運行・廃車
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「スイス国鉄Te III形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後は、スイス全国の主要駅に配置されて入換用および事業用として使用されている。なお、トラクターに分類される本機は本線の機関士ではなく、駅の入換要員や保守工事要員が運転操作を行っている。 137号機が1968年にエメンタル-ブルクドルフ-トゥーン鉄道へ譲渡されてCe2/2 122号機となったほか、老朽化の進行により1996、97年に各1機が廃車されたのを手始めに本格的に廃車が進み、2001年の127号1機を最後に全車が廃車となっている。なお、各年毎の廃車機番は以下の通り。1968年 - 137号機 1996年 - 121号機 1997年 - 129号機 1998年 - 124、134号機 1999年 - 125、126、128、132、133号機 2000年 - 122、123、130、131、135、136号機 2001年 - 127号機 廃車後は130号機がスイスおよびオーストリアの歴史的車両および貨物列車の運行会社である中央鉄道に譲渡され、その後2008年にはアールガウ州コブレンツの鉄道車両保存団体であるDSFに再度譲渡されて運行されている。
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運行・廃車
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「マルティニ・シャトラール鉄道ABDeh4/4 31-32形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
マルティニ・シャトラール鉄道線は軌間1000mm、開業当初は全長19.072km、その後1931年に路線改良されて18.363km、最急勾配は粘着区間で70パーミル、シュトループ式のラック区間で200パーミルの路線であり、1906年にマルティニー - ル・シャトラール=フロンティエール間18.8km(当時)が開業し、1908年にはル・シャトラール=フロンティエール - スイス/フランス国境間0.29kmが開業して同じくフランス国内のヴァロルイーネから国境まで路線を延長したコル・デ・モンテ線と接続している。開業時 には直流750V、1957年以降は直流850Vで電化されており、山岳部のヴェルネイヤーズ - ル・シャトラール=フロンティエール間では第三軌条からの集電としていたが、道路横断者等の安全確保のため、1991年-97年にかけてフィンハウト - ル・シャトラール=フロンティエール間、サルヴァン - ル・トレティアン間が架線集電に変更されている。この路線はローヌ川沿いでスイス国内、イタリア、フランス方面への街道が交差する古くからの交通の要衝で、スイス国鉄の主要幹線ローザンヌ - ブリーク線のマルティニー駅に隣接する標高467mのマルティニ・シャトラール鉄道マルティニー駅を起点として、ヴェルネイヤーズからサルヴァンまでは総延長約2.5kmの200パーミルのラック区間で、サルヴァン以降は最急70パーミルの粘着区間で同じくローヌ川から分かれたトリアン川に沿って西方にトリアンの谷を遡り、フィンハウトで路線最高の1224m地点を過ぎ、引き続き最急70パーミルの粘着区間で、名を変えたオー・ノワール川に沿って標高 1115mのル・シャトラール=フロンティエールに至り、そこからスイス/フランス国境に至っている。 国境のフランス側のコル・デ・モンテ線は当初パリ・リヨン・地中海鉄道、現在ではフランス国鉄により運営されている、軌間1000mm、最急勾配90パー ミルの全線粘着式、第三軌条集電の山岳路線であり、フランス国鉄の標準軌路線に接続するサン=ジェルヴェ=レ=バン・ル=ファイエからモンブラン 山麓のリゾート地であるシャモニー=モン=ブラン、ヴァロルイーネを経由してスイス/フランス国境へ至っている。なお、同鉄道は1950年代まで架線電圧が600Vであり、全線の直通運転は1997年に両鉄道のBDeh4/8 21-22形およびZ800形によるモンブラン急行の運行が開始されるまで行われていなかった。 開業当初からしばらくの間は5月から8月までの夏季のみの運行であり、冬季の運行開始は1931年から実施されることとなり、以降スノーシェッドや除雪車を徐々に整備している。また、全線の所要時間は同様に開業当初からしばらくは1時間55分から2時間10分、運転速度は、平坦線のマルティニー - ヴェルネイヤーズ間が17km/h、ヴァルネイヤーズ - サルヴァン間の200パーミルのラック区間が5.5km/h、サルヴァン - ヴァロルイーネ間の70パーミルの粘着区間が12-18km/h、最高運転速度は前記の区間それぞれで25km/h、7km/h、20km/hあり、その後1938年には最高運転速度を見直して所要時間を20分程度短縮している。 本形式は1921年の導入以降、本形式と同時に導入されたK 121-124形およびM 131-132形などとともに、バルベリーネ川に建設されたスイス国鉄の発電用ダムおよび発電所の建設資材を運搬する貨物列車に使用されており、ピークの1924年には貨物輸送量が年間23023tに上っていた。1925年に完成したこの重力式コンクリートダムはバルベリーネダムと呼ばれ、堤高79m、堤頂長284mで貯水量4000万m3のダム湖を擁するものであり、建設に際しては、スイス国鉄の関連会社であるシャトラール-バルベリーネ・ケーブルカーによって、マルティニ・シャトラール鉄道のシャトラール・VSからレース・モントゥイレスに至る全長1310m、高度差693m、最急勾配870パーミルのケーブルカーと、そこからダムサイトに至る軌間600mmの工事用軌道が用意され、資材等の運搬に使用されている。 ダム建設が終了した1926年には本形式はスイス国鉄からマルティニ・シャトラール鉄道に譲渡され、1935年には客室の増設工事を実施して、BCFe4/4 31-32形となっているが、引き続き貨物列車の牽引にも使用されている。なお、マルティニ・シャトラール鉄道では本形式を導入したため、事業用として所有していた建設工事用の蒸気機関車であるHG2/2形1号機を1927年にモンブラントラムウェイに、小型電気機関車のHGe2/2形2および3号機を1930年に後のベー-ヴィラー-ブルタユ鉄道にそれぞれ譲渡している。 1950年代には同じくスイス国鉄による新たなダム建設が行われ、本形式がその建設資材を輸送する貨物列車の牽引に使用されており、ピークの1954年には年間16200tの貨物輸送量となっている。これにより1955年に完成したダムはビュー・エモッソンダムもしくは現在では通称旧エモッソンダムとも呼ばれているアーチ式コンクリートダムで、貯水量13.5百万m3のダム湖はビュー・エモッソン湖と呼ばれている。 1957-64年に新しい軽量車体を持つラック式電車であるABDeh4/4 4-8形(後のBDeh4/4 4-8形)電車と、これと編成を組むBt 63-68形制御客車が導入さた後、本形式は旅客列車の運行では順次代替され、引き続き貨物列車の牽引用と使用されたほか、事業用および多客時輸送用、Xrot e 202形電気式ロータリー除雪車の推進用動力車として2000年代まで運用されていた。 1962年からはバルベリーネ川に新しいダムが建設されることとなり、本形式もABDeh4/4 4-8形とともに資材等を輸送する貨物列車の牽引に使用されている。このダムが冒頭で記述した世界最大クラスのグランド・ディクセンスダム(通称エモッソンダム)であり、その資材の輸送には道路交通も併用されたものの、マルティニ・シャトラール鉄道による輸送もピークの1973年には22450tに上っており、バルベリーネダムの建設時に敷設されたケーブルカーと工事用軌道も再度資材等の輸送に活用されている。なお、このケーブルカーと工事用軌道のうちダム湖外に残った区間については、1975年のダム完成後も観光用のエモッソン-バルベリーネ交通として引続き運転されており、2003年にはシャトラール公園鉄道となって現在に至っている。 その後ABDeh4/4 31号機、32号機ともには動態保存されて、鉄道車両保存団体である TNTによって保守および運行がなされているが、ABDeh4/4 31号機は2011年に廃車となっている。なお、同団体では本形式と共に使用された制御車である Ct4 51号車(車体表記はCt4 21)とBFt4 74号車、BFt4 75号車およびABDeh4/4 15号機や貨車2両を動態保存している。
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運行・廃車
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「ベイルート-ダマスカス鉄道A形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベイルート-ダマスカス鉄道は、地中海沿岸の港町で古くから貿易で繁栄した現レバノンの首都ベイルートから内陸の古都で現シリアのダマスカスを結ぶ全長147km、時期によって異なるが開業時は全23駅の路線で、途中最高峰が3086mのレバノン山脈と最高峰2814mのアンチレバノン山脈、その間の標高約900mのベッカー高原を超える山岳路線となっている。そのため、粘着区間で最急勾配25パーミル、ラック区間で最急勾配70パーミルとなっており、湾岸のベイルートからレバノン山脈を34kmのラック区間とChouit-Araye駅とAley駅の2箇所のスイッチバックによって37.5km地点で標高1478mのMedeireijeでレバノン山脈を越え、その後、標高約900mのベッカー高原を横断してアンチレバノン山脈を登る80km地点付近で現在のレバノン-シリア国境を越え、同山脈を粘着区間のみで90.9km地点、標高1380mで超えて標高700mのダマスカスに至っている。途中ベッカー高原など標高の高い区間は降雪地帯であり、特にレバノン山脈とアンチレバノン山脈の標高の高い区間は多くの降雪があり、必要に応じてスノーシェッドも設置されているほか、本形式などの機関車の前頭部に大型のスノープラウを設置して運行されることもあった。また、本鉄道は途中現レバノンのリヤークで1435mm軌間のアレッポ、バグダード鉄道方面の路線と、ダマスカスで1050mm軌間のヒジャーズ鉄道およびハウラン鉄道とそれぞれ接続していた。なお、1050mmという軌間は1894年に開業したダマスカス - Muzeirib間や、同時に建設されていたベイルート-ダマスカス鉄道以降、ヒジャーズ鉄道などにも引き継がれたこの地域の狭軌鉄道独特のものであったが、この軌間を採用した理由については設計もしくは建設途上におけるミスなどによるものという説なども含めいくつかの推論が挙げられているが明らかにはなっていない。 A形の31-37号機の全7機は1906年に順次運行に入っており、従来のB形が80tの列車を牽引していたのに対し、本形式では125tと輸送力が大幅に向上しており、本形式に導入に伴って、運行施設の増強も図られている。 本形式はその後B形、D形、C形および後継で過熱式で車軸配置EzzのS形とともにベイルート-ダマスカス鉄道で運用されていたが、1956年にシリアの鉄道が国有化されて1965年1月1日シリア国鉄が、1960年にはレバノン国鉄がそれぞれ発足し、ベイルート-ダマスカス鉄道の運行をDHPから引き継いでおり、機材についてもそれぞれの所属となっている。本形式は後継のS形とともに全機がレバノン国鉄の所有となり旧番号を引継いで31-37号機となっているほか、B形(ラック式駆動装置を撤去したBa形も含む)については当時残存していた機体のうち6機がレバノン国鉄の所有、3機がシリア国鉄の所有、D形のうち残存していた5機とC形2機はシリア国鉄の所有となっている。 本形式はその後もレバノン国鉄により運行されていたが、1975年に勃発したレバノン内戦の影響により、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側は1976年には運行を停止したとされており、これに伴って本形式も運行されなくなっている。なお、一部機体は現在でもベイルート駅やリヤーク駅に隣接の車庫内に放置されたままとなっている。
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運行・廃車
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「ベイルート-ダマスカス鉄道S形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベイルート-ダマスカス鉄道は、地中海沿岸の港町で古くから貿易で繁栄した現レバノンの首都ベイルートから内陸の古都で現シリアのダマスカスを結ぶ全長147km、時期によって異なるが開業時は全23駅の路線で、途中最高峰が3086mのレバノン山脈と最高峰2814mのアンチレバノン山脈、その間の標高約900mのベッカー高原を超える山岳路線となっている。そのため、粘着区間で最急勾配25パーミル、ラック区間で最急勾配70パーミルとなっており、湾岸のベイルートからレバノン山脈を34kmのラック区間とChouit-Araye駅とAley駅の2箇所のスイッチバックによって37.5km地点で標高1478mのMedeireijeでレバノン山脈を越え、その後、標高約900mのベッカー高原を横断してアンチレバノン山脈を登る80km地点付近で現在のレバノン-シリア国境を越え、同山脈を粘着区間のみで90.9km地点、標高1380mで超えて標高700mのダマスカスに至っている。途中ベッカー高原など標高の高い区間は降雪地帯であり、特にレバノン山脈とアンチレバノン山脈の標高の高い区間は多くの降雪があり、必要に応じてスノーシェッドも設置されているほか、本形式などの機関車の前頭部に大型のスノープラウを設置して運行されることもあった。また、本鉄道は途中現レバノンのリヤークで1435mm軌間のアレッポ、バグダード鉄道方面の路線と、ダマスカスで1050mm軌間のヒジャーズ鉄道およびハウラン鉄道とそれぞれ接続していた。なお、1050mmという軌間は1894年に開業したダマスカス - Muzeirib間や、同時に建設されていたベイルート-ダマスカス鉄道以降、ヒジャーズ鉄道などにも引き継がれたこの地域の狭軌鉄道独特のものであったが、この軌間を採用した理由については設計もしくは建設途上におけるミスなどによるものという説なども含めいくつかの推論が挙げられているが明らかにはなっていない。 301および302号機は1924年7月の試運転後運行に入っており、従来のB形と比較して35%、A形とは26%の燃費向上が図られるなど好成績を収めたため、続く303-305号機の3機が1925年5月に発注されて翌1926年7月に運行に入っている。なお、本形式の導入に伴い、従来使用されていたB形の1-12II号機のうち、補修待ちであった1、9、11号機の3機については1925年頃までに廃車となっているほか、3、4、5、8号機の4機については1949年頃までにラック式駆動装置を撤去して粘着区間専用に改造され、形式名もB形からBa形に変更となっている。 1956年にシリアの鉄道が国有化されて1965年1月1日シリア国鉄が、1960年にはレバノン国鉄がそれぞれ発足し、ベイルート-ダマスカス鉄道の運行をDHPから引き継いでおり、機材についてもそれぞれの所属となっている。本形式はA形とともに全機がレバノン国鉄の所有となり旧番号を引継いで301-307号機となっているほか、B形については当時残存していた機体のうち6機がレバノン国鉄の所有、3機がシリア国鉄の所有、D形のうち残存していた5機とC形2機はシリア国鉄の所有となっている。 本形式はその後もレバノン国鉄により運行されていたが、1975年に勃発したレバノン内戦の影響により、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側は1976年には運行を停止したとされており、これに伴って本形式も運行されなくなっている。なお、一部機体は現在でもベイルート駅やリヤーク駅に隣接の車庫内に放置されたままとなっている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Ae4/6形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後は1941年4月から1945年5月にかけて順次エルストフェルドに配置になり、ゴッタルドルートで運用されていた。その後10807-10812号機は1948年に、10801-10806号機は1956年にベッリンツォーナの転属となり、廃車まで全機が同地の配属となっていた。 本機は貨物列車、旅客列車の双方に使用され、26パーミル区間では単機で375tを、重連では700tを牽引しており、Ae4/7形やBe4/6形を一部置き換えているが、最高速度が100km/hに制限されたことや粘着性能の悪さ、走行音や重連総括制御装置の問題から、最高速度100km/hで320tを牽引可能なAe4/7形と比較して大きなメリットはなかったため、本機の製造が12両のみにとどまったことにより、完全な置き換えまでには至らなかった。 10807号機は1950年に衝突事故に遭ったが、復旧の際に重連総括制御装置を省略している。 1955年からのAe6/6形量産機の導入されて600tまでの列車を単機で牽引するようになったことに伴い、1956年以降本機は急行列車の牽引する運用から外れているが、Ae6/6形は重連総括制御装置を持たず、単機での運行であったことから本機は引続き重量列車などに使用されていた。 1965年7月9日に10801号機が火災を起こし、復旧されることなくそのまま廃車となっている。 その後1975年からは単機で800tを牽引して80km/hで走行することができるRe6/6形が導入されたことから、本機は次第にローカル運用に使用されるようになり、1977年から1983年にかけて順次廃車となった。 1980年には50パーミルの勾配区間を持つスイス南東鉄道への譲渡が検討され、実際に10810号機と10812号機で試運転も実施された。しかし、本機の粘着性能が良くなかったことなどから本機の譲渡は実施されず、代わりにRe4/4III形3両が譲渡されている。 各機体の廃車年は以下の通り 10801 - 1965年 10802 - 1977年 10803 - 1981年 10804 - 1981年 10805 - 1983年 10806 - 1982年 10807 - 1977年 10808 - 1981年 10809 - 1981年 10810 - 1982年 10811 - 1983年 10812 - 1982年
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運行・廃車
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「ベイルート-ダマスカス鉄道D形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベイルート-ダマスカス鉄道は、地中海沿岸の港町で古くから貿易で繁栄した現レバノンの首都ベイルートから内陸の古都で現シリアのダマスカスを結ぶ全長147km、時期によって異なるが開業時は全23駅の路線で、途中最高峰が3086mのレバノン山脈と最高峰2814mのアンチレバノン山脈、その間の標高約900mのベッカー高原を超える山岳路線となっている。そのため、粘着区間で最急勾配25パーミル、ラック区間で最急勾配70パーミルとなっており、湾岸のベイルートからレバノン山脈を34kmのラック区間とChouit-Araye駅とAley駅の2箇所のスイッチバックによって37.5km地点で標高1478mのMedeireijeでレバノン山脈を越え、その後、標高約900mのベッカー高原を横断してアンチレバノン山脈を登る80km地点付近で現在のレバノン-シリア国境を越え、同山脈を粘着区間のみで90.9km地点、標高1380mで超えて標高700mのダマスカスに至っている。途中ベッカー高原など標高の高い区間は降雪地帯であり、特にレバノン山脈とアンチレバノン山脈の標高の高い区間は多くの降雪があり、必要に応じてスノーシェッドも設置されているほか、本形式などの機関車の前頭部に大型のスノープラウを設置して運行されることもあった。また、本鉄道は途中現レバノンのリヤークで1435mm軌間のアレッポ、バグダード鉄道方面の路線と、ダマスカスで1050mm軌間のヒジャーズ鉄道およびハウラン鉄道とそれぞれ接続していた。なお、1050mmという軌間は1894年に開業したダマスカス - Muzeirib間や、同時に建設されていたベイルート-ダマスカス鉄道以降、ヒジャーズ鉄道などにも引き継がれたこの地域の狭軌鉄道独特のものであったが、この軌間を採用した理由については設計もしくは建設途上におけるミスなどによるものという説なども含めいくつかの推論が挙げられているが明らかにはなっていない。 1895年8月のベイルート-ダマスカス鉄道の開業に際しては本形式を含む14機の蒸気機関車のほか、客車20両、貨車73両で運行を開始しており、開業当初は旅客列車1往復、貨物列車2往復を基本として季節に応じてこれに加えて列車が設定されており、全線の所要時間は12時間であった。1896年時点の年間輸送量は旅客約150千人、貨物約80千tであったが、その後列車交換の工夫などにより、1898年のダイヤでの全線の所要時間は約9時間となっており、この頃には年間旅客約350千人、貨物150千tにまで増大していた。なお、開業時に用意された機材の内訳は以下の通り。ラック式蒸気機関車:B形1-8号機、8機 粘着式蒸気機関車:D形51-56号機、6機 客車:2軸1等/2等合造車10両、2軸2等車7両、3軸3等車18両 貨車:2軸荷物車11両、2軸有蓋車66両、2軸無蓋車108両、2軸平物車26両 その後ベイルート-ダマスカス鉄道ではより大型で牽引力の高い粘着区間専用機として、当時のザクセン王国のザクセン機械工場製で車軸配置 (B)B1'でマレー式のC形61-62号機を1906年に導入し、ラック式蒸気機関車についても、車軸配置D1'zzのA形31-37号機および同じくEzzのS形301-307号機の計14機を1906年および1924-40年に導入して輸送力の増強を図るとともに、B形の3、4、5、8号機の4機を1949年頃までにラック式駆動装置を撤去して粘着区間専用に改造して、形式名もB形からBa形に変更している。なお、本形式の52号機は1918年に、B形の1、9、11号機の3機については1925年頃までに廃車となっている。 1956年にシリアの鉄道が国有化されて1965年1月1日シリア国鉄が、1960年にはレバノン国鉄がそれぞれ発足し、ベイルート-ダマスカス鉄道の運行をDHPから引き継いでおり、機材についてもそれぞれの所属となっている。本形式は当時残存していた51、53-56号機の全5機が、C形の61、62号機、Ba形の3-5号機とともにシリア国鉄の所有となっている。なお、B形、Ba形の2II、6-8、10、12号機の6機と、A形とS形の全機がレバノン国鉄の所有となり、旧番号を引継いで運行されていたが、1975年に勃発したレバノン内戦の影響により、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側は1976年には運行を停止したとされており、一部機体は現在でもベイルート・コダー駅やリヤーク駅隣接の車庫内に放置されたままとなっている。 シリア国鉄に引き継がれた旧D形51、53-56号機は751-755号機に改番されて、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側区間の運行停止後も残ったダマスカス - Serghaya間で同じく旧Ba形の3-5号機である803-805号機や、旧C形61-62号機である961-962号機、旧ヒジャーズ鉄道機などとともに運行されており、2000年代前後の次点では751、754、755号機の3機が運行されていた。その後、ベイルート-ダマスカス鉄道は2010年代でも一部区間が主に観光列車として運行されているものの本形式の使用状況は不明確であり、廃線に列車が運行されることもあって運行区間も不明瞭であるが、旧54号機である753号機は2008年にダマスカスのカダム駅および工場に併設する形で開設されたヒジャーズ鉄道博物館で、803号機や961号機ほか約20機の蒸気機関車とともに静態保存された。
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運行・廃車
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「ベイルート-ダマスカス鉄道B形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベイルート-ダマスカス鉄道は、地中海沿岸の港町で古くから貿易で繁栄した現レバノンの首都ベイルートから内陸の古都で現シリアのダマスカスを結ぶ全長147km、時期によって異なるが開業時は全23駅の路線で、途中最高峰が3086mのレバノン山脈と最高峰2814mのアンチレバノン山脈、その間の標高約900mのベッカー高原を超える山岳路線となっている。そのため、粘着区間で最急勾配25パーミル、ラック区間で最急勾配70パーミルとなっており、湾岸のベイルートからレバノン山脈を34kmのラック区間とChouit-Araye駅とAley駅の2箇所のスイッチバックによって37.5km地点で標高1478mのMedeireijeでレバノン山脈を越え、その後、標高約900mのベッカー高原を横断してアンチレバノン山脈を登る80km地点付近で現在のレバノン-シリア国境を越え、同山脈を粘着区間のみで90.9km地点、標高1380mで超えて標高700mのダマスカスに至っている。途中ベッカー高原など標高の高い区間は降雪地帯であり、特にレバノン山脈とアンチレバノン山脈の標高の高い区間は多くの降雪があり、必要に応じてスノーシェッドも設置されているほか、本形式などの機関車の前頭部に大型のスノープラウを設置して運行されることもあった。また、本鉄道は途中現レバノンのリヤークで1435mm軌間のアレッポ、バグダード鉄道方面の路線と、ダマスカスで1050mm軌間のヒジャーズ鉄道およびハウラン鉄道とそれぞれ接続していた。なお、1050mmという軌間は1894年に開業したダマスカス - Muzeirib間や、同時に建設されていたベイルート-ダマスカス鉄道以降、ヒジャーズ鉄道などにも引き継がれたこの地域の狭軌鉄道独特のものであったが、この軌間を採用した理由については設計もしくは建設途上におけるミスなどによるものという説なども含めいくつかの推論が挙げられているが明らかにはなっていない。 1895年8月のベイルート-ダマスカス鉄道の開業に際しては本形式を含む14機の蒸気機関車のほか、客車20両、貨車73両で運行を開始しており、開業当初は旅客列車1往復、貨物列車2往復を基本として季節に応じてこれに加えて列車が設定されており、全線の所要時間は12時間であった。1896年時点の年間輸送量は旅客約150千人、貨物約80千tであったが、その後列車交換の工夫などにより、1898年のダイヤでの全線の所要時間は約9時間となっており、この頃には年間旅客約350千人、貨物150千tにまで増大していた。なおm開業時に用意された機材の内訳は以下の通り。ラック式蒸気機関車:B形1-8号機、8機 粘着式蒸気機関車:D形51-56号機、6機 客車:2軸1等/2等合造車10両、2軸2等車7両、3軸3等車18両 貨車:2軸荷物車11両、2軸有蓋車66両、2軸無蓋車108両、2軸平物車26両 その後ベイルート-ダマスカス鉄道ではより大型で牽引力の高い、車軸配置D1'zzのA形31-37号機および同じくEzzのS形301-307号機の計14機を1906年および1924-40年に導入し、粘着区間専用機も当時のザクセン王国のザクセン機械工場製で車軸配置 (B)B1'のC形61-62号機を1906年に導入して輸送力の増強を図っているが、この間に、B形のうち補修待ちであった1、9、11号機の3機についてはS形の運行開始に伴い1925年頃までにそのまま廃車となっているほか、3、4、5、8号機の4機については1949年頃までにラック式駆動装置を撤去して粘着区間専用に改造され、形式名もB形からBa形に変更となっている。 1956年にシリアの鉄道が国有化されて1965年1月1日シリア国鉄が、1960年にはレバノン 国鉄がそれぞれ発足し、ベイルート-ダマスカス鉄道の運行をDHPから引き継いでおり、機材についてもそれぞれの所属となっている。本形式はB形、Ba形の2II、6-8、10、12号機の6機がレバノン国鉄の所有、Ba形の3-5号機がシリア国鉄の所有となっている。なお、A形とS形は全機がレバノン国鉄の所有となり、旧番号を引継いでそれぞれ31-37号機と301-307号機となっており、D形のうち当時残存していた51、53-56号機とC形の61、62号機はシリア国鉄の所有となっている。 レバノン国鉄に引き継がれた2II、6-8、10、12号機は引続き同番号のままベイルート-ダマスカス鉄道で運行されていたが、1975年に勃発したレバノン内戦の影響により、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側は1976年には運行を停止したとされており、これに伴って本形式も運行されなくなり、一部機体は現在でもベイルート・コダー駅やリヤーク駅隣接の車庫内に放置されたままとなっている。 シリア国鉄に引き継がれた旧Ba形の3-5号機は803-805号機に改番された上で運行されており、ベイルート-ダマスカス鉄道のレバノン側区間の運行停止後も残ったダマスカス - Serghaya間で、旧D形51、53-56号機である751-755号機や、旧C形61-62号機である961-962号機、旧ヒジャーズ鉄道機などとともに運行されており、2000年代前後の次点では805号機が運行されていた。その後、ベイルート-ダマスカス鉄道は2010年代でも一部区間が主に観光列車として運行されているものの本形式の使用状況は不明確であり、廃線に列車が運行されることもあって運行区間も不明瞭であるが、旧3号機である803号機は2008年にダマスカスのカダム駅および工場に併設する形で開設されたヒジャーズ鉄道博物館で、753号機や961号機ほか約20機の蒸気機関車とともに静態保存された。
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運行・廃車
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「モントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通HGe2/2形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はモントルー-グリオン鉄道の全線で運行されているが、この路線はレマン湖畔で、スイス国鉄の主要幹線ローザンヌ - ブリーク線やモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道と接続するモントルーから、グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道とケーブルカーとが接続していたグリオンに至る全長2.73km、標高395-689m、最急勾配130パーミルの山岳路線である。 ラック方式はラックレールが2条のアプト式で、グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道とほぼ同じピッチ120mm、歯末たけ15mm、歯先レール面上高53mm、歯厚25mmとなっている。なお、モントルー-グリオン鉄道開業時はモントルー駅構内などはラックレールが設置されていなかったが、その後BChe2/4形などラック区間専用の機体が使用されるようになると、ラックレールが敷設されている。また、現在でも平坦な駅構内や車庫内などはラックレールが片側1条のみの設置となっている。 モントルー-グリオン鉄道の開業時に用意された機材は以下の通り。客車はコンパートメント式で全長11670mm、定員56名(2等8名、3等48名)のもので、非電化のグリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道へ直通できるよう室内灯用のバッテリーを搭載していた。旅客列車は本形式1機と客車1-2両および手荷物車1両の編成が基本となっており、貨物列車も含め本形式が常に勾配の最下端に位置するように列車が編成されている。電気機関車(3機):HGe2/2 1-3号機(本形式) 客車(5両):BC 1-3形(2等/3等客車)、BC 4-5形(2等/3等オープン客車) 貨車(10両):M 11-12形およびL 21-23形(無蓋車)、K 1-2形(有蓋車)、F 1-4形のうちF 1-3号車(無蓋手荷物車) 1938年にグリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道が直流850Vで電化され、同時にモントルー-グリオン鉄道も直流750Vから850Vに昇圧され、同時に両鉄道にBhe2/4形ラック式電車の201-208号機が1966年にかけて導入されて旅客列車の運行の主力となって両鉄道が一体として運行されるようになると、本形式は多客時の増発用、貨物列車、工事や除雪などの事業用列車などに使用されるようになっている。また、全線の電化後は本形式も最急勾配220パーミルの旧グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道でも運行されるようになっている。その後1980--2000年代にかけてのスイス国内の私鉄再編の流れの中で、1987年に両鉄道は統合してモントルー-グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道となり、1992年にはグリオンで接続しているテリテ-グリオン鋼索鉄道と統合してモントルー-テリテ-グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道となっているが、さらに2001年には同社やモントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通などこの地方の公共交通4社が統合してモントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通となっている。なお、現在本形式が運行されているモントルー - ロシェ・ド・ネー間は全長7.63km、標高395-1973m、最急勾配220パーミルの山岳路線となっている。 原型のまま残っていたHGe2/2 1号機は1966年に廃車となっている。また、車体更新改造を実施したHGe2/2 3号機(旧101号機)は1996年にブリエンツ・ロートホルン鉄道から譲受したHm2/2 4号機とともに事業用として使用されていたが、2011年に落石事故に巻き込まれて大きく損傷したため廃車となり、代替としてシュタッドラー製のディーゼル/電気両用ラック式機関車であるHem2/2 11および12号機が2013年に導入されている。 残ったHGe2/2 2号機は歴史的車両として、同じく残されている旧モントルー-グリオン鉄道のBC 2号車および旧グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道のBC 16号車の2両の客車とともに、臨時列車等として運行されており、Hm2/2形やHem2/2形導入などとともに事業用としても運行されている。 各機体の廃車年は以下の通り1 - 1966年 2 - 運行中 3 - 2011年
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運行・廃車
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「スイス国鉄Ae3/6 II形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
スイス国鉄の主に平坦線で使用されていた。 1923年1月19日に10401号機が試運転を開始して以降、1926年6月にかけて製造、配置された。当時の配置は以下の通り。チューリッヒ - 10401-10405 オルテン - 10405-10413、10439-10449 バーゼル - 10414-10438 ルツェルン - 10450-10460 各地の急行列車や旅客列車、貨物列車に使用されていたが、110km/h運用はAe3/6I形、重量のある列車はAe4/7形の担当であった。最も広く配置されていた1928年時点の配置は以下の通り。サンクト・ガレン - 10401-10405 ロールシャッハ - 10406-10409 チューリッヒ - 10410-10412 ロマンショルン - 10413-10416 オルテン - 10417-10424、10436-10446 バーゼル - 10425-10434 ベリンツォーナ - 10435、10447 ルツェルン - 10450-10460 1965年から廃車が始まり、軸配置Bo'Bo'でBBCのスプリングドライブ式駆動のRe4/4I形に急行運用を譲ったAe3/6I形やAe4/7形に置き換えられて、1973年時点では14両が残っていたが、1977年までに順次廃車となった。なお、1960年時点での配置は以下の通り。オルテン - 10401-10443 ヴィンタートゥール - 10444-10460 廃車後も暖房用電力の供給用として16両が定置の変圧器として使用されたほか、10419号機は1973年に電気検測車に改造され、1977年には事業用車のX 30 85 98-30 505に形式変更されている。 現在では10439号機がスイス国鉄の歴史的機関車に指定されて原形に復元され、動態保存機としてオルテンに配置されている。なお、復元に際しては廃車となっていた他号機やAe3/5形、Ae3/6I形から各種部品を流用している。 このほか、10448号機が1995年にスイスの鉄道車両保存団体であるSWISSTRAINへ譲渡され、静態保存のための復元待ちとなっている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄De6/6形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機はルツェルン近郊のスイス国鉄のゼータル線のほぼ専用機として使用されていた。 ゼータル線が運営していたものを1922年に国有化したもので、42.1kmの本線と1997年に廃止となった8.0kmの支線からなり、高度は本線は海抜406-521m、支線は520-650m、最急勾配36パーミル、電化方式AC5.5kV 25Hzであったが、1930年にスイス国鉄の他の路線と同じAC15kV 16.7Hzに変更されている。 本機は1926年の製造以降ルツェルンに配置されてゼータル線で使用されていたが、一時的に他線区で使用されることがあり、1926-29年には15303号機がベリンツォーナに配置されて入換機として使用され、1929-31年には15302号機がチアッソに配置されて貨物列車の牽引に使用されたのが長期にわたりゼータル線を離れた例である。 ゼータル線では旅客列車および貨物列車の牽引に使用されていたが、1983年1月に15302号機、3月に15303号機、4月には15301号機が廃車となっている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Ae3/6 I形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
スイス国鉄の主に平坦線で使用されていた。 1935年からはジュネーヴとチューリッヒ間の急行列車にも使用されるなど各地の急行列車にも使用されていたが、110km/h機と100km/h機では運用が分けられていた。 1960年代頃には、ブフリ駆動装置の改良や、主開閉器の油遮断器から空気遮断器に変更、バッファの交換などの近代化、更新工事を受けながら使用されていた。 1946年から軸配置Bo'Bo'でBBCのスプリングドライブ式駆動のRe4/4I形が使用されるようになると本機は他の旧型機を置換える形で普通旅客列車や貨物列車で使用されるようになった。 1978年時点では89両が稼動していたが、その後1982年以降はRBDe560形電車によるNPZにより置換えられる形で1994年までに順次廃車となった。 現在では10664号機と10700号機がスイス国鉄により歴史的機関車として残されているほか、10601、10639、10693号機が民間の所有となっている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Te III形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はスイス全国の主要駅に配置されて入換用および事業用として使用されている。なお、トラクターに分類される本機は本線の機関士ではなく、駅の入換要員や保守工事要員が運転操作を行っている。 1968年にエメンタル-ブルクドルフ-トゥーン鉄道に譲渡されたTeIII137号機の代替としてゼンゼタル鉄道のTe 11号機がスイス国鉄へ譲渡されてTeIII 179号機に編入されている。なお、老朽化の進行により2002年に2機が廃車されたのを手始めに本格的に廃車が進んでおり、各年毎の廃車機番は以下の通りとなっている。2002年 - 168、169号機 2003年 - 161、165、167号機 2004年 - 145、148、151、158、173号機 2006年 - 141、146、147、155、159、172号機 2007年 - 152、160号機 2009年 - 140号機 2010年時点ではスイス国鉄の旅客、貨物の各部門に以下の通り配置されており、177号機はスイス国鉄の歴史的車両であるSBB Historicに指定されてオルテンの入換用として動態保存されている。旅客部門144号機 - ジュネーヴ 155、176号機 - ベッリンツォーナ 貨物部門(SBBカーゴ)139、154、164号機 - チューリッヒ 142、171号機 - ザンクト・ガレン 143、150、162、166 - ビール/ビエンヌ 149、153、156、163、170、175、179号機 - ローザンヌ 171、178号機 - キアッソ 廃車後はTeIII 147、155号機が2006年にモルジュ-ビエール-コソネ地域交通に譲渡され、同番号のままモルジュ駅構内の入換用として使用されている。
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運行・廃車
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「ベルン-レッチュベルク-シンプロン鉄道Ae415形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
251、252号機は試運転によって、27パーミルの勾配などさまざまな環境下試験を行っており、251号機は1947年にはオーストリア連邦鉄道でも走行試験を行っている。 ベルンとブリーク間のレッチュベルクルート(レッチュベルクトンネル)を越える貨物列車、旅客列車に使用され、列車フェリーの牽引にも使用されている。 1990年代以降にスイス国鉄Re460形やRe465形、Re485形が使用されるようになると次第に運用からはずれ、2002年に252号機が火災により廃車になり、257、258号機は2004年に廃車となっている。 251号機も2004年に定期運用から外れているが、BLSレッチュベルク鉄道、BLS AGで「歴史的機関車」として動態保存されてイベント列車等を牽引している。
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運行・廃車
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「ブルンネン-モルシャッハ-アクセンシュタイン鉄道He2/2形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ルツェルン湖畔の高台の村であるモールシャッハには1870年代に観光ホテルが幾つか建設されたが、眺望のよさで有名であった高台のアクセンシュタインにも2軒のホテルが建設されることとなり、宿泊客の輸送手段としてルツェルン湖畔の東端でウルナー湖へつながるアクセン街道沿い水運で栄えた港町であるシュヴィーツ州ブルンネンのスイス国鉄駅前のブルンネンBrMBからモルシャッハを経由してアクセンシュタインまでの登山鉄道が1905年8月1日に開業した。なお、標高1922mの展望台であるフロンアルプシュトック山頂付近まで延長される計画もあった。 同鉄道はスイス国鉄の主要幹線であるゴッタルド線のブルンネン駅に併設された標高437mのブルンネンBrMB駅からモルシャッハの集落内で標高645mのモルシャッハ駅を経由し、方向を180度変えて標高705mアクセンシュタイン駅までを登る登山鉄道で、軌間1000mmの全線ラック式、最急勾配はラック区間170パーミルでラックレール1条のシュトループ式、電化方式は三相AC750Vで所要時間はブルンネンBrMBからモルシャッハまでが10分、アクセンシュタインまでが15分であった。 開業時には本形式とともに、ローワン式で、2室は窓がなくカーテンのみが設置された開放客室、2室が通常客室のコンパートメント式客車のC 4-5形2両と、通常の2軸車で4室とも開放客室のコンパートメント式客車のC 7-8形2両、2軸無蓋車のL10-11形2両が用意され、客車はいずれも山頂側に運転合図を行う車掌が乗車するオープンデッキと前照灯が設置されていた。本形式はブルンネン-モルシャッハ-アクセンシュタイン鉄道の開業から廃止まで同鉄道の唯一の動力車としてすべての列車の運行に使用されており、旅客列車ではC 4-5形1両もしくはこれにC 6-7形1両を加えた1-2両編成で運転され、貨物および工事用列車ではL 10-11形および工事用の作業台を搭載したトロッコで運転されており、いずれの列車にも山麓側にHe2/2形が、客車もしくは貨車が山頂側に配置されていた。 運行当初は夏季のみの運行であったが、1935年からはブルンネンBrMBとモルシャッハの間が通年運航となっていた。その後1947年と1969年にはアクセンシュタインのホテルが営業を休止して利用客が減少したこともあり、ブルンネン-モルシャッハ-アクセンシュタイン鉄道は1969年5月29日に廃止となり、翌5月30日からはAAGSが運行する路線バスに転換されており、本形式も全車廃車解体されている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Tem I形機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はスイス全国の主要駅のうち、非電化区間のある駅を中心に配置されて運用されている。なお、トラクターに分類される本機は本線の機関士ではなく駅の入換要員が運転操作を行っている。 老朽化の進行と最高速度が60km/h遅いことから1979年、1983年に1機ずつが廃車されたのを手始めに、1997年以降2004年にかけて本格的に廃車が進み、現在では5機が残存している。なお、廃車後は263号機がGruppe Be4/6に、270、273号機が鉄道車両保存団体であるEurovaporに、275号機は歴史的鉄道車両保存・運行と貨物列車の運行を行う会社であるCentralbahnに譲渡されている。 2010年時点ではスイス国鉄の旅客、貨物、インフラの各部門に以下の通り配置されている。旅客部門268 - ヴィンタートゥール(Schwab製自動連結器装備) 貨物部門(SBBカーゴ)251 - ローザンヌ 262 - ローザンヌ 265 - ザンクト・ガレン(+GF+自動連結器装備) インフラ部門255 - ベッリンツォーナ
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運行・廃車
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「スイス国鉄BDe4/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は同形の制御車からの遠隔制御が可能であり、EW IおよびEW II形客車を中間車としてプッシュプルトレインとして使用された。制御車は本機と同形状のもので、以下のような形式で計54両が製造されている。ABt 50 85 37-03 900-919 ABt 50 85 38-33 906-921 ABt 50 85 38-33 930-937 Bt 50 85 28-33 900-905 Bt 50 85 29-33 900-902 初号機であるCFe4/4 841号機は1952年5月17日から運用に入り、ベルン-ルツェルン間で使用され、2、3号機である842、843号機はベリンツォーナ-ロカルノ間で使用を開始した。 その後本機はほぼスイス全線で使用されたが、主にローザンヌ、オルテンおよびヴィンタートゥールに配置されていたほか、一部はベリンツォーナにも配置されてゴッタルドルートでも使用されていたほか、一部の機体は急行列車に使用されたこともある。 1980年からは1622、1623、1624、1628、1629、1651号機がヴェヴェイやオルテンなどの近郊の区間列車に使用されることとなり、自動扉と運転室横へのバックミラーの設置などの改造がなされている。 その後1982年以降はRBDe560形によるNPZが運用を始めると置換えが開始されて1994年から廃車が始まり、1997年までに一般の運用から外れている。 1643号機と1646号機はスイス国鉄の歴史的車両に登録されて動態保存されている。
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運行・廃車
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「ブレンガルテン-ディーティコン鉄道Ce4/4 7-9形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ブレンガルテン-ディーティコン鉄道はアールガウ州のヴォーレンからブレンガルテンを経由してチューリッヒ州のディーティコンに至る18.9kmの路線であり、最急勾配56パーミル、最急曲線半径25m、標高389-550mでディーティコン付近0.8kmは併用軌道との路線であり、 両端駅でスイス国鉄に接続するものである。また、本形式が運用されていた当時はヴォーレンからブレンガルテン西間6.4kmは1435mm軌間の旧ヴォーレン-マイスターシュヴァンデン鉄道線との三線軌条となっており、最急勾配は60パーミル、1936年時点で4.4km、1958年時点で2.5kmが併用軌道もしくは路肩敷設の軌道であり、ディーティコンでリンマッタル軌道に接続していた。 なお、本形式の運行していた時代より後の、1990年5月27日にはチューリッヒのSバーンに指定されてS-17系統となってアールガウ州からチューリッヒ州への通勤路線として運行されており、1995年以降には一部区間の複線化が行われているほか、ヴォーレン - ブレンガルテン・ウエスト間の三線軌条は2015年に撤去されて、線路用地のみが引続きスイス国鉄からリースされている。 Ce4/4 9I 号機は製造後にメーカーのSWSにより、1914年にベルンで開催されたスイス国営博覧会に出品されており、その後1915年にブレンガルテン-ディーティコン鉄道に納入されて運行を開始している。 Ce4/4 7I-9I形が導入された1910年代から1960年代にかけての同鉄道は電車が旅客列車や貨物列車を牽引する列車で運行されており、本形式も他の電車と共通で全線で、単行での運行のほか、混合列車を含む客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、重連総括制御機能は持たないものの電車同士での重連でも使用されていた。C 18-20形およびC4 24-25形も同様に他の旧型2軸客車、ボギー客車や貨車とともに全線で使用されており、牽引機もCe4/4 7I-9I形に特定されておらず、さまざまな編成で運用されていた。 1947年にはCe4/4 7Iおよび8I号機が一旦廃車となり、ブレーキ装置がその後の新造車に流用されているが、1949年にはCe4/4 7I号機はCe4/4 4II号機に改番の上で、Ce4/4 8I号機は1951年に客車化されてC4 24号車となった上で運用に復しており、同時にCe4/4 9I号機が1949年に空き番号のCe4/4 5II号機に改番されている。 1956年の称号改正により、本形式はBe4/4 4II-5II号機、B3 18-20号車、B4 24-25号車となったが、その後1963年には車体の状態が悪化したBe4/4 5II号機が旅客列車での運用から外れ、また、1966年11月にはBe4/4 4II号機が事故により損傷したためそのまま廃車となっている一方、その後にはBe4/4 5II号機が修復の上で再度運用に復している。 ブレンガルテン-ディーティコン鉄道ではその後も輸送量が増大して1965年には輸送人員が132万人を超え、従来からの機材の老朽化も進んでいたことから総合的な近代化を図るために1960年代にさまざまな検討がなされ、結果として固定編成による列車により効率的なパターンダイヤを組むこととなって3車体連接式のBDe8/8形9編成を1967年に発注し、1969年6月1日のダイヤ改正で通常運行されるの全ての旅客列車に置き換え、同時に架線電圧を900Vから1200Vに昇圧している。この結果、従来の1000mm軌間用機材のうち事業用もしくは貨物列車牽引用として残されることとなったBDe4/4形およびBe4/4 7II号機の計3機のみが架線電圧昇圧対応工事を実施し、それ以外の電車および事業用のものを除く客車は全車廃車となっている。 これに伴い、本形式も残存していたBe4/4 5II号機、B3 18-20号車、B4 24-25号車が廃車となっている。
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運行・廃車
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「ブレンガルテン-ディーティコン鉄道Ce2/2 1-5形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ブレンガルテン-ディーティコン鉄道はアールガウ州のヴォーレンからブレンガルテンを経由してチューリッヒ州のディーティコンに至る18.9kmの路線であり、最急勾配56パーミル、最急曲線半径25m、標高389-550mでディーティコン付近0.8kmは併用軌道との路線であり、 両端駅でスイス国鉄に接続するものである。また、本形式が運用されていた当時はヴォーレンからブレンガルテン西間6.4kmは1435mm軌間の旧ヴォーレン-マイスターシュヴァンデン鉄道線との三線軌条となっており、最急勾配は60パーミル、1936年時点で4.4km、1958年時点で2.5kmが併用軌道もしくは路肩敷設の軌道であったほか、ディーティコンでリンマッタル軌道に接続していた。なお、本形式の運行していた時代より後の、1990年5月27日にはチューリッヒのSバーンに指定されてS-17系統となってアールガウ州からチューリッヒ州への通勤路線として運行されており、1995年以降には一部区間の複線化が行われているほか、ヴォーレン - ブレンガルテン・ウエスト間の三線軌条は2015年に撤去されて、線路用地のみが引続きスイス国鉄からリースされている。 本形式は1902年のブレンガルテン-ディーティコン間の開業時より使用されているが、開業に際して用意された機体は以下の通りであった。電車:Ce1/2 1-3号機 付随客車:C 4-6号車 有蓋車:K 21-22号車 無蓋車:L 31-32号車 開業時のダイヤでは旅客列車はブレンガルテン-ディーティコン間で通常6往復のほか、日曜・祝日およびブレンガルテンでの市場開催日に運行する1往復、日曜・祝日に運行する1往復が所要37-40分で運行されていた。 1960年代までの同鉄道は電車が旅客列車や貨物列車を牽引する列車で運行されており、本形式も全線で、単行での運行のほか、混合列車を含む客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、開業以降は1両の付随客車もしくは貨車を、1912年の真空ブレーキ装備以降は2軸車であれば最大2-3両を牽引して運行されていた。 その後、2軸ボギー式のCe4/4 7I-9I形、Ce4/4 10-11形、Ce4/4 6I-8II形および、同じく2軸ボギー式の客車の増備により、1940-50年代には順次定期運行から外れて付随客車のC 15および16号車は1953-54年に廃車となり、電車のうち出力67kW級のCe2/2 2および4号機は1949年に形式変更されて事業用のXe2/2 51および52号機となっている。また、電車のうち出力119kW級のCe2/2 1および3号機は1954年に入換用電気機関車のTe2/2 401Iおよび402I号機に改造されている。 ブレンガルテン-ディーティコン鉄道ではその後も輸送量が増大して1965年には輸送人員が132万人を超え、従来からの機材の老朽化も進んでいたことから総合的な近代化を図るために1960年代にさまざまな検討がなされ、結果として固定編成による列車により効率的なパターンダイヤを組むこととなって3車体連接式のBDe8/8形9編成を1967年に発注し、1969年6月1日のダイヤ改正で通常運行されるの全ての旅客列車に置き換え、同時に架線電圧を900Vから1200Vに昇圧している。この結果、従来の1000mm軌間用機材のうち事業用もしくは貨物列車牽引用として残されることとなったBDe4/4形およびBe4/4 7II号機の計3機のみが架線電圧昇圧対応工事を実施し、それ以外の電車および事業用のものを除く客車は全車廃車となっている。これに伴い、残存していたTe2/2 401I-402I形も同年に廃車となり、1967-68年に導入された自重13tの電気式ディーゼル機関車であるTm2/2 51-52形に置き換えられている。 Te2/2 402I号機の台枠を流用して改造されたX 303II号車については事業用車として現在でも使用されている。
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運行・廃車
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「ベルナーオーバーラント鉄道HGe3/3形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はベルナーオーバーラント鉄道の全線で3軸もしくは2軸ボギーのオープンデッキの客車で組成された旅客列車および貨物列車を牽引していたが、この路線は全長23.69km、最急勾配は粘着区間で25パーミル、リッゲンバッハ式のラック区間で120パーミルで標高567mのインターラーケン・オストから795mのラウターブルンネンもしくは1034mのグリンデルヴァルトまでを登る山岳路線である。 1949年から製造されたABDeh4/4形3機が増備されたが、本形式も9機体制のまま引き続き主力として運行されていた。 その後1965年から1979年にかけてABeh4/4I形7機が増備されると、一部機体は運行を離れて廃車となり、1980年代初めにはHGe3/3形4機(22、24、25、29号機)と10機の電車で運行をしていた。 1984年にABeh4/4II形およびBDt 401-403形制御客車が導入されて電車牽引列車の一端に制御客車を連結したシャトルトレインとして運行されるようになり、ABeh4/4I形にもシャトルトレイン化の改造が実施されて列車はすべて電車牽引となったため、本形式は通常運用からは外れ、順次廃車となっている。 24号機と29号機は動態保存機として残され、同様に残されている旧型客車を牽引してさまざまなイベント列車を牽引していたが、29号機は2013年に保存鉄道であるブロネイ-シャンビィ博物館鉄道へ譲渡されている。また、26号機は廃車後ベルン近郊バンクドルフの運送会社に譲渡されて専用線で使用され、その後フリブール州ケルツェルスにある交通博物館に静態保存されている。なお、各機体の廃車年と解体年は以下のとおりであるが、文献によって廃車年の記述は異なる。21 - 1969年廃車、1976年1月解体 22 - 1989年廃車 23 - 1975年廃車、1976年7月解体 24 - 動態保存 25 - 1989年廃車 26 - 1983年廃車 27 - 1965年廃車、1975年解体 28 - 1975年廃車、1976年7月解体 29 - 動態保存、2013年にブロネイ-シャンビィ博物館鉄道へ譲渡
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運行・廃車
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「イタリア国鉄E.326電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
1931年に導入された試作機はベネヴェント - フォッジア間やベネヴェント - ナポリ間で試運転を行っており、この新運転を通じて前述の様々な問題が明らかになっている。その後量産機も含めフィレンツェとボローニャの機関区に配置され、1934年4月22日に電化開業したフィレンツェ - ボローニャ間のディレッティシマでは一番列車を重連で牽引しているほか、1936年に電化完了したフィレンツェ - ナポリ間でも長距離高速客車列車を牽引する運行で使用されていたが、両運用ともに最高速度は当初130km/hであった最高速度は120km/hに制限されていた。 その後より高出力で軌道への影響が少ないE.428の試作機が1934年から、量産機が1937年から運用されるようになると、本形式はローマ - ナポリ間の運用に転用され、最高速度も120km/hから105km/hに変更されている。なお、当時の最速列車は1936年から製造された最高速度160km/hのETR.200電車で運行されていた。 第二次世界大戦により、全機が稼働不能となったが、E.326.006号機がボローニャ機関区で、その他の機体がフォリーニョ機関区で1949年までに復旧され、また、その後電機品がE.626第4シリーズと同等のものに交換されている。 1960年代始めには最高速度がさらに低い90km/hに制限されるようになり、1960年代後半にはボローニャ中央機関区に配置され、ピアチェンツァ、リミニ、ヴェローナ、パドヴァ、ヴェネツィアへのローカル列車の牽引に使用されるようになった。 1979年より大規模な検査を行わず順次廃車することになり、1982年にかけて全機が廃車となっている。なお、本形式はイタリア国鉄の直流3000V用の電気機関車では最初に前者廃車となった形式となっているが、E.326.004号機がピエトラルサ国立鉄道博物館で静態保存されている。
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運行・廃車
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「南サルデーニャ鉄道ADe300形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
南サルデーニャ鉄道は、イタリア国鉄に接続するシリークアからサン・ジョヴァンニ・スエルジュを経由し、陸系砂州を通ってサンタンティーオコ島へ渡り、カラゼッタへ至る79.2kmの路線と、その路線の途中サン・ジョヴァンニ・スエルジュからカルボーニャを経由してイタリア国鉄に接続するイグレージアスまで至る33.1kmの路線で構成されており、標高2-287m、最急勾配25パーミルとなっていた 本形式は導入後、南サルデーニャ鉄道の全線でALn200形とともに旅客列車に使用されており、単行もしくは重連やRPe350形と編成を組んで最大4-5両編成で運行されていた。 その後、南サルデーニャ鉄道は輸送量の減少、1956年のヴィッラマッサルジャ - カルボーニア間のイタリア国鉄1435mm路線の開業、バウ・プレッシウ湖の建設による一部区間の水没や施設の老朽化などに伴い、1968年にシクーリア - ナルカーオ間が、1969年にはモンテポニ - イグレージアス間が廃止となり、その後1974年には全線が廃止となっている。 本形式は路線廃止後はサルデーニャ鉄道(FCS)に譲渡されて、同形式、同番号のまま運行されており、その後同鉄道がサルデーニャ鉄道(FdS)となり、現在ではサルデーニャ地域交通の鉄道路線として運行されるようになったことに伴い、本形式も所属が変更となっているとともに、経年による廃車が進み、現在では2機が残存している。
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運行・廃車
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「南サルデーニャ鉄道ALn200形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
南サルデーニャ鉄道は、イタリア国鉄に接続するシリークアからサン・ジョヴァンニ・スエルジュを経由し、陸系砂州を通ってサンタンティーオコ島へ渡り、カラゼッタへ至る79.2kmの路線と、その路線の途中サン・ジョヴァンニ・スエルジュからカルボーニャを経由してイタリア国鉄に接続するイグレージアスまで至る33.1kmの路線で構成されており、標高2-287m、最急勾配25パーミルとなっていた 本形式は導入後、南サルデーニャ鉄道の主に閑散線区、時間帯の旅客列車に使用されていた。その後1950年代以降、沿線の炭鉱が順次閉鎖されて輸送量が大幅に減少したため、1960年にはADe300形とその制御気動車であるRPe350形を導入して本形式とともに輸送の効率化を図ることとなり、旅客列車がほぼ全面的に気動車化されている。 その後、南サルデーニャ鉄道は輸送量の減少、1956年のヴィッラマッサルジャ - カルボーニア間のイタリア国鉄1435mm路線の開業、バウ・プレッシウ湖の建設による一部区間の水没や施設の老朽化などに伴い、1968年にシクーリア - ナルカーオ間が、1969年にはモンテポニ - イグレージアス間が廃止となり、更新改造を実施していないALn203およびALn204号機は1970年頃までに運用されなくなり、残るALn201およびALn202号機も1972年には運用されなくなっている。なお、その後1974年には残る区間も全線が廃止となっている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Te I形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はスイス全国の主要駅に配置されて入換用および事業用として使用されている。なお、トラクターに分類される本機は本線の機関士ではなく、駅の入換要員や保守工事要員が運転操作を行っている。 老朽化の進行と最高速度が60 km/h遅いことから1981年に1機、1982年に2機が廃車されたのを手始めに、1980年代半ば過ぎから本格的に廃車が進み、1996年の31機を最後に全車が廃車となっている。なお、各形式毎の廃車年は以下の通り。TeI 1-43形 - 1968年、1972年、1984年、1989 - 96年 TeI 44-60形 - 1983年、1987 - 96年 TeI 951-963形 - 1974年、1981 - 88年 廃車後は52、54、955号機がスイス南東鉄道に、957号機がポン-ブラッシュ鉄道に譲渡され、254号機は鉄道車両保存団体であるClub San Gottardoに譲渡されている。
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運行・廃車
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「モントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通Bhe2/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はグリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道およびモントルー - グリオン鉄道の全線で旅客列車として運用されていたが、前者はスイス国鉄の主要幹線ローザンヌ - ブリーク線のテリテからのケーブルカーであるテリテ-グリオン鋼索鉄道 に接続するグリオンから標高2042mのロシェ・ド・ネー山の山頂近く のロシェ・ド・ネー に至る全長7.63km、標高689-1973m、最急勾配220パーミルの、後者はレマン湖畔で、スイス国鉄の主要幹線ローザンヌ - ブリーク線やモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道と接続するモントルーから、グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道とケーブルカーが接続していたグリオンに至る全長2.73km、標高395-689m、最急勾配130パーミルの山岳路線である。ラック方式はラックレールが2条のアプト式で、ピッチ120mm、歯末たけ15mm、歯先レール面上高50mm(グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道)もしくは53mm(モントルー - グリオン鉄道)、歯厚25mmとなっている。なお、モントルー-グリオン鉄道開業時はモントルー駅構内などはラックレールが設置されていなかったが、その後BChe2/4形などラック区間専用の機体が使用されるようになると、ラックレールが敷設されている。また、現在でも平坦な駅構内や車庫内などはラックレールが片側1条のみの設置となっている。 本形式は1938年の導入後、グリオン-ロシェ・ド・ネー線およびモントルー - グリオン線で主力として使用されており、両線は一体の路線として運行されていた。また、従来のH2/3 1-6形およびH2/3 7-8形蒸気機関車が一部事業用として残されたほか、HGe2/2形電気機関車による列車は多客時および貨物列車、除雪列車などの事業用列車として運行されるようになっていた。本形式は単行のほか、山頂側に貨車1-2両程度を連結した編成で運行されており、貨車には手荷物のほか、沿線で生産された牛乳や、冬季の観光客のスキーなどが搭載されている。また、本格的な連結器を持たないため重連での運行は行われず、多客時には続行運転で運行されている。 その後1983-10年にBhe4/8形301-305号機が導入されて主力として運行されるようになり、本形式は多客期の増発用などに使用されるようになるとともに、一部が廃車となっており、現在ではBhe2/4 203、204、207号機の3機が運用されている。 その後1980--2000年代にかけてのスイス国内の私鉄再編の流れの中で、1987年にグリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道およびモントルー - グリオン鉄道 は統合してモントルー-グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道となり、1992年にはグリオンで接続しているテリテ-グリオン鋼索鉄道と統合してモントルー-テリテ-グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道となっているが、さらに2001年には同社やモントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通などこの地方の公共交通4社が統合してモントルー-ヴヴェ-リヴィエラ交通となっている。
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運行・廃車
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「プリンチペ・グラナローロ鉄道1形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
プリンチペ・グラナローロ鉄道はイタリア北部の港湾都市であるジェノヴァのイタリア国鉄のジェノヴァ・プリンチペ広場駅近くのイタリア国鉄を越える陸橋の袂近くに位置するプリンチペ駅から、サン・テオドーロ地区とラガッチョ地区の境界にほぼ沿う形で、山上の集落であるグラナローロに至る全長1.136km、標高差194mの路線である。この路線は軌間1200mm、リッゲンバッハ方式ラック区間で最急勾配214パーミルの片勾配の路線で、両終端駅を含め全線が勾配上にあり、平坦部は終点のグラナローロ駅は駅舎を通り抜けた最上部の広場のみでここが留置線となっていたが、現在では駅舎の背面に接続する検修庫が建設されている。なお、1200mmという軌間は世界的にも例は少なく、フランス、イタリア、スペイン、スイスの各国のケーブルカーを中心にいくつかの事例があるほか、スイスのアッペンツェル鉄道のライネック-ヴァルツェンハウゼン線(ケーブルカーより通常の鉄道に転換)、中国の汕潮路面鉄道などで採用されているのみとなっている。 プリンチペ駅とグラナローロ駅間にはサリタ・サン・ロッコ(2012年開設)、ケントゥリオ、バーリ、カンビアーゾ、キアッサイウオラ、サリタ・グラナローロ(2012年開設)、ビア・ビアンコ(2012年開設)の7駅が設置されており、カンビアーゾとキアッサイウオラの間に交換設備が設置されている。2012年開設の3駅を除く各駅のプラットホームは開業当初は当時の1形の形状に合わせて水平となっていたが、1929年の車体交換の際に勾配に合わせた階段とスロープを組合わせたものに変更されている。 2003年からはプリンチペ - バーリ間での運行に縮小されていたが、その後沿線の擁壁の老朽化に伴い2011年から全面的に改修がなされることになり、擁壁の補修と併せて3駅の増設、ラックレールのリッゲンバッハ式からフォン・ロール式への変更、各駅のバリアフリー化が実施されるとともに、前述のとおり1号機の更新改造が実施され、2012年10月13日に全線での運行を再開している。 始発駅のプリンチペ駅に停車中の1形、開業以来の駅はホームが水平であった時代の形跡が残る 同じくプリンチペ駅、2012年の改良工事により階段の位置が変更となり、車両との段差が低減されている、2016年 プリンチペ-グラナローロ鉄道の下側約1/3の区間は市街地を走行しており、軌道に並行して細い道路が通っている 途中駅のバーリ駅、2009年 終着駅のグラナローロ駅と1形、プリンチペ駅同様ホームが水平であった時代の形跡が残る、2016年 同じくグラナローロ駅、駅を通り過ぎた奥に検修庫が設けられている、また、駅手前は併用軌道となっている、2009年
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運行・廃車
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「スイス国鉄BDm2/4形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は1925年から試運転が実施され、その後ブルックに配属されてヴォーレンまでの運行で使用され、走行距離は一日平均172kmであった。以降1927年から1932年まではブルックからヴェッティンゲンを経由してデーデルグラットまでの区間で運行され、走行距離は一日平均206kmであった。 その後故障によりチューリッヒに留置され、運行はCFm2/4 9921号機が代替していた。 1938年の機関換装後はヴィンタートゥールに配置されてヴィンタートゥールからエッツヴィレンを経由してドイツのジンゲンまでの区間やヴィンタートゥール - ヒンヴィール - エフレーティコン間で運行されていたが、1939年以降は第二次世界大戦による燃料油不足の影響で1945年まで運行されなかった。 1945年以降はスイス北東部の路線の電化の進展によって、スイス南部のベッリンツォーナの配置となり、ベッリンツォーナから、ゴッタルド線のロカルノまでの支線を経由してイタリアのルイーノに至る路線の国境手前のランツォまでの22.8kmの区間で、Dm2/4形とともに使用され、当初1日平均の走行距離は268kmであったが、不調により次第に使用されなくなった。 その後スイス西部、レマン湖畔のニヨンからクラシエで国境を越えてフランスのディボンヌへ至る路線が電化されず、蒸気機関車による運行が残っていたため、一部列車に本機を投入して運行の効率化を図ることとなり、1951年に2度目の機関換装を行った上で2月から運行に入り、ニヨン - ディボンヌ間を21分で結んでいた。 1962年7月に重大な故障を起こし、同路線も1962年9月29日に廃止となったことにより運行から外れて留置されていたが、1965年に機関を降ろして代わりに各種測定機器を搭載して事業用の検測車であるX 91502号車として1966年より使用を開始され、その後1976年には新しいUIC方式の車号であるXa 30 85 97 30 100-8号車となり、1989年まで使用されていた。
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運行・廃車
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「スイス国鉄RCm2/4形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は1935年以降の製造後試運転を経て順次運用に入り、ローザンヌに配置されて、ローザンヌとリーズおよびゾロトゥルン間で定期列車に使用され、1両が使用されて1日当たりの534km走行する運用につき、もう1両が予備となっていた。 その後3年程度は運行についていたが1940年代になると燃料の不足と価格高騰の影響により使用されなくなっている。 1945年秋以降少しずつ運用に入るようになり、パイェルヌとフリブール間の約132kmの区間で使用され、1947年5月の同区間の電化後はニヨンとフランスのディヴォンヌ間で使用された。 電車化改造後には611号機はオルテンおよびヴィンタートゥールに配置され、その後1954年から1956年の間はルツェルンに、1957年からはベッリンツォーナに配置され、612号機はベッリンツォーナに配置されて運用されている。 1964年にローザンヌで開催された博覧会では観覧客輸送用列車としてRe4/8形とともに特別ダイヤで運用された後、博覧会終了後同年中に廃車となっている。各機体の廃車までの走行距離は以下の通り。1008 - 418,850km 1009 - 733,700km
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運行・廃車
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「シャフハウゼン-シュライトハイム軌道BDe4/4 1-5形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
シャフハウゼン-シュライトハイム軌道はスイス北端で、ライン川北岸に位置するシャフハウゼン州の州都シャフハウゼンから北西方向にシャフハウゼン通りを進み、ベリンゲン、シュライトハイムを経由してその後はシュバルツバルト通りをドイツ国内のシュテューリンゲンの街のスイス - ドイツ国境手前数百mのオーバーヴィーゼンにあるオーバーヴィーゼン-シュテューリンゲン駅までの18.9kmの路線を運行しており、シャフハウゼン駅前広場からドイツ国鉄をアンダークロスする地点付近までの2.5kmがほぼ全ての列車の直通運転先であるシャフハウゼン軌道線、以降16.4kmがシャフハウゼン-シュライトハイム軌道線となっている。 同鉄道はシャフハウゼン軌道を含む18.9kmの路線のうち開業時で16.4km、道路と軌道の分離が進んだ1946年でも13.7kmが併用軌道で残りの軌道もほとんどが道路端部に設置されたものであり、最急曲線半径は17m、最急勾配60パーミル、標高390(シャフハウゼン-シュライトハイム軌道線では432m)-558mの路線であり、シャフハウゼンでスイス国鉄、ドイツ国鉄に接続していたほか、オーバーヴィーゼン-シュテューリンゲン駅から国境を挟んで数百mの地点でヴタハール鉄道シュテーリンゲン駅に連絡をしていた。 本機は全線で使用されており、単行での運行のほか、客車列車や貨車の牽引に使用されており、重連総括制御機能は持たないものの電車同士やFe2/2 51形との重連でも使用されていたほか、貨物列車ではスイス国鉄のシャフハウゼン貨物駅に乗り入れていた。 1964年10月1日の路線廃止に伴って全機が廃車となり、1、2、4号機はそのまま解体され、3、5号機がBDe4/4 6形とともにビール-テウフェレン-インス鉄道に譲渡されたが、同鉄道では1965年に新しいBe4/4 1-5形が導入されており、あまり使用されず全機1966年に廃車となっている。
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運行・廃車
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「ベルン-レッチュベルク-シンプロン鉄道Ae6/8形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
初号機である201号機は1926年6月17日にトゥーンに到着し、15パーミルで800t、27パーミルで510tの列車の牽引に使用されたが、試運転では600tの列車を牽引して27パーミルの急カーブ区間で起動して64km/hまで加速することが可能であったため、その後営業列車での牽引トン数は550tとなり、1929年には600tとしている。 205-208号機は製造直後には90km/hの最高速度を生かし急行列車牽引機として使用されている。 205号機は1939年のチューリッヒの博覧会に出品されている。 本機は主にレッチュベルクルートを越える重量列車に使用されていたが、1940年春からはスイス国鉄に乗入れてバーゼルからブリーク、シンプロントンネルを経由してドモドッソラまでの貨物列車の牽引に使用されるようになったほか、1958年にシンプロンルート南側が土砂災害により寸断された際にはスイス国鉄のゴッタルドトンネルを通るゴッタルドルートで使用され、1964年のローザンヌの博覧会の際にはバーゼルまでの臨時旅客列車を牽引している。 1981年から廃車が始まり、まず1977年から運用を外れていた201号機が廃車となっている。各機の廃車年は以下の通り。201 - 1981年 202 - 1984年 203 - 1989年 204 - 1985年 205 - BLS AGにて動態保存 206 - 鉄道車両保存団体へ譲渡、ヴィンタートゥールに保管 207 - 1995年 208 - 鉄道車両保存団体へ譲渡、ペイエルンで静態保存
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「ベルナーオーバーラント鉄道ABDeh4/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はベルナーオーバーラント鉄道の全線で旅客列車および貨物列車を牽引していたが、この路線は全長23.69km、最急勾配は粘着区間で25パーミル、リッゲンバッハ式のラック区間で120パーミルで標高567mのインターラーケン・オストからツヴァイリュッチーネンで分岐して標高795mのラウターブルンネンもしくは1034mのグリンデルヴァルトまでを登る山岳路線である。 本機はHGe3/3形電気機関車とともに使用され、最大6両程度の客車を牽引して運行され、機関車牽引時と同様に終端駅では先頭に電車を付け替えていた。また、製造当初は客車の連結器は従来のピン・リンク式連結器のものが多く、本形式も連結器にリンクを設置して運行されていたほか、暖房用引通しも、先頭下部の電気連結器ではなく車端部屋根上の電気連結器を使用していた。 その後1965年以降新しいABeh4/4I形7機が増備されて、旧型のHGe3/3形は9機中5機が廃車となったが、本形式は引続き主力として使用され、ラウターブルンネン行およびグリンデルヴァルト行列車の方面別2編成の電車牽引列車を併結して協調運転をする最大14両編成の列車でも運行されていた。 1984年にABeh4/4II形およびBDt 401-403形制御客車が導入されて電車牽引列車の一端に制御客車を連結したシャトルトレインとして運行されるようになり、ABeh4/4I形には重連総括制御機能が追加されたが、本形式には改造は実施されず次第に予備的に使用されるようになったほか、1等室を2等室扱いとして運用されるようになり、形式名もBDeh4/4形もしくは(A)BDeh4/4形と呼ばれるようになったが、客室等級表記や1等室窓上の黄帯など外観上は大きく変更はされていない。なお、HGe3/3形はその後歴史的機関車として残された24号機と29号機を残して廃車となっている。 1988年には301号機がマイリンゲン-イネルトキルヒェン鉄道に譲渡され、集電装置をシングルアーム式パンタグラフに変更の上同鉄道で運行されたが、同鉄道初の新造車であるBe4/4 8号機の増備に伴い1996年に廃車となり、翌1997年には解体されている。 スイス国内の列車がパターンダイヤ化されたBahn+Bus 2000計画によってベルナーオーバーラント鉄道でも旅客列車の運行系統の整理による運行の効率化が計画され、1999年のウムラー信号場 - ツヴァイリュッチーネン間の複線化や、列車のシャトルトレイン化などがなされたことによって302号機、303号機ともに事業用として使用されるようになり、形式名もDeh4/4形に変更されている。
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運行・廃車
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「レーティッシュ鉄道ABe4/4 501-504形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はABe4/4 501-504形とA 1251-1252形、B 2301-2306形で最大5両程度の編成を組んでクールからダヴォス間およびサンモリッツ間で使用されたが、牽引力が小さく、第二次世界大戦の影響などによる1940年代の旅客数の増加に対応できなかったため、本格的な軽量高速列車は1947年以降に製造されたGe4/4I形が牽引することとなった。その後本機はエンガディン線や区間列車で使用されるようになり、旅客列車のほか混合列車、貨物列車の牽引に使用され、平坦線では最大8両程度の列車を牽引したほか、サメーダンとポントレジーナ間ではベルニナ急行も牽引している。 1950年代には夏季期間にはABe4/4 501-504形とA 1251-1252形、B 2301-2306形で編成を組んでサンモリッツとシュクオール・タラスプ間の急行列車にも使用されている。 1968年のダイヤ改正より本機の最高速度が70km/hに引き上げられている。 その後Be4/4 511-516形がクール近郊のシャトルトレインに使用されるようになると、ABe4/4 501-504形は主にダヴォス近郊とオーバーエンガディン地方で使用されるようになり、1982年以降にABe4/4 501-504形とBDt 1721-1723形が編成を組んだシャトルトレインとして運用されるようになると、ポントレジーナとサメダン間の主力となったほか、冬季にはダヴォス近郊でのスキー客輸送列車として運用されている。 1990年代にはGe4/4I形とともに中央扉の旧型軽量客車を自動扉化などシャトルトレイン用に改造したものとBDt 1721-1723形と編成を組んで3、4両編成程度でエンガディン線でシャトルトレインとしても使用されていた。 A 1251-1252形、B 2301-2306形は1940年代ころから通常の客車列車にも使用されるようになり、1943年以降はクール・アローザ線でも使用されるようになったが、逆に1990年代になってもエンガディン線でABe4/4 501-504形と編成を組むことが多かったなどABe4/4形との関係も深かった。 ABe4/4 501-504形は1997年以降順次廃車となり、1999年にエンガディン線の列車がBDt 1751-1758形を使用した"NEVA Retica"に置き換えられた際に運用を終了しているが、501号機は歴史的車両としてサメダン機関区に残されており、車両不足の際など場合によっては定期列車にも充当される。また、A 1251-1252形、B 2301-2306形はABe4/4 501-504形の廃車後も2006年に廃車となったA1252号車を除き、現在でもクール・アローザ線を中心に運用されている。
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運行・廃車
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「スイス国鉄RABDe510形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
RABe12/12形は竣工後予定通りチューリッヒ中央駅 - ラッパースヴィール間で30分間隔の運行を開始しており、これに伴い同区間のうちKüsnachi - ヘルリベルク間4.8kmとシュテーファ - エリコン間2.5kmが複線化されている。 運行開始後間もない1971年1月18日にRABDe12/12 1109編成と1119I編成がヘルリベルクで事故を起こし、3月31日には1109編成の1109/3I号車と1119I編成の1119/3I号車が廃車に、1119/2I号車が保留車となった。また、同年3月25日にはRABDe12/12 1113編成と1117I編成がエリコンで別の事故を起こし、4月30日には1113編成の1113/1I号車と1117I編成の1117/1I号車、1117/2I号車が廃車となっている。これに伴い、事故編成の残存した車両が休車となるとともに、RABDe12/12 1120編成が3月に空番となった1119に改番されてRABDe12/12 1119II編成となって各車も改番され、4月30日には空番の1117に再度改番されてRABDe12/12 1117II編成となり、併せて編成各車も1117/1II、1117/2II、1117/3II号車に改番されている。 その後、残存した1109/1I、1113/2、1113/3I、1117/3I、1109/2、1119/1I号車の各車は一時的にRABDe12/12 1106編成およびRABDe12/12 1111編成の各車と併せて編成の組み換えを行って運行されていた。各編成の編成番号(車両番号)は以下の通り。 RABDe12/12 1106(1109/1I - 1106/2 - 1113/3) RABDe12/12 1109(1119/1I - 1109/2 - 1111/3I) → (1111/3I - 1109/2 - 1119/1I) RABDe12/12 1111(1111/1 - 1111/2 - 1106/3) RABDe12/12 1113(1106/1I - 1113/2 - 1117/3I) → (1117/3I - 1113/2 - 1106/1I) そして、1971年6月16日から1972年7月19日にかけて順次改番を行い、以下の通り編成番号と車両番号が揃えられている。また、保留となっていた1119/2号車は1981年8月14日に事業用客車のX 50 85 99-73 106-4号車に、その後X 60 85 99-90 106-3号車に改造されている。 RABDe12/12 1106(1106/1II - 1106/2 - 1106/3II) RABDe12/12 1109(1109/1II - 1109/2 - 1109/3II) RABDe12/12 1111(1111/1 - 1111/2 - 1111/3II) RABDe12/12 1113(1113/1II - 1113/2 - 1113/3II) なお、上記の事故、編成組換えなどによる各車の廃車年および編成番号、車両番号の改番履歴は以下の通り 廃車1109/3I、1119/3I - 1971年3月31日 1113/1I、1117/1I、1117/2I - 1971年4月30日 編成番号変更(編成内の各車も同様に改番)RABDe12/12 1120→1119II - 1971年3月 RABDe12/12 1119II→1117II - 1971年4月30日 車両番号変更1113/3I→1106/3II - 1971年6月16日 1106/1I→1113/3II、1111/3→1109/1II - 1971年8月18日 1106/3I→1111/3II - 1972年2月18日 1119/1I→1109/3II - 1972年3月19日 1117/3I→1113/1II - 1972年3月20日 1109/1I→1106/1II - 1972年7月19日 その後1990年に発足したチューリッヒのSバーンでは、RBe540形、RBDe560形電車が牽引する客車列車、Re450形電気機関車が牽引する4両固定編成の2階建列車(通称DPZ)とともに各路線で運行されるようになり、115編成とともにSバーン各路線で運行されることとなった。チューリッヒ中央駅を拠点に放射状に運転されているSバーンはS2-S18、S21、S22、S24、S26、S29、S30、S33、S35、S40、S41、S55系統および深夜便のSN1、SN3、SN4、SN5、SN7-SN9系統などであり、スイス国鉄のほか、ジールタル・チューリッヒ・ユトリベルク鉄道、スイス南東鉄道、BDWM交通、フォルヒ鉄道により運行されている。詳細はチューリッヒのSバーンおよびドイツ語のチューリッヒSバーンの項の項を参照。 2001年2月23日にはRABDe510 010-2編成とRABDe510 013-6編成がEffretikonで事故を起こし、4月9日から510 121-7号車がTRABDe 510 013-6の編成へ組込まれ510 121-7 - 510 213-2 - 510 127-4で編成を組み、RABDe510 010-2編成として510 120-9、510 210-8、510 126-6号車が廃車となっている。その後、チューリッヒSバーンにシーメンス製デジロシリーズを2階建て車両としたRABe514形(通称DTZ)が増備されると、平屋建の3両編成で輸送力が小さく、連結器の違いから客車列車を牽引することができないRABDe510形は順次廃車となり2008年10月のダイヤ改正で定期運行から外れ2010年までに全車解体されている。各編成の廃車年月日は以下の通り。 RABDe510 000-3 - 2009年3月24日 RABDe510 001-1 - 2009年3月24日 RABDe510 002-9 - 2008年11月6日 RABDe510 003-7 - 2008年11月20日 RABDe510 004-5 - 2009年3月24日 RABDe510 005-2 - 2009年3月24日 RABDe510 006-0 - 2009年3月24日 RABDe510 007-8 - 2008年10月2日 RABDe510 008-6 - 2009年3月24日 RABDe510 009-4 - 2009年3月24日 RABDe510 011-0 - 2009年3月24日 RABDe510 012-8 - 2009年3月24日 RABDe510 013-6 - 2009年3月24日 RABDe510 014-4 - 2009年3月24日 RABDe510 015-1 - 2009年3月24日 RABDe510 016-9 - 2009年3月24日 RABDe510 017-7 - 2009年3月24日
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運行・廃車
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「スイス国鉄Dm2/4形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は1930年から実施された試運転では最大130tの列車を牽引可能であることが確認された後、ヴィンタートゥールに配属されてまずエッツヴィレンからタールハイム間20kmの運行で使用され、以降1935年からはドイツのジンゲンまでの運行にも充当されるようになった。 1936年のターボチャージャー搭載改造後はヴィンタートゥールからシャフハウゼン、コンスタンツ、バーゼルを経由してヴィンタートゥールに戻るルートの急行運用やバーゼルからコブレンツを経由してヴィンタートゥールまでの区間で使用され、1938-39年にはひと月の走行距離が18000kmにも達したが、以降は第二次世界大戦による燃料油不足の影響で1945年まで運行されなかった。 1945年以降はスイス北西部の路線の電化の進展によって、スイス南部のベッリンツォーナの配置となり、ベッリンツォーナから、ゴッタルド線のロカルノまでの支線を経由してイタリアのルイーノに至る路線の国境手前のランツォまでの22.8kmの区間で、BDm2/4形とともに使用され、当初1日平均の走行距離は268kmであったが、1947年には再度ヴィンタートゥールの配置となってジンゲンまでの路線で使用されていた。 その後BFm2/4形に引続いてスイス西部、レマン湖畔のニヨンからクラシエで国境を越えてフランスのディボンヌへ至る路線の一部列車のディーゼル動車化に使用されることとなって、1961年の機関換装後にジュネーヴに配属されたが、同路線が1962年9月29日に廃止となったことからによりほとんど使用されないまま再々度ヴィンタートゥールの配属となった。 その後はエッツヴィレンからシャフハウゼン経由でジンゲン間で旅客列車を牽引する運行につき、1969年以降はBm4/4形ディーゼル機関車とともに使用されていたが、次第に運行から外れて1971年には廃車となり、機関はEm3/3形ディーゼル機関車へ流用され、残った車体はエメンタル-ブルクドルフ-トゥーン鉄道に譲渡されて1201号救援車となった。
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運行・廃車
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「スイス国鉄Te I形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ブリューニック線は全長74.0 km、高度差566 m、最急勾配120パーミルでルツェルン-インターラーケン間を結ぶ山岳路線であり、スイス国鉄の唯一の1 m軌間の路線であった。 製造後は198号機がヘルギスヴィール、199号機がアルプナッハ・ドルフの各駅で使用されており、1980年代にはザルネンとギスヴィールの各駅で入換用に使用されていたほか、粘着区間での区間小列車の牽引にも使用されていた。 現在では廃車となり、2両ともルツェルン駅構内に留置されている。
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運行・廃車
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「モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道De4/4 27-28形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道は全線で全長75.3km、高度差526m、最急勾配68パーミルの山岳路線であり、ツェントラル鉄道ブリューニック線のルツェルン - インターラーケン・オスト間とBLS AGのインターラーケン・オスト - ツヴァイジンメン間、モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道のツヴァイジンメン - モントルー間を合わせてゴールデンパス・ラインを構成しているほか、ツヴァイジンメン - レンク間の路線を有している。 導入後はDZe6/6形などとともに貨物列車の牽引を主として旅客列車の牽引にも使用されており、1980年代以降は事業用列車、工事列車等の牽引も行っているほか、除雪列車にも使用されている。 その後1983年のGDe4/4形電気機関車の増備などにより次第に定期運用を外れて事業用での運用が主となり、27号機は1996年に運用を外れた後2002年に廃車され、28号機は2008年以降は事業用列車の牽引専用機となり、定期列車の牽引には使用されなくなっているが、歴史的車両として博物館鉄道であるブロネイ-シャンビィ博物館鉄道で運行されることもある。
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運行・廃車
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「イタリア国鉄980蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式が運行されていた当時のチェーチナ-ヴォルテッラ線はトスカーナ州リヴォルノ県のティレニア海沿岸で、標高12mのチェーチナから標高468mのヴォルテッラ・チッタに至る1,435mm軌間、38.4kmの路線であった。チェーチナ駅ではイタリア国鉄のピサとローマを結ぶティレニカ線に接続している。同線は路線終端部のヴォルテッラ・サリーネ・ポマランチェ - ヴォルテッラ・チッタ間8.4kmのうち3.7kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており、シュトループ式のラックレールは歯厚70mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmであり、ヴォルテッラ・チッタ駅の手前にはスイッチバックが設けられていた。 本形式が運行されていた当時のパオラ-コゼンツァ線はイタリア南部カラブリア州コゼンツァ県のティレニア海沿岸で、標高10mのコゼンツァから途中標高514mのサン・フィーリ駅を経由して標高202mのパオラに至る路線であった。パオラ駅ではイタリア国鉄の南ティレニア線に接続し、コゼンツァではイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線と950mm軌間の私鉄であるカラブロ-ルカネ鉄道に接続する。同線はチェーチナ-ヴォルテッラ線に続くラック式路線であり、シュトループ式のラックレールもチェーチナ-ヴォルテッラ線と同一仕様の歯厚70mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmであった。 本形式は導入後ピサ機関区に配置されてチェーチナ-ヴォルテッラ線で使用され、旅客列車及び貨物列車の牽引に使用されている。旅客列車は当初はピサからの直通であったが、1921年にブレーキ用ピニオンを装備したCDUzもしくはBCDUz客車がヴォルテッラ・サリーネ・ポマランチェ - ヴォルテッラ・チッタ間で専用で使用されるようになっている。 1915年のパオラ-コゼンツァ線の開業に伴い、8両がピサ機関区からコゼンツァ機関区に転属されてパオラ-コゼンツァ線で運行され、単機もしくは重連で旅客列車及び貨物列車を牽引している。パオラ-コゼンツァ線ではその後1922年にボイラーを過熱式として牽引力を向上させた981が8両導入されたほか、さらに1937年にはALn56.1900気動車が、1955年にはALn64気動車が導入されて旅客列車はブレーキ用ピニオンを装備する粘着式気動車による運行が主となり、粘着区間での最高速度向上および機関車付替と給水の省略などがなされたため、所要時間は蒸気機関車牽引列車の約2時間20分に対して約90分と大幅に短縮されている。また貨物列車および他線から直通する客車による中長距離旅客列車の牽引には981が主として使用されるようになり、本形式は使用されなくなっている。 チェーチナ-ヴォルテッラ線のラック区間の所要時間は約45分で、自動車の15分に対して大きく見劣りしていたことなどから、1958年11月12日に廃止され、残存した区間はALn556気動車もしくは740および940蒸気機関車による運行となり、本形式は全機が廃車となっている。 廃車後、980.002号機がナポリにあるピエトラルサ国立鉄道博物館で静態保存されている。 チェーチナ-ヴォルテッラ線の線路高低図 パオラ-コゼンツァ線の線路高低図 最急勾配100パーミルのチェーチナ-ヴォルテッラ線で運行される980 001号機、1938年 チェーチナ-ヴォルテッラ線の終点ヴォルテッラ付近を走行する980が牽引する列車、後方は山頂のメディチ要塞、1920年 同じくチェーチナ-ヴォルテッラ線で運行される980、1912年 新線切替後のパオラ-コゼンツァ線のラック区間 パオラ-コゼンツァ線で本形式とともに運行されたALn56.1900、1971年 同じくALn56.1900の改良増備形であるALn64、カスティリオーネ・コゼンティーノ駅、1978年 ピエトラルサ国立鉄道博物館で静態保存されている980.002号機、2012年
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運行・廃車
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「スイス国鉄Ae8/14形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はゴッタルドルートで重量列車の牽引に使用された。 11852号機は1939年のチューリッヒの博覧会に出品された後、1940年から運用に入っている。 1941年からは11852号機をベースとした重連総括制御が可能なAe4/6形が、1953年にはゴッタルドルートで600tを牽引可能なAe6/6形が製造されて主力として使用されるようになったため、1960年代には主力としては使用されなくなっている。 1971年7月26日にはゴッタルドトンネル内での火災により11852号機が被災したため、そのまま1972年に廃車となり、外観のみ復元されてルツェルンの交通博物館に保存されている。 11851号機は1977年に廃車となり解体されたが、11801号機は歴史的機関車として残されて動態保存され、現在でも特別列車を牽引している。
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運行・廃車
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「カラブロ-ルカネ鉄道M1C 80R形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式は1951-53年にM1C 81R-90R号車計10両が導入されて4両がコゼンツァ-カタンザーロ・リド線(イタリア語版)のカタンザーロ・リド機関区に、6両がラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線(イタリア語版)のカストロヴィッラリ機関区に配置されている。 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線はイタリア南部カラブリア州コゼンツァ県の県都である標高202mのコゼンツァから、途中標高866mのビアンキ、カタンザーロ県で標高201mのカタンザーロ・チッタを経由して、カタンザーロの分離集落であるイオニア海沿岸のカタンザーロ・リドに至る950mm軌間、全長109.8kmの路線であった。コゼンツァではイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線とパオラ-コゼンツァ線に接続し、標高423mのペダーチェからはカラブロ-ルカネ鉄道のコゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線が分岐しており、カタンザーロ・リドではイタリア国鉄のイオニア線およびラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線と接続している。なお、本形式が運行されていた当時はラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線がカタンザーロ・サラ(当時の駅名はカタンザーロ) - カタンザーロ・リド間で本路線と並行していたほか、カタンザーロ・チッタおよびカタンザーロ・サラではカタンザーロ市内線に接続していた。同線の粘着区間の最急勾配は35パーミルであったが、尾根上に広がっていたカタンザーロ旧市街地内のカタンザーロ・プラティカ - カタンザーロ・サラ間のうち2.05kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており、1934年に開業したこの区間のシュトループ式ラックレールは歯厚62mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmである。カタンザーロ・リド機関区に配置された本形式はM1C 80形を置き換えて、開業当時から使用されていたラック式の500形蒸気機関車とともに主にカタンザーロ・チッタ - カタンザーロ・リド間で運行されていた。 その後機材の更新と旅客輸送力増強のため、本形式および蒸気機関車牽引の列車で運行されていた同区間の列車をラック式のディーゼル機関車が粘着式のM2 200形などの2軸ボギー気動車を牽引する列車で運行されることとなり、スイスのSLM製のLM2 700形が1982年-84年に導入されて本形式および500形を置換えている。なお、LM2 700形による運行は当初不具合が多かったこともあり、1991年、96年にFiat製のラック式気動車であるM4C 350形10両が、2009年-10年にスイスのシュタッドラー製のDE M4C 500形2両5編成が導入されて現在ではラック式区間はこの2形式で運行されている。 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線はイタリア南部バジリカータ州ポテンツァ県で標高600mのラゴネグロから、途中標高582mのラウリーア、290mのライーノ・ボルゴ、1025mのパヴォーネ、381mのカストロヴィッラリを経由して標高46mでカラブリア州コゼンツァ県のスペッツァーノ・アルバネーゼに至る950mm軌間、全長105.0kmの路線であった。ラゴネグロではイタリア国鉄のシチニャーノ・デッリ・アルブルニ-ラゴネグロ線に、スペッツァーノ・アルバネーゼでは同じくイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線に接続している。同線の粘着区間の最急勾配は60パーミルであったが、ラゴネグロ - リヴェッロ間2.6km、チーヴィタ - マドンナ・デッラ・カテーナ間2.4km、カッサーノ・アッロ・イオーニオ - ガルダ間3.8kmのうち計5.85kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており、シュトループ式ラックレールはコゼンツァ-カタンザーロ・リド線と同じく歯厚62mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmである。 この線は開業当初はイタリア国鉄のR370ラック式蒸気機関車を借用して運用していたが、その後ラゴネグロおよびカストロヴィッラリの両機関区に配置されたラック式の200形、260形、500形蒸気機関車、粘着式の350形蒸気機関車とラック式のM1C 80形気動車で運行されており、さらにその後1951年に本形式が導入されてM1C 80形を置き換える形で主にカストロヴィッラリ - スペッツァーノ・アルバネーゼ間で運行されている。 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線では、ラゴネグロ駅付近にあった上路アーチ橋であるセラ橋が緩慢地動により1径間においてアーチがずれて1952年には列車の運行ができなくなったため、ラゴネグロ - リヴェッロ間がバスによる運行に転換され、さらに1970年にはカッサーノ・アッロ・イオーニオ付近のエイアノ橋が水害により損傷したためカストロヴィッラリ - スペッツァーノ・アルバネーゼ間が廃止となってラック式区間がすべて廃止となっており、ラック式駆動装置を撤去したM1C 88R-90R号車が同じくラック式駆動装置を撤去したM1C 85、88号車とともに同区間で運行されている。なお、1978年6月18日には残っていた全線の運行が停止され、1979年9月20日に全線が廃止となっている。また、その間の1961年12月23日に発生したフィウマレッラ鉄道事故を契機に地中海-カラブロ-ルカネ鉄道の各路線の運行は、1964年1月1日からカラブロ-ルカネ鉄道が担当することとなり、本形式も同鉄道の所有となっている。なお、本形式運用後の1990年には同社は二分され、コゼンツァ-カタンザーロ・リド線を中心とするカラブリア鉄道およびアップロ・ルカーネ鉄道となって現在に至っている。 廃車後にローマ近郊のパリアーノの公園である "La Selva"内の観光鉄道においてM1C 88号車およびM1C 90号車や他の機関車、客車などとともにM1C 80R形が動態保存されていた。 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線で運行されるM1C 82R号車、1984年 本形式とともにラック区間で運行されていた500形ラック式蒸気機関車、動態保存されている504号機、2006年 本形式の後にコゼンツァ-カタンザーロ・リド線のラック区間で短期間運行されたLM2 700形ラック式ディーゼル機関車、コゼンツァ機関区 現在コゼンツァ-カタンザーロ・リド線のラック区間で運行されているM1C 350形のM1C 353号車 2009年以降増備されたDE M4C 500形、カタンザーロ・リド駅、2016年 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線のうち、ラック区間のあるカタンザーロ・チッタ間付近の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の線路高低図、赤色の部分がラック区間 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線のラック区間 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線の線路高低図、赤色の部分がラック区間 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線のラゴネグロ駅付近のセラ橋、1930年頃 コゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線(赤実線)およびクロトーネ-ペティーリア・ポリカストロ線(黒点線)の路線図、両線は接続する計画であった
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運行・廃車
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「フォルヒ鉄道BDe4/4 9-10形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機が使用されるフォルヒ鉄道はチューリッヒ市交通局の路面電車線と直通運転をしておりチューリヒ州チューリヒのスイス国鉄のチューリッヒ・シュタデルホーフェン駅前からレーアルプ間3.35kmはレーアルプ – アウツェルク間のチューリッヒ市交通局の11系統の一部区間、レーアルプからフォルヒおよびフォルヒ峠を経由してエスリンゲンまでチューリッヒから南東方面へ延びる13.06kmの区間がフォルヒ鉄道線となっており、フォルヒ鉄道のほぼ全ての列車はチューリッヒ・シュタデルホーフェン駅まで直通運転している。なお、エスリンゲンでは1949年までの間、ウスター-オエツヴィル鉄道に接続していたほか、本機の廃車後の1990年にはチューリッヒSバーンの18系統に指定されてチューリッヒ・シュタデルホーフェン - フォルヒ間は終日、フォルヒ以降はラッシュ時には15分間隔で運行されている。 フォルヒ鉄道は道路端に敷設されたの専用軌道区間の多い路線であり、最急勾配67パーミル、標高485-680mの路線であり、レーアルプからフォルヒ駅の一つ手前の新フォルヒ駅までの間が1956年から1978年にかけて順次複線化されている。 本機はフォルヒ鉄道の運行する全線で使用されており、1959年、66年に製造された改良型であるBDe4/4 11-16形とともに単行での運行のほか、客車や後に製造されたBt 101-108形制御客車、B 118-119号車を牽引していた。 BDe4/4 10号機は歴史的車両として動態保存されており、同様に動態保存されている1912年製のCFe2/2 4号機や2軸付随車のC 11号車などと共に特別列車として運行されている。
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運行・廃車
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「シャフハウゼン-シュライトハイム軌道BDe4/4 6形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
シャフハウゼン-シュライトハイム軌道はスイス北端のライン川北岸に位置するシャフハウゼン州の州都シャフハウゼンから北西方向にシャフハウゼン通りを進み、ベリンゲン、シュライトハイムを経由してその後はシュバルツバルト通りをドイツ国内のシュテューリンゲンの街のスイス - ドイツ国境手前数百mのオーバーヴィーゼンにあるオーバーヴィーゼン-シュテューリンゲン駅までの18.9kmの路線を運行しており、シャフハウゼン駅前広場からドイツ国鉄をアンダークロスする地点付近までの2.5kmがほぼ全ての列車の直通運転先であるシャフハウゼン軌道線、以降16.4kmがシャフハウゼン-シュライトハイム軌道線となり、最終の1964年時点のダイヤでは所要60-70分程度であった。 同鉄道はシャフハウゼン軌道を含む18.9kmの路線のうち開業時で16.4km、道路と軌道の分離が進んだ1946年でも13.7kmが併用軌道で残りの軌道もほとんどが道路端部に設置されたものであり、最急曲線半径は17m、最急勾配60パーミル、標高390(シャフハウゼン-シュライトハイム軌道線では432m)-558mの路線であり、シャフハウゼンでスイス国鉄、ドイツ国鉄に接続していたほか、オーバーヴィーゼン-シュテューリンゲン駅から国境を挟んで数百mの地点でヴタハール鉄道シュテーリンゲン駅に連絡をしていた。 BDe4/4 6号機はBDe4/4 1-5形と共通で全線で使用されており、単行での運行のほか、混合列車を含む客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、重連総括制御機能は持たないもののBDe4/4 1-5形やFe2/2 51形との重連でも使用されていたほか、貨物列車ではスイス国鉄のシャフハウゼン貨物駅に乗り入れていた。また、B4 61号車も同様に他の2軸客車や貨車とともに全線で使用されており、牽引機もBDe4/4 6号機に特定せず、BDe4/4 1-5形やFe2/2 51形も使用されていた。 1964年10月1日の路線廃止に伴って廃車となり、BDe4/4 6号機はBDe4/4 3および5号機とともにビール-テウフェレン-インス鉄道に譲渡されたが、同鉄道では1965年に新しいBe4/4 1-5形が導入されており、あまり使用されず他の譲渡車とともに1966年に廃車となっている。 同様に1964年に廃車となったB4 61号車はオーベルアールガウ-ジュラ鉄道に譲渡されてB 25号車として車体下半部をオレンジ、上半部をクリーム色とした塗装で運行されていたが、その後1967年にBDe4/4 6号機と同じビール-テウフェレン-インス鉄道へ再度譲渡され、車体下半分を濃緑色、上半分をクリーク色とした塗装で運行され、1968年に使用停止、1969年に廃車となっている。なお、この間に更新改造が実施されて側面窓が大きいものとなり、台車も変更されている。
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運行・廃車
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「レーティッシュ鉄道ABe4/4 31-37形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベルニナ鉄道として開業したレーティッシュ鉄道ベルニナ線はサンモリッツからイタリアのティラーノ間の全長60.69 km、最急勾配70パーミル、最急曲線半径45 m、最高高度2253 m、高度差1824 mの山岳路線である。 本形式は製造後一貫してベルニナ線で旅客列車、貨物列車の牽引に使用されている。ベルニナ線では一時本線用の電気機関車2両を運用していたこともあるが、基本的には電車が客車および貨車を牽引する列車が主力となっている。なお、勾配及び曲線等によって牽引トン数が下表のとおり定められている。 BC4 1-14→ABe4/4 31-37形牽引トン数一覧区間最急勾配BCe41-14単機ABe4/4 31-37単機ABe4/4 31-37重連サンモリッツ-ポントレジーナ-サンモリッツ38パーミル 40 t 70 t 110 t ポントレジーナ-オスピッツォ・ベルニナ70パーミル 23 t 40 t 60 t オスピッツォ・ベルニナ-ティラーノ70パーミル 60 t 60 t 70 t ティラーノ-カンポコローニョ70パーミル 26 t 40 t 60 t カンポコローニョ-オスピッツォ・ベルニナ70パーミル 20 t 40 t 60 t オスピッツォ・ベルニナ-ポントレジーナ70パーミル 70 t 70 t 120 t ^ 貨物列車は100t 本形式は通常の営業列車のほか冬季の除雪列車などの事業用および工事用列車の牽引などにも使用されている。なお、ベルニナ線では通常の除雪列車は活線下で電車もしくは電気機関車と除雪車を使用して運行されており、X 9131形、L 6049形、X9126-9129形などのラッセル車やXrot e 9215形およびXrot et 9218-9219形電気ロータリー除雪車やXrot d 9213-9214形蒸気ロータリー除雪機関車の推進およびX 9132形マックレー車の牽引に本形式も多く使用されているほか、Xk 9141-9147形ラッセルヘッドを連結した旅客列車等でも運行されている。 ABe4/4 31-34号機はクール・アローザ線でも使用されているが、この路線はスイス最古の都市クールから著名な避暑地でありスキーリゾートであるアローザ間での全長25.7 km、最急勾配60パーミル、最急曲線半径60 m、最高高度1739 m、高度差1155 mの山岳路線である。なお、勾配及び曲線等によって牽引トン数が下表のとおり定められている。 ABe4/4 31-34号機牽引トン数一覧区間最急勾配ABe4/4 31-34単機ABe4/4 31-34重連クール-Depot Sand40パーミル 55 t 100 t Depot Sand-アローザ60パーミル 45 t 85 t アローザ-クール60パーミル 95 t 110 t
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運行・廃車
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「スイス国鉄De4/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は新造後まずチューリッヒとバーゼルの都市近郊列車として運行が開始され、1929年からは重連総括制御機能を活用してチューリッヒ - マイレン - ラッパースヴィール間およびバーゼル - リースタル - オルテン間のシャトルトレインとして、2軸もしくは3軸客車を2両半永久連結としたB-B(3等車)もしくはB-C(2等/3等合造)中間車と片側に運転室を持つ2軸ボギー式のBt4 4001形2等制御客車、BCt4 5301-5305形2等/3等合造制御客車、荷物室付きのため主にCe4/6形と使用されたCFt4 9751-9754形3等/荷物合造制御客車で編成を組んでCe4/6形電車およびCe4/4形電車とともに使用されていた。 これらのシャトルトレインのうち、Fe4/4 18517号機とFe4/4 18518号機の2機がそれぞれ3等客車C-C 5714-5721号車と2等/3等合造客車B-C 4201-4204号車、3等制御客車Bt4 4001号車もしくは2等/3等合造制御客車BCt4 5301号車1両ずつと編成を組んだ2編成については、1929年に車体の下半分を青、上半分をクリーム色とした特別塗装に変更して、チューリッヒ - ラッパースヴィール間で通称"Arbeiter-Pullman(労働者のプルマン車)"として1939年まで運行されていた。 1931年には18501-18508号機の8機がスイス中央部ルツェルンの配置に変更となり、通称ゼータル線で運行されるようになった。ゼータル線はゼータル鉄道が運営していたものを1922年に国有化したもので、ルツェルン - レンツブルク間42.1kmの本線と1997年に廃止となった、途中のバインヴィール・アム・ゼーから分岐してベロミュンスターまで8.0kmの支線からなり、高度は本線は海抜406-521m、支線は520-650mであるほか、最急勾配は本線は36パーミル、支線は39パーミルであり、この勾配に対応するために18501-18508号機には回生ブレーキが追加されている。 同線は1930年に電化方式をAC5.5kV 25Hzからスイス国鉄の他の路線と同じAC15kV 16.7Hzに変更しており、Fe4/4形は電化方式変更により廃車となったゼータル鉄道引継ぎの電車の代替として、従来から同線で運行されていた複電圧対応のDe6/6形電気機関車とともに同線で客車および貨車を牽引しており、原形時は従来の制御客車と、車体更新後はVst IIIe対応のBti 1951-1961形2等制御客車やBDti 1971-1977形2等/荷物合造制御客車などと編成を組んでシャトルトレインとしても使用されていた。。 ゼータル線は沿道との交差が多いほか、道路と軌道が近接しており、自動車との接触事故が多く発生していたため、1956年には車体塗色を濃緑色から赤茶色に変更をし、1957年には前照灯を黄色のものに変更しているほか、車体更新改造後の1982年には車体前面下部に黄色とオレンジの警戒色を追加している。なお、この警戒色は後にゼータル線に配属されたRBe540形にも引継がれている。 1938年には18509-18511号機の3機がスイス西部ローザンヌの配属に変更となり、ジュラ山脈の渓谷であるヴァレ・ドゥ・ジューのヴァロルブからル・デを経てル・ポンからポン-ブラッシュ鉄道へ乗入れてル・ブラッススまでの間の1938年10月に電化された24.8kmで運行されるようになり、一時的にヴェヴェイ - ビュイドゥー・シュブル間7.8kmでも運行されていた。ヴァロルブ - ル・ブラッスス間は高度787-1049mで、途中6km以上40パーミルの勾配区間が連続する路線であるため18509-18511号機には回生ブレーキが追加されている。 18512号機以降は引き続きチューリッヒ、バーゼル、ジュネーヴなどの都市近郊列車としてシャトルトレインで、1950年代頃までは旧型の2軸もしくは3軸客車などとも編成を組んで使用されていたが、1960-70年代には各地でローカル列車を牽引するようになった。 原形のまま残った1672-1685号機は、1966年に1672号機が車体更新機の予備部品確保用に廃車となったほか、1971年以降順次廃車となり、1983年には全機が運用を外れており、このうち1678号機は青とクリーム色の"Arbeiter-Pullman"塗装に変更の上でルツェルンの交通博物館に静態保存されており、また、製造以降1975年までチューリッヒに配属されて都市近郊列車を牽引し、その後1983年までロールシャッハに配属されてザンクト・ガレン - スルゲン間とザンクト・ガレン - ロマンスホルン間で運行されていた1679号機がスイス国鉄の歴史的車両に指定されてロールシャッハを拠点に動態保存されている。 車体更新改造を実施した1661-1671号機もRBDe560形が牽引するシャトルトレインであるNPZの増備が進んだことなどにより、ゼータール線では主にRBe540形の試作機である401-406号機によって、ポン-ブラッシュ鉄道ではRBDe560形によって置き換えられて1987-88年に順次廃車となっている。 各機体の廃車年は以下の通り 原形機1672 - 1966年10月 1673 - 1982年4月 1674 - 1971年7月 1675 - 1983年5月 1676 - 1978年4月 1677 - 1978年7月 1678 - 1982年5月 - ルツェルン交通博物館に静態保存 1679 - 1983年よりスイス国鉄の歴史的車両として動態保存 1680 - 1983年5月 1681 - 1974年12月 1682 - 1983年5月 1683 - 1974年8月 1684 - 1974年12月 1685 - De4/4 12001号機へ改造、1981年12月廃車 車体更新機1661 - 1988年8月 1662 - 1988年12月 1663 - 1988年12月 1664 - 1987年2月 1665 - 1988年11月 1666 - 1988年8月 1667 - 1988年12月 1668 - 1988年12月 1669 - 1988年11月 1670 - 1988年6月 1671 - 1989年8月
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運行・廃車
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「ツェントラル鉄道BDeh4/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ツェントラル鉄道の旧ルツェルン-シュタンス-エンゲルベルク鉄道区間で使用されるが、この線はフィーアヴァルトシュテッター湖畔のルツェルンから途中までブリューニック線を経由したあとシュタンスを経て「天使の里」を意味する修道院の村でありスキーリゾートでもあるエンゲルベルクに至る、全長24.78km、最急勾配50パーミル(粘着区間)もしくは250パーミル(ラック区間)、最急曲線半径70m(粘着区間)もしくは100m(ラック区間)、最高高度1002m、高度差566mの山岳路線である。 通常は本機と2等客車1両、1/2等制御客車1両で編成定員147名、編成重量74t(空車)/91t(積車)の編成を組み、粘着区間では輸送量に応じて数両の客車を増結している。なお、保安上の理由で必ず本機が坂の下側(ルツェルン側)に連結される。 1967年の電源方式変更以降動力車は本機のみで運行されてきたが、1990年以降はブリューニック線で使用されていたDeh120形電車を譲受して粘着区間専用に改造したDe4/4が粘着区間で旅客列車に使用されている。 2010年12月にはオーバーマット - エンゲルベルク間の250パーミル区間を短絡するエンゲルベルクトンネルが開業して最急勾配が34パーミル(粘着区間)もしくは105パーミル(ラック区間)に緩和されて所要時間短縮と輸送力の増強、運用編成数の低減が図られることとなり、ルツェルン - エンゲルベルク間のインターレギオはHGe101形電気機関車が更新改造を実施した従来型の軽量客車4両程度、3車体連接・部分低床式のABt 941-943形制御客車を牽引する列車による運用に変更となっている。これに伴いBDeh4/4形が牽引する列車はルツェルン - エンゲルベルク間の多客時の増発列車のみとなっており、2011年以降順次廃車となり、2012年3月時点では4機が残存している。
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運行・廃車
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「ブレンガルテン-ディーティコン鉄道Be4/4 6-8形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ブレンガルテン-ディエティコン鉄道はアールガウ州のヴォーレンからブレンガルテンを経由してチューリッヒ州のディーティコンに至る18.9kmの路線であり、最急勾配56パーミル、最急曲線半径33m、標高389-550mの路線であり、両端駅でスイス国鉄に接続するほか、ヴォーレンからブレンガルテン西間6.4kmは1435mm軌間の旧ヴォーレン-マイスターシュヴァンデン鉄道線との三線軌条、ディーティコン付近約1.3kmは併用軌道となっている。なお、本形式の運行していた時代より後の、1990年5月27日にはチューリッヒのSバーンに指定されてS-17系統となってアールガウ州からチューリッヒ州への通勤路線として運行されており、1995年以降には一部区間の複線化が行われている。 Be4/4 6I-8II形が導入された1940年代の同鉄道は電車が旅客列車や貨物列車を牽引する列車で運行されており、本形式も従来からの電車と共通で全線で、単行での運行のほか、混合列車を含む客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、重連総括制御機能は持たないものの電車同士での重連でも使用されていた。また、B4 41-43形も同様に他の旧型2軸客車、ボギー客車や貨車とともに全線で使用されており、牽引機もBDe4/4に特定されていなかった。 ブレンガルテン-ディエティコン鉄道ではその後も輸送量が増大して1965年には輸送人員が132万人を超え、従来からの機材の老朽化も進んでいたことから総合的な近代化を図るために1960年代にさまざまな検討がなされ、結果として固定編成による列車により効率的なパターンダイヤを組むこととなって3車体連接式のBDe8/8形9編成を1967年に発注し、1969年6月1日のダイヤ改正で通常運行されるの全ての旅客列車に置き換え、同時に架線電圧を900Vから1200Vに昇圧している。この結果、従来の1000mm軌間用機材のうち事業用もしくは貨物列車牽引用として残されることとなったBDe4/4 10-11形およびBe4/4 7II号機の計3機のみが架線電圧昇圧対応工事を実施し、それ以外の電車および事業用のものを除く客車は全車廃車となっている。なお、新しいBDe8/8 7III号機と機番が重複するBe4/4 7II号機はこの際にBe4/4 27号機に改番されている。 Be4/4 6I、8II号機は廃車後の1969年7月にフラウエンフェルト-ヴィル鉄道に譲渡されてBe4/4 204、206号機となって使用され、Be4/4 27号機(もとのBe4/4 27II号機)も翌1970年1月に同鉄道に譲渡されてBe4/4 205号機となっている。詳細は次項を参照。 B4 41-43号車は廃車後の1969年夏にスイス中央部の私鉄であるビール-テウフェレン-インス鉄道に譲渡されてB 41-43形となり、車体下半部を赤、上半部をクリーム色とした塗装となって使用されている。 その後B 41号車とB 42号車は1978年にスイス西部の私鉄であるニヨン-サン=セルゲ-モレ鉄道に譲渡されてB 41-42形となって、譲渡前の塗装のまま電車が牽引する列車で使用されていたが、1985年のBe4/4 201-205形電車およびBt 301-305形制御客車の導入に伴い、1990年-91年には両形式の中間車として重連総括制御用の引通し線を設け、車体塗装も濃オレンジ色をベースにオレンジ色の太帯の入ったものに変更され、機番も変更されてB 341-342形となっている。また、B 43号車は1979年にスイス中央部の私鉄オーベルアールガウ-ジュラ鉄道に譲渡されてB 18号車となった後1984年にはB 162号車に改番され、1987年にはビュッフェ・バー車Br 162号車に改造されている。
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運行・廃車
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「マイリンゲン-インナートキルヒェン鉄道BDa2/2 4-5形蓄電池車」の記事における「運行・廃車」の解説
マイリンゲン-インナートキルヒェン鉄道は軌間1000mm、全長5.0km、最急勾配は20パーミル、標高595-637mの路線であり、1926年にKWOの専用線としてスイス国鉄唯一の1000mm軌間の路線であったブリューニック線のマイリンゲン駅に接続する同線マイリンゲン駅からアーレ川岸を遡って、KWOの本社や工場のあるインナートキルヒェンまでが開業して貨物及び人員の輸送を行っており、1946年にはKWOが子会社としてマイリンゲン-インナートキルヒェン鉄道を設立して鉄道路線としての営業を開始している。インナートキルヒェンからグリムゼル峠に至るルートは古くからの街道であるとともに、観光ルートでもあったほか、マイリンゲンから一部並行していた、ライヘンバッハの滝へ至る軌道線であるマイリンゲン-ライヒェンバッハ-アーレシュルヒト軌道 が1956年に廃止となり、本鉄道のアルプバッハ駅がライヒェンバッハの滝へ至るケーブルカーであるライヒェンバッハ滝鉄道への最寄駅となったこともあり、マイリンゲン-インナートキルヒェン鉄道は観光用としての側面も有することとなっている。 KWOは1925年から1932年にかけてハンデック第一発電所を、その後1939-42年にはインナーキルトヒェン第一発電所の建設が行われ、これに合わせてCFa2/2 4号機が導入され、1947-50年にハンデック第二発電所が建設されており、これと営業運行の開始に合わせてCFa2/2 5号機が導入されている。なお、1952-79年には引続き5箇所の発電所が建設され、2002-07年には2箇所の発電所の更新が行われている。 本形式は導入当初の専用線時には職員輸送列車として運行されたほか、Ta2/2形とともに貨物列車の牽引に使用されたており、1947年に営業運行を開始してからは一般の旅客列車として運行され、臨時列車としてスイス国鉄から乗り入れた客車列車を牽引したこともある。また、営業運行開始後も引続き貨物列車の牽引に単行もしくは重連で使用されており、自社またはスイス国鉄が所有する1000mm軌間用のほか、ロールワーゲンに積載した標準軌用貨車も牽引している。 マイリンゲン-インナートキルヒェン鉄道は1977年に直流1200Vで電化されており、これに伴って OEGから授受した路面電車にディーゼル発電機を搭載したディーゼル/電気両用の2等/荷物車であるBem4/4 6-7形2機が導入されると、本形式は軸重の重いこともあり、同年中に運用から外れている。廃車後は4号機は1982年にルツェルンのスイス 交通博物館に譲渡されて保存されており、5号機はKWOの工場前に静態保存されている。 なお、KWOでは所有する地下専用鉄道のうち、全長4.8km、軌間500mm、最急勾配88パーミルのグッタネン-ハンデック線においても、近隣の道路に雪崩の危険がある場合には通学用として人員輸送用の蓄電池電車牽引の列車を運行しているほか、沿線には観光用としてダムおよび湖に至るケーブルカー1路線、ロープウェイ・リフト3路線を運行し、他の電力会社が保有するケーブルカー1路線の保守も行っている。
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運行・廃車
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「イタリア国鉄ALn990気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式はまずALn990.1001号車および1002号車が1950年8月にロールアウトし、トリノに配置されて試運転を実施している。その後トリノにはALn990.1000とLn990.1000が配置され、ALn990.1000はさらにトレヴィーゾ、パレルモにも配置され、ALn.990.3000およびLn990.3000はボローニャに配置されて、全車が1953年までに営業運転を開始している。 トリノに配置されたFIat製の機体はその後トレヴィーゾに転属し、代わりにボローニャからOM製の機体が転入している。トリノではトリノ - アローナ、トリノ - プレ=サン=ディディエ間などで運行されていたほか、ATR100とともにトリノ - ジェノバやトリノ - サヴォーナ間の都市間列車に使用されることもあった。 ボローニャに配置された機体はボローニャ - ヴェネツィア - トリエステ、トリエステ - パドヴァ間の都市間列車などで使用されている。また、1950年代前半には一部非電化であったミラノ - バーリ間でALe840電車と併結して運行されていた。 トレヴィーゾに配置された機体はALn880とともにヴェネツィア - カラルツォ・ディ・カドーレの運用で使用されたほか、主にヴェネツィア - ウーディネ、ウーディネ - ヴィチェンツァ、ヴィチェンツァ - トリエステ間の都市間列車で運行されていた。 その後Fiat製の機体はローマにも配置されていたが、1964年には全車がシチリア島のパレルモの配置となっており、勾配の多い同島の路線での運行のため、前述のとおり5両のLn990.1000は動力装置一式を搭載してALn990.1000に改造されており、その後一時カターニアにも配置されている。 ボローニャに配置されたOM製の機体はその後トリノのほかピサとパヴィーアに転属となり、トリノ配置の機体もパヴィーアに転属となっている。ピサ配置の機体はフィレンツェ - ヴィアレッジョ、 ルッカ - アウッラ、ピサ - ヴォルテッラ間などで運用されていた。また、パヴィーア配置の機体はヴァレンツァ - アレッサンドリア間などで運用されていたほか、カラルツォ - ベッルーノ - ヴィチェンツァ - ミラノ間の急行列車であるフレッチャ・デッレ・ドロミーティの運用に、元TEE用のALn442-448に置換えられる1975年まで使用されていた。 1979年1月時点での配置は以下の通り。パレルモ:ALn990.1000 21両 パヴィーアもしくはピサ:ALn990.3000 39両/Ln990.3000 10両 本形式は断熱材および防音材として使用されていたアスベストの除去が困難であることから、1980年代には廃車が始まり、1988年までに全車が廃車されている。また、ALn990.1005号車はシチリア島に関連する鉄道車両の保存団体であるTreno D.O.C.によって静態保存のための復元待ちの状態となっている。
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運行・廃車
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「イタリア国鉄ALn880気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式はまずナポリとトレヴィーゾに配置されている。 ナポリに配置された機体はナポリからローマやカゼルタ方面の列車の運用に使用されており、ナポリ - ターラント間の都市間列車でも使用されている。なお。ナポリ配置の機体の優等列車での運用は1959年にD.341ディーゼル機関車が牽引する客車列車に置き換えられており、その後1964年にはトレヴィーゾに転属している。 トレヴィーゾに配置された機体はALn990とともに主にヴェネツィア - カラルツォ・ディ・カドーレ間の列車に使用されたほか、いくつかの区間で使用されたのち、ヴェローナに転属している。ヴェローナではレニャーゴ、ロヴィーゴ、キオッジャ、フェラーラ、ラヴェンナ方面の路線で運用されていたが、より新しい気動車やディーゼル機関車牽引の列車などに置換えられて一部はボローニャに転属し、トレヴィーゾに残った機体は1983年には全車が予備車となっている。 1979年1月時点での配置は以下の通り。ヴェローナもしくはボローニャ:ALn880 40両/Ln880 10両 本形式は断熱材および防音材として使用されていたアスベストの除去が困難であることから、1980年代には廃車が始まり、1985年までに全車が廃車されている。また、ALn880.2018号車はピエトラルサ国立鉄道博物館で静態保存されている。
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運行・廃車
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「ヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道HG2形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道は、スイス北西部のヌーシャテル湖北岸のヌーシャテルから、近郊のブードリーおよびコルタイヨ間を結ぶ路面軌道線であり、ヌーシャテル市内など都市部では道路上を走行する併用軌道、近郊区間では専用軌道となっており、ヌーシャテル駅 - ブードリー間10.24kmの路線と、途中アレウスから分岐してコルタイヨに至る0.83kmのいずれも1000mm軌間、非電化の路面軌道である。この路線のうち、高台にあるジュラ-シンプロン鉄道のヌーシャテル駅からヌーシャテル湖畔のヌーシャテル港までの区間は急勾配を伴う路線となっており、このうち586mの区間が最急勾配86パーミルのリッゲンバッハ式ラック式区間となっており、粘着区間では最急勾配26パーミルとなっていた。本鉄道のリッゲンバッハ式のレールは15mm厚の山形鋼2本を95mm間隔で配置し、その間にラックとして長辺45mm、短辺27mm、高さ36mmの台形断面の鋼材を80mm間隔で設置したものであり、通常溝形鋼を使用するところを、併用軌道において障害とならないよう山形鋼を使用し、また、山形鋼上面とラックとなる鋼材の上面が平面となるようになっていた。本鉄道では1892年9月16日の開業にあたり、本形式を含め以下の機材が用意されている。粘着式/ラック式兼用蒸気機関車:2機(HG2 1および2号機(本形式)) 粘着式蒸気機関車:1機(G2 3号機) 客車:2軸ボギー2等/3等合造車2両(BC 1-2号車)、2軸2等/3等合造車4両(BC 5-8号車) 貨車:2軸荷物車2両(F 11-12号車)、2軸有蓋車4両(K 15-18号車)、2軸無蓋2車両(L 21-22号車)、2軸平物車2両(M 26-27号車) その後順次機材の増備がなされ、1895年には本形式の増備としてHG2 4号機が、後述の一部電化後の1898年には粘着式専用機であるG2 5号機が増備されたほか、1894年には客車2両、1897年には貨車6両が増備されており、本形式はヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道の全線で客車および貨車を牽引して運行されていた。 1898年にはラック式であった586mの区間を粘着式に改めるとともに、ヌーシャテル駅 - ヌーシャテル港 - エヴォル間のみ電化がなされてCe2/2 1-3形電車およびこれと編成を組む2軸ボギー客車のC 2-3号車が運行されるようになったため、本形式はこの区間では運行されなくなるとともにラック式駆動装置も使用されなくなり、G2 3号機およびG2 5号機と共通で運行されるようになった。これに合わせ同年にはHG2 4号機がSLMにてラック式駆動装置の撤去とボイラーの換装工事を実施しており、改造後は粘着式専用機として運行されている。一部区間電化のこの当時は電化されたヌーシャテル駅 - ヌーシャテル港 - エヴォル間の市内線の区間列車と、ヌーシャテル港 - ピュリー広場 - エヴォル - コルタイユおよびブードリー間の近郊区間のスチームトラム牽引の区間列車とに運行が分かれていた。 一方、ヌーシャテルでは市内線として1894年にヌーシャテル・セントブレーズ鉄道が開業して1897年にはヌーシャテル軌道に社名変更していたほか、その後1910年に近郊路線のヌーシャテル・ショーモン鉄道が、1890年にケーブルカーのエクルーズ・プラン線が開業していた。ヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道は1901年にヌーシャテル軌道に統合され、その後1943年にかけて順次同軌道に統合されていったが、本形式は引続きヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道の非電化路線で運行されていた。 HG2 4号機は1901年に廃車となって、スイス西部のブーレ-ロモン鉄道に譲渡され、G2/2 4号機として建設工事用機関車として使用された後、モンテイ-シャンペリ-モルジャン鉄道の建設工事にも使用され、1929年に廃車となっている。 1902年には旧ヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道の全線が直流600Vで電化され、電車による運行に切り替えられたため、本形式のうち残存していたHG2 1、2号機はG2 3、5号機とともに定期運用を外れている。その後1902年にHG2 1、2号機はG2 3、5号機とともに当時オスマン帝国であった、現在のシリアのダマスカスからアレッポに至る鉄道路線の建設用として譲渡され、ベイルート-ダマスカス鉄道に接続するリヤックからバグダード鉄道に接続するアレッポに至る1435mm軌間の鉄道の建設に使用されたものとされているが、詳細は不明となっている。 なお、ヌーシャテルの市内線は順次トロリーバスに転換されており、本形式が運行されていた旧ヌーシャテル・ブードリー・コルタイヨ地域鉄道についても市内のヌーシャテル駅 - ピュリー広場間が廃止となり、インターアーバンの路線としてピュリー広場以降が運行されていたが、1984年には支線であるアレウス - コルタイヨ間がバスに転換されて廃止となっており、現在ではピュリー広場 - ブードリー間の8.86kmの運行となっている。
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運行・廃車
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「カラブロ-ルカネ鉄道M1C 80形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式が運行されていたコゼンツァ-カタンザーロ・リド線(イタリア語版)はイタリア南部カラブリア州コゼンツァ県の県都である標高202mのコゼンツァから、途中標高866mのビアンキ、カタンザーロ県で標高201mのカタンザーロ・チッタを経由してイオニア海沿岸のカタンザーロ・リドに至る950mm軌間、全長109.8kmの路線であった。コゼンツァではイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線とパオラ-コゼンツァ線に接続し、標高423mのペダーチェからはカラブロ-ルカネ鉄道のコゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線が分岐しており、カタンザーロ・リドではイタリア国鉄のイオニア線およびラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線と接続している。なお、本形式が運行されていた当時はラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線がカタンザーロ・サラ(当時の駅名はカタンザーロ) - カタンザーロ・リド間で本路線と並行していたほか、カタンザーロ・チッタおよびカタンザーロ・サラではカタンザーロ市内線に接続していた。同線の粘着区間の最急勾配は35パーミルであったが、尾根上に広がっていたカタンザーロ旧市街地内のカタンザーロ・プラティカ - カタンザーロ・サラ間のうち2.05kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており、1934年に開業したこの区間のシュトループ式ラックレールは歯厚62mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmである。 本形式は同じくラック式の500形蒸気機関車とともカタンザーロ・リド機関区に配置され、主に同区間を含む、カタンザーロ・チッタ - カタンザーロ・リド間で運行されていた。 本形式が運行されていたもう一つの路線であるラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線(イタリア語版)はアペニン山脈南部のポリーノ山塊を通過するもので、イタリア南部バジリカータ州ポテンツァ県で標高600mのラゴネグロから、途中標高582mのラウリーア、290mのライーノ・ボルゴ、1025mのパヴォーネ、381mのカストロヴィッラリを経由して標高46mでカラブリア州コゼンツァ県のスペッツァーノ・アルバネーゼに至る950mm軌間、全長105.0kmの路線であった。ラゴネグロではイタリア国鉄のシチニャーノ・デッリ・アルブルニ-ラゴネグロ線に、スペッツァーノ・アルバネーゼでは同じくイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線に接続している。同線の粘着区間の最急勾配は60パーミルであったが、ラゴネグロ - リヴェッロ間2.6km、チーヴィタ - マドンナ・デッラ・カテーナ間2.4km、カッサーノ・アッロ・イオーニオ - ガルダ間3.8kmのうち計5.85kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており、シュトループ式ラックレールはコゼンツァ-カタンザーロ・リド線と同じく歯厚62mm、ピッチ100mm、歯たけ15mm、粘着レール面上高75mmである。 この線は開業当初はイタリア国鉄のR370ラック式蒸気機関車を借用して運用していたが、その後ラゴネグロおよびカストロヴィッラリの両機関区に配置されたラック式の200形、260形、500形蒸気機関車、粘着式の350形蒸気機関車で運行されており、さらにその後1937年に本形式が導入されて主にカストロヴィッラリ - スペッツァーノ・アルバネーゼ間で運行されている。 その後本形式の代替として1951年-53年にM1C 80R形のM1C 81R-90R号車計10両が導入されて4両がコゼンツァ-カタンザーロ・リド線のカタンザーロ・リド機関区に、6両がラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線のカストロヴィッラリ機関区に配置されると、本形式は1953年以降順次ラック式駆動装置を撤去している。 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線では、ラゴネグロ駅付近にあった上路アーチ橋であるセラ橋が緩慢地動により1径間においてアーチがずれて1952年には列車の運行ができなくなったため、ラゴネグロ - リヴェッロ間がバスによる運行に転換され、さらに1970年にはカッサーノ・アッロ・イオーニオ付近のエイアノ橋が水害により損傷したためカストロヴィッラリ - スペッツァーノ・アルバネーゼ間が廃止となってラック式区間がすべて廃止となっており、車体更新工事とラック式駆動装置の撤去を実施したM1C 85号車とM1C 88号車も同区間で運行されている。なお、1978年6月18日には残っていた全線の運行が停止され、1979年9月20日に全線が廃止となっている。 ラック式駆動装置を撤去したM1C 81、86、89、90号車は全線粘着式のクロトーネ-ペティーリア・ポリカストロ線に転用されて運行されていた。この路線はコゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線のサン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレへの接続を計画していたもので、カラブリア州東部クロトーネ県、イオニア海沿岸のクロトーネ・チッタからイタリア国鉄と接続するクロトーネを経由して同じくクロトーネ県で標高264mのペティーリア・ポリカストロに至る950mm軌間、40.7kmの本線と、クロトーネ市街のビヴィオ・ポルトから分岐してクロトーネ・ポルトに至る950mm軌間、1.5kmの支線が1930年に開業した。同線では蒸気機関車とM1 1形、M1 30形およびM1C 80形単端式気動車により運行されており、本形式は1972年の同線の廃止まで使用されていた。 なお、1961年12月23日に発生したフィウマレッラ鉄道事故を契機に地中海-カラブロ-ルカネ鉄道の各路線の運行は、1964年1月1日からカラブロ-ルカネ鉄道が担当することとなり、本形式も同鉄道の所有となっている。なお、本形式運用後の1990年には同社は二分され、コゼンツァ-カタンザーロ・リド線を中心とするカラブリア鉄道およびアップロ・ルカーネ鉄道となって現在に至っている。 1953年にはM1C 87号車がコゼンツァ機関区で事業用車となって使用されており、その後M2DE 50形1両などとともに放置されていたが、1999年に解体されている。 廃車後にローマ近郊のパリアーノの公園である "La Selva"内の観光鉄道においてM1C 80R形や他の機関車、客車などとともにM1C 88号車およびM1C 90号車が動態保存されていた。 本形式とともにラック区間で運行されていた500形ラック式蒸気機関車、動態保存されている504号機、2006年 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線のうち、ラック区間のあるカタンザーロ・チッタ間付近の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の線路高低図、赤色の部分がラック区間 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線のラック区間 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線の線路高低図、赤色の部分がラック区間 ラゴネグロ-スペッツァーノ・アルバネーゼ線のラゴネグロ駅付近のセラ橋、1930年頃 コゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線(赤実線)およびクロトーネ-ペティーリア・ポリカストロ線(黒点線)の路線図、両線は接続する計画であった
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運行・廃車
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「ストレーザ-モッタローネ鉄道1形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ストレーザ-モッタローネ鉄道はマッジョーレ湖西岸の町であるストレーザとアルプス西部の山である標高1492mのモッタローネ山を結ぶ、全長10kmの観光路線であり、最急勾配は粘着区間55パーミル、シュトループ式のラック区間200パーミルで標高は197-1380m、電化方式 DC750Vの観光路線であり、1880年代に蒸気機関車による運行で計画されていたものであるが、その後計画を改めて電気鉄道として建設されて1911年7月12日に開業したものである。路線はマッジョーレ湖畔のフェリー乗り場に隣接したストレーザ湖駅もしくは、イタリア国鉄のドモドッソラからミラノに至る路線のストレーザ駅に隣接した同鉄道のストレーザ駅(標高197m)から併用軌道でストレーザ市内を抜けて山岳路線へ移り、途中ヴェダスコ・ビンダ、ヴェッツォ、ジニェーゼ・レヴォ、アルピーノ、ボロメの途中5駅を経由してモッタローネ山頂付近、標高1380mのモッタローネに至っており、1946年にはマッジョーレ湖駅が若干内陸側に移転をしている。終点のモッタローネ付近には1884年に開業し、1909年からは通年営業を開始したグランドホテル・モッタローネをはじめとした高級ホテルが何件か営業をしており、マッジョーレ湖を望む夏季の避暑地としてだけでなく、スキーをはじめとするウィンタースポーツの拠点として、特に1906年のシンプロントンネルの開業による、ストレーザまでの交通アクセスの向上を契機として発展していった。 開業にあたっては本形式5機のほか、55人乗りのオープン/コンパートメント式2軸ボギー客車3両、無蓋貨車3両と有蓋貨車1両、ストレーザ湖 - ストレーザ間の市内運行用の小型電車1機が用意されていたほか、建設工事に使用された1910年SLM製の蒸気機関車1機が事業用として残されており、1920年にはスキー板運搬用の貨車3両が増備されている。本形式は同鉄道の全盛で単行もしくは客車/貨車1両を牽引して運行され、全線の所要時間は資料により異なるが約65-75分、開業時の運賃は9リラであったほか、後年になって前後のデッキ部に木枠のフェンスを設けて簡易的な荷台として運用されていた。 その後、同鉄道は施設や機材の老朽化のため1963年5月13日に廃止されて一旦バスに転換された後、代替となるロープウェイが1970年に開業している。1-5号機はこの際に全機が廃車となっているが、1、2号機などの何機かの車体が近隣のバヴェーノにあるキャンプ場に設置されており、2013年においてもほぼ運行当時の塗装や表記のまま使用されているほか、台車がランコにある交通博物館で保管されている。
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運行・廃車
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「フルカ・オーバーアルプ鉄道HGe2/2形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は終始アンデルマット-ゲシェネン間のシェレネン線で使用されたが、同線は全長3.7km、高度差330m (1435m - 1106m) の最急勾配179パーミルの連続する山岳路線で、アルプスの十字路と呼ばれるアンデルマットからシェレネン渓谷の急流を下り、途中悪魔の橋の脇を通りスイス国鉄のゴッタルド鉄道トンネルの北側入口であるゲシェネン間を結ぶもので、中間に駅はなく、両端2駅およびスイス国鉄ゲシェネン駅と連絡する貨物駅のみで営業をしていた。 シェレネン鉄道では本形式のほか以下の車両を有しており、すべて本形式が牽引する列車で運行されていた。客車(7両):BC4 21-24形2等/3等合造客車、BCF4 31-33形2等/3等/荷物合造客車 貨車(11両):K 51-52形有蓋車、Lk 61-62形、L 71-72形、M3 671-672形、K 441-442形、OM6 821形 シェレネン鉄道では開業後、1930年代頃までは通常に列車の先頭に機関車を連結していたが、その後に保安上の理由で常に勾配の下側(ゲシェネン側)に機関車を配置するようになり、先頭の客車には前照灯が設置され、先頭に乗った保安要員はベルや信号を使って機関車に連絡をとっていた。 フルカ・オーバーアルプの電化工事中の1940年にはフルカ・オーバーアルプ鉄道のアンデルマット - オーバーアルプゼー間が直流1200Vで電化され、一部列車が本形式の牽引によって運行されている。 1940年の交流電化後はBCFhe2/4形の41号機とともに使用されている。BCFhe2/4 41号機用とプッシュプル式の列車を組成するために1942年にBCF4 33号車を改造した制御客車BCFt4 30号車が用意されているが、本形式および客車2両程度とBCFt4 30号車と編成でも運用されている。同車は1916年製のBCF4 31-33形のBCF4 33号車を制御客車に改造したもので、全長13.8m、自重14.8tの2等/3等/荷物合造制御客車であり、その後称号改正により ABFt4s 4191I号車となり、1968年に廃車となっているほか、本形式と同車は総括制御が出来ないため、本形式と編成を組んだ編成のアンデルマット方行きの列車は従来どおり推進運転で運転されている。 シェレネン鉄道のフルカ・オーバーアルプ鉄道への合併後も引続きシェレネン線で使用され、主に同じ旧シェレネン鉄道の客車などを牽引していたが、1971年製の新しい前面パノラミックウインドウの制御客車ABt 4191-4194形とも編成を組んでいる。ABt 4191II-4194形はSIG製 の標準型客車の系列であるEW Iシリーズの1車種であり、全長17.02m、自重14.2tの1等/2等合造制御客車となっている。 1967年製のHGm4/4形ディーゼル機関車や1971年製のDeh4/4 51-55形荷物電車がシェレネン線で使用されるようになると1972年以降は旅客列車には使用されなくなり、その後は貨物列車およびアンデルマット駅構内の入換用として運用され、1976年から1985年にかけて順次廃車となった。なお、HGe2/2 21号機の変圧器などの電機品の一部は1986年にX 4929II形暖房車に流用されている。同車は1914年製の有蓋貨車であるGk 4420号車にパンタグラフと変圧器を搭載したもので、留置中の客車の暖房用および食堂車の調理用電源の供給用として使用されている。 各機体の廃車年は以下の通りである。21 - 1985年 22 - 1976年 23 - 1982年 24 - 1980年
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運行・廃車
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「フルカ・オーバーアルプ鉄道BChm2/2形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
マッターホルン・ゴッタルド鉄道の旧フルカ・オーバーアルプ鉄道区間でローカル列車として使用されていた。 フルカ・オーバーアルプ鉄道の本線は全長96.9km、最急勾配90パーミル(旧フルカ峠区間は110パーミル)で、レーティッシュ鉄道のディセンティスとスイス国鉄、旧BVZのフィスプを結ぶ路線である。 支線のシェレネン線は全長3.7km、最急勾配179パーミルで、本線のアンデルマットとスイス国鉄のゲシェネンを結ぶ路線である。 本形式は需要の少ない冬季におけるブリーク - オーバーヴァルト間およびディゼンティス/ミュンスター - セドルン間の輸送を想定したものであり、製造後もローカル輸送で使用されていた。なお、実際の運行では客車/貨車の牽引時のクラッチ滑りが問題となり、ディゼンティス/ミュンスター - セドルン間の運行ではクラッチ滑り防止のため、客車/貨車を牽引した際にはこの区間内の8km、90パーミルのラック区間では1段で、粘着区間では2段で走行していた。このため単行では15分であった所要時間が客車/貨車を牽引した際には45分となっており、経済性を損なうものとなっていた。 1941-42年のフルカ・オーバーアルプ鉄道の電化後は同様にそれまで運行されていたラック式の蒸気機関車であるHG3/4形3-5および10号機とともに事業用として残り、主にブリークやフィスプ-ツェルマット鉄道のフィスプ構内の入換用として使用されていた。その後CFhm2/2 21号機は1947年にレーティッシュ鉄道へ売却されたが22号機はその後も残り、1958年に事業用貨車に形式変更されX 4969号車となり、1965年には廃車となっている。 その後旧CFhm2/2 22号機はルツェルンの交通博物館に保存されることとなり、一旦は車体のみ保存され、台車はスイス国鉄ブリューニック線のアルプナッハシュタットに保管されていた。その後1973年に同線のマイリンゲン工場で復元され、翌年から博物館で展示されていた。さらにその後1996年にはCFhm2/2 22号機はフルカ・オーバーアルプ鉄道の旧フルカ峠区間を保存鉄道としたフルカ山岳蒸気鉄道へ譲渡され、動態保存を目指して復元が計画されている。
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運行・廃車
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「マッターホルン・ゴッタルド鉄道HGe4/4 I形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
マッターホルン・ゴッタルド鉄道の旧フルカ・オーバーアルプ鉄道区間の本線では、氷河急行やその他ローカル列車の客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、最急勾配110パーミルのオーバーヴァルト - セドルン間では2軸ボギー台車6両に相当する100tの列車を、同じく90パーミルのブリーク - オーバーヴァルト間およびセドルン - ディセンティス/ミュスター間では2軸ボギー台車8両に相当する130tの列車を牽引している。 旧フルカ・オーバーアルプ鉄道の本線は現在では全長96.9km、最急勾配110パーミル(粘着区間は67パーミル)標高671-2033mで旧ブリー ク・ フィスプ・ツェルマット鉄道およびBLS AGのレッチュベルクトンネルおよびレッチュベルクベーストンネル方面、スイス国鉄のローザンヌ およびシンプロントンネル方面と接続するブリークから、レーティッシュ鉄道のクール方面に接続するディゼンティス/ミュスターを結ぶ路線である。なお沿線は豪雪地帯であり、アンデルマット - ディセンティス/ミュスター間は電化前の1940年まで冬季は運休しており、同じく旧フルカ峠越え区間は1982年のフルカベーストンネル開業まで10月半ばから翌6月初めまでの冬季はオーバーヴァルト - レアルプ間を運休していた。 一方、おなじく旧フルカ・オーバーアルプ鉄道のシェレネン線は最急勾配179パーミルであったため、本形式は運用されておらず、1971年にDeh4/4 51-55形によるシャトルトレインが導入されるまでは、HGe2/2形電気機関車4機とABDeh2/4形電車1機とが牽引する列車で主に運行されていた。また、マッターホルン・ゴッタルド鉄道となった後も旧ブリーク-フィスプ-ツェルマット鉄道区間でも本形式は基本的には使用されていない。 本形式はまず最初に1941年1月にHGe4/4I 31号機がゲシェネン経由でフルカ・オーバーアルプ鉄道へ入線しており、1940年10月21日の電化後しばらくの間はフィスプ-ツェルマット鉄道のHGe4/4形や旧来のHG3/4形蒸気機関車で列車が運行されており、1次発注機最終のHGe4/4I 34号機がブリークに配属されるまでHGe4/4形の運行が継続されている。なお、本形式のうち35号機は1970年に事故により早期に廃車となっている。 1989年にHGe4/4II形の104-108号機が増備されると全機が予備として季節列車や事業用列車等の牽引用となったほか、1998年に開業したチェッパ信号場 - ルエラス間のセドルンゴッタルドベーストンネル建設基地専用線からレーティッシュ鉄道へ連絡する不定期貨物列車の牽引に本形式が使用されていた。また、HGe4/4I 37号機が1992年の夏ダイヤでレーティッシュ鉄道へ貸し出されてイランツ - ウンターバッツ間のミネラルウォーター輸送用の貨物列車の牽引に使用されている。 その後、1993年にはHGe4/4I 34号機と37号機がブリークの水害の被害などによって廃車となり、その後1995年にはHGe4/4I 31号機が廃車となっている。なお、HGe4/4I 37号機のパンタグラフはフルカ山岳蒸気鉄道で動態保存計画中のHGe4/4 16号機(後述)のシングルアーム式パンタグラフから菱形パンタグラフへの復旧に流用されている。 現在ではHGe4/4I 32、33、36号機が事業用および歴史的機関車として残存してブリーク、アンデルマット、ディセンティス/ミュスターに配置されている。ブリークの機体はブリーク付近のグリーサーグルンドの車両基地の入換用、アンデルマットの機体はアンデルマット構内および車両基地での入換用および予備機として、ディセンティス/ミュスターの機体は予備機および冬季の除雪用としてそれぞれ使用されているほか、旧型客車による観光用の列車の牽引等にも使用されている。各機体の廃車年は以下の通り。31 - 1995年故障により廃車、2004年解体 32 - 運用中 33 - 運用中 34 - 1993年ブリークの水害被害により廃車、2004年解体、台車は予備として残存 35 - 1970年事故により廃車、同年解体 36 - 運用中 37 - 1992年にレーティッシュ鉄道へ貸出し後、1993年廃車、2007年解体 HGe4/4I 31号機が牽引する貨物列車、1980年代 HGe4/4I 32号機が牽引する1980年代の 氷河急行 HGe4/4I 33号機が牽引するローカル列車、アンデルマット駅、1980年 HGe4/4I 33号機が牽引する列車、客車はフルカ・オーバーアルプ鉄道車とレーティッシュ鉄道車の混成、1980年頃 HGe4/4I 34号機が牽引する1980年代の氷河急行、機関車の次位2両目はレーティッシュ鉄道の食堂車 HGe4/4I 37号機が牽引する列車、客車は直通する各車の混成、1980年頃
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運行・廃車
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「スイス国鉄HGe100形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
スイス国鉄の唯一の1 m軌間の路線であったブリューニック線のルツェルン - インターラーケン・オスト間で旅客列車および貨物列車の牽引に使用されていた。 ブリューニック線は全長74.0 km、高度差566 m、最急勾配120パーミルの山岳路線である。 Deh4/6形荷物電車と共に主力として使用され、十数両の客車をDeh4/6との重連で牽引することもあった。基本的な旅客列車の編成は以下の通り。HGe4/4I形 + 軽量客車7両(120 t、定員470人) HGe4/4I形 + Deh4/6形 + 軽量客車10両(170 t、定員680人) その後HGe101形電気機関車(旧形式HGe4/4II形)が1986-1990年に8両製造されると、本形式は駆動装置の故障が多く、粘着区間の最高速度が50 km/hと遅いこともあり、重大な主電動機故障のにより1991号機が1994年に、1992号機は1996年に廃車となった。なお、HGe4/4II形2両が導入されて試験運用されていた1988年時点では主にギスヴィール - ブリューニック・ハスリベルク間およびギスヴィール - マイリンゲン間の補機として単独の1運用およびDeh4/6形と共通の1運用が組まれていた。 1992号機はブリューニック線車両の保存団体であるブリューニック保存鉄道に譲渡されて動態保存され、2007年以降は主変圧器故障に伴い長期間ルツェルンに留置されていたが、2010年にはアルプナハシュタットの車庫に戻されて復旧作業が行われている。
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運行・廃車
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「マッターホルン・ゴッタルド鉄道HGe4/4形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
マッターホルン・ゴッタルド鉄道の旧ブリーク・フィスプ・ツェルマット鉄道区間の本線では、氷河急行やその他ローカル列車の客車列車や貨物列車の牽引に使用されていた。 旧ブリーク・フィスプ・ツェルマット鉄道の本線は現在では全長44.0km、最急勾配125パーミル(粘着区間は27パーミル)標高651-1605mで旧フルカ・オーバーアルプ鉄道およびBLS AGのレッチュベルクトンネル方面とスイス国鉄のシンプロントンネル方面に接続するブリークから、同じくBLS AGのレッチュベルクベーストンネル方面、スイス国鉄のローザンヌ方面と接続するフィスプまでスイス国鉄と並行し、そこからローヌ川の支流のフィスパ川に沿って遡り、ゴルナーグラート鉄道のゴルナーグラート方面に接続するツェルマットに至る路線であり、1890-91年にフィスプ - ツェルマット間が、1930年にブリーク - フィスプ間が開業している。 本形式は1929年8月より試運転が開始されて、計画通り60tの列車を牽引することが出来ることを確認しており、その後それまでのHG2/3形を置き換える形で各列車を牽引する運用に入っている。また、1940年のフルカ・オーバーアルプ鉄道の電化に際しては、当初同鉄道のHGe4/4I形が所要数揃わなかったため、同鉄道のHG3/4形蒸気機関車が引き続き使用されたほか、フィスプ・ツェルマット鉄道からHGe4/4 11-15号機が貸し出されて列車を牽引している。 1962年6月22日に発生した事故ではHGe4/4 11号機と15号機が損傷しているが、11号機は同年中に復旧され、15号機は翌1963年に再建されてそれぞれ運用を再開している。 その後、客車列車の牽引には1960、65年製のABDeh6/6形やABDeh8/8形なども併せて使用されるようになり、特に氷河急行の牽引にはABDe8/8形が主に使用されるようになっている。また、1975-76年にはラック式荷物電車のDeh4/4 21-24号機が、1989年にはHGe4/4II 1-5号機が導入され、長編成の客車列車および貨物列車の運行に使用されるようになると本形式は全機が予備となって、歴史的車両として旧型客車を牽引する観光列車および工事列車などの事業用列車としての運行に使用されるようになっている。 その後、1992年にHGe4/4 14号機が廃車となったのを皮切りに2002年には13号機が廃車となって、マッターホルン・ゴッタルド鉄道にはHGe4/4 11-12および15-16号機が継承されているが、2005年までにHGe4/4 11および12号機が順次廃車となっている。また、HGe4/4 16号機は前述の通り、ツェルマット - テッシュ間のシャトルトレインの予備機として運用されていたが、シュタッドラー・レール製の部分低床・ラック式電車であるBDSeh 4/8形が2002-06年にシャトルトレイン用として導入されたため、予備機としての運用を外れ、その後2007年に廃車となっている。 現在ではHGe4/4 15号機が事業用および歴史的機関車として残存しており、同じく歴史的車両として残存しているサロン車のAB 2121号車などの牽引などに使用されている。各機体の廃車年は以下の通り。11 - 2003-05年 12 - 2003-05年 13 - 2002年 14 - 1992年 15 - 運用中 16 - 2007年、フルカ山岳蒸気鉄道へ譲渡 16号機は2007年に廃車後、旧フルカ・オーバーアルプ鉄道のフルカベーストンネル開業により廃線となったフルカ峠越えのレアルプ - オーバーヴァルト間を夏季運行の観光鉄道として復活させたフルカ山岳鉄道に譲渡されて保管されている。同鉄道は1992年から2010年にかけて開業したもので、全線が非電化であるが、本機は動態保存に向けて電気式ディーゼル機関車化改造も含めた検討がなされている。なお、譲渡に際しては、廃車となったフルカ・オーバーアルプ鉄道のGe4/4I 37号機のパンタグラフを流用してシングルアーム式パンタグラフから菱形パンタグラフへの復旧されている。
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運行・廃車
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「ルガーノ-テッセレテ鉄道ABDe4/4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ルガーノ-テッセレテ鉄道はスイス国鉄の主要幹線であるゴッタルド線のゴッタルドトンネルを抜けたアルプス山脈の南側、ティチーノ州のルガーノ湖畔の街ルガーノ近郊の私鉄路線であり、スイス国鉄のルガーノSBB駅の東側に設けられた標高335mのルガーノ駅から市街を抜けて北方へディーノ川のカッサーレーテの谷の右岸をテッセレテ通りに沿って遡り、途中カッサーレーテの谷から分かれたテッセレテ川添いに進んだ、標高516mのテッセレテまでの全長7.8km(うち併用軌道もしくは道路併設軌道3.8km)、軌間1000mm、最急勾配60パーミルの路線であった。また、カッサーレーテの谷は古い時代には洪水が多発していたことから集落が谷の斜面に発達したため、谷の対岸の左岸側にも同鉄道と約1kmの間隔で並行して、ほぼ同距離の私鉄であるルガーノ-カドロ-ディノ鉄道が運行をしていた。なお、このルガーノ-カドロ-ディノ鉄道の起点はルガーノSBB駅ではなくルガーノ市街地で湖の水運およびルガーノ市内線に連絡するピアッツァ・マンツォーニであったほか、ルガーノSBB駅から西方へは同じく1000mm軌間のルガーノ-ポンテ・トレーザ鉄道が運行しており、同鉄道とルガーノ-テッセレテ鉄道はルガーノ駅で軌道が接続しており、貨車の融通・直通が行われていた。 1909年7月28日に運行を開始したルガーノ-テッセレテ鉄道はテッセレテまで途中9駅を設け、ルガーノに留置線、テッセレテには車庫と工場を併設していたが、終点のテッセレテを含め沿線はルガーノ近郊の集落で大きな街はなく、ルガーノへの通勤、通学客の近郊輸送を中心に観光客の輸送もあり、年々旅客輸送量も伸びてはいたが列車は終始本形式3両の単行もしくは数両の客車を牽引する列車で十分な規模で、貨物輸送も終始低調であった。開業時には本形式のほか、以下のとおり客車と貨車が用意されていたが、いずれも2軸の小型車であった。客車:C2 11、BC2 12(1925年にC2 12に改造) 有蓋車:K2 21、K2 22 無蓋車:L2 31、L2 32(1951年にM241に改造) その後輸送量の増加とともに、中古の客車を中心に機材の増備を行なって運用していたが、1948年SIG製の初期の軽量客車であるC4 15を導入しているのが特徴である。また、制御客車は導入されず、終端駅では機回し線を使って本形式を列車の先頭へ連結しなおしていた。なお、増備された客車および貨車は以下のとおり。客車:C2 13およびC2 14(1926、27年にモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道より購入)、C4 15、C2 16およびC2 17(1957年にゾロトゥルン-ツォリコーフェン-ベルン鉄道より購入) 長物車:S2 51、S2 52 架線作業車:X2 61 旅客列車は1934/35年のダイヤでは通常9往復のほか、日曜/休日の夜に1往復、ルガーノ市街でのマーケット開催日の午前と平日夕方にそれぞれルガーノ発の0.5往復ずつが設定され、1965年ダイヤでは通常11往復(一部列車は曜日により時刻変更あり)、土曜/日曜/祝日の夜間と、夏季の日曜/祝日の深夜に1往復ずつ、平日/土曜日(祝日除く)の夕方にルガーノ発の0.5往復が全列車各駅停車、所要時間約22分で設定されており、輸送人員は1935年で265505人、1966年で451208人、貨物輸送量は両年とも1295tであった。 ルガーノ-テッセレテ鉄道は開業以来機材、設備ともに大きな更新をせずに運行を続けてきたが、1960年代になっていずれも老朽化が目立つようになり、特に橋梁の橋脚の強度が問題となり、1967年5月27日に全線廃止となっている。これにより、ABDe4/4形は1号機がティチーノ州地域鉄道へ譲渡されたが実際の運行には使用されず解体されているほか、2、3号機は譲渡等はなくそのまま1968年に解体されている。なお、1号機と同様にティチーノ州地域鉄道へ譲渡されたB4 15号車(旧C415号車)はA4 130号車となり、1991年にはアルプス山麓鉄道に転属となって現在も運行されており、K 21、K 22号車(旧K2 21、22号車)がルガーノ-ポンテ・トレーザ鉄道に譲渡されて1977年まで運行されているほか、ルガーノ駅とテッセレテ駅および一部の駅はバスターミナルもしくはバス停として使用され、テッセレテの車庫はバス車庫に転用されて現存している。
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運行・廃車
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「アッペンツェル鉄道ABDm2/4 55-56形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機が使用されるアッペンツェル鉄道のゴッサウ - アッペンツェル間はザンクト・ガレン州ゴッサウからアッペンツェル・アウサーローデン準州のウルネシュを経由してアッペンツェル・インナーローデン準州のアッペンツェルに至る25.92kmの路線であり、最急勾配37パーミル、標高638-904mの路線であり、ゴッサウでスイス国鉄に、アッペンツェルで1947年にアッペンツェル鉄道に統合された旧アッペンツェル-ヴァイスバート-ヴァッサーラウエン鉄道のヴァッサーラウエン方面と、1988年にアッペンツェル鉄道に統合された旧ザンクト・ガレン-ガイス-アッペンツェル電気鉄道のザンクト・ガレン方面へ接続する。 本機は1929年4月2日から実施された試運転では3両の客車を牽引した68tの列車を牽引して、37パーミルの勾配で約15km/hで、30パーミルの勾配で約20km/hで走行する事が可能であることが確認されている。 本機はその後実際の運行に使用されるようになったが、成績は良好であり、最大ではダイヤの約75%を本機が牽引する列車で運行されていた。また、一部の急行列車などではG4/5形蒸気機関車との重連でも運行されているが、本格的な運行は電化までの短期間であり走行キロ数は1両約200000kmであった。 本機は燃料の価格差のほか、運転準備に必要な時間が蒸気機関車の2時間と比較して約10分であることなどから、蒸気機関車と比較して大幅なコスト削減がなされており、268日間(1日約220km走行)での比較において、蒸気機関車列車の運行費用が31,088スイス・フランであったのに対し本機では6,014スイス・フランであった。 1933年のゴッサウ-アッペンツェル間の直流1500Vでの電化後も本機はそのままBCe4/4 27-30形(後のABe4/4 40-43形)の予備機としてアッペンツェルに配置されていた。夏季の週末などにはアッペンツェルからヴァッサーラウエン方面の列車用として運行されたほか、ヘリザウ-ゴッサウ間の近距離列車や電力設備の障害時、多客時の臨時列車、事業用列車の牽引などにも使用されている。 電車に改造されたABFe2/4 46号機は、1956年から主にヘリザウ-ゴッサウ間の区間列車や事業用列車として使用されている。なお、その後1973年に運用を外れ、1983年には保存鉄道であるバレムベルク蒸気鉄道に譲渡されてマイリンゲンに留置されてレストア待ちとなっていたが、後に修復不能と判断されて解体されている。 ABFm2/4 56号機は1975年にアッペンツェル鉄道開業100周年を記念して歴史的車両として旧塗装となるとともに修復工事を受け、形式も旧形式のBCFm2/4 26号機となって動態保存され、現在ではアッペンツェル鉄道の歴史的車両を整備、運行している団体であるAG2が運用をしている。
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「ブレンガルテン-ディーティコン鉄道BDe4/4 10-11形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ブレンガルテン-ディーティコン鉄道はアールガウ州のヴォーレンからブレンガルテンを経由してチューリッヒ州のディーティコンに至る18.9 kmの路線であり、最急勾配56パーミル、最急曲線半径33 m、標高389 - 550 mの路線であり、両端駅でスイス国鉄に接続するほか、ヴォーレンからブレンガルテン西間6.4 kmは1435 mm軌間の旧ヴォーレン-マイスターシュヴァンデン鉄道線との三線軌条、ディーティコン付近約1.3 kmは併用軌道となっている。なお、1990年5月27日にはチューリッヒのSバーンに指定されてS-17系統となってアールガウ州からチューリッヒ州への通勤路線として運行されており、1995年以降には一部区間の複線化が行われており、1995年以降には一部区間の複線化が行われているほか、ヴォーレン - ブレンガルテン・ウエスト間の三線軌条は2015年に撤去されて、線路用地のみが引続きスイス国鉄からリースされている。 本形式が導入された1930年代の同鉄道は電車が旅客列車や貨物列車を牽引する列車で運行されており、本形式も従来からの電車と共通で全線で、単行での運行のほか、混合列車を含む客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、重連総括制御機能は持たないものの電車同士での重連でも使用されていた。 ブレンガルテン-ディーティコン鉄道ではその後も輸送量が増大して1965年には輸送人員が132万人を超え、従来からの機材の老朽化も進んでいたことから総合的な近代化を図るために1960年代にさまざまな検討がなされ、結果として固定編成による列車により効率的なパターンダイヤを組むこととなって3車体連接式のBDe8/8形9編成を1967年に発注し、1969年6月1日のダイヤ改正で通常運行されるの全ての旅客列車に置き換え、同時に架線電圧を900 Vから1200 Vに昇圧している。この結果、従来の1000 mm軌間用機材のうち事業用もしくは貨物列車牽引用として残されることとなったBDe4/4 10および11号機とBe4/4 7II号機の計3機のみが架線電圧昇圧対応工事を実施し、それ以外の電車および事業用のものを除く客車は全車廃車となっている。 事業用もしくは貨物列車牽引用として残されることとなったBDe4/4 10および11号機は引続き工事列車や貨物列車の牽引用として運用されており、前述のとおり昇圧と合わせて荷物室の拡大工事が実施されている。 1986年と1999年にはBDe4/4 10号機と11号機がそれぞれ団体列車用に改造されて運用されているが、BDe4/4 11号機は2009年10月に廃車となり解体されており、現在ではBDe4/4 10号機が同じく団体列車用に改造されたBDe8/8 7III 号機とともに運用されている。
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運行・廃車
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「ヴァルデンブルク鉄道BDe4/4 1-3形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機が使用されるヴァルデンブルク鉄道はスイス北部バーゼル南東のバーゼル=ラント準州の州都リースタルからヴァルデンブルク通りに沿って川を遡り、ブーベンドルフ、ランベンベルク-ラムリンスブルク、ヘルシュタイン、ニーダードルフ、オーバードルフを経由してヴァルデンブルクに至る13.07 kmの片勾配の路線であり、最急曲線半径60 m、最急勾配35 ‰、標高326 - 515 mの路線であり、リースタルではスイス国鉄のバーゼルSBB駅からオルテン駅に至る路線に接続する。 本機は1953年10月25日の全線電化と同時に運行を開始しており、単行での運行のほか、蒸気機関車牽引列車時代から引継ぎの全長13 m級のオープンデッキ付き客車や、それらとほぼ同形で1953年製のB 49-50形および1968年製のB 51-52形客車のほか、貨車の牽引にも使用されているが、予備機無しでの運行であった。 その後1980年代にはヴァルデンブルク鉄道の利用客が急増したため機材を一新して輸送力の増強を図ることとなり、新しいBDe4/4 11-17形電車とBt 101-120号車が1985年から1993年にかけて導入され、本機は1985年に廃車となって全機解体されている。
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運行・廃車
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「モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道DZe6/6 2001-2002形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道は全線で全長75.3km、高度差526m、最急勾配68パーミルの山岳路線であり、ツェントラル鉄道ブリューニック線のルツェルン - インターラーケン・オスト間とBLS AGのインターラーケン・オスト - ツヴァイジンメン間、モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道のツヴァイジンメン - モントルー間を合わせてゴールデンパス・ラインを構成しているほか、ツヴァイジンメン - レンク間の路線を有している。 1931年に運行を開始されたゴールデンマウンテン・プルマンエクスプレスは世界恐慌の影響で運行中止となる1939年まで運転されており、1931年夏ダイヤでの運行は以下の通りで、うち1往復についてはツヴァイジンメンでいずれも後にBLS AGとなるエルレンバッハ-ツヴァイジメン鉄道およびシュピーツ-エルレンバッハ鉄道、ベルン-レッチュベルク-シンプロン鉄道を経由してインターラーケン までのゴールデン・パスラインの標準軌区間の列車に接続をしていた。101列車:モントルー発11:10 - シャトーデー発12:10 - ツヴァイジンメン着13:33(接続列車:ツヴァイジンメン発13:43 - インターラーケン・オスト着14:58) 103列車:モントルー発14:00 - シャトーデー発15:20 - ツヴァイジンメン着16:19 102列車:(接続列車:インターラーケン・オスト発10:43 - ツヴァイジンメン着11:58)ツヴァイジンメン発12:05 - グシュタード発12:43 - モントルー着14:18 104列車:ツヴァイジンメン発16:19 - グシュタード発16:56 - シャトーデー発17:18 - モンボヴォン発17:37 - レザヴァン発18:18 - モントルー着18:38 1931年の運行ではBFZe4/4 23-26形が牽引し、そのうち24号機はクリーム色と紺のゴールデンマウンテン・プルマンエクスプレス塗装に変更されており、1932年からは本形式がその牽引をしている。列車はCLWLのプルマン車であるAB4ü103-106形とモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道が自社所有していたサロン車であるAB4ü101号車、AB4ü102号車、CSWRの運営する食堂車であるDr411-13形、Dr417号車と、通常の客車とで編成を組んでおり、接続する1435mm軌間ツヴァイジンメン - インターラーケン・オスト間の列車ではCIWLのサロン車である2444E-2446E号車の3両が編成に組み込まれていた。 1968年にABDe8/8 4001-4004形が導入されるまでは本形式が鉄道最大出力の機体であったため、貨物列車の牽引にも多用されており、1977、79年のロールボック積載貨車対応改造後は標準軌貨車の直通貨物列車を牽引しているほか、ツヴァイジンメン - レンク間では同じくロールボックに積載した標準軌客車による列車を牽引している。 その後1983年のGDe4/4形電気機関車の増備などにより次第に運用を外れ、2001号機は1988年に運用を外れてモンボヴォンに留置されて部品取等に使用された後2007年に廃車となった後に静態保存されており、2002号機は2002年に運用を外れてグシュタードに留置された後に2008年には博物館鉄道であるブロネイ-シャンビィ博物館鉄道に譲渡されて動態保存されている。
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運行・廃車
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「ブリエンツ・ロートホルン鉄道H2/3 1-5形蒸気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はブリエンツ・ロートホルン鉄道の全線で運用されている。この鉄道はスイス国鉄唯一の1m軌間の路線で現在ではツェントラル鉄道の路線となっているブリューニック線およびブリエンツ湖の船運と接続するブリエンツから、標高2350mのブリエンツ・ロートホルン山頂付近のロートホルンクルムへ登る登山鉄道であり、全長7.60km、標高566.0-2244.0m、最急勾配250パーミルの山岳路線である。ラック方式はラックレールが2条のアプト式で、ピッチ120mm、歯末たけ15mm、歯先レール面上高50mm、歯厚25mmとなっている。 ブリエンツ・ロートホルン鉄道開業時に用意された機材は以下の通りであり、本形式が客車1両を押し上げる形で列車が運行されており、多客時には続行運転で運転される。また、開業から現在に至るまで冬季は運休している。蒸気機関車(4機):H2/3 1I-4号機(本形式) 客車(5両):C 1-2形(3等客車)、C 11-12形(3等オープン客車)、CF 21形(3等/荷物客車) 貨車(2両):M 1-2形(無蓋車) 蒸気機関車はその後1912年にヴェンゲルンアルプ鉄道からH2/3 1号機を譲受け、ラック方式を同鉄道のラックレールがラダー式1条のリッゲンバッハ式の亜種であるパウリ-リッゲンバッハ式からアプト式に変更の上使用されている。 しかし、ブリエンツ・ロートホルン鉄道は開業後はヴェンゲルンアルプ鉄道など他の各地の登山鉄道の開業や、ジュラ-シンプロン鉄道(1903年まで)およびスイス国鉄(1903年以降)によって運行されていたブリューニック線がルツェルン - ブリエンツ間のみの運行で、1916年にブリエンツ - インターラーケン・オスト間が開業するまで、インターラーケン方面からブリエンツまでは船運しかなかったことなどから、利用客数が伸びていなかったこともあり、第一次世界大戦の影響もあって1914年8月1日に運行を休止し、1931年6月14日に運行を再開するまでは1918年以降に途中のプランアルプから少量の木材輸送が実施されるのみとなっていた。本形式はその間も整備が続けられており、運行再開後にH2/3 2-5号機が過熱式改造を実施しつつも引続き使用されており、過熱式化した機体は、上り方向の所要時間が80分から55分に短縮されたほか、中間駅での水の補給が片道2回から1回に減少している。また、1933、36年には客車2両を押し上げることができる新形式であるHG2/3 6-7形と客車も増備がなされている。 H2/3 1I号機は1940年にボイラーの故障により運行されなくなり、1961年にその代替としてモンテ・ゼネロッソ鉄道よりH2/3 7号機を譲受し、1I号機を解体して得られた部品と組み合わせてH2/3 1II号機としている。この機体はもともとグリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道の電化により1941年にモンテ・ ゼネロッソ鉄道に譲渡されたH2/3 4号機であり、グリオン-ロシェ・ド・ネー鉄道が所有していた1914年時点でボイラーの過熱式化改造を実施している。 その後の輸送力の増加に伴って1970年代に入ってHm2/2 8-11形ディーゼル機関車が導入されて本形式などの蒸気機関車とともに運行され、気動車の導入が計画されたこともあった。さらに 1992-96年、05年には新設計・新造の蒸気機関車であるH2/3 12...16形が増備されており、次第に運用を外れている。2010年頃の時点では、H2/3 1II号機が廃車となり、H2/3 3、4、5号機も運用を外れて保管され、H2/3 2号機のみが週1便のソーセージ急行や臨時列車のサロン・ルージュ・サービスで運用されていたが、その後H2/3 5号機が運用に復している。
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運行・廃車
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「ヴェンゲルンアルプ鉄道BDhe4/4 101-118形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はヴェンゲルンアルプ鉄道の全線で旅客列車および貨物列車を牽引しているが、この路線はインターラーケン・オストから出るベルナーオーバーラント鉄道に接続する標高795 mのラウターブルンネン(右回りルート)もしくは1034 mのグリンデルヴァルト(左回りルート)からユングフラウ鉄道に接続する標高2061 mのクライネ・シャイデックに至る右回りルート全長8.64 km、左回りルート全長10.47 km、全線パウリ・リッゲンバッハ式のラック区間で最急勾配250 ‰の山岳路線である。 本形式は客車もしくは制御客車1 - 2両と編成を組んで運行されており、本形式が常時勾配の下側に配置されるようになっており、勾配の上り下りが変化するクライネ・シャイデックおよびグリンデルヴァルト=グランドの両駅はスイッチバック式となっている。なお、編成が最大3両編成と短いため、多客時には続行運転により運行されている。 105号機は2005年5月にBt 225号車とともにシーニゲ・プラッテ鉄道へ譲渡されて運行されていたが、同年8月24日に洪水により浸水して運行不能となり、翌2006年4月に解体されている。また、103号機が2005年に廃車となっている。 なお、2010年代における対応する客車、制御客車は以下の通り。B 221、223形:221、223号車 Bt 211-214形:211-214号車 Bt 221-226形:222、224、226号車 Bt 261-266形:261-263、266号車 Bt 267-278形:267、270-278号車
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運行・廃車
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「ルガーノ-カドロ-ディノ鉄道BDe2/3 1-4形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
ルガーノ-カドロ-ディノ鉄道はスイス国鉄の主要幹線であるゴッタルド線のゴッタルドトンネルを抜けたアルプス山脈の南側、ティチーノ州のルガーノ湖畔の街ルガーノ市内および近郊の私鉄路線であり、ルガーノ湖畔の水運およびルガーノ市内線に連絡する標高272 mのルガーノ・マンツォーニ広場から市街を抜けて北方へディーノ川のカッサーレーテの谷の左岸をプレガッソナ通り、カントレーナ通りなどに沿って遡り、途中カッサーレーテの谷から分かれたディーノ川添いの集落で標高482 mのディノまでの全長7.8 km(うち併用軌道2.1 km)、軌間1000 mm、最急勾配40 ‰の路線であった。また、カッサーレーテの谷は古い時代には洪水が多発していたことから集落が谷の斜面に発達したため、谷の対岸の右岸側にも同鉄道と約1 kmの間隔で並行して、ほぼ同距離の私鉄であるルガーノ-テッセレテ鉄道が運行をしていた。なお、このルガーノ-テッセレテ鉄道の起点はスイス国鉄ゴッタルド線のルガーノSBB駅前であった。 1911年1月2日にルガーノ・マンツォーニ広場 - ラサンタ間、6月27日にラサンタ - ディノ運行を開始したルガーノ-カドロ-ディノ鉄道はディノまで途中14駅を設け、ディノに留置線、ラサンタ車庫駅には車庫と工場を併設していたが、終点のディノを含め沿線はルガーノ近郊の集落で大きな街はなく、ルガーノへの通勤、通学客の近郊輸送を中心に観光客の輸送もあったが旅客輸送量の伸びは鈍く、列車は終始本形式その他の電車が牽引する単行もしくは数両の客車を牽引する列車で十分な規模で、貨物輸送は実質的には行われていなかった。開業時には本形式のほか、以下のとおり客車と貨車が用意されていたが、いずれも2軸の小型車であり、C2 21号車は座席と屋根のみを設置したオープン客車であった。客車:C2 11、C2 21 有蓋車:EK2 51 その後輸送量の増加とともに、電車や客車の増備を行なって運用したほか、ルガーノ市内の区間運用にルガーノ市内線で使用されていた2軸単車3両を導入し、ルガーノ・マンツォーニ広場 - ラサンタ間で専用に運行されていた。また、制御客車は導入されず、初期においては電車が1両程度の客車を牽引していたほか、1940年代以降は客車列車は両端に本形式などの電車を連結した形態で運行されている。 旅客列車は1965年ダイヤでは通常13往復、夏季の日曜/祝日の深夜に1往復が所要時間約25-30分で設定されていたほか、市街地内のルガーノ・マンツォーニ広場 - ラサンタ間2.0 kmは15分間隔で運行されており、輸送人員は1936年で391704人、1969年で361328人であった。 その後1950-60年代に入ると自動車輸送の増加に伴いルガーノ市内においても自動車が増加して併用軌道の輸送に困難をきたすようになったため、ルガーノ市内線は1959年に廃止となり、ルガーノ-カドロ-ディノ鉄道のルガーノ市内区間であるルガーノ・マンツォーニ広場 - ラサンタ間の区間運行も1964年12月31日に廃止となり、さらにその後1967年11月27日にはルガーノ・マンツォーニ広場 - ルガーノ・インデペンデンツァ広場間500 mが廃止となっている。 本形式は残ったルガーノ・インデペンデンツァ広場 - ディノ間で運行を続けていたが、この区間も1970年5月30日にバスに転換されて全線廃止となり、本形式は3両とも他社には譲渡されずそのまま廃車となっている。なお、本形式と編成を組んでいたオープン客車であるB2 21号車(旧C2 21号車)が個人に譲渡された後、1990年にはブロネイ-シャンビィ博物館鉄道に譲渡されて動態保存されているほか、同じく個人に譲渡されたB2 31号車は同じく個人に譲渡された後、1998年にティチーノ州の保存鉄道であるメソルチーナ鉄道に譲渡されたが2011年に廃車となっている。また、同じく本形式と編成を組んでいたBe4/4 9形号機はモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道に譲渡されてBe4/4 1001II号機となっており、現在では入換用として使用されている。
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運行・廃車
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「ベルン-レッチュベルク-シンプロン鉄道Ae485形電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
ベルンとブリーク間のレッチュベルクルート(レッチュベルクトンネル)を越える貨物列車に主に使用されている。 1990年代以降にスイス連邦鉄道(スイス国鉄)Re460形やRe465形、Re485形が使用されるようになると次第に運用からはずれ、1998年の火災により放置されていた271、272号機が2003年に廃車になり、274、275号機は2004年に廃車となっている。 2002年には特別列車を牽引してスイス国鉄のゴッタルド線で使用されている。 273号機も2004年に定期運用から外れているが、BLSレッチュベルク鉄道、BLS AGで「歴史的機関車」として動態保存されてイベント列車等を牽引している。また、275号機がVHSで保存されていたが、2006年にBLSへ戻っている。
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「ゼルンフタル鉄道BDe4/4 5-7形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式が使用されるゼルンフタル鉄道は、スイス東部グラールス州中央を南北に流れるリント川沿いで標高521 m、スイス国鉄と接続するシュヴァンデンの街から、リント谷の支谷であるゼルンフ川のゼルンフ谷を遡り、途中工場のあるエンギ・フォルタードルフ、交換設備のあるワース、マットなど11駅を経由して標高962 mのエルムに至る軌間1000 mm、全長13.8 kmの路線であった。最急勾配は68パーミル、最急曲線半径は30mでトンネルはなく、橋梁も2か所のみであった。また、全線のうち13.5kmがゼルンフ川沿いの狭い街道との併用軌道になっており、多くの区間では街道の片側に軌道が敷設され、集落内など特に道路の幅員のないところでは軌道が道路幅一杯となる箇所もあった。 本形式は導入後単行もしくは客車および貨車を牽引する列車で運用されており、それまでの2軸単車のBDe2/2 1-3形およびBDe2/2 4形が最高速度25 km/hでの運転であったのに対し、本形式は45 km/hでの運転となり、全線の所要時間が52分から42分に短縮されている。牽引していた客車および貨車は以下の通りで、いずれも開業以来のものを中心とした2軸車で、客車は木造鋼板張り車体のもの計5両、貨車は木造車体のもの計19両であった。客車:B2 12-13形、 B2 14形、 B2 15形 有蓋車:K 31-34形、K 35形、K 36形 無蓋車: L 41-45形、L 46-47形、L 48-49形、L 50形、M 81形、M 82-83形 ゼルンフタル鉄道沿線の産業は主に農業と畜産業のみで大きな観光地ともならず、古くからの産業であった沿線でのスレートの産出も1960年代までには終了し、沿線の輸送も自動車に移行しており、本形式導入後も状況は好転しなかった。また、毎年のように発生する土砂崩れと雪崩被害からの復旧や、自動車の増加によって併用軌道の維持にかかる費用が増加していた。このため、経営状況は芳しくなく、1935年の年間の旅客輸送人数163794人、貨物輸送量8579 t、1965年でも同じく294144人、5623 tという状況であった。その後、1968-69年の冬に雪崩で大きな被害を受けたことも契機となり、同年5月31日には廃止となり、ゼルンフタル鉄道から社名を変更したゼルンフタル交通のバスに転換されている。 後述の通りオーストリアのシュターン・ハッファール旅客交通ET 26.108形となっていた本形式のうち2両をゼルンフタル鉄道沿線であったエンギにあるゼルンフタル鉄道博物館に戻して保存するプロジェクトが実施され、2016年9月30日には旧BDe4/4 6号機であるET26.109号機が同博物館まで陸送されてゼルンフタル鉄道で使用されていた当時の塗装に復元され、2017年7月には旧BDe4/4 5号機であるET26.110号機が当時の形態に復元された上で、同様にゼルンフタル鉄道博物館にの輸送されて展示されている。 開業時に用意され、本形式の前に使用されていた2軸電車のBDe2/2 1号機、2軸客車のB2 13形号車を牽引している 同じく開業時に用意されて、本形式の前に使用されていた2軸荷物電車のFe2/2 21号機 1928年に増備された2軸電車のBDe2/2 4号機、現在はブロネイ-シャンビィ博物館鉄道で保管されている、1930年代
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運行・廃車
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「西ドイツ国鉄VT98型気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
本機は製造後広く西ドイツ全国で運用されており、支線区間のみならず本線系統の区間列車としても運行されていた。また、VT98型とVS98型の2両編成もしくはその間にVB98型を連結した3両編成での運用が主であり、想定では以下のような6両編成までが計画されていたが、実際にはそれより長い編成でも運行されている。VT - VB - VB - VB - VB - VT VT - VS - VS - VS - VS - VT VS - VB - VT - VT - VB - VS VT - VB - VS - VT - VB - VS VT - VB - VB - VT - VB - VS VT - VB - VS - VS - VB - VT VS - VS - VT - VT - VS - VS また、VT98型1機に対して通常2両、最大3両のVB98型もしくはVS98型で編成を組むこととなっていた。 その後1970年代より少しずつ運用を外れ、その後1980年より本格的な廃車が進むようになり、1990年代半ばにはほとんどの機体が運用から外れ、2000年に定期運用を終了している。 廃車後はVT98型13機とVS98型1両が信号検測車などの事業用車の721型、725型、728型、740型に改造されている。これらは必要な装備を搭載して、事業用車標準の黄色塗装となって運用されていた。 その他ドイツ国内の私鉄や保存鉄道、鉄道車両保存団体に多くが譲渡されたほか、一部の機体は後述の通り国外にも譲渡されている。
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運行・廃車
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「イタリア国鉄E.428電気機関車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式は1934年に電化されたフィレンツェ - ボローニャ間のディレッティシマや1936年に電化完了予定であったフィレンツェ - ナポリ間で長距離高速客車列車を牽引する運行で使用することを想定して製造されており、製造後は主に「Stella」もしくは「Special」形客車で編成された最高速度110km/hの急行列車の牽引に使用されている。なお、1938年にはローマ - ナポリ間の試運転で156km/hを記録している。当初配置された機関区は以下の通り。ミラノ フィレンツェ リヴォルノ ローマ ナポリ レッジョ カラブリア 第3シリーズのうち減速比2.88の高速型のE.428.225-242号機の39機は製造後には一部区間の最高速度が130km/hのミラノ - ナポリ間の高速客車列車の牽引に使用され、1946年にはミラノ中央、ローマ、リヴォルノの各機関区に配置されてミラノ - ボローニャ間とローマ - ナポリ間で運用されていた。なお、当時の最速列車は1936年から製造された最高速度160km/hのETR.200電車で運行されていた。 第二次世界大戦により、E.428.035、036、040、090、091、108、139、242号機が大きな被害を受け、特に損傷の大きかったE.428 090、242号機は復旧されずに廃車となっているが、残りの6機は1947年6月から1951年12月にかけて復旧されている。また、同様に戦災を受けたE.428.162号機は1942年の復旧の際に、車体がオリジナルの第2シリーズのものから第3シリーズと同一ものに交換されている。 E.646などの新しい機関車の増備に伴い、本形式は徐々に貨物用に転用されることとなり、1972年には最高速度を100km/hに制限している。 1979年より廃車が始まり、1984年終わりには以下の6機関区に計218機が配置されていた。ミラノ・スミスタメント メストレ ボローニャ=サン・ドナート リヴォルノ アンコーナ フォッジア 1987年夏ダイヤではフォッジア機関区に配置された機体がバーリ - ターラント間の定期貨物列車のほか、時折ボローニャへの貨物列車の牽引に使用されており、翌1988年初めには17機が稼働しており、1989年まで運行されていた。また、シャトルトレイン用に改造されたE.428.226号機はボローニャで1991年まで定期列車を牽引していた。 現在動態保存されている機体と配置機関区は以下の通り。E.428.014(第1シリーズ):ピストイア E.428.058(第1シリーズ):トリノ E.428.202(第3シリーズ):ラ・スペツィア E.428.226(第4シリーズ):ラ・スペツィア 静態保存されている機体は以下の通り。E.428.131(第3シリーズ):サヴィリアーノのピエモンテ鉄道博物館で保存 E.428.174(第3シリーズ)およびE.428.208(第4シリーズ):ルイーノに拠点を置く鉄道保存団体であるVerbano Express Associationにより保存 E.428.209(第4シリーズ):ピエトラルサ国立鉄道博物館で保存
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運行・廃車
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「カラブロ-ルカネ鉄道M2DE 50形気動車」の記事における「運行・廃車」の解説
1937年に竣工した10両は各機1500 - 2000 km程度の試運転を行い、性能要件を満たしていることを確認しており、平坦線での最高速度は80 km/hであり、その後M2DE 53 - 58号機の6両がバーリ-モンタルバーノ・イオーニコ線のバーリに、M2DE 51 - 52および59 - 60号機の4両がコゼンツァ-カタンザーロ・リド線のカタンツァーロに配置されて営業での使用が開始された。1937年4月21日から同年11月末までの約7ヶ月間での各機の走行実績は最少28300 km(M2DE 56号機)、 最多55600 km(M2DE 59号機)、平均43030 kmであった。 バーリに配置された機体はバーリ-モンタルバーノ・イオーニコ線やアルタムーラ-アヴィリアーノ-ポテンツァ線などで運行されていた。バーリ-モンタルバーノ・イオーニコ線は、イタリア南部プッリャ州の州都で、バーリ県の県都でもあるアドリア海沿岸のバーリにあるバーリ中央駅から、バーリ県第2の都市であるアルタムーラを経由して、バジリカータ州マテーラ県の県都で、世界遺産のマテーラの洞窟住居で知られるマテーラにある標高408 mのマテーラ南駅に至る75.3 km路線であり、本形式が運行されていた当時はさらに南下して同県のフェッランディーナ、ピスティッチを経由してモンタルバーノ・イオーニコに至る141.2 kmの路線であり、全線950 mm軌間であったが、フェッランディーナ - モンタルバーノ・イオーニコ間は1972年に、その後マテーラ南 - フェッランディーナ間が廃止されている。バーリ中央ではイタリア国鉄のアドリア線およびバーリ-マテーラ・フランカ-ターラント線に、アルタムーラではイタリア国鉄のロッケッタ・サンタントーニオ-ジョーイア・デル・コッレ線にそれぞれ接続し、フェッランディーナ - ピスティッチ間ではイタリア国鉄のバッティパーリア-ポテンツァ-メタポント線に並行していた。 アルタムーラ-アヴィリアーノ-ポテンツァ線はバーリ-モンタルバーノ・イオーニコ線のアルタムーラから分岐してバジリカータ州ポテンツァ県のアヴィリアーノのアヴィリアーノ・ルカニア駅を経由してバジリカータ州の州都でポテンツァ県の県都でもあるポテンツァのポテンツァ中央駅に至る118.3 kmと、アヴィリアーノ・ルカニア駅からアヴィリアーノ・チッタ駅に至る7.7 kmの支線からなる路線であり、全線950 mm軌間であった。アヴィリアーノ・ルカニア駅 -ポテンツァ中央駅間ではイタリア国鉄のフォッジャ-ポテンツァ線と並行し、 ポテンツァ中央駅ではバッティパーリア-ポテンツァ-メタポント線と接続している。 カタンツァーロに配置された機体が運行されていたコゼンツァ-カタンザーロ・リド線はイタリア南部カラブリア州コゼンツァ県の県都である標高202mのコゼンツァから、途中標高866mのビアンキ、カタンザーロ県で標高201mのカタンザーロ・チッタを経由して、カタンザーロの分離集落であるイオニア海沿岸のカタンザーロ・リドに至る950mm軌間、全長109.8kmの路線であった。コゼンツァではイタリア国鉄のコゼンツァ-シーバリ線とパオラ-コゼンツァ線に接続し、標高423mのペダーチェからはカラブロ-ルカネ鉄道のコゼンツァ-サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線が分岐しており、カタンザーロ・リドではイタリア国鉄のイオニア線およびラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線と接続している。なお、本形式が運行されていた当時はラメーツィア・テルメ-カタンザーロ線がカタンザーロ・サラ(当時の駅名はカタンザーロ) - カタンザーロ・リド間で本路線と並行していたほか、カタンザーロ・チッタおよびカタンザーロ・サラではカタンザーロ市内線に接続していた。同線の粘着区間の最急勾配は35パーミルであったが、尾根上に広がっていたカタンザーロ旧市街地内のカタンザーロ・プラティカ - カタンザーロ・サラ間のうち2.05kmが最急勾配100パーミルのラック区間となっており。、ラック式のM1C 80形および500形蒸気機関車が主にカタンザーロ・チッタ - カタンザーロ・リド間で運行されており、本形式はラック区間では運行されていない。 第二次世界大戦中の1943年にはマテーラの駅でドイツ軍の攻撃により損傷したM2DE 58号車が廃車となっている。 1961年12月23日に発生したフィウマレッラ鉄道事故を契機に地中海-カラブロ-ルカネ鉄道の各路線の運行は、1964年1月1日からカラブロ-ルカネ鉄道が担当することとなり、本形式も同鉄道の所有となっている。なお、本形式運用終了後の1990年には同社は二分され、コゼンツァ-カタンザーロ・リド線を中心とするカラブリア鉄道およびアップロ・ルカーネ鉄道となって現在に至っている。 本形式はコゼンツァ周辺では1970年代半ばまで運行されており、バーリ-モンタルバーノ・イオーニコ線では1973年にM2DE 53号機とM2DE 56号機が解体され、最終の運行は1974年のマテーラ南 - フェッランディーナ間での運行であった。また、M2DE 59号機はコゼンツァ駅に留置されていたが1999年に解体されている。 1994年にポンテデーラのピアッジオ社本社に隣接して開設されたピアッジオ博物館にM2DE 54号車が静態保存されている。また、1983年3月にはローマ近郊の公園であるSelva di Palianoの観光鉄道で運行する予定でM2DE 55号車およびM2DE 57号車が譲渡されたが、その後観光鉄道の運行が停止されたためそのまま放置され、現在では1両が公園施設として使用されている。 1960年時点のカラブロ-ルカネ鉄道の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の路線図 コゼンツァ-カタンザーロ・リド線の線路高低図、赤色の部分は本形式が運用されなかったラック区間 バーリに配置されていた機体が運用されていた区間とほぼ同一の、現在の Ferrovie Appulo Lucane鉄道の路線図
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運行・廃車
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「アッペンツェル鉄道ABDeh4/4 1-5形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
本形式が使用されるアッペンツェル鉄道のザンクト・ガレン - アッペンツェル間は、スイス東部の中心都市であるザンクト・ガレン州のザンクト・ガレンからアッペンツェル・アウサーローデン準州のガイスを経由してアッペンツェル・インナーローデン準州のアッペンツェルに至る20.06 km、最急勾配100パーミル、標高669.3 - 928.2 mの路線であり、ザンクト・ガレンで2006年にアッペンツェル鉄道に統合された旧トローゲン鉄道のトローゲン方面とスイス国鉄、スイス南東鉄道に、途中のガイスで旧アルトシュテッテン-ガイス鉄道のアルトシュテッテン方面に、アッペンツェルで1947年にアッペンツェル鉄道に統合された旧アッペンツェル-ヴァイスバート-ヴァッサーラウエン鉄道のヴァッサーラウエン方面と、アッペンツェル鉄道のヘリザウ方面へ接続する。 この路線はもともとは途中7箇所4.9 kmにリッゲンバッハ式の亜種であるリッゲンバッハ-クローゼ式のラック式区間が敷設されていたが、1983年までに路線改良が行われて6箇所のラック区間は迂回路を設ける、もしくは69パーミル以下の区間はラックレールを撤去して粘着式とするなどして廃止され、ザンクト・ガレン付近に残る1箇所についても線形の改良がなされ、最急勾配が92パーミルから100パーミルに、距離が978 mから946 mに変更され、この区間のラックレールはシュトループ式との併用となっているほか、トイフェナー通りの区間が併用軌道のラック区間となっている。 本形式は1931年のザンクト・ガレン - アッペンツェル間の直流1500 Vと同時に運行を開始しており、客車列車や貨物列車の牽引に使用されており、1953年のABDeh4/4 6-8形の増備後も同形式と共に使用されていたが、同形式が旧アルトシュテッテン-ガイス鉄道線でも運行されていたのに対し、本形式は旧ザンクト・ガレン-ガイス-アッペンツェル電気鉄道線でのみ運行されていた。その後1981年に本形式の代替としてBDeh4/4 11-17形の11-15号機が導入されると基本的に旅客列車の運用から外れているが、1990年6月1日からはガイス - アッペンツェル間でロールボックに積載した標準軌の貨車による貨物列車も牽引している。この際にはロールボックと本形式間を連結棒で連結するか、本形式とロールボック積載の標準軌貨車の間に、本形式用の+GF+式および、ロールボックに積載した標準軌貨車の連結器の高さに合わせた標準軌用ねじ式連結器の双方の連結器を備える控え車を連結していた。 ABDeh4/4 1号機は1994年に事業用車に種別変更されて形式、機番もXeh4/4 91号機に変更されて工事列車の牽引などに使用されていた。なお、外観等には変更はなく機番の身を変更した状態で運行されている。 なお、各機体の廃車年は以下のとおりであり、廃車の早い3号機はアッペンツェル鉄道へ引き継がれずに廃車となっているほか、5号機は歴史的車両として旧塗装となるとともに修復工事を受けて動態保存され、同様に動態保存されている客車と共に運行されている。また、Xeh4/4 91号機となっていた旧ABeh4/4 1号機は廃車後に、ジュラ鉄道の路線を利用して動態保存車両を運行している保存鉄道のラ・トラクションに譲渡されて修復待ちの状態となっている。各機体の廃車年は以下の通り。1(91) - 1990年 - 保存鉄道のラ・トラクションへ譲渡 2 - 1992年 3 - 1981年運行停止、1987年廃車 4 - 1996年 5 - 歴史的車両として動態保存
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運行・廃車
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「ヴェンゲルンアルプ鉄道BDhe4/8 131-134形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
製造後はヴェンゲルンアルプ鉄道の全線で運行されているが、この路線はインターラーケン・オストから出るベルナーオーバーラント鉄道に接続する標高795mのラウターブルンネン(右回りルート)もしくは1034mのグリンデルヴァルト(左回りルート)からユングフラウ鉄道に接続する標高2061mのクライネ・シャイデックに至る右回りルート全長8.64km、左回りルート全長10.47km、全線パウリ・リッゲンバッハ式のラック区間で最急勾配250パーミルの山岳路線である。 本形式は製造後はラウターブルンネン側でBDhe4/8 131号機とBDhe4/8 133号機、Bt 231号車の編成が、グリンデンヴァルト側でBDhe4/8 132号機とBDhe4/8 134号機が運行されており、後にBDhe4/8 131号機とBDhe4/8 133号機の運転室後部にラウターブルンネンの紋章が、同じくBDhe4/8 132号機とBDhe4/8 134号機にはグリンデンヴァルトの紋章が設置されている。 その後ヴェンゲルンアルプ鉄道の輸送力増強計画であるWAB2005計画によって、グリンデンヴァルト側の列車を最大6両編成で運行するとともに、全線に低床式のバリアフリー対応の機材を導入することとなり、本形式と編成を組むための新たな制御客車として、2003年にシュタッドラー・レール製のBt 251-253形部分低床式制御客車3両が導入されている。この車両は全長22900mmの2車体3台車、座席定員68名で台車間を低床式とした片運転台式の制御客車で、1998年にBDhe4/4 119-124形用に導入されたBt 241-243形の改良型となっている。このWAB2005計画によってグリンデンヴァルト側で通常運行に使用される列車が基本的には2004年に導入された3両固定編成の新しい部分低床式電車であるBhe4/8 141-144形の重連2編成と、BDhe4/8 132号機、BDhe4/8 134号機とBt 251-253形1編成もしくはBDhe4/8 131号機、BDhe4/8 133号機とBt 251-253形1編成の6両3編成となり、輸送力の増強と続行運転の廃止による運行の効率化が図られている。なお、ラウターブルンネン側ではBDhe4/8形とBt 251-253形との重連2編成が運行されるほか、余剰となったBt 231号車は2003年に廃車となっている。 なお、本形式は偏心台車のラック式駆動装置側が常時勾配の下側に配置されるように運行される必要があるため、勾配の上り下りが変化するクライネ・シャイデックおよびグリンデルヴァルト=グランドの両駅はスイッチバック式となっている。
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運行・廃車
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「マルティニ・シャトラール鉄道ABDe2/4 21-22形電車」の記事における「運行・廃車」の解説
マルティニ・シャトラール鉄道線は軌間1000mm、開業当初は全長19.072km、その後1931年に路線改良されて18.363km、最急勾配は粘着区間で70パーミル、シュトループ式のラック区間で200パーミルの路線であり、1906年にマルティニー - ル・シャトラール=フロンティエール間18.8km(当時)が開業し、1908年にはル・シャトラール=フロンティエール - スイス/フランス国境間0.29kmが開業して同じくフランス国内のヴァロルイーネから国境まで路線を延長したコル・デ・モンテ線と接続している。開業時には直流750V、1957年以降は直流850Vで電化されており、山岳部のヴェルネイヤーズ - ル・シャトラール=フロンティエール間では第三軌条からの集電としていたが、道路横断者等の安全確保のため、1991年-97年にかけてフィンハウト - ル・シャトラール=フロンティエール間、サルヴァン - ル・トレティアン間が架線集電に変更されている。この路線はローヌ川沿いでスイス国内、イタリア、フランス方面への街道が交差する古くからの交通 の要衝で、スイス国鉄の主要幹線ローザンヌ - ブリーク線のマルティニー駅に隣接する標高467mのマルティニ・シャトラール鉄道マルティニー駅を起点として、ヴェルネイヤーズからサルヴァンまでは総延長約2.5kmの200パーミルのラック区間で、サルヴァン以降は最急70パーミルの粘着区間で同じくローヌ川から分かれたトリアン川に沿って西方にトリアンの谷を遡り、フィンハウトで路線最高の1224m地点を過ぎ、引き続き最急70パーミルの粘着区間で、名を変えたオー・ノワール川に沿って標高1115mのル・シャトラール=フロンティエールに至り、そこからスイス/フランス国境を越えてヴァロルイーネに至っている。 国境のフランス側のコル・デ・モンテ線は当初パリ・リヨン・地中海鉄道、現在ではフランス国鉄により運営されている、軌間1000mm、最急勾配90パーミルの全線粘着式、第三軌条集電の山岳路線であり、フランス国鉄の標準軌路線に接続するサン=ジェルヴェ=レ=バン・ル=ファイエからモンブラン山麓のリゾート地であるシャモニー=モン=ブラン、ヴァロルイーネを経由してスイス/フランス国境へ至っている。なお、同鉄道は1950年代まで架線電圧が600Vであり、全線の直通運転は1997年に両鉄道のBDeh4/8 21-22形およびZ800形によるモンブラン急行の運行が開始されるまで行われていなかった。 開業当初は5月から8月までの夏季のみの運行であり、冬季の運行開始は1931年から実施されることとなり、以降スノーシェッドや除雪車を徐々に整備している。 本形式は開業後マルティニ・シャトラール鉄道の全線で主に旅客列車として単行で運行されていたが、BCFe4/4 1...15形との重連でラック区間を通過列車として運用されることもあった。1908年のダイヤでは旅客列車は1日あたり全線直通列車としてマルティニー - ル・シャトラール=フロンティエール - ヴァロルイーネ間が6往復、区間列車としてマルティニー - サルヴァン間とフィンハウト - ヴァロルイーネ間がそれぞれ1往復の運転であり、本形式はこの区間列車に使用されている。なお、貨物列車は主にGe2/2形とABDeh4/4 31-32形が牽引していたが、本形式もマルティニー - ヴェルネイヤーズ間などの平坦線では2軸貨車を牽引した列車で運行されている。運転速度は、平坦線のマルティニー - ヴェルネイヤーズ間が17km/h、サルヴァン - ヴァロルイーネ間の70パーミルの粘着区間が12-18km/h、最高運転速度は前記の区間でそれぞれで25km/h、20km/hあった。 1957-64年に新しい軽量車体を持つラック式電車であるABDeh4/4 4-8形(後のBDeh4/4 4-8形)電車と、これと編成を組むBt 63-68形制御客車が導入されて本形式は順次代替されており、ABFe2/4 21号機が1957年に廃車となり、ABDe4/4 22号機は1990年まで事業用としてマルティニー - ヴェルネイヤーズ間で貨車を牽引したり、両駅構内の入換用として使用されていたがその後廃車となっている。なお、このころのABDe2/4 22号機は電磁吸着ブレーキや集電靴など一部装備が撤去されていた。各機体の廃車年は以下の通り。21 - 1957年 22 - 1990年
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