コウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 03:25 UTC 版)
コウに関する格言
- 初コウにコウなし - 一局の序盤でできるコウには、それに見合うコウ材が存在しないという格言。
- 三手ヨセコウはコウにあらず - ヨセコウでも、三手ヨセコウとなるとコウに勝つために払わねばならない犠牲が大きすぎ、ほとんどの場合争う価値がないことを指した格言。
- まずコウを取れ - コウができた場合、まず先に取っておけば相手は取り返すためにコウ材をひとつ余計に使う必要が出てくる。このためコウに勝てる確率が上がる、という格言。ただし攻め合いにおけるコウにおいてはこの限りでない(コウ付き攻め合い最後に取れ)。
コウをめぐる事件・エピソード
- 織田信長が寂光寺にて日海(本因坊算砂)と鹿塩利玄の勝負を観戦した折、三コウが現れ無勝負となった。ところがその夜本能寺の変が起き、信長は明智光秀に討ち取られた。このことから、以後三コウは不吉の前兆とされるようになった。この対局の棋譜は128手目までが残されており、三コウが出現したところまでの手順は残っていない。128手目では白を持っていた算砂が勝勢であったとするのが長年の形勢判断であり、故に有利な算砂が三コウによる無勝負を受け入れる理由がないため、後世の作り話であるとされてきた。2022年になり、プロ棋士の桑本晋平が棋譜を精査した結果、白の勝勢が決してはおらず、黒と白が最善を尽くした上でなお三コウへと至る手順が存在しうることを発表した。桑本は「根も葉もない話ではないかもしれない。もちろん真実だったほうが面白い」と語っている[2]。
- 三コウはルール上の珍形の中では最もよく出現し、プロの対局でも数十例が記録されている。趙治勲は三コウ・四コウ無勝負を4回経験している。
- 1928年秋の大手合で、瀬越憲作七段対高橋重行三段(二子)の対戦で万年コウが発生した。形勢は大差で瀬越が優勢であったが、高橋はコウをツイでセキにしようとせず終局まで頑張ったために問題が発生した。この件については侃々諤々の論争が起こり、大手合が中断するほどの騒動となったが、結局本因坊秀哉が「両勝ち」の判定をして収まった。この事件が契機となってルールの成文化が叫ばれるようになり、1949年に「日本棋院囲碁規約」が制定されることとなった。
- 1960年の第15期本因坊戦七番勝負第6局では、本因坊の高川秀格が無コウを打ち、挑戦者藤沢秀行がこれに気づかず受けてしまうというハプニングが起きた。これに気づいた藤沢は、まだ形勢は悪くなかったもののここから悪手を連発して敗れ、高川に本因坊9連覇を許すこととなった。
- かつては記録係にコウを取る番か聞くことは習慣として許容されており、ルールにも規定が無かった[3]。1980年の名人戦七番勝負第4局では、挑戦者の趙治勲がコウ立てをしたかどうかわからなくなり、記録係に「ボク、コウ取る番?」と確認し、記録係は「はい」と誤答してしまったため、趙はコウダテせずにコウを取り返してしまい問題となった[3]。この事件では立会人裁定で無勝負となり、これ以後記録係は対局者の質問に答えなくてよいとルールに定められた[3]。
- プロの対局の反則では、コウダテをせずにコウを取り返すケースが最も多い。タイトルマッチでは、1971年のプロ十傑戦で石田芳夫が梶原武雄との決勝五番勝負第3局で、また1997年の天元戦五番勝負第3局では、挑戦者の工藤紀夫がコウダテをせずにコウを取り返すという反則があった。
- 加藤正夫は、「碁にコウが無かったら、非常に味気のないものになるでしょう」と著書で語っている。
- ^ “Ⅲ 死活確認例 死活例12 「万年劫」”. 日本棋院. 2016年5月10日閲覧。
- ^ 囲碁史最大の謎 手順解明 本能寺の変 直前対局 大珍事「三コウ」発生 出雲の桑本 棋士囲碁新聞で発表、関心呼ぶ 山陽中央新報デジタル 2022年1月25日 2022年1月27日閲覧
- ^ a b c “[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<2>前代未聞の「無勝負」”. 読売新聞オンライン (2020年12月10日). 2023年12月11日閲覧。
「コウ」の続きの解説一覧
- 1 コウとは
- 2 コウの概要
- 3 攻め合いにおけるコウ
- 4 コウに関する格言
- 5 参考図書
- >> 「コウ」を含む用語の索引
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