチャーは偶然ウィンザーに到着し、そこで幾らかの海兵とフェンシブル隊員を乗せた。 パトリオット側は大砲が無かったので、11月12日夜に砦襲撃を試み、ゴーラムの部隊を砦の弱点から逸らせるために陽動行動を試みた。経験のあるゴーラムはそれを陽動だと見破り、攻撃部隊を撃退した。エディ部隊の中のマリシート族戦士の1人が砦の中に忍び込み、門を開ける寸前までいったが、最後の瞬間に止められた。この失敗した攻撃の後は、指導者の委員会がエディに対抗して形成されたので、エディは事実上部隊の支配力を失った。11月22日と23日に委員会が命じた夜襲は幾つかの建物を占領して燃やすことに成功したが、ゴーラムがその陣地をしっかりと確保し、攻撃部隊はまたしても撃退された。 11月27日、バルチャーが到着した。パトリオット側は敵の援軍の到着に直面して退却を選ぶよりも、守りを固めた。ゴーラムは、対面する敵の勢力に関する情報を得て出撃を計画した。11月29日の早朝、トマス・バット少佐が正規兵とゴーラムのフェンシブル隊からの150名を率いて出撃し、エディ隊を蹴散らし、数人を死傷させた。自隊の損失は戦死2名、負傷3名だった。
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包囲戦
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「シュラクサイ包囲戦 (紀元前311年-紀元前309年)」の記事における「包囲戦」の解説
アガトクレスは兄のアンタンデルをシュラクサイ防衛軍の司令官に任命した。リビュア遠征中にシュラクサイで反乱が起こるのを避けるために、市民の家族を二つのグループに分け、片方はリビュアに、もう片方はシュラクサイに残るようにした。シュラクサイに残ったグループがアガトクレスを軽蔑していたとしても、彼らの親戚がアガトクレスと共にリビュアにいる限り、反乱に手を貸す可能性は低かった。 この遠征のためには多額に資金が必要であり、アガトクレスは孤児の財産を没収し、商人から借金をし、寺院の寄進、女性の宝石も供出させた。また、富裕層の多くは彼の政治に反対していたため、自発的にシュラクサイを離れるように促した。彼らが離れると傭兵に追わせて殺害し、資産を没収して兵士に適する奴隷は解放した。このような方法で、大量の軍資金を確保することができた。
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包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/10 15:42 UTC 版)
1805年1月1日にジェラルド・レイクはディーグを出発し、翌2日に到着。その日のうちにバラトプルを完全に包囲した。 1月9日、イギリス軍はバラトプルの城壁を破壊し、攻撃を仕掛けたが撃退された。 同月20日に仕掛けた攻撃も同様に撃退された。 2月20日、イギリス軍は再びバラトプルを攻撃したが、今度は多大な犠牲を払った上で追い払われた。 翌21日には、イギリス軍は最後の攻撃を行ったがこれも失敗し、翌日にバラトプルからの撤退を余儀なくされた。 イギリス側は一連の戦闘で3,000人以上の死傷者を出し、マラーターの側にとっては久方ぶりの勝利だった。
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包囲戦
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「ナイメーヘン包囲戦 (1672年)」の記事における「包囲戦」の解説
クノードセンベルヘを占領すると、フランス軍はそれを利用して砲撃し始めた。聖ヤンの建物や兄弟教会(オランダ語版)などが被害を受けたが、ナイメーヘンの住民は恐れることがなかった。テュレンヌ子爵は舟でナイメーヘンを攻撃するが効果が上がらなかったため、ヘント(英語版)近くで舟橋を築いてワール川を渡り、ナイメーヘンを左側から攻撃しようとした。 ナイメーヘンの状況はまずまずであり、弱点といえば堀が乾いていたことと「ナッサウ」という要塞が辛うじて守備に使える状況であることの2点だった。しかし火薬はふんだんにあり、城壁には柵が障害物としてたてられた。大砲は50から60門あり、駐留軍は2,500から2,600人だった。また民兵も2,500人いた。 1672年7月2日、フランス軍1万8千は舟橋でワール川を渡り、ナイメーヘンを完全に包囲した。続いてナッサウ要塞がフランス軍に砲撃された。4日の夜には防御工事の施されたペストハウス(オランダ語版)が攻撃されたが、ナイメーヘン駐留軍はヨハン・ファン・ヘント大佐を失いつつそれを撃退した。7日からはフランス軍が乾きあがった堀に穴を開けてナイメーヘン城の地底に火薬樽を置いた。ナイメーヘン住民の間で不安が広がり、結局9日に降伏した。フランス軍は包囲戦で約1千人を失った。
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包囲戦
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ロングストリート軍は4月11日にサフォークに向かい、ナンスモンド川を渡り、幾つか前哨基地を占領し、騎兵連隊を潰走させた。しかし、ペック将軍がすばやく守備を固めたので、ミカ・ジェンキンス准将の旅団が先導する南軍前衛部隊は守備隊を攻撃せずに、ナンスモンド川の西岸で塹壕を掘ることにした。 ペックは南部の前線が最も激しく攻撃されると考え、川を守っていた歩兵の大半を引き上げさせて南面支援に回したので、川の防衛はほとんど海軍に任せることになった。ロングストリート軍は実際に南面を最初に叩いた。南軍ジョージ・ピケットの師団が、フォスターとドッジの前線に探りを入れ、前哨線の中に入った。南軍の偵察の結果、北軍の防御工作が強力であり、前面攻撃は不可能であると分かった。翌日、フォスター隊が出撃して失っていた前哨線を再度確保した。その後の数日間で、ピケットはコーコランの前線を探り、その弱点を見つけようとした。ピケットはディズマル湿地にまで偵察部隊を送り、側面攻撃ができる経路を探ったが、その考えは捨てた。ロングストリートは直ぐに南部前線を攻撃しても無益であると判断し、守備が軽い川に沿った面に回り込みが必要と考えた。ペックとロングストリート双方の注意が北に向けられたので、南部前線での戦闘が収まった。 ジョン・ベル・フッド少将の指揮する南軍の2番目の師団が、川の西岸でサフォーク市の上流と下流に動いて塹壕線を布いた。フッドの歩兵が上流にいるラムソン大尉の船隊を認め、それは容易な標的になったが、歩兵だけで川を制することができないのは明らかだった。
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包囲戦
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「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「包囲戦」の解説
一方で、モンカルムとインディアンの同盟軍は南への移動を始めた。7月30日、レビの指揮下にある先発隊がカリヨン砦を出発し、陸路ジョージ湖の西岸に沿って進軍した。というのも、全軍を移動させられるだけの船が、フランス軍にはなかったのである 。モンカルムとあとの兵は、翌日船で砦を発ち、夜にガヌースク湾(Ganaouske Bay)で、レビ隊と合流した。次の夜、レビはウィリアム・ヘンリー砦から、たかだか3マイル(約4.8キロ)しか離れていない場所に野営した。モンカルムも遅れは取っていなかった。8月3日の早朝、レビと民兵たちとはエドワード砦からウィリアム・ヘンリー砦の間の道を封鎖し、ほんの少し前に到着したばかりのマサチューセッツの民兵と小競り合いになった。午前11時、モンカルムはモンロに降伏するよう勧告したが、モンロはこれを拒絶し、エドワード砦に使いを送って、現状が実のところかなり悲惨であり、援軍を頼みたい旨を届けさせた。ウェッブは、レビから脅かされているような気がして、彼のおよそ1,600人の兵を、一人たりともウィリアム・ヘンリー砦にやることを拒否し、このためウェッブの部隊は、フランス軍とモンロの交戦の障害的存在となった。ウェッブは、8月4日、モンロに手紙を送り、極力いい条件下で交渉すべきであると書いた。しかしこの手紙はフランス軍に奪われ、モンカルムに手渡された。 イギリス軍がそうこうしている間、モンカルムは、ブールラマクに、包囲作戦を開始するよう命令した。フランス軍は、ウィリアム・ヘンリー砦の北西から塹壕を掘り始めた、砦北西の稜堡に対抗して、大砲を運びこむのが狙いだった。8月5日、フランス軍が、砦から2,000ヤード(約1,8キロ)の地点から砲撃を始め、この光景に大規模なインディアンの分遣隊が見入っていた。翌日、砦から900フィート(約270メートル)のところで砲撃が起こり、先の塹壕からかなり離れたところで十字砲火が起こった。駐屯部隊の応戦は、塹壕からフランス兵を追い払う程度のもので、しかも砦の大砲の一部は、過度の使用に耐えきれず、砲座から下ろされたり、爆発したりした 。 8月7日、モンカルムは、休戦旗を掲げた砦にブーゲンビルをやって、イギリス側に届くはずだった手紙を届けさせた。その時には、砦の壁には穴があき、大砲の多くが使い物にならず、駐屯部隊はかなりの死傷者を出していた。後日、フランスから新たな砲撃があり、その間に塹壕が掘り進められて、砦から250ヤード(約230キロ)の距離にまで達していた。モンロは白旗を揚げ、交渉を開始した。
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包囲戦
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「マーストリヒト包囲戦 (1793年)」の記事における「包囲戦」の解説
1793年2月6日、ミランダは軍勢1万5千でマーストリヒトを包囲した。塹壕は21日から掘られ、3日後には10日間の砲撃が始まった。マーストリヒトの守備は総督のフリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム率いる守備軍、およびジャン・テレーズ・ド・ボーモン・ドーティシャン(フランス語版)将軍率いる王党派のフランス貴族の派遣軍が担当した。 オーストリア軍が1793年3月1日のアルデンホーフェンの戦いで勝利した後、オーストリア軍5万とプロイセン軍2万が突如マーストリヒトに現れ、不意を突かれたミランダは3月3日に包囲を解いた(敗走したとする文献もある)。フランス軍は3月18日のネールウィンデンの戦いで再びオーストリア・プロイセン連合軍に敗れ、フランス軍はオーストリア領ネーデルラントから追い出された。 マーストリヒトへの砲撃 包囲を解くフランス軍 捕虜になったフランス軍 放棄されたフランス軍の大砲
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包囲戦
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「ラ・ロシェル包囲戦 (1572年-1573年)」の記事における「包囲戦」の解説
11月6日、フランス王国軍がラ・ロシェルの包囲を開始した。11月半ば、シャルル9世はユグノー貴族フランソワ・ド・ラ・ヌエをラ・ロシェルに派遣した。フランソワは市を王のもとに再び従わせるため包囲下のラ・ロシェルに入り、長期間にわたり交渉を続けたが成果を得られず、1573年3月12日に市を退去した。 翌1573年2月11日、アンジュー公アンリが2万8000人の兵を連れて包囲に参加した。この軍は、パリ、ピカルディ、ノルマンディー、ポワトゥー、サントンジュ、アングーモワから莫大な物資(弾薬、大砲、火薬、食料)をかき集めてきていた。包囲軍の中には、アンジュー公の弟フランソワ・ダンジューのみならず、2人の有力な元ユグノーの姿もあった。ナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ4世)とコンデ公アンリである。他にも、ギーズ一族、マイエンヌ公シャルル、オマール公クロード2世(包囲戦中の2月21日に砲弾に当たり戦死)、ヌヴェール公ルイ4世、トレ公ギヨーム、ブイヨン公アンリ、フィリッポ・ディ・ピエロ・ストロッツィ、アルベール・ド・ゴンディ、ブレーズ・ド・モンリュック、アルテュス・ド・コセ・ブリサック、ピエール・ド・ブルデイユといった名だたる貴族や将軍が包囲に参加した。この中には、フランス王室に対する遺恨が残っている者、サン・バルテルミの虐殺を遺憾に思っている者、さらにはユグノーにシンパシーを感じている者すらおり(特にナバラ王アンリ、コンデ公アンリは戦争を通じてプロテスタント側として戦った比重が大きい)、国王軍の陣営内で政治的陰謀が飛び交う有様だった。 1573年2月から6月の間に8回攻撃が仕掛けられた。寒い冬期の総攻撃は、国王軍側に甚大な被害が出て失敗した。ピエール・ド・ブルデイユによれば、包囲戦を通じて国王側の2万2000人が戦死した。155人いた隊長のうち66人が戦死し、47人が傷を負ったという。1573年3月26日、塁壁を吹き飛ばすために穴を掘っていた場所で爆発が起き、国王軍150人が死亡する大事故となった。アンジュー公アンリも包囲戦中何度も負傷した。5月23日に6000人のスイス傭兵が国王軍に合流し、3日後に総攻撃が行われたが、これもまたひどい失敗に終わった。 ラ・ロシェルの住民はイングランド女王エリザベス1世に救援を求めたが、エリザベス1世は1572年にフランスとブロワ条約を結んだばかりで大きな介入が出来ず、ユグノー貴族ガブリエル・ド・ロルジュに小規模な艦隊を預けるのが限界だった。1573年2月に7隻の艦隊がラ・ロシェルに入ったが、4月にはその大部分がフランス海軍に追われ、ベル=イル=アン=メールからジャージーへと撤退せざるを得なくなった。とはいえ海上ではユグノー側が優位に立っており、スペイン船を攻撃したオランダのゴイセン私掠船などがラ・ロシェルを援助した。ヌヴェール公は大きなはしけを沈めて港湾封鎖を試みたが、効果はなかった。ちなみに17世紀のラ・ロシェル包囲戦では、リシュリューは大量の海上バリケードを投入することで海上封鎖に成功している。 1573年5月の末、アンジュー公アンリは自分がポーランド王に選出されたことを知った。プロテスタントが小さくない勢力を持つポーランドでは、先立つ1月にワルシャワ連盟協約が締結されて広範な信教の自由が認められていた。ポーランド貴族たちはアンリ(ヘンリク・ヴァレズィ)を王に推戴するにあたって宗教戦争であるラ・ロシェル包囲戦の解決を求めてきたため、アンリはラ・ロシェル市との和平交渉を始めざるを得なくなった。6月24日に和平の合意が成立し、7月6日に包囲が解かれた。
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包囲戦
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「ティルチラーパッリ包囲戦 (1741年)」の記事における「包囲戦」の解説
1741年1月16日、ラグージー・ボーンスレー率いるマラーター軍はティルチラーパッリを包囲し、チャンダー・サーヒブも籠城の構えを崩すことはなかった。 チャンダー・サーヒブはフランスポンディシェリーに家族を避難させていたが、自身はマラーター側によるティルチラーパッリの綿密な封鎖により、食糧などの物資不足に苦しむこととなった。 そして、3月26日、チャンダー・サーヒブはティルチラーパッリを出て降伏し、マラーター側に捕縛された。
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包囲戦
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「パリ包囲戦 (885年-886年)」の記事における「包囲戦」の解説
885年、シーフリズとシンリクに率いられたヴァイキングは、西フランク王国への攻撃を再開し、北西部を荒廃させた。シーフリズはカール3世に貢納を要求したが拒否されたため、700隻の船を率いてセーヌ川を遡行していった。この軍勢に参加した戦士の数は3万人もしくは4万人にのぼったともいわれる。これは包囲戦に居合わせたアッボの証言による数であるが、ヴァイキングの襲撃を記録した同時代の記録としては史上最大規模である。なお、現代の歴史家の間では、この記録は過度に誇張されたものである、というよりアッボ自体が「並外れた大ぼら吹きである」 というのが定説となっている。歴史家のCharles William Previté-Orton(英語版)は船の数を300隻と見積もり、ジョン・ノリスも「300隻ほど」としている。フランク人はヴァイキングの遡行を阻止しようとしたが、ついにパリまでヴァイキングの勢いを止めることが出来なかった。このころのパリは、現在シテ島として知られる川の中州の上に立つ街だった。 この島の両側からは浅瀬の上に木橋と石橋が伸びてセーヌ川の通行を妨げており、対ヴァイキング戦略の上で最重要の地点となっていた。ウードはヴァイキングの襲来に備えて橋を要塞化し、それぞれに2棟ずつ塔を建てた。アッボによればウードのもとには200人足らずの手勢しかなかったが、パリ司教ゴズラン(英語版)が防衛軍に加勢した。彼は中世キリスト教世界で最初の「戦う聖職者」だった。また、ウードの弟ロベールや、2人の伯、1人の侯がウードを支援した。 885年11月の24日もしくは25日、ヴァイキングがパリに到来し、フランク人に貢納を要求した。フランク人側はこれを拒否し、包囲戦が始まった。26日、ヴァイキングはパリ北東の塔に対して、バリスタやマンゴネル、カタパルトといった数々の攻城兵器を駆使して攻撃をしかけた。これに対して防衛側は、熱した蝋やピッチを落として応戦した。この日のヴァイキングの攻撃はすべて失敗に終わり、防衛側は夜のうちにさらに塔を増設し高くした。27日、ヴァイキングは穴を掘ったり破城槌や火炎兵器を使って塔を攻撃したが、これもうまくいかなかった。ゴズラン司教は弓と斧を持って戦闘に参加し、最前線に十字架を植えこんで味方を鼓舞した。攻撃をあきらめたヴァイキングは、川の右岸に石造りの野営地を建設した。彼らはここで次の総攻撃に備え、新たな攻城兵器の制作も進めた。続く総攻撃では、千発もの石弾が街に降り注ぎ、また橋を攻め落とすために川面の船や陸上からも攻撃が仕掛けられた。ヴァイキングは橋を防衛する塔を包囲し、橋への放火を試みつつ、攻城兵器を用いた街への攻撃も続けた。 2か月にわたり、ヴァイキングは包囲を続けながら、周辺に溝を掘って要塞を迂回する川路を作る作業を進めた。886年1月、ヴァイキングは2日の間に瓦礫や木々、動物や囚人の死体などを浅瀬に投げ込んで埋め、3日目に3隻の船に火をつけて木橋に突入させた。この火船は木橋に火が乗り移る前に沈められたが、木橋の側も大きなダメージを受けた。2月6日、瓦礫で埋まっていた川が雨で増水し、木橋を押し流した。これにより北東の塔と12人の守備兵が孤立した。この12人はヴァイキングからの降伏勧告を拒絶し、まもなく全滅させられた。 ヴァイキングの軍勢はパリ包囲を続けたが、川が通行可能になったことで、一部がより上流のル・マンやシャルトル、エヴルーやロワール川方面を目指して包囲陣を離れ始めた。さらにウードが発した密使が包囲網からの脱出に成功し、カール3世に援軍を求めた。まず東フランケン公ハインリヒがパリ救援に向かった。しかし冬季の進軍となったため兵が弱り、2月にパリについても1回ヴァイキングと戦って敗れるとすぐに撤退してしまった。一方、ヴァイキング側も物資を求めて周辺地域への攻撃を繰り返していたが、その士気は下がる一方であり、4月にシーフリズが60リーヴルの銀を分け前として受け取ったうえで包囲陣を離れた。しかしロロなど包囲を続行する首長たちもいた。5月、パリ防衛側で疫病が蔓延し、ゴズラン司教が病死した。この危機に際してウードは自ら包囲網を突破し、カール3世のもとに赴いて援軍の確約を得た。その後ウードは再び包囲網を突破してパリに帰還し、カール3世やハインリヒもパリに向けて北進し始めた。先にパリに到達したハインリヒであったが、彼はヴァイキングの掘った溝に転落して捕らえられ、殺害された。 夏になって、ヴァイキングは最後の大攻勢をかけたが、撃退された。10月になってようやくカール3世の軍勢が到着し、ヴァイキングを蹴散らした。彼らはロロらヴァイキング軍を逆包囲し、モンマルトルに陣を敷いた。しかし、カール3世には戦う気が無かった。彼はヴァイキングに、反乱中のブルグンディアを略奪することを条件として彼らの撤退を認めてしまった。翌春ヴァイキングがパリを離れる時、カール3世は合意通りに彼らに700リーヴルの銀を与えた。この量はおよそ257kgに相当する。
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包囲戦
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「ケベックの戦い (1775年)」の記事における「包囲戦」の解説
アーノルドは撤退を拒んだ。勢力は敵の3に対し自軍は1の比率になっており、凍えるような冬の気温、徴兵期限の過ぎた兵士の大量離脱という状況だったにも拘わらず、アーノルドはケベック市の包囲を行った。この包囲はケベック市にほとんど影響が無く、カールトンは5月まです続くような十分な物資を保管していた。戦闘終了の直後、アーノルドはモーゼス・ヘイズンとエドワード・アンティルをモントリオールに派遣し、ウースター将軍に敗北を報せた。この2人はその後にフィラデルフィアに向かい、大陸会議に敗北を報告して支援を求めた。ヘイズンとアンティルはどちらも13植民地の出身でケベックに入植していた英語を話す者達であり、戦争の残り期間も大陸軍のために尽くすことになった。彼等の報告に反応した大陸会議は援軍を起ち上げ北方に派遣する命令を発した。冬の間にニューハンプシャー、マサチューセッツおよびコネチカットで慌ただしく徴兵された幾つかの小さな小隊が北に向かい、ケベックとモントリオールにいる大陸軍守備隊を補った。ケベック市の郊外にあった宿営地で疫病、特に天然痘が発生して包囲する大陸軍に少なからぬ損失を出させ、また総じて食料も乏しかった。4月初旬、アーノルドに変わってウースター将軍が指揮を引き継ぎ、さらに4月下旬にはジョン・トーマス将軍に置き換えられた。 カールトン総督は勢力で明らかに優位に立っていたが、大陸軍を攻撃する道を選ばず、ケベック市の防壁の中に留まっていた。ケベックの戦い前にモントゴメリーが状況を分析したとき、1759年に行われたケベック包囲戦でカールトンはジェームズ・ウルフ将軍の下に仕えており、フランス軍のルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム将軍が市の防御陣地を離れたことで大きな代償を払い、エイブラハム平原の戦いで自らの命とケベック市を失ったことを知っていることが分かった。イギリス軍のジェイムズ・マレー将軍も1760年に市郊外の戦闘で敗北していた。モントゴメリーは、カールトンが彼等の誤りを繰り返す可能性が低いと判断した。3月14日、セントローレンス川南岸の製粉業者ジャン=バティスト・シャスールがケベック市に来て、カールトンに南岸にいる200名が大陸軍に対抗して行動する用意があることを伝えた。大陸軍の砲台があるポイントレビに対して、これらの勢力にさらに動員された民兵が攻撃を仕掛けたが、1776年3月に起きたサンピエールの戦いで、このロイヤリスト民兵の前衛隊がアメリカ寄りの地元民兵隊に敗北を喫した。 トーマス将軍が宿営地に到着すると、そこの状態は包囲戦を続けるのが不可能な状態にあると判断されたので、撤退の準備を始めさせた。5月6日にイギリスの小さな船隊が200名の正規兵(より大きな侵略軍の前衛隊)を載せて到着したことで、大陸軍の出発準備を加速させた。カールトンがこの到着したばかりの部隊に守備隊の大半を付けて市内から出して混乱する大陸軍に対峙させたとき、撤退は潰走に近いものに変わった。天然痘に患わされていた大陸軍は最終的に出発点であるタイコンデロガ砦までの全行程を退却した。トーマス将軍も退却中に天然痘で死んだ。その後カールトンは反撃軍を発してシャンプレーン湖沿いの砦まで取り戻した。バルカー島の戦いで大陸軍の戦隊を破り、湖の支配権を取り戻したが、ベネディクト・アーノルドの画した後衛が1776年中にタイコンデロガ砦やクラウンポイント砦をも取り戻すような動きを阻止した。
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包囲戦
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「コンスタンティノープル包囲戦 (1235年)」の記事における「包囲戦」の解説
1235年、第2代ナクソス公アンジェロ・サヌード(英語版)が、ラテン皇帝ジャン・ド・ブリエンヌがニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の軍に包囲されていたコンスタンティノープルの防衛のために艦隊を派遣した。ブルガリアとニカイアの連合軍の包囲は失敗し、冬が来る前の秋に撤退した。イヴァン・アセン2世とヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスは翌年に包囲を続けることに同意したが、その後ブルガリア皇帝は部隊の派遣を拒否した。1237年にジャン・ド・ブリエンヌが崩御すると、イヴァン・アセン2世がラテン帝国の摂政になる可能性があったために、ブルガリアはヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとの条約を破棄した[要出典]。 アンジェロの父の仲介で、2帝国間で2年間の休戦が締結された。
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包囲戦
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「アッコ包囲戦 (1799年)」の記事における「包囲戦」の解説
ウィリアム・シドニー・スミス代将指揮下のイギリス海軍小艦隊は、トルコの防衛力を補強のために、大砲と、それを操作する水兵と海兵隊員を供給した。スミスは、イギリスの持つ制海権にものをいわせて、ヤッファからの沿岸の道路を砲撃するためにエジプトから船でフランス包囲軍に送られてきた大砲を奪い取った。 フランス軍は3月20日、歩兵のみを使って包囲の陣を敷いた。ナポレオンは、町が簡単に降伏するものと思って疑わなかった。彼は部下の士官との連絡の中で、聖地征服のための要所を奪取してエルサレムに進軍するまで、ほんの2週間しか要しないという信念を述べている。 スミスは軍艦「ティーグル」と「シーシュース」を港内に錨泊させ、その舷側砲火で町の防衛を支援させた。フランスは何度も攻撃を繰り返したがその都度追い返された。4月16日には、トルコの救援軍がタボル山でフランス軍に撃退された。5月初め、フランス攻囲軍の交代の砲兵部隊が陸路で到着し、町の防備は一旦破られたが、攻勢は再び撃退された。そこにさらにロドス島からのトルコの増援軍が上陸した。 防備軍の断固たる意志の読み違え、フランスの物資供給港のイギリス艦隊による封鎖、そして厳しい悪天候とがあいまって、ナポレオン軍は、空腹で、冷たく、不潔な環境に置かれつづけた。ペストがフランス軍の兵営を襲い、その結果、劣悪な環境の兵士たちのうち、死者がおよそ2,000人を数えるに至った。ナポレオン・ボナバルトは、5月10日の最後の突撃が失敗すると、攻囲が始まってから2ヵ月後の5月21日、ついに兵を退いた。
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包囲戦
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「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「包囲戦」の解説
717年の初夏、マスラマはアラブ艦隊に自軍の下へ加わるように命じ、艦隊とともにアビュドス(英語版)からダーダネルス海峡を渡ってトラキアに上陸した。アラブ軍はコンスタンティノープルへの進軍を開始し、農村地帯を徹底的に荒らし回って物資を集め、遭遇した町から略奪した。アラブ軍は7月中旬もしくは8月中旬にコンスタンティノープルに到着した。そしてコンスタンティノープルを陸側から完全に孤立させるために、一方がトラキアの農村地帯に面し、もう一方がコンスタンティノープルに面した石造りの二重の包囲壁を建設し、両方の包囲壁の間に軍の野営地を設営した。アラブ側の史料によれば、この時レオンはすべての住民の身代金に相当する金貨を支払うことで包囲から解放して欲しいと申し出たが、マスラマは、敗者と和解することはあり得ず、コンスタンティノープルに駐屯させるアラブ軍の部隊がすでに選抜されていると返答した。 スライマーン指揮下のアラブ艦隊(上述の通り中世の文献ではしばしばカリフのスライマーンと混同されている)が9月1日に到着し、最初はヘブドモン(英語版)の近くに停泊していた。2日後、スライマーンは艦隊をボスポラス海峡へ向かわせ、いくつかの艦船がコンスタンティノープルのヨーロッパ側とアジア側の周辺に停泊を始めた。一部はボスポラス海峡の南側の入口を監視するために、カルケドンの南のエウトロピオスとアンテミオスの港へ向かった。一方、残りの艦隊は海峡内に向けて出航し、コンスタンティノープルを通過してガラタとクレイディオンの間の海岸に上陸を始め、コンスタンティノープルと黒海との間の連絡を遮断した。しかし、2,000人の海兵隊を乗せた20隻の重量船からなるアラブ艦隊の後衛が街を通過している最中に南風が止まり、その後逆風となってコンスタンティノープルの城壁の方向へ流されていった。そこへビザンツ艦隊がギリシアの火を用いた攻撃を加えた。テオファネスは、一部の船は船員もろとも沈み、その他の船も燃えてプリンスィズ諸島のオクセイア島(英語版)とプラテイア島(英語版)へ落ち延びたと記録している。勝利はビザンツ側を勇気づけ、アラブ側を落胆させた。テオファネスによれば、アラブ艦隊はもともと夜間に海側の城壁に向かい、船の操舵用の櫂を使って城壁をよじ登る作戦を準備していた。同じ日の夜、レオンはコンスタンティノープルとガラタの間に鎖を引き、金角湾の入口を封鎖した。アラブ艦隊はビザンツ軍との交戦に消極的になり、ボスポラス海峡のヨーロッパ側のさらに遠い北側に位置するソステニオン(英語版)の安全な港へ撤退した。 アラブ側の史料では、当初アラブ軍には十分な食糧が蓄えられ、野営地に大量の物資が積まれていたと記録されており、翌年には小麦を運んで種をまき、収穫することさえしていた。しかし、アラブ艦隊がコンスタンティノープルの封鎖に失敗したことはビザンツ側も食糧を船で運び込めることを意味していた。さらに、アラブ軍は進軍中にすでにトラキア一帯を荒廃させていたため、食糧を集めるに当たって略奪に頼ることはできなかった。アラブ艦隊とコンスタンティノープルのアジア側に展開していた第二のアラブ軍がマスラマの部隊に限られた物資を持ち込むことができた。 包囲が冬に近づくと両者の間で交渉が始まった。しかし、ビザンツの歴史家はこの時の交渉の存在について触れておらず、アラブ側の文献によって広く内容が伝えられている。これらのアラブの史料によれば、レオンはアラブ人を相手に裏表のある行動を続けていた。ある説明ではレオンがマスラマを計略にかけ、供給される穀物のほとんどがビザンツ側に流れたとし、別の説明では、コンスタンティノープルの住民は大量に積まれた物資を見てアラブ軍がすぐに戦う意思を持っていないと考えているため、数日以内に攻撃が差し迫っていることをコンスタンティノープルの住民に悟らせ、降伏へ誘導するために少量を残して食糧を完全に燃やすようにマスラマをそそのかしたとしている。年が明けた718年の冬は、雪が3か月以上地面を覆う異常に厳しい天候が続いた。その結果、多数の馬とラクダ、そして家畜が飢えと寒さで死亡した。そしてアラブ軍の野営地の物資が底をつくと恐ろしい飢餓が発生した。兵士たちはこれらの死んだ動物や木の根、葉、樹皮を食べた。さらには自分たちが植えた植物の新芽を食べるために野原の雪を一掃し、伝えられるところによれば、死人の肉や自分の排泄物までも食べた。そのため、アラブ軍の間で疫病が蔓延した。大きく誇張された数字ではあるものの、ランゴバルド人の歴史家のパウルス・ディアコヌスは、飢餓と病気で死亡した人の数を300,000人と記録している。 ウマイヤ朝の新しいカリフであるウマル2世(在位:717年 - 720年)が春に二個の艦隊を包囲軍の支援のために送ったことでアラブ軍の状況は改善するかにみえた。スフヤーンという名の指揮官の下でエジプトから400隻、イジドという名の指揮官の下でアフリカから360隻の船が物資と武器を運び込んだ。同じ頃、アラブ軍の新しい部隊が包囲を支援するためにアナトリアを横断する進軍を開始していた。新しい艦隊がマルマラ海に到着したとき、これらの艦隊はコンスタンティノープルからの距離を保ち、アジア側の海岸に位置する現代のトゥズラ(英語版)に近いニコメディア湾にエジプトの艦隊、カルケドンの南(サテュロス(英語版)、ブリャス(英語版)、およびカルタリメン(英語版))にアフリカの艦隊が停泊した。これらのアラブ艦隊の乗組員のほとんどはキリスト教徒のエジプト人で構成されていたが、彼らは到着するや否やビザンツ側へ逃亡を始めた。エジプト人からアラブ軍の増援部隊の到来と配置について情報を得たレオンは、新しいアラブの艦隊に対して攻撃のために自軍の艦隊を差し向けた。乗組員の離反に遭い、ギリシアの火に対して無力であったことから、アラブ軍の船舶は逃亡した乗組員たちが運んでいた物資や武器とともに破壊されるか捕獲された。この勝利によってコンスタンティノープルは海上からの攻撃に対する安全を確保した。また、陸上でもビザンツ軍は勝利を収めた。ビザンツの部隊はマルダサンという名の指揮官の下で前進してきたアラブ軍の増援部隊を待ち伏せし、ニコメディアの南のソフォン(英語版)周辺の丘で撃破した。 コンスタンティノープルは容易に海側から補給することができ、アラブの艦隊が再び出航することはなかったため、街の漁師は仕事へと戻った。アラブ軍は依然として飢えと疫病に苦しみ、ブルガリア軍との大規模な戦闘にも敗れ、テオファネスによれば22,000人が戦死した。包囲戦に対するブルガリア軍の関与は史料によって細部の説明が異なっている。テオファネスとタバリーは、(おそらくビザンツ帝国との条約のために)ブルガリア軍がアラブ軍の野営地を攻撃したとしており、シリア語による『864年の年代記(英語版)』は、アラブ軍が食糧を求めてブルガリアの領土へ入り込んだために戦闘になったとしている。一方、シリア人ミカエルは、ブルガリア軍は包囲の開始当初から関与しており、トラキアを通過してコンスタンティノープルに向かい、その後アラブ軍の野営地に攻撃を加えたと記している。いずれにせよ包囲作戦は明らかに失敗し、カリフのウマル2世はマスラマに対して撤退の命令を下した。12か月か13か月に及んだ包囲の末、718年8月15日にアラブ軍は撤退を始めた。この日付は生神女就寝祭の祝祭日であり、ビザンツ人はこの勝利を聖母マリアに帰した。アラブ軍は撤退時に妨害を受けることはなかったものの、マルマラ海の嵐で多くの船を失い、その他の船もサントリーニ島の火山から火山灰を被ったことで火災を起こし、生存者の一部はビザンツ側の捕虜となった。このため、テオファネスはわずかに5隻の船だけがシリアに帰還したと記している。アラブの複数の史料では、この軍事作戦の期間中に合計で150,000人のイスラーム教徒が死亡したと主張している。歴史家のジョン・ハルドン(英語版)は、この数字は「確かに誇張されているものの、それでもなお中世の視点におけるこの大惨事の影響力の大きさを示している。」と指摘している。
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包囲戦
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「ローマ包囲戦 (紀元前508年)」の記事における「包囲戦」の解説
強襲が失敗に終わると、プルセナスは戦略を変更し、ローマを封鎖した。ヤニクルムの丘(en)に守備兵を置き、テヴェレ川の河畔に野営地を設営した。また舟艇を集めて河上交通を遮断し、市内への穀物の移送ができないようにし、また郊外には襲撃部隊を送った。これによって、ローマ郊外の農民は収穫物も牧草も残したまま、城壁内部に退避せざるを得ずなかった。これはエトルリア軍の緻密な計画の一環であった。 リウィウスによると、執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラは敵の大軍を驚かす方法を考えていた。ある日、エトルリア軍の関心を向けさせるために、脱走兵を利用して、翌日に大量のローマ人に羊と共にエスクイリーナ門(エトルリア軍野営地の反対側)から場外に出ることを許すとの情報を与えた。これを知ったエトルリア兵は、大量の戦利品を期待して、いつもより多数がテヴェレ川付近をうろついていた。ティトゥス・ヘルミニウスはプラエネスティーナ街道沿い、ローマから2マイルの位置で中規模の部隊と共に待機するよう命じられた。スプリウス・ラルティウスはコリナ門(en)の内側に若者からなる軽装歩兵を留め、敵兵の撤退路を断つよう命令されていた。 二人の執政官のうち、ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌスはナエウィア門から数個中隊(マニプルス)から城外に出た。他方ウァレリウスは選抜された兵を率いてカエリウス丘へ向かうが、これは敵に最初に視認されることになる。ルクレティウスは、戦闘が開始されたことを確認すると、隠れていた場所から出て、ルクレティウス攻撃に向かう際に不注意にも後に残されていたエトルリア軍の補給物質を攻撃した。左側にはコリナ門からの、右側にはネウィア門からのローマ兵が殺到し、囲まれたエトルリア兵は虐殺された。エトルリア兵はローマ兵より数的に劣勢であり、撤退することもできなかった。この敗北はエトルリア人の終わりを告げるものであった。 プルセナスは包囲を続けたが、ローマでは穀物の補給が続かず、補給不足に陥り始めていた。一人の若い貴族、ガイウス・ムキウスは、包囲を終わらせようと、誰とも相談すること無しに、敵軍の野営地に忍び込もうとした。しかし、もし元老院の許可なしに街を出ると脱走兵として逮捕されてしまう可能性もあったために、元老院に対して彼の計画を打ち明けた。 元老院は彼の計画を許し、ガウンの下に隠す剣を与えた。ムキウスは野営地への潜入に成功し、兵の間を抜けてプルセナスに接近することに成功した。丁度その日は兵士の給料の支払日であり、プルセナスの隣に、よく似た服を着た書記官が座っていた。どちらがプルセナスかを聞くと、自分がローマ人だとばれる可能性があったため、運命に任せて一人に切りつけたが、殺害したのは秘書であった。ムキウスは逃れようとしたが、王の親衛隊に捕らえれれ、プルセナスの前に引き出された。彼は次のように答えた: 「私はガイウス・ムキウス、ローマ市民だ。私は敵を殺しにやってきたあなた方の敵である。また敵を殺す覚悟と同様、私には死ぬ覚悟もできている。我々ローマ人は行動を起こすときには勇気をもって攻撃し、傷を受けるのも勇気を持って甘んじるであろう。」 これを聞いたプルセナスは恐れかつ怒り、ムキウスの身体を火であぶって拷問することとした。ムキウスは従容としてこれを受け入れるどころか、プルセナスよりも先に松明をつかみ右手に押し当てて、痛みの表情を出さすに炎が右手を焦がすままに耐えた。これを見たプルセナスはムキウスの行動に感動し、解放してローマに戻ることを許した。ムキウスは暗殺を狙うローマの若者は300人に達し、彼はその最初の一人に過ぎないとプルセナスに告げた。 ムキウスはプルセナスの使節によってローマに送り返されたが、後に彼自身および彼の子孫達はスカエウォラ(左手)のコグノーメン(第三名)を名乗ることとなる。これは火傷で右手が使えなくなったためである。プルセナスは300回も同じ危険に会うことを恐れ、ローマと講和することにした。
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包囲戦
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「コンデ包囲戦 (1793年)」の記事における「包囲戦」の解説
コーブルク率いるオーストリア軍およびヨーク公指揮下のイギリス・ハノーヴァー軍からなる対仏大同盟軍は、コンデとヴァランシエンヌを包囲して攻略し、その上で進撃する方針をとることとした。 1793年4月8日、フェルディナント・フリードリヒ・アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク率いる同盟軍の分隊6千人がコンデの包囲を開始した。ヴュルテンベルクの軍勢のうちオーストリア軍は第15ダルトン歩兵連隊(d'Alton)と第57ヨーゼフ・コロレド歩兵連隊(Joseph Colloredo)の1個大隊ずつ、第30ド・リーニュ歩兵連隊(de Ligne)、第38ヴュルテンベルク歩兵連隊(Württemberg)、第55マレー歩兵連隊(Murray)、第58フィーアゼット歩兵連隊(Vierset)の混成軍2個大隊、チロル狙撃兵(英語版)4個中隊、第12カヴァナグ胸甲騎兵連隊(Kavanagh)2個大隊で構成された。フランス王党派の派遣軍はベルチェニー・フザール連隊(Berczeny)、サックス・フザール連隊(Saxe)、ロワイヤル・アレマン騎兵連隊(Royal Allemand)の2個大隊ずつだった。フランス側のコンデ駐留軍はジャン・ネストル・ド・シャンセル(フランス語版)准将が指揮官を務め、4個歩兵大隊、4個独立中隊、8個騎兵大隊で構成され、合計4,300人を有した。 デュムーリエが寝返った後、フランス政府は1793年4月4日にその後任としてオーギュスト・マリー・アンリ・ピコー・ド・ダンピエール(英語版)をベルギー方面軍の指揮官に任命した。4月24日には軍の再編が行われ、ベルギー方面軍とホラント方面軍が解散され、残りは北方軍(英語版)に編入された。ダンピエールは北方軍を指揮することとなり、その配下のアルデンヌ方面軍(フランス語版)はフランソワ・ジョセフ・ドルーオ・ド・ラマルシュ(英語版)が率いた。ダンピエールは自軍が休息を要すると知っていたが、派遣議員が行動を要求した。ダンピエールの軍勢は4月15日にヴァランシエンヌ近くのファマール(英語版)の軍営を再占領した。2週間後の5月1日、フランス軍はコンデの包囲を解くべくフリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いる同盟軍を襲撃した。フランス歩兵は勇猛に攻撃したが、騎兵の援護がなく、襲撃は失敗した。ダンピエールは5月8日のレムの戦いで再び襲撃を試み、フランス軍左翼が敵軍を押した。イギリスの衛兵旅団が戦闘に投入され、フランス軍を押し返したが激しい砲火で撃退された。しかし、フランスのコンデ救援の試みは失敗した。戦闘に参加したフランス軍3万のうち1,500人が死傷、一方の同盟軍は死傷者600を出した。コーブルクの軍勢はオーストリア、プロイセン、オランダ、イギリス軍の同盟軍だったが、その多くが戦闘に参加しなかった。ダンピエールは大腿を失う重傷を負って戦場から担ぎ出され、翌日に死亡した。ダンピエールは戦死したが、国民公会ではジョルジュ・クートンにより裏切り者として批判された。たとえ生き残ったとしても、ダンピエールは当時疑われていたため、ギロチンにかけられるのは避けられないと思われる。5月10日には同盟軍が8日に失った陣地を奪回、フランス軍はファマールの軍営に撤退した。 1793年5月23日、同盟軍はファマールの戦いでフランス軍を撃破した。同盟軍2万7千のうち1,100人が死傷した一方、ラマルシュが指揮を引き継いだフランス軍は2万7千人のうち3千が死傷、さらに300人が捕虜、大砲17門、軍旗3本、弾薬を載せた台車14台が鹵獲された。その結果、同盟軍はヴァランシエンヌを包囲した。コンデ駐留軍は孤立、気球でほかのフランス軍と連絡した。しかし、この連絡手段が仇となり、コンデ駐留軍が食料不足に陥ったことが同盟軍に露見してしまった。結局、シャンセルは1793年7月12日に降伏、守備軍は捕虜になり、大砲103門が同盟軍の手に落ちた。同盟軍の損害は不明だった。
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包囲戦
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「ベルガルド包囲戦 (1793年)」の記事における「包囲戦」の解説
包囲戦は5月23日に始まった。フランスの駐留軍は少なくとも大砲41門と臼砲7門を有していた。スペイン軍の兵士6千と大砲34門はまず北側にある外堡2箇所への攻撃に集中した。フランス亡命軍(英語版)のヴァレスピア大隊(Vallespir)はスペイン軍とともに戦った。リカルドスは5月30日までにレ・バン要塞(Fort les Bains)から1,200ペースのところに設置された砲台に大砲16門を配備した。6月3日、砲撃ののちフランス軍350人の守る外堡が降伏した。2日後、ド・ラ・ギャルド要塞(Fort de la Garde)は水源を切断されて降伏、フランス軍200人が捕虜になった。包囲戦の最中、フランス軍3,350人が輸送部隊を要塞に護送しようとしたが、5月29日に追い返された。 その後数週間、スペイン軍は城壁に穴があけられるまで砲撃を続けた。この時点ではフランス軍の大砲50門のうち42門が降ろされていた。強襲の危機がある上、守備もままならなかったためボワブリューレは6月24日に降伏、残りの駐留軍は捕虜になった。フランス軍の損害は戦死30、負傷56、捕虜1,450だった。スペイン軍の損害は不明だった。
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包囲戦
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「アントウェルペン包囲戦 (1814年)」の記事における「包囲戦」の解説
フランス軍がホーフストラテンの戦い(英語版)で勝利し、ラザール・カルノーが要塞都市とアントウェルペン城(英語版)に撤退すると、そこでは最初にイギリス軍が、最後までプロイセン軍が包囲攻撃していた。 ラザール・カルノーの守備隊はエドゥアール・ジャック・ブルグ・ド・ミシェシ(英語版)率いる小艦隊の援軍を得て連合軍の包囲攻撃に抵抗したものの、ルイ18世が休戦協定に調印しナポレオン1世が退位すると降伏を余儀なくされた。
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包囲戦
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「ディーウ包囲戦 (1546年)」の記事における「包囲戦」の解説
1538年の包囲が失敗した後、グジャラートの将軍カジャール・サファルはディーウを再占領すべく再度包囲した。ジョアン・デ・マスカレニャス(João de Mascarenhas)率いるディーウの守備軍は1546年4月20日から11月10日までの7か月間、包囲に耐えた。 ポルトガル側の総督ジョアン・デ・カストロ(英語版)が艦隊を率いて到着すると、彼は包囲軍を敗走させて包囲戦を終結させた。 カジャール・サファルと息子のムハラム・ルミ・カーン(Muharram Rumi Khan、2人ともアルバニア出身とされる)は包囲戦の最中に戦死した。
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包囲戦
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「アナポリスロイヤルの戦い (1745年)」の記事における「包囲戦」の解説
1745年1月15日、ポール・マリン・ド・ラ・マルグと息子ジョゼフの命令により、フランス系カナダ人中心に編成された300人部隊と、同盟インディアンとが、そりやトボガンで陸路アカディアへと派遣された。数週間後、マリン父子と、そしてフランス系カナダ人の部隊がアカディアに到着した。マリンは到着後すぐに、マリンは、ルイブールにケベック駐在の兵の派遣を打診した。その後マリンと兵士たちは、目的であったアナポリスロイヤルの攻撃に向かったが、この時はまだルイブールに差し迫った危機を知らなかった。ルイブールの首脳部も、マリンの文書を持ってルイブールに向かった伝令もおそらくは気づいていなかった。 マリンが受け取った返答には、アナポリスロイヤルへの攻撃を続けるように記されていた。マリンはアナポリスロイヤルに兵を向かわせ、1745年の5月に200人部隊と何百人ものミクマク族を連れて、3週間に及ぶアナポリスロイヤルの包囲戦に出た。その間にニューイングランドはルイブール遠征の準備を進めていた。マリンの軍勢の数は、その前年の包囲戦でデュヴィヴィエが率いた軍勢の2倍であった。包囲戦の間、イギリス系住民は、フランス軍の手に渡るであろうオフィサーズフェンス、民家や建物を破壊した。マリンは2隻のイギリスのスクーナー船を拿捕し、1人を捕虜とした。その時、ルイブールにやったのとは別の伝令がアナポリス川を下ってやって来た。ルイブールが攻撃を受け、援軍が必要だというのだ。アナポリスロイヤルを包囲していた大勢の兵と、マリンの部隊がルイブールへ向かった。このため、アナポリスロイヤルの包囲戦はこの時点で終わりを告げた。 マリン軍は、陸上では、アカディア人やミクマク族の支援を受けて素速く動けた。マリンはフランスのスクーナー船に手紙を渡したが、この船はルイブールに入港時、不運にも座礁した。乗組員は森へと逃げたが、船はイギリスのものとなり、マリンがロワイヤル島総督のルイ・デュポン・ド・デュシャンボンに宛てた手紙が発見された。これはイングランドにとって好機となった。
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「ペマキッドの戦い (1696年)」の記事における「包囲戦」の解説
8月14日、ディベルヴィユはフリゲート艦で編成された小艦隊で、イングランドと交戦中のアカディア総督ヴィユボンの援助に向かった。ディベルヴィユはイングランドのフリゲートを拿捕した。その後、ディベルヴィユは、フランスとアベナキの連合軍600人の軍勢でウィリアム・ヘンリー砦を包囲した。。しかるのちに、2隻の船とサンキャスタン指揮下の240人のアベナキ兵、ヴィリュー指揮下の25人の兵の働きで砦を攻撃した。チャブは降伏し、砦は破壊された。そして92人の駐屯兵が捕虜としてボストンに送られた。
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包囲戦
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「マントヴァ包囲戦 (1799年)」の記事における「包囲戦」の解説
4月、オーストリア軍がマントヴァに到達し、要塞を包囲した。彼らは要塞への補給線を断ち封鎖を敷きつつ、砲戦や唐突な強襲を仕掛けて守備兵を消耗させた。守備兵の士気は、食糧不足や給料支払いの停滞により落ちる一方だった。 6月18日、トレッビアの戦いでフランス軍を破ったオーストリア軍は、マントヴァ包囲軍を増強し、さらに厳重な包囲を構築することができるようになった。7月4日、オーストリア軍の増援が到着した。その数は、従来の8000人から4万人にまで膨れ上がった。オーストリア軍の司令官は、大砲に精通したハンガリー人将軍クライ・パールだった。要塞に絶え間なく砲弾が撃ち込まれるようになり、7月24日から25日には総攻撃を仕掛け、徐々にフランス軍を追い詰めていった。27日、フォワサック=ラトゥールは降伏に向けた条件交渉を始めた。
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包囲戦
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「シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年)」の記事における「包囲戦」の解説
シュラクサイは堅牢に防御されていたために、数ヶ月間ローマのあらゆる攻撃に耐えた。攻城戦の困難さを実感し、ローマは新兵器を投入することとした。サンブーカ(en)と呼ばれる艦載型の鉤縄付き攻城塔や、城壁の上部に滑車で降ろせる、艦載型の梯子等である。 他方、アルキメデスも防衛用の新兵器を考案したとされる。壁越しに巨石を放り出して敵艦に落とす装置や、壁越しに腕を伸ばして破城槌や攻城用の小屋の上に丸太を落とす装置などが知られている。アルキメデスの鉤爪(en )と呼ばれる兵器は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵艦に引っ掛けて腕部を持ち上げることで敵艦を傾けて転覆させるものであった。また、巨大な鏡を並べて、ローマ艦の帆を焼いたという伝説もある(2世紀の著述家ルキアノスによる)。これらの兵器に加えて、城壁に備え付けられた投石機や型弩弓での攻撃に苦戦し、結局は力攻めを余儀なくされた。
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包囲戦
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「コンスタンティノープル包囲戦 (1422年)」の記事における「包囲戦」の解説
ビザンツ帝国の年代記(1425年ごろ)によると、「6月10日水曜日、正午から4時間が過ぎた時、ミハロールがコンスタンティノープルを攻撃した」。戦闘の目撃者であるヨハネス・カナノスによれば、ミハロールの先鋒隊がコンスタンティノープル郊外を荒らしまわったのち、6月20日にオスマン本軍が攻城兵器と共に到着し、本格的な攻防戦が始まった。 しかし間もなく、ムラト2世は撤退せざるを得なくなった。アナトリア半島で弟のキュチュク・ムスタファが反乱を起こしたためである。その裏では、アンカラの戦いで一度没落したオスマン帝国が再び強大化することを恐れたゲルミヤン侯国やカラマン侯国などのアナトリアのベイリクが糸を引いていた。さらに歴史家ドゥーカスによれば、反乱軍にはビザンツ帝国のマヌエル2世からも金が流れていたという。これによりムスタファは大規模な軍勢を組織し、8月下旬もしくは9月初旬からオスマン帝国の首都ブルサを包囲した。ムラト2世の撤退にはこうした事情があったが、当時のコンスタンティノープルでは、これは神の母が介在した奇跡であると言われた(後述)。
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包囲戦
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「ジブラルタル包囲戦 (1436年)」の記事における「包囲戦」の解説
ムーア人は攻撃が計画されていると警告され、迎え撃つために準備した。グラナダ王国とマリーン朝から物資と援軍を受け取り、赤砂エリアの要塞が大幅に強化された。伯爵はムーア人の準備状況を知らず、自ら海軍に赤砂エリアを攻撃するように指示し、ムーア人は海軍の上陸を妨害することはなく、上陸後に船は艦隊に戻った。しかし、上陸した襲撃者は、自らがいる海岸が海と高い石の壁の間にあることに気づいた。潮が満ちて来て、海岸が狭くなり、ムーア人が岩と矢を頭上から降らせてきた。 船で大砲を監督していたデ・グズマンは、陸上で起こっていた虐殺について警告され、援軍に向かおうとしていた船に同乗した。しかし、船は人間でいっぱいであり、さらに乗ろうとすると転覆、沈没してしまい、デ・グズマンと騎士40人が溺死した。フアン・デ・グスマンは、北から城を攻略することはできないと悟り、大惨事を聞き付けると、軍を連れて父親を助けるために準備していた。それでも、軍の士気がなくなり、実際に取るべき行動がなかったので、フアン・デ・グスマンは、包囲戦を放棄した。
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包囲戦
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ショプロンの南にある小さな町クーセグは、国境から数マイルしか離れていなかった。この町の防衛はクロアチア人の将軍で外交官だったニコラ・ユリシチが担っていた。クーセグは戦略的な要地とはみなされていなかった 上に、既にここよりも強固に防衛されるべきだった地点がいくつも戦わずに開城していた。大宰相パルガル・イブラヒム・パシャは、クーセグの防備がいかに貧弱か知らなかった。スレイマン1世はいくつかの小要塞を落としたのち、クーセグの包囲を始めていたイブラヒム・パシャと合流した。 オスマン軍はクーセグで頑強な抵抗にあった。スレイマン1世としては、中途半端な数で神聖ローマ帝国軍が救援に来たところで野戦に持ち込み、より決定的な勝利を得ることも望んでいたが、この包囲戦を通じて神聖ローマ帝国軍はレーゲンスブルクにとどまっており、オスマン軍の前に現れることはなかった。オスマン軍は次々に攻撃を仕掛け、砲撃で一部の城壁を破壊したが、城兵は降伏しなかった。イタリアの歴史家パオロ・ジョヴィオによれば、オスマン軍がクーセグを攻めきれなかったのは、神聖ローマ帝国軍との野戦を想定していたオスマン軍が十分な数の大砲を持ってきていなかったためであった。坑道を掘って城内に侵入する試みの多くは、逆に城内から坑道を掘ってきた城兵に見つかって失敗した。 とはいえクーセグ城の設計は対坑道戦術に向いておらず、何度かオスマン軍が城壁を下から火薬で吹き飛ばすのに成功したが、それでも城兵は攻撃を跳ね返し続けた。 ニコラ・ユリシチや700人の農民、それに僅かな兵士たちは、大砲の装備もなしに、25日間の包囲と19回に及んだ総攻撃や執拗な砲撃を耐え抜いた。 包囲戦の結末には2つの説がある。一つでは、ニコラ・ユリシチは提示された好条件の降伏勧告を蹴り、オスマン軍は撤退を余儀なくされた。もう一つは、クーセグ市が名目的な降伏勧告を受け入れたとするものである。城内に入れたのはオスマン帝国旗を掲げたごく一部の部隊だけであり、これらも結局は間を置かず撤退することとなった。 どちらにせよ、8月末の長雨の到来によりスレイマン1世はクーセグ攻略を諦め、当初予定していたウィーン侵攻計画も放棄して撤退を始めた。オスマン軍は実に4週間も足止めを食い、その間にオーストリア側は強力な援軍をウィーンで編成しつつあり、スレイマン1世はこれと衝突するのを嫌がった。当時のイタリアの歴史家パオロ・ジョヴィオによれば、カール5世率いる神聖ローマ帝国軍が9月23日にウィーンに到着したが、これはオスマン軍に追い付くにはあまりに遅い到着だった。クーセグの防衛成功により、オーストリアは1529年に続く2度目のウィーン包囲を免れた。
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包囲戦
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「コンスタンティノープル包囲戦 (626年)」の記事における「包囲戦」の解説
ホスロー2世は、東ローマ帝国の息の根を止めるには、その進撃に対する決定的逆襲を決める必要があると考え、外国人をふくむあらゆる腕利きの者を徴兵し、精鋭の二軍を新設した。将軍シャーヒーン (Shahin Vahmanzadegan) は5万の軍を与えられ、メソポタミアとアルメニアでヘラクレイオスの反撃を防いだ。より小規模な部隊を率いるシャフルバラーズはヘラクレイオス軍の脇をすりぬけ、サーサーン軍の前線基地となっていたカルケドンまで突出し、ボスポラス海峡を渡ってコンスタンティノープルを直接攻撃する準備を始めた。またホスロー2世はアヴァールのカガンとも連絡を取り、ヨーロッパ側とアジア側からコンスタンティノープルを挟撃する手はずを整えた。 サーサーン朝軍がカルケドンに駐屯する一方、アヴァール人はヨーロッパ大陸側からコンスタンティノープルを包囲し、ウァレンス水道橋を破壊した。ボスポラス海峡では東ローマ海軍が制海権を維持していたため、サーサーン朝軍がヨーロッパ側に渡って同盟者アヴァール人と合流することはかなわなかった。このため攻城戦に長けたサーサーン朝軍はヨーロッパ側にあるコンスタンティノープルの攻撃に直接参加できず、攻城側の連合軍の力は大きく削がれた形になっていた。また海峡を挟んで確実に情報を伝達することもできないため、アヴァール人とサーサーン朝の両陣営が連絡を取ることも難しかった。 コンスタンティノープルの防衛は、総大主教セルギオス1世とパトリキオスのボヌスが担った。敵がコンスタンティノープルを包囲したことを知ったヘラクレイオスは、自軍を3つに分けた。首都コンスタンティノープルは厳重な防衛設備が整えられていて比較的安全と思われたが、ヘラクレイオスは守備隊の士気を上げることを意図して、あえて一軍を割いてコンスタンティノープルへ送った。ヘラクレイオスはもう一つの軍を弟テオドロスに託してシャーヒーンへの対応にあたらせ、自らは最も小規模な3番目の軍を率いて、サーサーン朝の中心部へ逆侵攻することにした。 626年6月29日、コンスタンティノープルで組織的な総攻撃が始まった。城壁内には1万2000人の熟練した下馬騎兵がひかえて、東ローマ帝国をヨーロッパから完全に追い出そうとする8万人のアヴァール人とその配下のスクラヴェニ族の攻撃に立ち向かった。サーサーン軍はフォカスが廃位されたときにはすでにカルケドンを制圧していたのだが、このアヴァール人が攻城兵器を押し立ててテオドシウスの城壁に迫り始めたときまで、コンスタンティノープル攻撃を試みることはなかった。攻城軍は絶えず投石機でコンスタンティノープルに石を投げ込み続けたが、防衛側はセルギオス1世の宗教的カリスマのおかげで高い士気を維持していた。彼は聖母マリアのイコンを掲げて城壁を行進し、東ローマ帝国が神に守られているということを印象付けた。さらに彼が周辺の農民に、この戦争の宗教的な意義を説いたことで、彼らも迫る異教徒の脅威の前に団結した。 8月7日、サーサーン軍は船でボスポラス海峡を渡り軍をヨーロッパ側に渡らせようとしたが、東ローマ海軍に包囲され撃破された。またスラヴ人は金角湾を渡ってコンスタンティノープルの海の城壁を攻撃し、アヴァール人の本軍は陸上の城壁を攻撃した。これに対し、ボヌス率いる東ローマのガレー船団はスラヴ人の船を体当たりで沈めていった。陸上のアヴァール人も、8月6日から7日にかけて総攻撃を仕掛けたが失敗に終わった。さらに東方でテオドロスがシャーヒーンに対し決定的勝利を挙げたという知らせが届き(シャーヒーンはこの敗北のために失意のうちに死んだと言われている)、アヴァール人は2日間の内にバルカン半島の奥地へ撤退した。彼らがコンスタンティノープルを脅かすことは二度となかった。シャフルバラーズのサーサーン軍はまだカルケドンにいたが、海峡を渡れない彼らだけでコンスタンティノープルを攻略するのは不可能であり、包囲戦はこれをもって終息した。東ローマ帝国では、聖母マリアの加護によって包囲戦が終わったことを祝い、アカティストス(讃美歌)がつくられた。作者は不明だが、セルギオス1世かピシディアのゲオルギオスであると考えられている。
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包囲戦
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「ベオグラード包囲戦 (1739年)」の記事における「包囲戦」の解説
最初、オスマン帝国は1521年の包囲戦(スレイマン1世の最初の軍事行動)でベオグラードを占領したが、オイゲン・フォン・ザヴォイエンによる1717年の包囲戦で失陥した。それ以来、オスマン帝国はベオグラード奪還の機会を待っていた。Battle of Grockaの後に、大宰相İvaz Mehmet Pashaがベオグラードを包囲した(1739年7月)。8月、元大宰相Hekimoğlu Ali Pashaが西方の国境から参加し、Bosnian militiaもまた攻撃に参加した。51日間の包囲戦を経て、オーストリアの司令官Count Wallisがドナウ川の艦隊を炎上させ、講和を願った。
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包囲戦
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「チェルニゴフ包囲戦 (1239年)」の記事における「包囲戦」の解説
ルーシの年代記(レートピシ)には、包囲戦の正確な期間は記されていない。また、記されている包囲戦の詳細は、1234年にガーリチ公ダニールがチェルニゴフを包囲した際の、『ガーリチ・ヴォルィーニ年代記』の記述の複写である。チェルニゴフの包囲を直接的に指揮したのは、征西軍の総司令官であるバトゥであるという説、ベルケであるとする説、あるいはモンケであるとする説がある。一方、チェルニゴフの封鎖を解くべく対陣した(籠城部隊の指揮官ではない)のはミハイルの従兄弟のムスチスラフであった。ムスチスラフはチェルニゴフ公位にあったとも、ノヴゴロド・セヴェルスキー公であったともいわれる。ただいずれにせよ、多くの研究者は、ムスチスラフは自身の近衛兵(ドルジーナ)以外に対しても指揮権のある立場にあったとみなしている。
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包囲戦
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「モスクワ包囲戦 (1382年)」の記事における「包囲戦」の解説
モスクワを攻撃すべく出撃したトクタミシュに対し、他のルーシ諸侯は協力体制を取った。ニジニ・ノヴゴロド公ドミートリー・コンスタンチノヴィチは息子ヴァシーリーとセミョンをトクタミシュの下に参上させ、またリャザン公オレーグはオカ川を渡るための浅瀬の位置を教えた。これを知ったモスクワ大公ドミートリー・ドンスコイは首都モスクワを放棄して直接対決を避ける道を選んでコストロマーに向かい、モスクワ防御の指揮はアルギルダスの孫にあたるリトアニアのオスチェイ公に委ねられた。トクタミシュはセルプホフを占領した後、8月23日にモスクワを包囲したが、ロシア史上初めて銃火器を使用したモスクワ人によって攻撃は撃退された。 3日に渡りモスクワを包囲したものの攻めあぐねたトクタミシュは、配下のルーシ諸侯を利用してオスチェイ率いるモスクワ軍をおびき出す策を考えた。トクタミシュは「あくまでドミートリーの捜索が目的であり、モスクワを荒廃させるつもりはない」と述べてスーズダリやニジニ・ノヴゴロド諸侯らにモスクワ軍に投降するよう説得させ、スーズダリらの説得を受けたオスチェイは城門を開けて投降した。ところが、トクタミシュは事前の約束を破ってオスチェイを殺してモスクワを掠奪し、約2万4千人の死者を出した。
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包囲戦
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「メッカ包囲戦 (692年)」の記事における「包囲戦」の解説
マスキンの戦いでムスアブを破ったのち、アブドゥルマリクは将軍のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)に2,000人のシリア人の部隊を預けてメッカへ派遣し、交渉によってイブン・アッ=ズバイルの降伏を確保した上で安全の保障を与えるように指示した。ハッジャージュは市内において流血の事態を避けることも指示されたが、もしイブン・アッ=ズバイルが降伏を拒否した場合には都市を包囲するように命じられた。アブドゥルマリクの命を受けたハッジャージュはメッカへは直接向かわずに自身の故郷であるターイフに向かった。ハッジャージュは692年1月にターイフに到着し、そこからアラファート平原にいくつかの分遣隊を派遣して小規模な戦闘でイブン・アッ=ズバイルの支持者を破った。結局、イブン・アッ=ズバイルとの交渉は失敗に終わり、ハッジャージュはアブドゥルマリクに対して援軍を要請し、メッカへの攻撃を許可するように求めた。アブドゥルマリクは許可を与え、マディーナを占領していたターリク・ブン・アムルにメッカでハッジャージュを支援するように命じた。 ハッジャージュは692年3月25日にメッカを包囲し、ターリク・ブン・アムルの援軍がその1か月後に到着した。都市への供給が途絶えたことで都市は食糧難に陥った。さらに、都市は近くのアブー・クバイス山(英語版)からカタパルトによる砲撃を受けた。砲撃はメッカ巡礼(ハッジ)の期間中も続いた。9世紀の歴史家であるバラーズリー(英語版)の説明によれば、第2代カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブの息子で、大きな発言力を持っていたアブドゥッラー・ブン・ウマル(英語版)の要請によって巡礼中の砲撃が中止された。しかし、イブン・アッ=ズバイルがタワーフ(カアバの周行)の行動を認めなかったことに激怒したハッジャージュは、カタパルトでカアバ本体へ砲撃するように命じた。歴史家のアブドゥルアメール・ディクソンによれば、砲撃はカアバ全体ではなく、イブン・アッズバイルによって改変されたカアバの一部(次節参照)のみが標的となった。その後、突然の雷雨の発生が兵士たちの間で神の怒りに対する恐怖を引き起こし、砲撃を中断させた。これに対してハッジャージュは雷雨が自然現象であると兵士たちに納得させ、もしこれが何らかの前兆だと考えるのであれば、それは勝利の兆しとして受け取るべきだと話した。そして砲撃を再開させた。悪化していく都市の状況とハッジャージュによる恩赦の約束によって、イブン・アッ=ズバイルの2人の息子を含むおよそ10,000人の守備隊が降伏した。 イブン・アッ=ズバイルは母親のもとに向かい、ハッジャージュに従うべきかについて助言を求めた。母親は既に高齢であることと本人のために戦って死んでいった人々の犠牲を引き合いに出して戦うように促した。イブン・アッ=ズバイルは末子と以前にクーファの総督を務めていたアブドゥッラー・ブン・ムティー(英語版)を含む残りのわずかな支持者を伴ってハッジャージュを攻撃したものの、戦闘で殺害された。イブン・アッ=ズバイルの首はアブドゥルマリクのもとに送られ、胴体は晒し台に置かれた。戦いが終わった日付は10月4日、または11月3日といった異なる説明が存在する。
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包囲戦
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「スィゲトヴァール包囲戦」の記事における「包囲戦」の解説
オスマン軍の先遣隊がスィゲトヴァールに到着し、包囲を開始したのは1566年8月2日である。防衛軍はたびたび出撃して、オスマン軍にかなりの被害を与えた。スレイマン1世率いる本軍も氾濫するドナウ川に進軍を阻まれたので、スィゲトヴァール攻撃に加わることになった。スレイマン1世の本軍は8月5日に着陣し、彼の巨大なテントが戦場を一望できるシミレホフの丘に建てられた。しかし病のため彼は陣営に留まって各部署から報告を受けることしかできず、実質的な指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャがとった。 スィゲトヴァールに戻っていたズリンスキを包囲したのは、少なくとも15万人の兵と強力な大砲群からなるオスマン軍であった。彼のもとにいた守備兵は僅か2300人のクロアチア人とハンガリー人だった。彼らはズリンスキ自身の兵や、彼の友人・同盟者の兵だったと考えられている。そうした主な防衛側の将には、ガシュパル・アラピッチ伯とその副官ミクローシュ・コバク、ペタル・パタチッチ、ヴク・パプルトヴィチらが挙げられる。多数派だったのはクロアチア人だが、居合わせたハンガリー人の数も多く、どちらも重騎兵を主力に擁していた。 スィゲトヴァールは堀によって旧市街、新市街、城塞という3つの地域に分かれており、それぞれが橋や土手道で接続されていた 。また城塞部の中でも、内郭(現在城郭が残っている範囲とかさなる)はそれほど高所に建てられていたわけでもないが、2つの谷で隔てられているため強襲が極めて困難な要塞となっていた。この内郭が最後の総攻撃まで防衛軍を守り続けた。 スレイマン1世が城下に現れた時、城壁には赤い布がかけられ、あたかも祭りの最中であるように見えた。オスマン帝国の大軍を歓迎するかのように、城から大砲が一発だけ放たれた。8月6日、スレイマン1世の指示により最初の強襲がかけられたが、失敗に終わった。とはいえ防衛軍の人員が絶望的に不足しているのは明らかだったが、ウィーンからハプスブルク帝国の援軍がスィゲトヴァールに送られることはなかった。 1か月以上にわたる壮絶な戦闘の末、ズリンスキら防衛軍の生き残りは旧市街へ撤退し、最後の抵抗の準備をした。スレイマン1世はズリンスキにクロアチアの(オスマン帝国の影響下での)支配権をちらつかせ降伏を促した。しかしズリンスキは返答せず、抵抗を続けた。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は8万人の大軍とともにジェール近郊に布陣していた。以前に直接スィゲトヴァール救援に向かう、あるいはエステルゴムを包囲してオスマン帝国軍に圧力をかけスィゲトヴァールを救うといった策も出ていたが却下され、結局スィゲトヴァールを救う手立てが打たれることはなかった。様子見に終始した理を、後にマクシミリアン2世は1567年の帝国議会に出した報告書の中で、スレイマン1世の意図が分からず、またオスマン軍があまりに強大だったからだと説明している。 スィゲトヴァールの陥落はもはや必然的だったが、オスマン軍の首脳部は総攻撃を渋った。そうしているうちに、9月6日にスレイマン1世が陣没した。彼の死はあらゆる手段によって隠し通され、スルタンの最側近のみがそれを知っていた 。兵士が戦闘放棄するのを恐れた側近たちにより、スレイマン1世の死は伏せられ、跡継ぎのセリム(2世)に急使が送られた。おそらくこの使者は手紙の内容を知らなかったはずだが、彼はアナトリアのセリムのもとへわずか8日間で到達した。
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包囲戦
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「ペンサコーラの戦い (アメリカ独立戦争)」の記事における「包囲戦」の解説
4月12日、ガルベスはイギリス軍の防御を視察している時に銃撃で負傷し、戦闘指揮はガルベスの親友であるホセ・デ・エスペレタ大佐に正式に渡された。スペインの大砲は4月30日に砲撃を開始し、ペンサコーラの砦に向かって総攻撃が開始された。ペンサコーラ湾一帯では暴風が続き、5月5日と6日にはハリケーンがスペイン艦船を襲った。スペイン海軍は激しい海のために木製の艦船が岸にぶつかってしまうことを怖れ撤退を強いられた。陸軍の方はそこに留まって包囲戦を継続した。塹壕は水で溢れ、兵士達はガルベスからブランディの支給を認められた。 5月8日、クレセント砦の火薬庫に迫撃砲の砲弾が命中した。火薬が爆発すると黒煙が空に立ち上り、イギリス兵57名が死亡し、クレセント砦が破壊された。軽歩兵部隊を指揮していたエスペレタが突撃を指揮してクレセント砦を奪取でき、そこの迫撃砲やカノン砲の向きを変えて次の2つの砦を砲撃させた。イギリス軍はジョージ砦から反撃したが、スペイン軍の火力に圧倒された。 イギリス軍はその守りの最終線が集中砲火にあって耐えきれないと認識し、同日午後3時にジョージ砦で白旗を掲げた。1781年5月10日、正式の降伏手続きが完了した。イギリス兵1,100名以上が捕虜となり、別に200名の損失があった。スペイン軍は戦死74名、負傷198名だった。
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包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:06 UTC 版)
5月3日、マタモロスに拠点を置いたメキシコ軍砲兵は、一週間にわたるテキサス砦の砲撃を開始。砦の守備にはブラウン少佐と第7歩兵、ラウド大尉と4~18台の砲兵団、ブラッグ中尉と4丁の銃の軽装砲兵があたった。攻撃の間はたったの2名のアメリカ兵しか死ななかったが、大砲の集中砲火と大幅な数のメキシコ軍部隊の到着は、要塞への援軍を妨害し、軍事施設を危険な状況にした。 ザカリー・テイラー将軍は砦の守備兵の救出にあたり、そして結果的に起こったパロ・アルトの戦いでは、メキシコ軍のマリアノ・アリスタ将軍に要塞の包囲戦をあきらめさせ、川の遥か南まで撤退させた。
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包囲戦
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「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「包囲戦」の解説
アンサールたちがハルトゥームに到着したとき、ゴードンは完全に孤立していたが、防御工作のおかげで町の内部への彼らの浸透は免れた。ゴードンは主に地雷を設置したのであるが、これはアンサールたちを十分に恐れさせた。スチュアート大佐は小規模な別働隊を組織して、ナイル川が増水すると砲船を使ってバルバルの町を襲い、8月には一時的ながらも奪還に成功した。ところがスチュアートは、新たな略奪のためにバルバルから移動してドゥンクラーを襲撃していた矢先、死亡した。ゴードンは、アル=マフディー(ムハンマド・アフマド)自身が彼に送った書簡を読んだときにはじめて、その事実を知った。 イギリス本国においてはゴードンの支援を求める世論が高まり、グラッドストン内閣が最終的にガーネット・ジョゼフ・ウォルズリーにゴードン救出を命じるに至った。ウォルズリーは、それ以前に発生したクーデタ未遂事件への対応で、既にエジプトにイギリス軍を展開していた。大規模な歩兵戦力を組織することが可能ではあったが、歩兵ゆえに進軍に極端に時間がかかった。援軍が到着するまで時間がかかることを知ったゴードンは、ラクダ騎兵で組織した遊撃隊を先に派遣してほしいとウォルズリーに手紙で催促した。遊撃隊はハーバート・スチュアート准将の指揮の下、ワーディー・ハルファーを発ってバイユーダ砂漠を越えようとしたが、ベジャ人のバダウィ(遊牧民)、ハデンドゥアの襲撃を受けた。交戦は2度にわたり行われ、1度目はアブー・トゥライフという場所で(この戦闘の名称はイギリス軍の公式の戦闘記録では the battle of Abu Klea (アブー・クリーの戦い)の名で伝わる)、2度目はアル=ムタンマという場所の近くで行われた。2度の戦闘を受けてもイギリス軍の遊撃隊は方陣を崩すことなく保った一方、アンサールたちは多数の死傷者を出して駆逐された。 ハルトゥームから 100マイル (160 km) 北方にあるアル=ムタンマで、ウォルズリー軍の先遣隊はゴードンが派遣した4隻の蒸気船に遭遇した。蒸気船は援軍の第一陣を速やかに輸送するため川上から送られてきたものであった。先遣隊はこのとき、「町が今にも陥落しそうだ」という切迫した状況を伝えるゴードンの伝言を聞いた。ところが、そのすぐ後に飛脚がやってきて、「町はあと1年は持ちこたえることができる」という伝言を先遣隊に伝えた。彼らはあとから聞いた情報の方を信じることにしてアル=ムタンマに留まり、その間、より多くの兵隊が乗り込めるように、蒸気船を改修することにした。
※この「包囲戦」の解説は、「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の解説の一部です。
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包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 16:58 UTC 版)
5月4日より包囲戦は始まり、トレボニウスは攻城塔を以てマッサリアに迫ったが、マッサリアの城壁は非常に堅牢で投石器や弩砲等も備えていた上、マッシリアと同盟していたガリア人がカエサル軍の攻城塔を攻撃したこともあって、陸からの攻略は難航した。 一方、海上ではデキムス率いるカエサル軍艦隊とドミティウス率いる17隻の元老院派艦隊が激突し、カエサル軍は先端部位に鉄製の鈎を取り付けた竿(モルビアン湾の海戦でも使用)を使用して元老院派艦隊を手繰り寄せると、白兵戦を仕掛けて、経験に勝ったカエサル軍が元老院派軍を撃破した。 その後もカエサル軍艦隊による包囲が徐々に効果を上げつつあったが、ポンペイウスがルキウス・ナシディウス(Lucius Nasidius)を司令官とする16隻の軍船をドミティウスの許へ派遣し、ナシディウス軍はシチリアでのカエサル軍の哨戒を潜り抜けて、マッシリアへ到着した。元老院派はナシディウス軍を合わせて再度、カエサル軍に海戦を挑んだが、マッシリア艦隊の5隻が撃沈、4隻が拿捕される大敗を喫し、殆ど無傷であったナシディウス艦隊と共に残り1隻のマッシリア軍船はヒスパニアへと逃れた。なお、マッシリア海戦でカエサル軍のアキリウスという兵士は右手を切落とされながらも、左手に持った盾を駆使して奮闘したと伝わっている。
※この「包囲戦」の解説は、「マッシリア包囲戦」の解説の一部です。
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包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:27 UTC 版)
イギリス軍は今や無抵抗となった港から本国の補給を受け取り、ル・パレを包囲し始めた。フランス軍の指揮官ガエタン・グザヴィエ・ギレム・ド・パスカリス・サント=クロワは包囲を引き延ばして本土からの救援軍に期待した。実際ブルターニュ地方総監のデギュイヨン公爵はヴァンヌで軍勢を集結したが、イギリスのフリゲートがフランス海岸を固く封鎖し、制海権を握っていたことで、その突破を無理と考えたフランス政府は逆にイギリスの襲撃を恐れヴァンヌの軍勢を内陸へ移動させた。 ロシュフォールとブレストでそれぞれ戦列艦7隻と8隻の艦隊が準備されたが、それがケッペルによるさらなる封鎖に遭い、出港のめどがたたなかった。1か月後の6月8日、サント=クロワは救援軍が来ないと悟り、交渉ののち降伏した。篭城軍は武器と軍旗を持って城塞から出てロリアンに戻ることを許された。
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包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 18:29 UTC 版)
「ビックスバーグの包囲戦」の記事における「包囲戦」の解説
歴史家のシェルビー・フットは、グラントが「攻撃を行ったことを悔やまなかった。彼は失敗したことだけを悔やんだ」と書いた。グラントは渋々ながら包囲戦を布いた。5月25日、ジョン・A・ローリンズ中佐が特別命令第140号をグラントのために発し、「軍団指揮官は即座に通常の方法で敵軍を減ずる行動を始めること。ビックスバーグの防御力を弱め、守備隊を捕獲するためにこれ以上の人命が失われないことが望ましい。坑道や塹壕を掘り、あるいは前進砲台をつくるために地域を得るには、自然の地形の不均衡などあらゆる利点を利用すること。...」となっていた。グラントはその自叙伝で、「私は通常の包囲戦を布くことにした。言ってみれば『敵の陣地を取るために』、またこれ以上損失を出さないために」と記した。 北軍は市を取り巻く念入りな塹壕(当時の兵士達は「溝(ditches)」と呼んだ)を作って潜り込み、南軍の要塞に段々と近付けていった。南軍の背面はミシシッピ川に面しており、川からは北軍の砲艦が砲撃して、南軍の兵士や市民は罠に嵌ったような状態だった。ペンバートンはミシシッピ川の数マイルをできるだけ長く保持すると心に決め、ジョンストン軍あるいは他の所からの救援を期待した。 南軍には新たな問題が起こった。グラント軍の死者と負傷者がミシシッピの夏の暑さの中で横たわっており、死んだ人や馬の臭いが空気を汚し、負傷者は医療や水を求めて叫んでいた。グラントは当初休戦を求めることは弱さを示すものと考えて拒んだ。最後にグラントが折れて、北軍が負傷兵や戦死者を回収する間は南軍が砲火を止め、暫くはあたかも敵意など無かったかのように両軍の兵士が混じり合い、交歓し合った。 グラント軍はビックスバーグを取り巻く12マイル (19 km)の環を埋め始めた。間もなく50,000名の北軍兵でも南軍の防御線全てを取り囲むことはできないと分かった。ペンバートンが脱出できる見込は悲観的だったが、ビックスバーグから南に向かう道路は北軍が守っていないものがあった。グラントは北軍の総司令官ヘンリー・ハレックからの援助を仰いだ。ハレックは素早く、グラントの要求に合わせるために西部の軍隊を移動させ始めた。この包囲線に到着した最初の援軍は、6月11日に到着したフランシス・J・ヘロン少将に率いられたミズーリ軍からの5,000名だった。ヘロン隊はマクファーソン軍団に付けられ、一番南に陣取った。次は6月12日にカドワラダー・ウォッシュバーン准将が率いる第16軍団からの3個師団が到着した。これらは近くにあるコリンス、メンフィスおよびラグランジュから集められていた。最後に加わった重要な援軍はジョン・G・パーク少将に率いられたオハイオ軍からの強旱な第9軍団8,000名であり、6月14日に到着した。パーク隊の到着でビックスバーグの回りにいるグラント軍は77,000名となった。 ルイジアナ州の南軍はジョン・G・ウォーカー少将の指揮で、グラント軍の供給線を遮断するために、6月7日にミシシッピ川上流でミリケンズベンドの戦いを起こした。これは主に訓練されていないアフリカ系アメリカ人部隊で守られ、劣った武器で勇敢に戦い、遂には砲艦の助けもあって南軍を撃退した。ただし、損失は大きく、守備側は652名を失い、南軍の方は185名だった。ミリケンズベンドの戦いでの敗北により、南軍救出の望みは慎重なジョンストン軍をおいて無くなった。 我々は塹壕線を敵軍の大変近くまで引いていったので、手投げ弾を砦の中に投げ入れられるほどになった。我々の狙撃手が近くにいて見張っているので、敵は如何なる時にもその胸壁から頭を出そうとしない。町は完全に包囲された。我が軍の陣地は大変強固なので、私自身そこを放っておいて、守備隊を2回叩けるくらいの部隊を連れて20マイルや30マイルは外出できると思う。 ユリシーズ・グラントからジョージ・G・プライドに宛てて、1863年6月15日 6月の間はずっと、北軍が南軍に並行して塹壕を掘り、近付いていった。兵士達は狙撃手を恐れて工作物の上に頭を出すことも出来なかった。帽子を棒の上に付けて工作物の上に突き出すのが北軍兵のスポーツになり、一定時間内に南軍の銃弾が何発貫通するかを賭けた。 ペンバートンは多くの食用にならない軍需品と少ない食料と戦っていた。貧しい食事は南軍兵の上に現れていた。6月末までに発病したり入院するものが半分はいた。壊血病、マラリア、赤痢、下痢などの病気が兵士を蝕んだ。少なくとも一人の市民は夜通し起きていて、飢えた兵士が野菜畑に入らないようにしておく必要があった。絶え間ない砲撃の方が食料の欠乏よりもまだましだった。包囲戦が進んでくると、ビックスバーグ周辺を徘徊する馬、ロバおよび犬が段々と見られなくなっていった。靴の革が多くの成人にとって最後の命の綱になった。 包囲戦の間、北軍の砲艦は22,000発以上の砲弾を町に撃ち込み、陸軍の大砲はさらにそれを越えた。砲撃が続くとビックスバーグの使える家屋も最少になった。町の主要部と南軍の前線との間にある尾根は暫くの間、市民達の仮の住まいになった。ビックスバーグの黄色粘土層の丘に500以上の洞穴が掘られた。家の構造が堅牢であろうと無かろうと、これらの洞窟を占領する方が安全と考えられた。人々は絨毯、家具および絵画を持ち込んでできるだけ快適に生活しようとした。彼等は砲撃の合間に移動し食料を集めようとしたが、時には失敗した。これらの塹壕や洞穴の故に、北軍兵はこの町に「プレーリードッグの村」という渾名を付けた。町に対する砲撃の激しさにも拘わらず、全包囲期間に殺されたとわかる市民はほとんどいなかった。
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包囲戦
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「カレー包囲戦 (1346年-1347年)」の記事における「包囲戦」の解説
1346年9月にイングランド軍は包囲を開始した。包囲軍はイングランドとフランドルからの補給を受けており、フランス王フィリップ6世は、その補給路を断とうとしたが失敗した。一方、包囲軍も当初は、フランスに協力するジェノヴァ船によるカレーへの補給を完全に遮断することはできず、約2ヶ月近く進展は無かった。 11月に大砲、カタパルト、長梯子などが供給されたが、都市を囲む湿地帯はそれらの据え付けに適しておらず、有効に利用できなかった。冬になるとイングランド軍における不満は高まったが、エドワード3世は強い指導力を発揮し包囲を継続した。カレーの周辺に無数の掘っ立て小屋を築かせ、商人や職人を集め、市場や店も用意した臨時の集落を作り上げて長期の包囲に備え、食糧不足による開城を目指す戦術に変更したのである。フランスによる海上からのカレーへの補給は一度は成功したが、その後はイングランド海軍に阻まれ食料、補給品の供給は途絶えることになった。春になるとイングランド側には多くの補給品、船、兵が到着し、戦力はクレシーの戦いの時以上に膨れ上がり、海上封鎖もより完璧となった。 1347年6月になるとカレーへの食料、水の供給はほとんどなくなり、7月にガレー船10隻を含むフランス補給船団がイングランド船団に追い払われると、口減らしのために500人の子供、老人を都市から外に出したが、イングランド軍は彼らを追い返したため、彼らは市内にも戻れず、城壁の外で飢え死にすることになった(ただし、フロワサールの年代記の記述では、エドワード3世は彼らに食事と金を与えて通行を許したとある)。 フランスは船、ボート等によるカレーへの補給には最大限の努力を払っていたが、包囲軍への直接攻撃は行えなかった。ようやく7月にフィリップ6世は軍を集めてカレー近くに陣を敷いたが、将兵共に戦闘における自信を失っており、攻撃をかけることが出来ず、7月31日に諦めて陣を引き払い撤退した。
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