坑儒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/03 07:05 UTC 版)
坑儒(こうじゅ)は、儒者を生きたまま穴埋めにすること。歴史的には、秦の始皇帝により、紀元前212年に行われたものをさす。
秦の始皇帝は、不老不死を望んで方士の盧生や侯生と言ったものたちに巨額の資金を出して仙薬作りを行わせていた。しかし当然そのような薬が実現できようはずもなく、盧生は始皇帝が残虐だと言って逃げたため、始皇帝は怒り、咸陽中の学者を尋問し、盧生のように人を惑わすような人間を挙げるように命令した。
結局、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした。
このことについて、始皇帝の長男である扶蘇は諌めたが、始皇帝の怒りを買い、北方防衛の任務に就かされることとなった。
ただし儒者が全て殺しつくされた訳ではなく、儒者の中には易占いの専門家としてその後も始皇帝に仕えていたと思われる者もいる(始皇帝の死の直後にも2代皇帝胡亥が一人の儒者に意見を求めている)。
なお、「坑」という言葉を閉じ込めるという意味で捉える考えもあるが、生きたまま穴埋めにすることと捉える方が自然であろう。
関連項目
坑儒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在 を元にする超人を指した。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた。 しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」 と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇 の言「諸生皆誦法孔子」 から、儒家の比率は高かったものと推定される。 諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった。 坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する。
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