ボギー気動車
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その後、大型のボギー式両運転台ガソリンカーを1934年から1937年までに合計3両製造した。これらもやはり部品供給事情を重視してフォードの自動車用エンジンを搭載したが、大型車であるため当時最新鋭のV型8気筒エンジン(4ストローク・サイドバルブ水冷8気筒・排気量3.6L)を採用している。また、全車共に車体の両端にバスケット状の荷物台を装備した。 1934年に梅鉢車輌で製造された最初のボギー車であるキハ100は、既存のキハ1形を引き延ばしたような四角い車体に正面三枚窓デザインの50人乗り車で、板台枠式動力台車を備え、エアブレーキを装備するなど新機軸を多数採用していたものの、あまりに特殊な設計が多く故障が多発した。これは詳細な資料・写真がほとんど残されておらず『RM 西大寺鉄道』でも牧野俊介氏が1940年に付随台車側の斜め横から撮影したものを「唯一の写真」としているほどである。貴重な写真と車両寸構図からすると、少なくとも床下中央部にはエンジンが確認できず(向こう側が見える)、『鉄道ファンvol.218(1979年6月号)』の「レールバスものがたり II-2」では「IV部(注:同年10月号に収録)で紹介する簡易軌道歌登線の自走客車のようにリアエンジン並みの方式ではないか」という湯口徹の説が掲載されている。 他には日本では類例の少ない「台車に直接エンジンを搭載した気動車」ではないかという説もある[要出典]。 最終的に使いにくかったキハ100は1941年に機関を外され、ハボ23として客車になるが昭和26年(1951年)にいったん廃車にされ、車体を分割してキハ8・10の2両の単端式に改造された。なお、梅鉢がキハ100を製造する数年前に、やはり大阪にあった零細メーカーの加藤車輌は「パワー・トラック」と称する台車直接装架エンジン方式を開発し、何両かの私鉄気動車に採用されたもののトラブル多発で失敗しているが、それらとキハ100との技術的な関係は定かでない。 これに続いて1936年から1937年にかけ増備されたキハ6(日本車輌製造(日車)本店製)とキハ7(川崎車輌製)はいずれも一般的かつ実用的な床下吊り下げエンジンの60人乗り車で、以後の主力車となった。当時の日車本店製軽便鉄道向けボギー式気動車のフォーミュラに則って四角い車体に正面二枚窓、やや深めの丸屋根というオーソドックスなデザインにまとめられたキハ6に対し、キハ7は川崎車輌が日車と競作した江若鉄道キニ10で習得した、京阪電気鉄道60形「びわこ号」(1934年)の流れを汲む流線型前頭部を採用したのが特徴である。両車とも車体両端に側面開閉可能な大型荷台を備え、自転車搭載が容易になっていた。 台車はキハ6が一体鋳鋼製側枠を備える軸バネ式、キハ7は菱枠構造の軸バネ式で、いずれも日車が実用新案を取得した、機関と変速機を床下の機関台枠に装架し、そこからユニバーサルジョイントで逆転機を介して動輪を駆動する、当時の一般的な駆動システムとなっており、キハ100と比較して格段に実用性が向上していた。もっとも、いかに勾配らしい勾配のない西大寺鉄道線といえども連続定格出力28.1kW(≒37.5PS)のフォードV8ではやや非力で、戦後2両揃ってディーゼルエンジンに換装された際には、公称出力90PSのいすゞDA45(水冷直列6気筒5.1L)が採用されている。
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