サンパウロFCの全盛期創成
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「テレ・サンタナ」の記事における「サンパウロFCの全盛期創成」の解説
1990年にサンパウロFC監督に3カ月の短期契約で就任すると、低迷していた名門に黄金期をもたらした。就任当初のサンパウロFCはセリエB(2部)の中位をさまよっていたが、すぐにセリエA(1部)に引き上げて契約延長を果たした。評価の低かったライーを急成長させ、デニウソンなど下部組織出身の若手を多数トップチームに抜擢してチーム強化を図った。1991年にはサンパウロ州選手権で優勝し、セリエAとの2冠を達成した。1992年のコパ・リベルタドーレス決勝ではアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズをPK戦の末に破り、ブラジル勢として5クラブ目・ブラジル勢として10年ぶりとなる優勝を果たした。初出場同士の対戦となったトヨタカップ・FCバルセロナ戦では0-1と先制されたが、チームの精神的な支柱であるライーの2得点で逆転勝利した 。1993年のコパ・リベルタドーレスでは38歳のトニーニョ・セレーゾが中盤に君臨してチリのウニベルシダ・カトリカを倒して大会2連覇を果たし、トヨタカップでは同大会で負けたことがなかったACミランを倒して2年連続で世界王者の称号を手にした。サンパウロFCではセリエAや州選手権、コパ・リベルタドーレス、トヨタカップのタイトルのほかに、コパCONMEBOL、スーペルコパ・スダメリカーナ、レコパ・スダメリカーナ、ラモン・デ・カランサ杯、テレサ・エレーラ杯などで優勝し、コパ・ド・ブラジル以外の主要タイトルを総なめにした。サンパウロFC在籍時には日本代表監督就任のオファーを受けたが、サンパウロFCが最高の時期にあったことなどからオファーを断った。ヘビースモーカーであり糖尿病を患っていたが、1996年に脳梗塞を患い、指導者生活を断念した。
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