1950-60年代
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この時期に、ドラマーはジャズグループの中で総じてより影響力のある役割を担うようになり、またドラムをより表現力のある楽器へと解放し、アンサンブルの他の部分とより対等かつ相互作用のあるものへと変えていった。ビバップにおいては、コンピングとテンポの維持はドラマーに要求される2つの全く異ったものであったが、後には、この2つは1つになった。この新たに発見された流動性は、ドラマーの持つインプロヴィゼーションの能力を大きく拡げた。かつては硬直したものであったパターンの変化を受け、この時期のジャズドラムの感覚は「ブロークン・タイム」と呼ばれた。ライドパターンとハイハットの規則的なパルスはほぼ一掃された。 ジョン・コルトレーンとマイルス・デイヴィスのに代表されるように、リズム隊もまた新しい拍子とリズムの可能性を探求していた。テンポの操作、つまり音楽自体を減速させたり加速させたりすることは、以前のドラマーは決して試みなかったことであるが、この時代に急速に発展した。複数のリズムを互いに重ね合わせて(ポリリズム)音楽に異ったテクスチャを作り出すことや、フィーリングを変化させるために不規則な音符の組み合わせを用いることなどは、それまでの世代の堅苦しいドラミングでは決して出来なかったものである。この時期以降の楽曲は、ドラマーの側にも高い参画と創造性を要求するものとなっている。 ジョン・コルトレーン・カルテットのメンバーであったエルビン・ジョーンズは、コルトレーンの当時の曲が3つの下位分割に基づいていたこともあり、3拍子のフィーリングに基づく新しいスタイルを発達させた。また、この新しいスタイルにはリズムとハーモニーの双方でより広い余地があったので、一層の実験を簡単に行うことができた。ビバップでは極端に速いテンポやめまぐるしいコード進行といった多くの側面が重荷となっていたが、そうしたものが無くなったのである。
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1950-60年代
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戦後の復興を交え、援助が始まった時期。政府主導型の開発。 経済発展は国民所得の向上ととらえられており、国民一人あたり国民所得が伸びることを最大の「開発」の目的とした。この「開発の恩恵」は、自然に高所得層から低所得層に浸透(トリクル・ダウン)していくと考えられていたが、実際はそうはならなかった。 主流理論:単線段階理論 経済発展段階説の一種。経済成長には決まった段階があるとされており、時間を経るに従って、自然に経済格差は縮まっていくと楽観視する見方。ウォルト・ロストウが提唱したモデルが有名で、一時期経済史にも影響を与えた。 経済発展の段階:伝統的社会→成長への離陸の準備段階→離陸(テイク・オフ)→経済の成熟→大量消費社会 ハロッド・ドーマーモデル…より多くの投資が、より高い成長につながる。
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1950-60年代
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「王立ザクセン邦有鉄道IV K型蒸気機関車」の記事における「1950-60年代」の解説
1951年には一部の路線が廃止され、使用されていた機材はドレスデン鉄道局の他の路線に転用されて不足していた機材の補充に廻されている。さらに、1952年からは損耗したザクセン州の狭軌鉄道用機材の補充として人民公社カール・マルクス機関車工場製で車軸配置1'E1'の9977-79形26機が導入さた。一方で、本形式では遅延や故障につながるような状態の悪化が見られる機体が増加したためドレスデン鉄道局では代替となる機関車の導入を要望しており、9977-79形の設計をベースとした車軸配置1'D1'の蒸気機関車の設計が進められたが、製造段階には移行しなかった。 1950年代にはザクセン州の狭軌鉄道の輸送量は1930年代のそれを超えて最盛期を迎えたが、ドイツ社会主義統一党は1956年の第3回党大会において交通政策の転換を図って自動車を輸送の中心とすることを決定し、ザクセン州の狭軌鉄道においても自動車やオートバイの普及により1950年代末から利用客数は減少に転じていた。さらに、1964年5月の閣僚会議において、貨物輸送も自動車輸送に移行することが決定され、ドレスデン鉄道局の「社会主義狭軌鉄道作業部会」においても1975年までに管内の狭軌鉄道をすべて廃止することが提言された。これを受けてまず1964年12月14日にミューゲルン - デーベルン間の旅客列車が廃止され、1972年末にはドレスデン鉄道局の狭軌鉄道の営業距離は152.8 kmまで縮小されていた。一方で、沿線の道路整備状況や自動車の不足により存続させなければならない路線も多く、これらの路線の運行は廃線となった路線から転用された機材により補われたが、9977-79形などが使用できない低規格の路線においては老朽化の進んだ本形式が引続き使用されることとなり、1961年のV 36 Kディーゼル機関車プロジェクトの失敗により代替する新機材の導入も実現しなかったため、前述の全般修繕機化改造および新造機化改造が1962-68年に計30機に実施されている。 1950年代前半の時点では、ドレスデン鉄道局管内の本形式は主にヴィルカウ=ハスラウ - カールスフェルト線、グリューンシュテットゥ - オーバーリッタースグリュン線、ミューゲルン狭軌路線網で使用され、少数がヘッツドルフ – エッペンドルフ間(ヘッツドルフ – グロースヴァルタースドルフ線の一部)、ムルダ – ザイダ線、ヴォルケンシュタイン - イェーシュタット線で使用されていた。これらの機体は月間走行距離が4700 - 5000 kmに至っていたため、本形式の損耗防止のためにドレスデン鉄道局は重量列車の牽引に老朽化の進んだ本形式を使用しないよう通達をしていたが、1959年に老朽化の進んだ1機が廃車となったのをはじめとして、1966-68年に計20機が廃車となっている。 一方、ザクセン州地域以外の狭軌鉄道においても軽量機の需要があり、1951年以降、ナウェン - ゼンツケ - クリーレ線、イェリホー I地区狭軌路線網、リューゲン島狭軌路線網、プリーグニッツ狭軌路線網の4路線で本形式の試験運行が実施され、ドイツ最大の島の路線網であるリューゲン島狭軌路線網に延べ17機、現在のブランデンブルク州のプリーグニッツ狭軌路線網に3機がドレスデン鉄道局からそれぞれ転用されているほか、ザクセン=アンハルト州の人民公社マンスフェルト・コンビナートの専用鉄道に1951-54年の間に断続的に貸出されている。
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