とよた‐カップ【トヨタカップ】
読み方:とよたかっぷ
《TOYOTA Cup》日本の自動車メーカーであるトヨタ自動車が協賛して開催された、サッカーのクラブチームによる世界選手権大会の通称。
[補説] 1980年から2004年までは「トヨタヨーロッパ/サウスアメリカカップ」の名称で、日本で開催され、欧州と南米の各クラブ選手権大会で優勝したチームが対戦した。前身のインターコンチネンタルカップは1960年に始まり、南米と欧州で開催されていたが、サポーター同士の衝突が激化したことなどから、第三国の日本で開催されることになった経緯がある。2005年、国際サッカー連盟(FIFA)が主催する同様の大会と統合・再編され、翌年から名称が「FIFAクラブワールドカップ」に変更。トヨタ自動車は、2014年大会まで冠スポンサーを務めた。→クラブワールドカップ
トヨタカップ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 09:19 UTC 版)
「ミシェル・プラティニ」の記事における「トヨタカップ」の解説
同年12月8日、日本の国立霞ヶ丘競技場で行われたトヨタカップにヨーロッパ代表として出場しアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦。試合はアルヘンティノスが先行する展開だったが、63分に獲得したPKを自ら決め1-1の同点とし、再びリードを許した後の82分には相手守備陣の裏をかくループパスをミカエル・ラウドルップに供給し2-2の同点に追いついた。延長戦でも決着はつかずPK戦までもつれこんだが、ユヴェントスの5番目のキッカーとして登場したプラティニが確実にシュートを決め4-2で勝利。ユヴェントスをヨーロッパ勢としては初のトヨタカップ優勝に導くと共に、この大会のMVPに選ばれた。 またプラティニはこの試合で「トヨタカップ史上で最も美しいシュート」と評される見せ場を作った。68分のコーナーキックのチャンスにおいて、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせ3人のDFのマークを外し、そのまま反転して左足でボレーシュートを放ちゴールネットに突き刺した。プラティニは最高のパフォーマンスを見せたとの確信からガッツポーズを見せチームメイトも彼に駆け寄り祝福したが、線審はオフサイドフラッグを掲げていたためオフサイドと判定され、幻のゴールとなった。オフサイドと判定された直後に芝生の上で寝そべり、頬杖をついて判定に抗議する姿は強い印象を残した。後にプラティニは、フランスの日刊紙リベラシオンに掲載された作家のマルグリット・デュラスとの対談において当時を振り返り、 私の選手としてのピークは、1985年の12月だった。 — ミシェル・プラティニ と述べている。 その後、UEFAチャンピオンズカップ 1985-86では準々決勝でベルント・シュスターを擁するFCバルセロナに敗退。1985-86シーズンのリーグ戦では4年連続得点王のタイトルは逃したものの、ASローマやSSCナポリを退け22回目のスクデット獲得に導いた。またフランス代表での活躍(後述)もあり1983年から3年連続でバロンドール(欧州年間最優秀選手)に選ばれるなど絶頂期にあった。一方で1985年末のクリスマス頃に痛めた左足踵の炎症の状態が回復せず、痛みを庇いながらプレーを続けていたためにフォームが崩れ、シーズンが終了するころには疲労はピークに達していた。
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