江戸時代 経済・貿易・対外関係

江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 03:06 UTC 版)

経済・貿易・対外関係

経済

江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。

各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の蔵屋敷が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲間を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。

アンガス・マディソンによれば(後述書 pp.195 - 196)、1820年(享保年間)時点のGDPは、アメリカを1とした場合、日本はその1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍であり、1850年になり、アメリカが日本の2倍近くに達する(磯田道史『日本史の内幕』 中公新書 10版、2018年、 pp.195 - 196)。江戸期における1人あたりの生産量は、0.15パーセントである(高島正憲『経済成長の日本史』2017年)。

対外政策としては幕府は海禁(いわゆる鎖国)政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した朝鮮通信使によって清国の動向を、またやはりたびたび来府したオランダ商館長によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている(オランダ風説書)。たとえば天保の改革を行った老中・水野忠邦は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾(鳴滝塾)を開いたシーボルトのもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。

農業・林業
農業技術:農業器具の進歩、千歯扱き備中鍬金肥料(干鰯油粕)、勤勉革命
農学:二宮尊徳
水産業
俵物:煎海鼠、(干鮑フカヒレ…いずれも中華料理の高級食材)
鉱業
佐渡金山生野銀山石見銀山別子銅山
手工業
商品作物マニュファクチュア
交通
陸上交通:五街道東海道中山道日光街道甲州街道奥州街道
水上交通:弁才船角倉了以河村瑞賢東廻海運西廻海運
通信:飛脚制度
都市
三都:江戸・大坂・京都、城下町宿場町門前町長野山田など)
慶長丁銀
商人
江戸商人、上方商人(大坂商人・近江商人)、伊勢商人

通貨政策

江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の1601年(慶長6年)に金座(小判座)および銀座を設立し、慶長金の鋳造を命じた。慶長から寛永期頃までは各地の金山および銀山の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・徳川綱吉のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった永楽銭などに代わり、1636年(寛永13年)、銭座を設けて寛永通宝などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。

慶長小判

しかしながら、高額貨幣は、東日本金貨小判)が、西日本銀貨丁銀)が流通の基本となっており、その相場も日々変動したため、両替商などの金融業が発達した。また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引も発達した。また、1620年元和6年)ごろから世界に先駆けて大坂(大阪)の堂島において先物取引が行われていた。経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出たため、弁才船による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。

寛永通寳

また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、人口が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、1695年(元禄8年)の元禄金の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる。

1772年(安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第にを基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、1837年(天保8年)の一分銀発行に至って、丁銀のような秤量銀貨を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。

幕府は元禄期以降、金銀貨の比率を変更する貨幣改鋳をたびたび行っている[22]。これは幕府の財政を改善させることを主目的とする政策であり、米価を調整することや、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって貨幣発行益を上げることで財政改善を行おうというものであったが、一方でこの政策には市場の通貨量を増加させる目的や、金銀相場の内外調整という目的もあった[23]徳川綱吉時代の元禄改鋳リフレ効果をもたらして景気を改善したが[24]宝永の改鋳では米価が83パーセントも上昇するなど急激なインフレを招いた[25]新井白石主導による正徳の改鋳は通貨流通量が減少してデフレを招いた[26]。このあと徳川吉宗によって行われた元文改鋳は、デフレ対策を目的として行われ、米価を80年間にわたって安定させることとなった[27]徳川家斉時代には幕府財政が困窮したために大規模な改鋳が行われ、貨幣の流通量が40パーセント増大した[28]。またこの文政改鋳と、水野忠邦主導による天保の改鋳は、金銀貨を額面通り交換したため、幕府は大きな収益を得ることになった。この結果、幕府の貨幣支出が増大し、元文期よりはゆるやかであるが、経済に刺激を与えるインフレーションをもたらしたと評価する説(新保博)もある[29]。開国後には内外の金銀価格差を調整するために安政・万延の改鋳が行われたが、これはさらに名目的な貨幣流通量増大をもたらし、経済は劇的なインフレーションに見舞われることとなった[30]

財政

万延大判

徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入をに依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。

18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)のところも出てくるようになる。これを見て田沼意次重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、貨幣改鋳をたびたび行っている[22]

貿易

「鎖国」(海禁)政策[注釈 19]のもとで、長崎唐人屋敷における清、長崎出島におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。また、対馬藩を仲介した李氏朝鮮との倭館での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、松前藩の勢力下にあったアイヌとの交易なども行われていた。この四箇所を「四つの口」と呼ぶこともある。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝エカチェリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎(ジョン万次郎)もその一人である。
なお、江戸幕府は唯一、李氏朝鮮とは正式な国交を持っていた。

外交


注釈

  1. ^ 始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)、あるいは豊臣氏滅亡の1615年元和元年)を始まりとする見方もある。
  2. ^ 幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する。
  3. ^ 同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。
  4. ^ しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった。
  5. ^ 源了圓は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している[9]
  6. ^ 8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。
  7. ^ 第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた。
  8. ^ 1863年(文久3年)11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して生麦事件を解決している。
  9. ^ 嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。
  10. ^ 旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した[12]
  11. ^ 長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう[13]
  12. ^ 全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。
  13. ^ 馬関海峡を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。庚申丸から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた癸亥丸も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した[14]
  14. ^ 3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。
  15. ^ 大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。
  16. ^ 5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し(武州世直し一揆)、陸奥信達両郡で打ち毀し(信達騒動)。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告。
  17. ^ 6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した[19]
  18. ^ 1868年(慶応4年)3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは「宸翰」(しんかん)と呼ばれた。(天皇このとき数えで16歳、満で15歳)書いたのは木戸孝允と言われている。

    「宸翰

    朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
    ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
    今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
    往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
    しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
    汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
    [20]
  19. ^ 江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある[31]
  20. ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人[33]

出典

  1. ^ 芳賀徹『文明としての徳川日本』筑摩書房、2017年。
  2. ^ 蔵並省自編 『近世日本の展開』 八千代出版、1977年、2-3頁。 
  3. ^ 大石慎三郎江戸幕府の行政機構」『学習院大学経済論集』10巻1号、1973年。
  4. ^ 林玲子、大石慎三郎『新書・江戸時代5 流通列島の誕生』〈講談社現代新書〉、1995年。ISBN 4-06-149261-6
  5. ^ 佐藤誠三郎岡崎久彦『日本の失敗と成功—近代160年の教訓』扶桑社、2000年。ISBN 4-594-02917-5
  6. ^ 丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ
  7. ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第17巻』文藝春秋、 1993年、420ページ
  8. ^ 藤田覚『泰平のしくみ-江戸の行政と社会』岩波書店、2012年、202頁。
  9. ^ 源了圓「「海国図志」の日中韓の読み方の違い」『江戸時代が可能にした明治維新』西尾幹二、産経新聞ニュースサービス〈地球日本史3〉、1999年。ISBN 4-594-02665-6
  10. ^ 半藤一利『 幕末史 』新潮社、 2008年、 50-51ページ
  11. ^ 宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』新日本出版社、 2010年、 17ページ
  12. ^ 宮地 2012, p. 321.
  13. ^ 半藤一利『 幕末史』新潮社、 2008年、 157ページ
  14. ^ 田中 2007, p. 46.
  15. ^ 田中 2007, pp. 46–47.
  16. ^ 宮地 2012, p. 423.
  17. ^ 宮地 2012, pp. 39–40.
  18. ^ 宮地 2012, p. 40.
  19. ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第7巻』文藝春秋、 1993年、 77ページ
  20. ^ 鶴見俊輔『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ
  21. ^ 以下は尾藤正英『江戸時代とはなにか』による。
  22. ^ a b 大塚 1999, p. 74.
  23. ^ 大塚 1999, p. 73.
  24. ^ 大塚 1999, p. 83.
  25. ^ 大塚 1999, p. 84-85.
  26. ^ 大塚 1999, p. 86.
  27. ^ 大塚 1999, p. 87.
  28. ^ 大塚 1999, p. 87-88.
  29. ^ 大塚 1999, p. 89.
  30. ^ 大塚 1999, p. 91.
  31. ^ 荒野泰典『近世日本と東アジア』、ロナルド・トビ『近世日本の国家形成と外交』など
  32. ^ ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』黒住真、清水正之、沢一、頼住光子訳、ぺりかん社、1990年。
  33. ^ 児玉幸多『近世農民生活史』
  34. ^ a b 北原糸子『日本災害史』吉川弘文館、2016年。
  35. ^ 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年。
  36. ^ a b 磯田道史『江戸“天下泰平”の礎』日本放送協会出版〈NHKさかのぼり日本史 6〉、2012年。


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