B 42とは? わかりやすく解説

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XB-42 (航空機)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 10:21 UTC 版)

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XB-42

機体後部から撮影された写真。二重反転プロペラが確認できる。

XB-42 ミックスマスター(Douglas XB-42 Mixmaster)は、アメリカ合衆国第二次世界大戦中にダグラス・エアクラフト(以下ダグラス)によって開発が進められていた試作爆撃機である。空気抵抗を最小限にする為に主翼を改良し、推進式プロペラを機体後部に配置するなど[2]、従来にない様々な革新的な試みを盛り込んでいた。しかし戦後新たなパワーソース(推進力)としてジェットエンジンが登場したため、制式採用されることはなく試作のみで終わった。なおXB-42をジェットエンジンに換装したXB-43も開発が進められたが、こちらも制式採用されなかった。

B-42計画の概略

B-42計画とは、レシプロ機としては高速を出せる機体を生み出すためのものであった。当時の航空機のパワーソースはレシプロ動力(ピストンエンジン)が殆どであったが、すでに新技術であるジェットエンジンも実用化されつつあった。実際にドイツではジェットエンジン搭載の爆撃機の開発が進められてはいたが、当時のジェットエンジンは重量と比較して推進力が弱く、かつ燃料消費量も莫大であり航続距離も極端に短かった。そのため、ダグラスはレシプロ機の次期爆撃機の開発に着手するが、この計画コンセプト自体アメリカ陸軍航空軍(現在のアメリカ空軍)と連携を取って進められたものではなく、当初は実用化される見込みは全くなかった。しかし当時進められていた重爆撃機B-29の開発が失敗した際の保険(後継機という位置付け)として軍から開発が承認され予算を獲得した。

開発された機体は、当時のレシプロ動力飛行機としては優れた高速性能を発揮したが、制式採用には至らず、純ジェット機XB-43に改造されるも、これも採用には至らなかった。

開発の背景

高速爆撃機XB-42の開発はアメリカ陸軍航空軍の要請を受けたものではなく、当初はダグラスの自社資金によって進められていた。その後1943年5月、軍部より開発計画が提示され、この計画に対し2機の試作機と1機の機体構造試験機の受注に成功した。

当初、XB-42は中型攻撃機に位置付けられていたため制式名はXA-42であったが、その後、爆撃機の分類とされXB-42に変更される。開発時は第二次世界大戦中であり、ダグラスでは爆撃機や輸送機の大量生産に追われている中ではあったが、事前に開発が進められていたこともあり1944年5月6日に初飛行に成功した。

機体

通常型の風防に改造された2号機。主翼後縁に搭載された機関銃の銃身2門が確認できる。

機体コンセプトは可能な限りの空気抵抗を無くすことを目的としていた。牽引式プロペラでは機体前部に設置するため機体を"引っ張る"形になり、機体周辺を流れる気流を撹乱することになり空気抵抗が大きくなる。それを解消するため機体後部にプロペラを設置する推進式(プッシャー式)を採用していた。なお、このデメリットを解決する手段として主翼にエンジンを設置することも出来たが、ダグラスではこの方式はエンジンナセルという空気抵抗が生じるとして採用しなかった。

さらに機体の空気抵抗を軽減する為に、防御用火器である機関銃を左右主翼後縁に内蔵しており、使用時のみ遠隔操作で銃身が扉から姿を出す構造になっていた。

操縦席は通常のものでは空気抵抗を生み出すとして独特のものを採用した。2人の操縦乗員にほぼ360度の視界を確保するため、別々の水滴型キャノピー(風防)を機首上左右に並べて設置していた。その結果、まるで2つの目が付いているような外見をしていた。しかしながら、この方式は乗員間の意志の疎通の障害(いちいち機内電話で会話しなければならない)となり、緊急事態発生時に迅速な対応が出来ない恐れがあった。この水滴型キャノピーは同じダグラスのC-74でも当初は採用されていたが、ユーザーたるパイロットに不評だったため後に通常のものと交換された。

エンジンおよびプロペラ

推進式二重反転プロペラによるレシプロ動力で飛行中のXB-42。

推進力を生み出すエンジンとして、アリソン社のV-1710-V型12気筒液冷エンジンを搭載していた。このエンジンは当時のアメリカの戦闘機などに装着されていたものであったが、爆撃機に液冷式のエンジンを搭載した例はボーイング社のY1B-9試作爆撃機(1931年進空)やXB-38試作爆撃機(B-17の液冷式エンジン換装型)など少数で、XB-42もそれらと同じく当時のアメリカの輸送機や爆撃機で主流となっていた空冷エンジンを使用しない機体であった。なお、XB-42が液冷式を採用したのは機体内部にエンジンを押し込めた為、空気冷却が出来なかったからに他ならない。

プロペラはレシプロエンジン2基で作動した。またエンジンは他のレシプロ爆撃機が機首ないし主翼に搭載していたのに対し、胴体前部の内部に収納されていた。そのためプロペラを稼動させるため、延長軸を使用して胴体後部のプロペラに動力を伝えていた。またプロペラは二重反転式を採用していた。この方式はプロペラ後流の偏向を正逆回転の組み合わせで相殺できるため、垂直尾翼の小型化が可能となり、空気抵抗の減少やプロペラ効率の向上などが得られるというメリットがある反面、複雑な機構となり高度の技術が必要となる。実際に同時期に開発されていたYB-35でも、この二重反転式が採用されたが、わずかな飛行回数でエンジンに金属疲労を生じており、通常のプロペラに換装された事例がある。しかしながらXB-42のそれはレシプロエンジンでは例外的に成功していた。愛称の「ミックスマスター」は強力な推進力が生み出す渦を連想して付けられたものであった[3]

なお、大口径のプロペラが後ろにあるため、万が一乗員が緊急脱出する際には回転するプロペラに巻き込まれる危険性があり、脱出直前にプロペラの結合部を爆破して先に脱落させて安全性を確保することとしていた。

このXB-42は1944年12月にロングビーチからワシントンDCまでのアメリカ大陸横断飛行で平均速度704Km/h(433.6mph)の速度記録を作り、高速性能を示した。

その後のXB-42

ジェットエンジンが吊り下げられたXB-42A。

結局、第二次世界大戦後にはレシプロ爆撃機が活躍する場が失われ、XB-42が制式採用されることはなかった。XB-42のうち1機は事故で喪失した。残された1機は改良型XB-42Aに改造された。この機体では、主翼にウェスチングハウス社の 19B-2ターボジェットエンジン2基を主翼下に吊り下げた為、レシプロ・ジェットの混合動力機となった。この改造により最高速度は785km/hにまでアップした。だが1947年に22回目の試験飛行の着陸時に損傷し、修理されずそのまま退役した。

ダグラスではXB-42を純ジェット化したXB-43ジェットマスターを開発し、これはアメリカ合衆国で最初に飛行したジェット爆撃機となった。だが、胴体にジェットエンジンを埋め込むコンセプトはのちのジェット機の主流にはならず、こちらも制式採用されなかった。

戦後最初の戦略爆撃機は、XB-42Aと同様なジェット・レシプロ機のB-36戦略爆撃機であったが、朝鮮戦争時には実戦投入されず1958年に退役する。B-36の退役をもってアメリカ空軍の保有する爆撃機は全てジェット機となる。

なお残されたXB-42Aであるが、1949年に登録抹消され国立航空宇宙博物館で保存されることになり、分解後運搬されるが、主翼部分は輸送中に紛失してしまう[4]

また、ダグラスはXB-42の設計を低翼に変更し、エンジン位置を移動させて胴体部に最大48席の客席を設けた旅客仕様のDC-8 スカイ・バス[5](後のジェット旅客機のDC-8との関連はない)を構想して航空会社に売り込んだが、関心を集められず、実現することは無かった。

スペック

XB-42(初期製作時)

  • 全長:16.4m
  • 全幅:21.5 m
  • 翼面積:51.6 m2
  • 高さ:5.7 m
  • 搭載エンジン及び推力:アリソン V-1710-V型12気筒液冷レシプロエンジン2基、1,300 kW (1.800馬力)X2
  • 航続距離:2,900 km (最大搭載時), 8,700 km (フェリー時)
  • 最大上昇限界高度:8,960 m
  • 空虚重量:9,475 kg
  • 全備重量:15,060 kg
  • 最大離陸重量:16,194 kg
  • 最大速度:660 km/h
  • 巡航速度:504 Km/h
  • 乗員:3名
  • 武装:12,7 mm 機関銃(ブローニングM2重機関銃)6門、 爆弾3.600 kg

注釈及び引用

[脚注の使い方]
  1. ^ Knaack, Marcelle Size. Post-World War II bombers, 1945-1973. Washington, DC: Office of Air Force History, 1988. ISBN 0-16-002260-6.
  2. ^ 航空ファン別冊 No.32 アメリカ軍用機1945~1986 空軍編 文林堂 P48 雑誌コード 03344-8 1986年
  3. ^ 西村、参考文献116頁
  4. ^ Knaack, Marcelle Size. Post-World War II bombers, 1945-1973. Washington, DC: Office of Air Force History, 1988. ISBN 0-16-002260-6. Winchester 2005, p. 27
  5. ^ DC-8 'Skybus' concept [リンク切れ]

参考文献

関連項目

  • XB-43 - ダグラスが、本機の次に開発した航空機。ジェットマスターの愛称があった。
  • B-45 - アメリカで最初に制式採用されたジェット爆撃機。
  • 震電 - 本機と同じく、機体後方にプロペラを配置した日本の戦闘機。
  • 爆撃機一覧

外部リンク

(以上、国立航空宇宙博物館より、英語表記)


グーテンベルク聖書

(B 42 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 08:06 UTC 版)

アメリカ合衆国議会図書館収蔵のグーテンベルク聖書

グーテンベルク聖書(グーテンベルクせいしょ)は、15世紀ドイツヨハネス・グーテンベルク活版印刷技術を用いて印刷した西洋初の印刷聖書。グーテンベルク聖書は当時もっとも広く流通していたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとしている。

ほとんどのページが42行の行組みであることから「四十二行聖書(42-line Bible、42B)」とも呼ばれ、枢機卿ジュール・マザランのコレクションから発見された歴史的経緯から「マザラン聖書(the Mazarin Bible)」とも呼ばれる。羊皮紙に印刷されたものとに印刷されたものがあり、180部が印刷されたと考えられているが、現時点で存在が確認されているのは不完全なものも含めて48部である。日本では慶應義塾大学図書館が不完全本を所蔵している[注釈 1]。この印刷に用いられた活字は「四十二行聖書」の名称から「B42」と呼ばれている。

経緯と詳細

グーテンベルク聖書の1ページ目(テキサス大学所蔵)
このページは40行である。

商人の子で腕利きの金細工職人であったグーテンベルクは活版印刷の技術を実用化に成功、マインツの実業家ヨハン・フストから資金を得て聖書の印刷に取りかかった。グーテンベルクは当時もっともよく読まれていたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとして選んだが、ヴルガータもさまざまな異本が存在したため、13世紀パリ大学で校訂された「パリ本」をメインテキストとし、そのほかのテキストも適宜参照した。グーテンベルク聖書は現在流通している聖書とは異なっており、カトリック教会の歴史の中で正典からはずされた「エズラ書」、「エズラ書四」および「マナセの祈り」を含み、各書の冒頭にはヒエロニムスの言葉が付されている。巻頭にはヒエロニムスがノラのパウリヌスにあてた手紙がおさめられているが、これは中世の聖書の伝統であった。グーテンベルク聖書は一見カラーに見えるが、本文そのものは黒色で単色印刷され、あとから飾り文字と飾り罫が手で書き加えられている。

グーテンベルク聖書の印刷は、1455年2月23日に開始された。初め羊皮紙に45部印刷されたといわれる。羊皮紙版のうち、現存するものは完全なものが4部と不完全なものが8部の合計12部である。次に紙に135部印刷されたと考えられているが、紙版は完全なものが17部、不完全なものが19部現存している。

グーテンベルク聖書は長らく忘れ去られていたが、1763年にフランスのフランソワ・ギヨーム・ド・ビュール(Francois Guillaume de Bure)がマザラン枢機卿のコレクションから「四十二行聖書」を発見。その重大な価値に気づいたことで、その存在が広く注目された。このことから「マザラン聖書」と呼ばれることもある。

三十六行聖書

行数から「三十六行聖書」と呼ばれる聖書もかつてグーテンベルクの手によって印刷された、あるいは「四十二行聖書」より早く印刷されたと考えられたこともあったが、現代の研究者たちはグーテンベルクから「DK」(ドナトゥス・カトリコンの意味)と呼ばれる活字セットを譲り受けたアルベルト・プフィスター(Albert Pfister)が1460年ごろ印刷を行ったものと考えている。

「三十六行聖書」が「四十二行聖書」より後のものであるということを初めて示したのは19世紀の研究者カール・ディアッコ(Karl Dziatzco)である。「三十六行聖書」はわずか15部しか現存していない。

グーテンベルク聖書の所在地

2006年時点でオリジナルのグーテンベルク聖書は、世界で48部(完本、不完全本の合計)が確認されている。もっとも多く存在する国はドイツとアメリカ合衆国であり、それぞれ12部である。また、ニューヨークに4部、ロンドンには3部と断片集(バッグフォード断片)日本には3部、パリ、モスクワ、バチカン、マインツ(グーテンベルク博物館)には2部[2]ずつ存在する。

慶應義塾大学によると、本の形で現存するものは、羊皮紙に印刷されたものとして完本4部・不完全本8部、紙に印刷されたものとして完本17部・不完全本19部で、合計48部である[3][4]

不完全本(断片集、1ページのみなど)の所蔵であっても貴重である。日本国内では慶應義塾大学図書館、東北学院大学シュネーダー記念中央図書館、関西学院大学が不完全本を所蔵している[5][6]。慶應義塾大学では主要なファクシミリ(写真複製版)も所蔵している[7]

国名(収蔵数) 所在地 詳細
アメリカ合衆国(12) アメリカ議会図書館 羊皮紙
ニューヨーク公共図書館
モルガン・ライブラリー 羊皮紙、紙×2
イェール大学図書館
ハーバード大学図書館
プリンストン大学図書館
インディアナ大学図書館
テキサス大学図書館
ヘンリー・ハンティントン図書館 羊皮紙
ビル・ゲイツ個人収蔵
イギリス(8) 大英図書館 羊皮紙、紙
ランベス・パレス図書館 羊皮紙
イートン・カレッジ図書館
オックスフォード大学図書館
マンチェスター大学 ジョン・ライランズ図書館
ケンブリッジ大学図書館
スコットランド国立図書館
オーストリア(1) オーストリア国立図書館
スイス(1) ポドマー図書館
スペイン(2) ブルゴス州立図書館
セビリャイエズス会大学図書館
デンマーク(1) コペンハーゲン王室図書館
ドイツ(12) グーテンベルク博物館 紙×2
フルダ州立図書館 羊皮紙
ライプツィヒ歴史本の歴史博物館 羊皮紙
ゲッティンゲン大学図書館 羊皮紙
ベルリン国立プロイセン財団図書館 羊皮紙
ミュンヘンバイエルン州立図書館
フランクフルト市立図書館
アッシャフェンブルク宮廷図書館
ヴルテンブルク州立図書館
トリーア市立図書館
カッセル・ムアハルト図書館
日本(3) 慶應義塾大学図書館
東北学院大学シュネーダー記念中央図書館
関西学院大学図書館
バチカン(2) バチカン図書館 羊皮紙、紙
フランス(3) パリ国立図書館 羊皮紙
マザラン図書館
サントメール市立図書館
ベルギー(1) モン大学図書館
ポーランド(1) ペルプリン神学校図書館
ポルトガル(1) ポルトガル国立図書館
ロシア(2) ロシア国立図書館
モスクワ大学図書館 羊皮紙

注釈

  1. ^ 慶應義塾大学が所蔵する完本は、1987年丸善が購入したもの[1]

出典

参考文献

  • 高宮利行、『グーテンベルクの謎』、岩波書店、1998
  • 富田修二、『グーテンベルク聖書の行方』、図書出版社、1992
  • 折田洋晴、『インキュナブラの世界』、研修教材シリーズ13、日本図書館協会、2000

関連項目

外部リンク




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