運行再開後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 02:13 UTC 版)
1979年当時、広九直通列車は毎日1往復運行された。広州発九龍行き91次列車は広州を午前8時30分に出発し、九龍発広州行き92次列車は九龍を午後1時に出発した。所要時間はともに2時間54分であった。列車の編成は東風3型ディーゼル機関車牽引の13輛編成で、10輛が空調付き軟座車、1輛が電源車、1輛が食堂車、1輛が荷物車であった。1979年当時の片道切符の値段は53.5香港ドルまたは16人民元であった(1979年当時の交換レートは100香港ドルが30兌換元であった)。旅客は広州駅で出国審査を行った後、そのまま国境を通過して九龍駅(紅磡駅)まで行き、到着後入国審査を受けた。1本の列車で輸送できる限界は640人であったが、毎年30万人を輸送した。広九直通列車の乗務員には、広州鉄路局3000名強の乗務員のうち、厳しい政治的審査を通過した48名の乗務員が選出され、2班に分かれて乗務した。 1979年4月15日、第45回広州交易会が開かれると、広九直通列車に対する需要は高まってゆき、1980年1月11日から1日2往復、1984年7月1日から1日3往復、そして1986年からは1日4往復運行されるようになった。春節の時季にはさらなる増発が行われ、同時に1本の列車で840人を輸送可能となった。その後も旅客需要の急激な増加は1994年に広深高速道路(中国語版)が開通し、高速バスとの競争が始まるまで続いた。 1984年より、広九直通列車は九龍で夜間滞泊が行われるようになったが、その際に問題となったのは列車乗務員の香港での宿泊先であった。乗務員たちは当初、尖沙咀のアパートに宿泊したが、中国鉄道部はチャタムロード(中国語版)南に「鉄路大厦」というアパートを建設した。規定には、乗務員は九龍駅到着後、専用の送迎車輛でアパートに送られ、翌日早朝には九龍駅発の列車に乗務することが定められ、許可なく外出したり、アパートに人を招くことは禁止された。この規定は(2015年10月)現在でも存在する。 広九直通列車は、中国が掲げた対外開放政策を世界にアピールするのに役立った。統計によると、1979年4月から1980年末までに25の国と地域の首脳及び外交関係者が、中国訪問時に広九直通列車を利用した。そのなかにはシンガポール首相のリー・クアンユー、アメリカ合衆国前大統領リチャード・ニクソン、副大統領ウォルター・モンデール、国務長官ヘンリー・キッシンジャー等がいる。 1982年12月28日、広州鉄路局と九広鉄路局は広九直通列車の運賃値上げを決定し、旅客運賃が47%、荷物運賃が30%値上げされた。1984年、香港、マカオ、台湾をはじめとした西側諸国からの乗客の増加に伴い、サービス向上のため乗務員の制服の変更が行われた。1984年当時、中国国鉄の乗務員の制服は人民服が主であったが、広九直通列車の乗務員は、他の地域に先駆けて洋服、ネクタイ、革靴の着用が行われた。1985年、91/92次列車に豪華な食堂車が連結され、その後101/102と107/108次列車にはバイキング形式の食堂車が連結された。
※この「運行再開後」の解説は、「広九直通列車」の解説の一部です。
「運行再開後」を含む「広九直通列車」の記事については、「広九直通列車」の概要を参照ください。
- 運行再開後のページへのリンク