昭和天皇 主な出来事

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 13:58 UTC 版)

主な出来事

乃木希典による教育

乃木の薫陶

1912年明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子とともに殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め、少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。乃木は直接的な言葉よりも「暗示」や「感化」によって、迪宮に将来の天皇としての自覚を持たせようと試みたとされる[85]

乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している[86][87][88]。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった[89]

鈴木孝(足立たか)の回想によれば、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった[90][91]。鈴木孝によれば、側近が「乃木大将の拝謁」を報告した際には「院長閣下と申し上げなきゃいけない」と注意したという[92]

一方、乃木は皇位継承者である迪宮が常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には教育勅語の暗唱に続いて、生徒たちに「最高の望みは何か」と問い、「天皇陛下のために死ぬこと」と唱和させた[93]。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた[94]

乃木の殉死

1912年(大正元年)9月11日(9日、10日[95]など他説あり)、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた[90]。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。

9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子と2人の弟宮たちはその翌朝に養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、その辞世の歌にも接して涙を流した[96][97]。丸尾によると、皇太子はこの時、涙ながらに「乃木院長が死なれた」「ああ、残念である」とつぶやいた[98]

乃木が与えた『中朝事実』が、のちに三種の神器を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある[99]

宮中某重大事件

「御婚約御変更無し」と報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日)

1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。

しかし11月、元老山縣有朋が「良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝がある」として婚約破棄を進言した。山縣は、西園寺公望首相原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。

事件の責任を取って宮内大臣中村雄次郎が辞任し、山縣も枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して、山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病気により没した。

関東大震災と婚礼の儀の延期

1924年(大正13年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と妃良子女王

1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災では、霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓する予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。のちに昭和天皇はこの時を振り返り、1973年(昭和48年)9月、記者に「加藤が守ってくれた」と語っている[100]

地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。

後年、1981年(昭和56年)9月の取材で、昭和天皇は関東大震災について「惨憺たる様子に対して、非常に感慨無量でありました」と述懐している[101]。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出た[注釈 26]ことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている[102]

田中義一首相を叱責、内閣総辞職

1928年(昭和3年)6月4日に起きた張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)の責任者処分に関して、内閣総理大臣の田中義一は「責任者を厳正に処罰する」と昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は「それでは、前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中首相は、その後間もなく死去した)。

田中内閣時には、若い昭和天皇が政治の教育係ともいえる内大臣牧野伸顕の指導のもと、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人右翼国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。昭和天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。この事件で 昭和天皇は「その後の政治的関与について、慎重になった」という。

なお『昭和天皇独白録』には、「『辞表を出してはどうか』と昭和天皇が田中義一首相に内閣総辞職を迫った」という記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。

昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史は「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」とそれぞれ論じている。

「天皇機関説」事件

1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、時の当事者たる昭和天皇自身は侍従武官長本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動をめぐって昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護に動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[103]

このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと日本軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。

このときの発言について、1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あのときはまだ若かったから」とのちに語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男継宮明仁親王が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせている。また、明仁親王の教育係として、帝国陸軍の軍人を就けることを、特に拒否している。

太平洋戦争(第二次世界大戦)

開戦

1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。

御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇日露戦争開戦の際に詠んだ御製を引用した。

四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ
四方の海(にある国々)は 皆兄弟姉妹/同胞と 思う世に なぜ波風が 立ち騒ぐのだろう

昭和天皇は晩年、1985年(昭和60年)の天皇誕生日に際する取材に対し、引用した理由について、議題の第一が開戦、第二が平和であったことに対し「私は、平和努力というものが第一義になることを望んでいた」と述べた[104]また『宣戦の詔書』中の「豈朕カ志ナラムヤ(豈に朕が志ならむや)」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。[要出典]

また、内大臣木戸幸一によれば、同年秋、天皇はローマ教皇との親善を図るよう木戸や東条英機に命じ、時局収拾のためにローマ教皇庁と接触を図らせようとした[105]。昭和天皇自身も、このことを認めている[105][102]

対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトより直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた[106]

しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。大日本帝国陸軍参謀本部通信課戸村盛男が「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」とのちに証言している。こうして、親電が肝心の昭和天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。[要出典]

昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は「開戦には、消極的であった」といわれている。しかし、1941年(昭和16年)11月には、昭和天皇が「開戦に前向きな決意」を示していたことを、百武三郎侍従長が日記に記している[107]。『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

日本共産党中央委員長も務めた田中清玄がのちに転向して「天皇制皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(のちの一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と回答している。[要出典]

戦争指導

1943年(昭和18年)6月24日、戦艦「武蔵」に行幸した昭和天皇(中央)。

開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、日本はアメリカ本土攻撃インド洋作戦を含めて各地で攻勢をかけ、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力が高いと思われ、実際にいくつか指示などもしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫した例がある。[要検証]

また、昭和天皇はときに軍部の戦略について発言することもあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。これは、もしティモール島攻撃によって中立国ポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。

太平洋戦争のほぼ全期間にあたる1941年9月から1945年3月まで侍従武官として仕えた陸軍軍人坪島文雄は、『服務の参考』『服務上乃参考』と題した日記をつけており、国立国会図書館憲政資料室で2022年5月27日から研究者に公開されている[108]。この日記によると、「一部ノ敵」と思っているうちに有力部隊や飛行場が進出してくることがあるので「油断ナキ様注意セシムヘシ」(1943年1月3日)と求めたほか、同年2月3日には兵士の糧食について熱帯での保存性はどうかと尋ねている[108]

和平に向けて

ポツダム宣言受諾による日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日御前会議

戦局の日本不利が明らかになっていた1944年には終戦を見据えた発言が漏れるようになった。同年3月27日の参謀本部次長の戦況報告に対して「頑張リ通セハ何トカナルト言フカ如ク聞ユル。勿論頑張ルコトニ不同意ハ無イカ、国ヲ最後ノドタンバ迄追込ムコトハ、戦後ノ国力回復ヲ困難ニスヘシ」と語った[108]

昭和天皇実録』によると、昭和天皇が終戦の意向を最初に示したのは1944年(昭和19年)9月26日で、側近の木戸幸一内大臣に対し、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べている[109]

日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて(フィリピンの戦い (1944-1945年))、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣小磯國昭首相)の召集を勧めている[注釈 27]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[注釈 28]

その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛元首相の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[111][112]

フィリピンの戦いから硫黄島の戦い沖縄戦にかけて、日本陸海軍は航空機による米艦船への体当たり攻撃神風特別攻撃隊)を繰り返し実施。沖縄戦直前の1945年3月7日、ニュース映画で特攻隊員が寄せ書きする場面を見た昭和天皇について、坪島侍従武官は「聖上(天皇)御涙ヲヌグワセラレタリ」と記している[108]

沖縄戦での日本軍による組織的戦闘の終了について報告を受けた2日後の1945年6月22日には、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相米内光政海相梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長を呼んで懇談会を開き、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げるよう求め、初めて軍の最高幹部に戦争終結の意思を表明した[109](『昭和天皇実録』より)。

その後、日本の降伏を求めるポツダム宣言が1945年7月27日に日本に通達された。広島市への原子爆弾投下2日後の1945年8月8日に、東郷茂徳外相に対し「なるべく速やかに戦争を終結」させたい旨を述べている[113]

その翌日、長崎市にも原子爆弾が投下される直前の1945年8月9日午前9時37分に、ソ連対日参戦との報告を受けると、18分後の午前9時55分に木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と戦争終結に向けて「十分に懇談」するよう指示を出した[114]。これを受け鈴木首相は、同日午前10時30分開催の最高戦争指導会議(御前会議)でポツダム宣言受諾の可否を決めたいと答えた[114]

連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 29]。昭和天皇は8月10日午前0時3分から始まった最後の御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明し[114][115]8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。

のちに昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[116][117][118]

なお、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決意した時期は、ソ連の対日参戦時、広島・長崎への原爆投下時など諸説あったが、『昭和天皇実録』に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[114]。これに対し、歴史学者の土田宏成は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と述べている[119]

2023年8月7日のNHKスペシャルにて昭和天皇が宮内省御用掛・松田道一を通じてバチカン経由の独自の和平工作を戦争初期から模索していたことが明らかになった。しかし、この工作は外務省が空襲にあったことや天皇へ和平案が伝達されなかったこともあり実らなかった[120]

敗因に対する考え

昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県奥日光疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。

「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)[121]

象徴天皇への転換

マッカーサーとの会見

マッカーサーとの会見(1945年9月27日、満44歳)

イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。以降、マッカーサー離日前日の1951年(昭和26年)4月15日まで、計11回会見を行った。

第1回会見で天皇が発言したとされる内容(天皇発言、後述)には、マッカーサー自身が記した『マッカーサー回想記』の他、複数の関係者が直接又は伝聞で聞いた内容が発表されているが、齟齬がある状態である(該当項目を参照)。『回想記』には刊行当時から内容の正確性について批判が存在した[122]が、昭和天皇崩御直後の1989年(平成元年)1月に、日本の大手新聞社が『回想記』における天皇発言を事実である前提で報じ、広く知られるようになった[123]

正装した天皇と、略装のマッカーサーの写真は、国内外に大きな反響を呼んだ。マッカーサーは、日米双方の国民感情に配慮し、勝者であることを誇示しつつも、天皇に対し威圧的になりすぎない、寛いだポーズを取ったとされる[124]マッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも厳しく批判されていた。しかし、この時は上ボタンを閉め天皇を車まで見送ったという。[要出典]

人間宣言

敗戦後最初の年明けとなった1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(正式名称:新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ、通称:人間宣言)が官報により発布された。

これは「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであること」を明確にするため、天皇の希望で[125]、詔書の冒頭においてかつて自身の祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げている[126][127]

この詔書は、「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、天皇の神格性(現御神)や日本民族の優越性を「架空ノ概念」とし、エスノセントリズムを明確に否定しているが、特に何かを放棄しているわけではない[128]

昭和天皇自身は、1977年(昭和52年)8月23日の取材に対し、詔書の第一の目的は、民主主義が「輸入のものではない」ことを示すことであり、神格性の否定は第二の目的であったと発言している[125]。その上で、「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」と振り返った[129]

天皇イメージの転換

天皇御服を着用し伊勢神宮へ終戦報告に向かう昭和天皇(1945年11月12日)。

戦前の昭和天皇は一般国民との接触はほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服軍服姿がほとんどで現人神(現御神)、大元帥という立場を非常に強調していた。

ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述がなく、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、連合国による占領下では礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの皇室制度皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わしたりするなど、日本の歴史上、天皇と庶民が最も触れ合う期間を創出した。

戦後巡幸

広島県を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年、満46歳)
天皇に気付かず、姿を探す女性(福岡県1949年、満48歳)

1946年(昭和21年)2月の神奈川県を皮切りに、1954年(昭和29年)8月の北海道まで、8年半をかけて沖縄県を除く46都道府県に行幸し、国民と接した。

1946年(昭和21年)8月、GHQ(SCAP)による戦後改革が進行する中、昭和天皇は敗戦国の国民として打ちひしがれた日本人を励ますため、日本史上において対外戦争の敗北という点で共通した、1282年前に遡る飛鳥時代での白村江の戦い天智天皇2年8月/663年10月)の例を挙げ、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った制(当時の中国王朝)の採用があった[注釈 30]。これを範として今後大いに努力してもらいたし」と語った[130]

GHQでは天皇巡幸について当初から疑問視しており、また「神ではない、ただの猫背の中年男性」「戦争で父や夫を失ったのだから石の1つも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していた者も多かった[131]。しかし、日本人が日の丸の旗を振って熱狂的に歓迎する巡幸の様子を見て大いに驚いたとされる[131]

新憲法施行を2日後に控えた1947年(昭和21年)5月1日の取材に対し、昭和天皇は「戦災者や引揚者、遺族は戦争の犠牲者で、一番気の毒に思っているので激励したいと思う」とし、今後も巡幸を続ける考えを明らかにした[132]。同年6月には、福島県磐城炭鉱磐城鉱業所で、初めて炭鉱に入って裸の鉱夫を激励した[133][134]

天皇は各地で熱狂的な奉迎を受けた一方、ガソリン不足が深刻な中で大規模な車列を組むことや、極東軍事裁判の渦中において「天皇制存続キャンペーン」をしているというGHQ民生局からの批判もあり、この余波で宮内府長官ら主要幹部が交代する事態となったことから、1948年(昭和23年)に巡幸は中断された[135]。しかし、各地から行幸の要請が宮内府(当時)に殺到し、1949年(昭和29年)1月1日日の丸(国旗)掲揚の制限が解除されたことや、随行人員規模を四分の一程度に縮小することで、同年5月から再開された[136]

1949年(昭和24年)5月22日佐賀県三養基郡基山町の因通寺への行幸では、ソ連による抑留下で共産主義思想と反天皇制(天皇制廃止論君主制廃止論の一つ)を教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある[137]。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満洲入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している[137]

北海道への行幸は、日本共産党の活動が活発であったことや、朝鮮戦争及び日本の主権回復の過渡期にあってソ連の動向を含む北方情勢が不安定であるとの懸念により、吉田茂首相がなかなか同意せず、1954年(昭和29年)8月に最後の訪問地として実現した[138]。同年6月の警察法改正により、国会での乱闘や警察法改正無効事件が惹起され、混乱の中での行幸となった[139]。北海道では、行幸の途上、陸上海上自衛隊の部隊が天皇に栄誉礼観艦式さながらの敬礼で出迎え、一方、共産党は「天皇制」(皇室制度)反対運動を行い、また室蘭労働組合赤旗日の丸を同時に振って歓迎した[140]

スポーツ観戦

相撲

1913年(大正2年)頃、傅育官と相撲に興じる裕仁親王(12歳)。

昭和天皇は皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館天覧相撲に赴いている。

特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間富士桜霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。昭和天皇はのちに「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った[141]

武道

1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道柔道弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。

野球

1926年(大正15年)10月の台覧時に「摂政杯」が東京六大学野球連盟(六大学リーグ:プロ野球勃興まで人気と実力の中心だった)に下賜され、「天皇杯」となって以降もそのまま保有されている。

1959年(昭和34年)には、天覧試合としてプロ野球巨人阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後、昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが1966年(昭和41年)11月8日日米野球ドジャース戦を観戦している。

靖国神社親拝

昭和天皇 靖国神社親拝(1934年)。

昭和天皇は1945年昭和20年)の終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に計10回親拝していた(行幸3回・行幸啓7回)。

しかし、1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった[142]。ただし、例大祭(春と秋の年に2回)に際しては勅使の発遣を行っている。

昭和天皇が靖国神社親拝を行わなくなった理由については左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など、様々に推測されてきたが近年『富田メモ』(日本経済新聞2006年)や『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えたあとも、弟宮の高松宮および三笠宮一家は参拝を継続している[143]

「崩御」前後

昭和天皇の大喪の礼・葬場殿の儀
1989年(平成元年)2月24日。

記帳

1988年(昭和63年)以降、各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設置されたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

設置された各地の記帳所は以下の通り。

市民の動き

「自粛」ムード
1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した[144]。具体的な行動としては以下のようなものが行われ、「自粛」は同年の世相語となった[145]。このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。
服喪
崩御後、竹下改造内閣竹下登首相)の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された[158]。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送などで差し替えられるなどの影響が出た。
この後、2月24日大喪の礼では、再び企業・商店・レジャー施設が臨時休業した[164]。民間での自粛・服喪の動きはこれをもって終息に向かった。
「殉死」
昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の後追い自殺者(殉死)が出た。崩御と同日に和歌山県で87歳の男性が[165]、茨城県でも元海軍少尉の76歳の男性が[166]それぞれ自殺した。1月12日には福岡県で38歳の男性が割腹自殺を遂げ[167]、3月3日にも東京都で元陸軍中尉の66歳の男性が自殺している[168]。このように一部の自殺者が出た反面、同年の自殺者総数が増加するといった動向にはなっていない。

マスメディア報道

昭和天皇が高齢となった1980年代頃(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。

1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送した。日本テレビのNNNきょうの出来事が容体急変の第一報を報道[169]。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行った[170]ほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が一時中断・繰り下げあるいは途中打ち切り・中止されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言からであることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった[注釈 34]。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった[注釈 35]

1989年1月7日・8日およびそれ以後のマスメディアの動き

NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送[171][172]。6時36分18秒からの「危篤報道」[注釈 36][173][174][172]、続いて7時57分6秒から10時までの「崩御報道」[注釈 37][175][172]、および14時34分30秒から14時59分までの「新元号発表」[注釈 38][176]はNHKのテレビ・ラジオ全波[注釈 39]で報道特別番組が放送された[172]。1989年(平成元年)1月8日0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)[注釈 40]が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、『N響アワー』は曲目変更をした上で放送された[177][注釈 41]

7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」[注釈 42]と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。

1989年(昭和64年)1月7日5時台に体調に異変が生じた段階でNHK(総合)、民放各局が緊急ニュースを開始し、危篤報道(6時35分発表)[注釈 43]以降は翌1月8日まで本格的な特別報道体制に入った。各局とも宮内庁発表報道を受けてのニュース、水面下であらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち・生涯、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった。

7日の途中から通常編成に復帰したNHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、2日目を過ぎたあともフジテレビが『森田一義アワー 笑っていいとも!』を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編「友達の輪スペシャル」に差し替えて放送、9日から再開した各企業のCMも落ち着いた内容に差し替えたり、サウンドロゴの自粛、さらに企業によってはCM出稿の停止を継続したためテレビ局側で用意した自然風景のフィラー映像で穴埋めするなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。

八巻正治は当時のことを次のように記している。「ニュージーランドに着いてホテルでテレビを観ていますと、日本での葬儀の模様が映し出されておりました。やがて画面に次のような様子が映し出されました。それを観て私はビックリしました。『ヒトラームッソリーニ、ヒロヒト!』とナレーションが入り、画面にそれぞれの人物が映し出され、次には第二次世界大戦で日本がどれだけひどいことをしたかがフィルムで映し出されました。日本では決して観ることのできないフィルムでした。[178]

「容体深刻報道」から「平成改元」にかけてのテレビ各局特別編成の期間[179]。総放送時間は日本新聞協会による報道[180]。日本テレビは5時24分『おはよう天気』の番組内で「容体急変」の第一報、5時30分から通常番組を11分間放送した後、5時41分から全国ネットで特別編成[181]。日本テレビ系列は5時41分の報道特別番組開始当初からCMなし[180]。その他の民放テレビ局は崩御発表の7時55分からCMなし[180]

放送局 開始時刻 終了時刻 総放送時間
NHK総合 1月7日 5:24 1月9日 0:35 38時間34分
日本テレビ 1月7日 5:41 1月9日 1:00 41時間04分
TBSテレビ 1月7日 5:25 1月9日 2:29 42時間35分
フジテレビ 1月7日 5:28 1月9日 2:00 42時間04分
テレビ朝日 1月7日 5:28 1月9日 0:30 40時間35分
テレビ東京 1月7日 5:36 1月9日 0:30 40時間35分

注釈

  1. ^ 明仁親王が誕生する1933年(昭和8年)12月23日以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。
  2. ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
  3. ^ 代数は皇統譜による。
  4. ^ 2021年令和3年)9月2日、退位し上皇となっていた明仁が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった[6]
  5. ^ 常陸宮正仁親王は第二皇男子/第6子、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曽孫にあたる。
  6. ^ 祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせており、他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
  7. ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
  8. ^ に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
  9. ^ 益は徳のなり
  10. ^ これ、兄弟の綽綽にしてあり
  11. ^ 問ふを好めば則ちに、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
  12. ^ であらば仁の作すなり
  13. ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  14. ^ 4月23日に竹田宮恒久王が薨去し、多くの皇族が服喪した。
  15. ^ 「波」はポーランド(波斯・ペルシャイランとは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年のポーランド・ソビエト戦争で、レーニンが率いたボリシェビキ軍に敗退していた。
  16. ^ 1922年には、起訴便宜主義の法制化や、外国人も対象とした破産法の新設などが行われた。また、3月には私学の華族学校の女子学習院の組織が『女子学習院官制』により官営化され、9月28日には、納采の儀などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された[30]
  17. ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、『東京日日新聞』に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
  18. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  19. ^ 仙洞御所内の御殿跡地に造営された。2019年令和元年)5月1日に「京都仙洞御所」に改称。
  20. ^ 同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ「関係者に検討させ、その答えをもって決定したい」と述べた[75]
  21. ^ 長男である皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
  22. ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻から山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[77]
  23. ^ 崩御の際、御座所には長男・次男夫妻の皇太子明仁親王・同妃美智子、常陸宮正仁親王・同妃華子及び竹下登内閣総理大臣が詰めていたとされる。
  24. ^ なお、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任)も、当時の藤森昭一宮内庁長官や高木顯皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、「多臓器不全の状態だったのではないか」と語っている。また、「腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだ」とも語っている。
  25. ^ 大行天皇(たいこうてんのう)とは、皇位継承が起き即位した新天皇と区別するため、追号されるまでの崩御した先代の天皇に対する呼称。
  26. ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王閑院宮家の寛子女王東久邇宮家の師正王が薨去した。
  27. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  28. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[110]
  29. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、米内光政(海相)、受諾反対が阿南惟幾(陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  30. ^ ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を紹介したものである。
  31. ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
  32. ^ 文化祭(学園祭・大学祭)を中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[156]
  33. ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[157]
  34. ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。
  35. ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。『毎日新聞』ほか。
  36. ^ 6時35分からの宮内庁会見で宮尾盤次長による危篤発表を受けて、6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示され、全波同時放送に切り替え。
  37. ^ 7時55分からの宮内庁会見で藤森昭一長官による崩御発表を受けて、7時57分6秒に緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
  38. ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
  39. ^ 総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2
  40. ^ 7日5時24分から6時および7日6時36分18秒から8日0時5分40秒。7日6時から6時36分18秒までのFMは通常番組『あさの音楽散歩』を放送。
  41. ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ニュース』(6時36分から10時まで)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から13時10分まで)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
  42. ^ 沖縄タイムス』『琉球新報』は昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため「ご逝去」という表現をした。また、日本新聞協会加盟の新聞社では前述2紙の他に『苫小牧民報』『日本海新聞』『長崎新聞』も「ご逝去」として報道した。
  43. ^ 宮内庁の正式な発表による7時55分の死去を含む。
  44. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  45. ^ 牛場信彦駐米大使宛て福田赳夫外相公電要旨「米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい。本来儀礼的行事である今回の御会見はTop4(昭和天皇、香淳皇后、ニクソン大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない。政治的会談ならば単独会談に続いて随員を加えての会談も考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しない。この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではない。」[188]
  46. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  47. ^ 1921年大正10年)3月6日に、欧州訪問への往路で6時間余り沖縄本島に滞在したことが、結果的に生涯唯一の同県訪問(皇太子時代のため「行啓」)となっている。詳細は皇太子裕仁親王の欧州訪問#往路及び昭和天皇の戦後巡幸#沖縄県についてを参照。
  48. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  49. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[250]
  50. ^ ただし、事変直後ではない[252]
  51. ^ 日本でのカルロス3世勲章捧呈は翌1924年(大正13年)5月24日[298]
  52. ^ 日本での金羊毛勲章奉呈は、翌1929年2月26日[308]

出典

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