1950-2000
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「アヤックス・アムステルダム」の記事における「1950-2000」の解説
1956年、オランダのプロリーグ化が進む。プロ第一号はピート・カイザーである。 1965年にリヌス・ミケルスが就任。ミケルス監督がトータルフットボールと呼ばれる戦術を作り、ヨハン・クライフ、ピート・カイザー、シャーク・スワルトらがそれを実践し、黄金時代が訪れた。ミケルス就任当時のアヤックスはまだヨーロッパの第一線を行くクラブではなかった。チャンピオンズカップは一度も獲得したことがなく、オランダリーグの代表といえば、フェイエノールトであった。ミケルスの最初の2年間は厳しく、困難なものであった。チームはうまく機能せず、イタリア、スペイン、イングランドの有力クラブのような巨大な経済力は持ち合わせていなかった。生え抜き選手、そしてオランダ人だけという限られた条件の下、最高レベルの試合に挑戦していった。 降格の危機にあったが、ミケルス就任の翌年からリーグ3連覇を成し遂げた。UEFA主催のリーグにおいてはUEFAチャンピオンズカップの1968-69シーズン決勝でACミランに1-4で敗れたものの、この敗戦が、それから続く全ての栄光の始まりとなる。翌シーズンはクライフの他ヨハン・ニースケンスやアリー・ハーンなどの若手が育ち、1970-71シーズンからチャンピオンズカップ3連覇を果たす。ロンドン(ウェンブリー)でのパナシナイコス戦2-0、監督はシュテファン・コヴァチに代わるも、ロッテルダムでの対インテル戦2-0、ベオグラードでの対ユヴェントス戦1-0。アヤックスにとって輝かしい3シーズンであった。これらの成功の多くは選手達を鍛え上げたミケルスの功績であった。 <4-3-3>、1973年、チャンピオンズカップ3連覇時のメンバー ストイ# 1 シュルビア# 3 フルスホフ# 13 ブランケンブルク# 12 クロル# 5 ハーン# 15 ニースケンス# 7 ミューレン# 9 レップ# 16 クライフ# 14 カイザー# 11 1985年にヨハン・クライフがテクニカルディレクターに就任。アヤックス・ユースアカデミー (Ajax Youth Academy) を設立。 1986-87シーズンはフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステンらを擁し、チームはUEFAカップウィナーズカップを獲得した。 1991-92シーズンはアシスタントコーチからトップチームの監督へと昇格したルイ・ファン・ハールの指揮の下、UEFAカップではトリノFCに第1戦を2-2、第2戦を0-0としたが、アウェーでのゴールで優勝を果たした。1993-94年シーズン開幕を前にフランク・ライカールトがACミランkら復帰した。 チャンピオンズリーグ1994-95シーズン決勝では、エトヴィン・ファン・デル・サール、ダニー・ブリント、フランク・ライカールト、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフ、ヤリ・リトマネンらを擁してイタリアのACミランを1-0で下し、4度目の欧州制覇を成し遂げている。またこの年には、トヨタカップでブラジルのグレミオFBPAをPK戦の末辛くも勝利、クラブ世界一のタイトルを手にしている。 1995-96シーズンには、再びチャンピオンズリーグ決勝の舞台に上がったが、ユヴェントスにPK戦の末敗れている。なお1994-95シーズンから1995-96シーズンでユヴェントスに敗れるまでチャンピオンズリーグ19戦無敗という記録を打ち立てている。 1997-98年シーズン、ミカエル・ラウドルップらを獲得、リーグと国内カップの2冠を達成した。
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