ボギー車÷2→単端車×2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 17:42 UTC 版)
「西大寺鉄道」の記事における「ボギー車÷2→単端車×2」の解説
欠陥車のキハ100は戦時中にエンジンを降ろして客車化されたが、戦後の1951年には、車体中央で切断されて2両の単端式ガソリンカー(キハ8・10)に改造されるという、他にほとんど例のない珍改造を受けた。この2両は既存の単端式気動車に類似した駆動装置を新製し、前面は軽く傾斜した2枚窓の流線型となった。 ちなみにキハ100の扉間窓数は9枚でそれを4枚と5枚に分割したため、キハ8とキハ10では車体の構成が異なっており、キハ8は旧運転台側をそのまま流線型化したために客用扉も前位寄りに設けられていたのに対し、キハ10では旧運転台側を後部に回して切断面側を前位として新造の流線形前頭部を継ぎ足したために客用扉が後位寄りに設けられるという相違があった。なお、この関係でキハ10の後位寄り連結面には大型荷台ごと旧キハ100の前面が残されており、往時の面影を留めていた。 なお、これら2両はいすゞTXトラック用ガソリン機関(いすゞDG32型 4ストローク・サイドバルブ水冷直列6気筒4.4L 公称出力85PS/3,000rpm)を搭載し、変速機を経て歯数比6.25:1のウォームギアで後軸を駆動した。 営業用鉄道車両でのウォームギア駆動は、以後NSL車こと名古屋市交通局800形電車 (軌道)で乗り越しカルダンドライブに採用された例があるのみで戦後の日本で製造、あるいは改造された気動車では(日本車輌製造が開発した、最終減速機と一体化された逆転機にベベルギアを使用するシステムが一般的であったこともあって)これら2両以外に採用例はない。 この改造によりガソリンカーは1両増となったが、以後は西大寺の会陽開催時の混雑対策と、国鉄赤穂線の延伸をにらんで、一切車両の増減がないままに廃線の日を迎えている。 気動車要目(キハ9は当初より欠番) キハ1-5:1931年梅鉢鉄工所製造、総重量3.8t、機関フォードAA→トヨタ6気筒、20人乗り。(1941年代燃装置装備、機関換装1948(キハ3 - 5)・1950年(キハ1・2)。) キハ100:1934年梅鉢鉄工所製造、総重量8t、機関フォードV8、50人乗り。(1941年機関取り外し、1951年分解されてキハ8・10に改造。) キハ6:1936年日本車両製造、総重量11.5t、機関フォードV8→いすずDA45、60人乗り。(1949年機関換装) キハ7:1936年川崎車両製造、総重量11.5t、機関フォードV8→いすずDA45、60人乗り。(1949年機関換装) キハ8・10:1951年自社工場でキハ100から改造、総重量5t、機関いすず6気筒、20人乗り。 (動力機構はキハ1 - 5までは製造から機関換装まで2軸駆動、機関換装後は1軸駆動。他はすべて最初から1軸駆動。)
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