サンパウロ国際レース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 08:01 UTC 版)
「ホンダ・R125」の記事における「サンパウロ国際レース」の解説
出発にあたり、参加するライダーは既に発表された中から大村と田代がそのまま選ばれ、さらにホンダ社員で車体の設計を担当していた馬場利次がマネージャー兼務の整備士として加わり、この3人が2台の参加車両を完全に分解した部品を持って1954年1月13日に羽田空港を出発し、6日かかってサンパウロに到着した。 レースまでの1ヶ月は、歓迎への挨拶や他メーカへの視察で多忙な日々を過ごす中、本番への練習を行っていたが、この間にメグロ・レックスの改造車で出場する予定だった田代が練習走行で転倒した際に左手を怪我して欠場することになり、大村だけがレースに臨むことになった。 そして2月13日、インテルラゴス・サーキットで行われた125ccクラスのレース決勝には22台が出場した。大村は日本のダート走路とインテルラゴスのような舗装されたサーキットとの違いに戸惑っていたうえ、練習走行の時点でR125とヨーロッパから参戦してきた世界選手権クラスのDOHCエンジンを搭載したレーサーとの性能差を痛感していた。しかし出発前に本田宗一郎から「完走だけは」と激励されており、最後まで走り終えることを目標としてレースに挑んだ。 レースは1周8km(当時)のコースで争われ、ネッロ・パガーニ(イタリア・モンディアル)が36分55秒2のタイムで8周し1位でゴールする。この時点で大村のR125はトップから1周半以上離される大差がついており、最後まで走った18台中の13位としてレースを終えた。だが日本メーカーの車両が国際レースで初めて完走を果たしたこと自体が快挙としてとらえられ、現地からの連絡を受けた本田宗一郎や関係者は沸き立った。
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