江戸時代 概要

江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 06:24 UTC 版)

概要

1865年慶応元年)または1866年(慶応2年)にフェリーチェ・ベアト愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。

時代区分

日本史上の時代区分としては、安土桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。

江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日慶長8年2月12日)に徳川家康征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから[注釈 1]1868年10月23日慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治改元されるまでの265年間である[注釈 2]

沿革

初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)

徳川家康

徳川家康征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた[3]

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した[4]。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都大坂長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。

皇居(旧・江戸城)富士見櫓、1659年(万治2年)築造。

また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。

徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長14年7月25日1609年8月24日)付)

また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。[5]

しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)[6]そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴浮世草子松尾芭蕉俳諧近松門左衛門浄瑠璃菱川師宣浮世絵などが誕生していく。これらの文化は京、大坂をはじめとする関西地域から生まれた。また、この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる[7]

中期(1690年ごろ - 1780年ごろ)

ゑちご屋チラシ

元禄期~正徳期

元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木()・三草(紅花または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれての量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷伊丹酒造業有田瀬戸窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。

人と物の流れが活発になる中で、城下町港町宿場町門前町鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている[8] 。18世紀初頭の京都大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている[9]

歌川広重東海道五十三次』より「日本橋

このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んでが大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸砂糖鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。

徳川吉宗の幕政(享保の改革)

徳川吉宗

8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所の公認などを行った[10]。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)[11]。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。

なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠1726年(享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちに幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。

その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。

田沼意次の幕政(田沼時代)

田沼意次

幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 - 1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。

これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認・奨励して、そこに運上冥加などを課税した。専売制実施の足がかりとして、と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を真鍮座などの座に与えた。

田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に運上金冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた[12]

大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた[13]

最終的に天明の大飢饉による百姓一揆打ちこわしと田沼を重用した10代家治の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する[14]

後期(1780年ごろ - 1850年ごろ)

松平定信の幕政(寛政の改革)

松平定信

続いて田沼政治を批判した松平定信1787年(天明7年)に登場し、寛政の改革を推進した。天明の大飢饉により農業人口が140万人も減少し、幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。

当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた[15](p44)

天明の大飢饉直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった[16](p102)

通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される[17]。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった[18](p90)

1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。


文化・文政期(大御所時代)

徳川家斉

松平定信の辞任後[注釈 3]文化文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政がいったん潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった[19]

発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷期に入り、1822年文政5年)には隅田川が凍結している。

それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。

動乱の天保期

水野忠邦
大塩平八郎終焉の地

1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが[注釈 4]、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した[注釈 5]。幕府は、天保の改革の一環として、幕領に対して御料所改革を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官らにとっては迷惑なことであると受け取られた[20]

忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)におけるの敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画がオランダより報告されている。

同月には江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆けめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた[注釈 6]

『海国図志』

中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定(望厦条約)締結、10月には清仏通商協定(黄埔条約)を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。

こうしたなか、薩摩藩長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。

経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生足利結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。

幕末期(1853年 - 1868年)

開国・日米和親条約

ペリー

1853年(嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に黒船で強行上陸したアメリカ合衆国マシュー・ペリーと交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、日米和親条約を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上「開国」しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・家慶が「今後の政治は徳川斉昭阿部正弘に委ねる」と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間「知らしむべからず、由らしむべし」を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった[22]

開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった[注釈 7]。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。

井伊直弼

その後、さらに1858年(安政5年)4月、井伊直弼が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる安政五カ国条約不平等条約)を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇が条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年の7月に13代・家定が没し、10月25日に14代・家茂が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった[注釈 8]。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5パーセント、輸出が86.8パーセント行われ、相手国では英が88.2パーセント、仏が9.6パーセント、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7パーセントを占め次いで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった[23]

下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。

文久の国内政治

徳川家茂

一時は大老・井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。

これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟らが咸臨丸で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日、老中・安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜将軍後見職とし、同月9日に松平慶永政事総裁職、閏8月1日に松平容保京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。薩摩藩では、島津斉彬が没したあと、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋騒動)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)、島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし[注釈 9]、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。

1862年(文久2年)閏8月、幕府は参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした[注釈 10]。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。公武合体の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した[注釈 11]

尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った[注釈 12]。その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した[注釈 13]。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した[注釈 14]。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多野村弥吉遠藤謹助伊藤俊輔山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである[27][注釈 15]

これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日、三条実美らの七卿落ち。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。1864年(元治元年)6月5日、新撰組池田屋を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩桑名藩)と交戦する(禁門の変)。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。

第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題

禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐(7月24日)を決行。同時期に英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日、長州藩は4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作木戸孝允らが藩政を掌握した。

禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し[28]、1864年(元治元年)9月1日、参勤交代の制を1862年の改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯の合議制による連合政権)について聞き、感心する。

1865年(元治2年)5月16日、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。

このような情勢下、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約(薩長同盟)された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・徳川家茂が7月20日に大坂城で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する。(おくりな)を孝明天皇と定められた。

徳川慶喜

折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速になくなっていった。薩長は、土佐藩肥前藩をも巻き込み、開国以来の違勅条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。

14代将軍・家茂が没してから約4か月後の1866年(慶応2年)12月5日、将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。この期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使ロッシュの助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握[注釈 16]などを行った[29]

一方、国内状況では、この年(1866年(慶応2年))、全国的に農民一揆・打ちこわしなど未曾有に多発・激化した[注釈 17]

大政奉還 、王政復古

1867年(慶応3年)1月9日、明治天皇践祚した。天皇の外祖父で親長州派の中山忠能は、禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁親王と中山忠能が宥免された[30]。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた[注釈 18]。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、のちに船中八策と言われるものである。

大政奉還図」 邨田丹陵

同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装してええじゃないかと謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍・徳川慶喜は起死回生の策として大政奉還を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に倒幕の密勅を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで王政復古の大号令が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される太政官制度が発足した。この日の小御所会議で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。

慶応4年1月3、4日の鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。そして、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、勝海舟西郷隆盛の交渉の結果、江戸城が新政府軍に明け渡され、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、「宸翰[注釈 19]、同15日、五榜の提示など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、一世一元の制を定められたうえで、明治と改元された。以降は明治時代と呼ばれる。

江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が関東地方および東北地方(5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日五稜郭の陥落により(箱館戦争)、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実ともに終了した。武士は華族士族といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、反乱もすべて失敗したことにより、一般の国民に吸収されていった。

政治制度

幕藩体制

江戸時代の統治体制は幕藩体制(幕藩制)と呼ばれ、将軍家(幕府)のもとに、大名)、旗本御家人が服属する体制である。直轄地は幕領天領と呼ばれ、重要地点には城代所司代町奉行遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代代官が置かれ、支配に当たった。

江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉刀狩りと武士は城下町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄をもらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士町人など軽輩階層出身者であった者が多い。

幕府と朝廷の関係については諸説ある[33]関白太政大臣を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、外戚関係を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った公権力公儀と言い、特に天皇の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は禁中並公家諸法度の制定、紫衣事件などを通じて朝廷支配を強めていった。新井白石は『読史余論』で江戸幕府成立を朱子学に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。本居宣長松平定信大政委任論を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった(松平定信は尊号一件で朝廷と対立した)。宝暦事件竹内式部や、明和事件山県大弐霊元天皇など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。『大日本史』編纂の過程で成立した水戸学吉田松陰などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、倒幕運動明治維新の志士に学ばれた。

幕府は江戸、大坂京都町奉行所司代を置き重視したが、そのほか伊豆日田長崎新潟飛騨や重要な鉱山代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代山城丹波近江など、大坂町奉行西日本諸国の天領采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代朝廷も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。

幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と国持大名の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、大老の特例を除き、定員4 - 5名の老中が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において三管領の一家であり、かつ複数の大国の守護を兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。

江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易減封処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。

大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀半ばに行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは、紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。

一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた。

大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と天下普請への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。

なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初頭までに地方知行制(藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す)から俸禄制(藩主の領地から上がる年貢収入はいったんすべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する)へと変遷させている。

江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名なところでは久保田藩盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩相馬中村藩萩藩徳山藩などがある。これらは中期ごろまでにおおむね解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。

地方支配

幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)のほかは基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。

しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。

農村では名主庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。

読み書きを中心とした寺子屋私塾、農村部における郷学(郷校)が設置され、日本人の識字率は高かった。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。

幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。


注釈

  1. ^ 始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)、あるいは豊臣氏滅亡の1615年元和元年)を始まりとする見方もある[要出典]
  2. ^ 終期については、ペリーが来航した1853年嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年万延元年)、徳川慶喜大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)、江戸開城された1868年5月3日(慶応4年4月11日)、あるいは廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する[2]
  3. ^ 幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する。
  4. ^ 同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。
  5. ^ しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった。
  6. ^ 源了圓は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している[21]
  7. ^ 8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。
  8. ^ 第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた。
  9. ^ 1863年(文久3年)11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して生麦事件を解決している。
  10. ^ 嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。
  11. ^ 旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した[24]
  12. ^ 長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう[25]
  13. ^ 全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。
  14. ^ 馬関海峡を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。庚申丸から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた癸亥丸も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した[26]
  15. ^ 3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。
  16. ^ 大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。
  17. ^ 5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し(武州世直し一揆)、陸奥信達両郡で打ち毀し(信達騒動)。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告。
  18. ^ 6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した[31]
  19. ^ 1868年(慶応4年)3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは「宸翰」(しんかん)と呼ばれた。(天皇このとき数えで16歳、満で15歳)書いたのは木戸孝允と言われている。

    「宸翰

    朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
    ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
    今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
    往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
    しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
    汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
    [32]
  20. ^ 江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある[48][49]
  21. ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人[54]

出典

  1. ^ 芳賀徹『文明としての徳川日本』筑摩書房、2017年。 
  2. ^ 蔵並省自 編『近世日本の展開』八千代出版、1977年、2-3頁。 
  3. ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典. “元和偃武(げんなえんぶ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月13日閲覧。
  4. ^ 大石慎三郎江戸幕府の行政機構」『学習院大学経済論集』10巻1号、1973年。 
  5. ^ 日本町(にほんまち)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書”. goo辞書. 2024年4月13日閲覧。
  6. ^ てんかのだいどころ【天下の台所】 | て | 辞典”. 学研キッズネット. 2024年4月13日閲覧。
  7. ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典. “元禄文化(げんろくぶんか)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月13日閲覧。
  8. ^ 林玲子、大石慎三郎『新書・江戸時代5 流通列島の誕生』〈講談社現代新書〉1995年。ISBN 4-06-149261-6 
  9. ^ 佐藤誠三郎岡崎久彦『日本の失敗と成功—近代160年の教訓』扶桑社、2000年。ISBN 4-594-02917-5 
  10. ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典. “堂島米市場(どうじまこめいちば)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月15日閲覧。
  11. ^ 丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ
  12. ^ 日本近世の歴史4 田沼時代. 吉川弘文館. (2012/5/1) 
  13. ^ 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、253-254頁。 
  14. ^ それは一種のクーデターだった…田沼意次が10代将軍家治の死と同時に政権トップの座を追われたワケ 時代を先取りした政策への批判と"異例の出世"への嫉妬 (4ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2024年2月9日). 2024年4月15日閲覧。
  15. ^ 磯田 道史『NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎』NHK出版、2012年1月26日。 
  16. ^ 高澤憲治 著、日本歴史学会 編『『松平定信』〈人物叢書〉』吉川弘文館、2012年9月1日。 
  17. ^ 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書 
  18. ^ 高澤憲治 著、日本歴史学会 編『『松平定信』〈人物叢書〉』吉川弘文館、2012年9月1日。 
  19. ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第17巻』文藝春秋、 1993年、420ページ
  20. ^ 藤田覚『泰平のしくみ-江戸の行政と社会』岩波書店、2012年、202頁。 
  21. ^ 源了圓 著「「海国図志」の日中韓の読み方の違い」、西尾幹二 編『江戸時代が可能にした明治維新』産経新聞ニュースサービス〈地球日本史3〉、1999年。ISBN 4-594-02665-6 
  22. ^ 半藤一利『 幕末史 』新潮社、 2008年、 50-51ページ
  23. ^ 宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』新日本出版社、 2010年、 17ページ
  24. ^ 宮地 2012, p. 321.
  25. ^ 半藤一利『 幕末史』新潮社、 2008年、 157ページ
  26. ^ 田中 2007, p. 46.
  27. ^ 田中 2007, pp. 46–47.
  28. ^ 宮地 2012, p. 423.
  29. ^ 宮地 2012, pp. 39–40.
  30. ^ 宮地 2012, p. 40.
  31. ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第7巻』文藝春秋、 1993年、 77ページ
  32. ^ 鶴見俊輔『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ
  33. ^ 以下は尾藤正英『江戸時代とはなにか』による。
  34. ^ a b 北原糸子『日本災害史』吉川弘文館、2016年。 
  35. ^ 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年。 
  36. ^ a b 磯田道史『江戸“天下泰平”の礎』日本放送協会出版〈NHKさかのぼり日本史 6〉、2012年。 
  37. ^ 磯田道史『日本史の内幕』 中公新書、10版2018年、 pp.195 - 196.
  38. ^ 高島正憲『経済成長の日本史』2017年
  39. ^ a b 大塚 1999, p. 74.
  40. ^ 大塚 1999, p. 73.
  41. ^ 大塚 1999, p. 83.
  42. ^ 大塚 1999, p. 84-85.
  43. ^ 大塚 1999, p. 86.
  44. ^ 大塚 1999, p. 87.
  45. ^ 大塚 1999, p. 87-88.
  46. ^ 大塚 1999, p. 89.
  47. ^ 大塚 1999, p. 91.
  48. ^ 荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年
  49. ^ ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)
  50. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95
  51. ^ 和辻哲郎 埋もれた日本 ――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (青空文庫)
  52. ^ ヘルマン・オームス 著、黒住真、清水正之、沢一、頼住光子 訳『徳川イデオロギー』ぺりかん社、1990年。 
  53. ^ 儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座”. 儒学者、国学者について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座. 2024年4月16日閲覧。
  54. ^ 児玉幸多『近世農民生活史―江戸時代の農民生活―』吉川弘文館、1951年
  55. ^ 明治百年記念関係行事等概況「明治百年記念100歳以上の高齢者の慶祝」より






江戸時代と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「江戸時代」に関係したコラム

  • 株式分析の酒田五法の見方

    株式分析の酒田五法は、江戸時代の相場師、本間宗久によって考案された投資術です。酒田五法には、「三山」、「三川」、「三空」、「三兵」、「三法」の5つの法則があります。▼三山三山は、チャートの高値圏に出現...

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江戸時代」の関連用語

江戸時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江戸時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの江戸時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS