導入後の変遷
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本系列は当初モハ3500形-クハ3600形からなる2両編成として落成したが、やや遅れて1968年(昭和43年)より落成した中間車モハ3500形-サハ3600形を組み込んで30本が4両編成化され、7本が2両編成のまま残存した。 車番は先頭車・中間車の区別なく全車続番とし、種車の製造年代別・台車別、および窓構造別に末尾01 - 54・61 - 72・81・82と付番された。そのため更新後の車番は落成順でないことは言うまでもなく、ユニットを組むモハ・クハ(サハ)で末尾番号が揃うことすら稀であった。 こうした状況は車両管理上都合が悪く、加えて後述3050系の落成後は車番の重複も懸念されたことから、1971年(昭和46年)11月に全車一斉に改番が行われた。新たな形式は4両編成が浅草方よりモハ3100形-サハ3200形-モハ3300形-クハ3400形、2両編成がモハ3500形-クハ3600形とされ、新たな車番は先頭車基準による落成順で4両編成は末尾01 - 30の順に、2両編成は末尾01 - 07の順にそれぞれ付番された。 その後、本系列が野田線に集中配置されたのち、同線の基本編成が6両編成とされたことから、4両編成のうち8編成が他の4両編成より中間車を転用し6両編成化され、中間車を供出した編成はそのまま2両編成として運用された。この編成替えに際しては改番は行われなかったため、6両編成においては編成内の末尾が統一されず、また2両編成においては電動車基準で3100番台と3500番台の二種類の編成が混在する事態を招いた。 編成替え一覧編成替え対象 6両編成 2両編成 竣工年月 モハ3102-サハ3202-モハ3302-クハ3402 モハ3102-サハ3203-モハ3303-サハ3202-モハ3302-クハ3402 モハ3103-クハ3403 1977年7月 モハ3103-サハ3203-モハ3303-クハ3403 モハ3105-サハ3205-モハ3305-クハ3405 モハ3105-サハ3206-モハ3306-サハ3205-モハ3305-クハ3405 モハ3106-クハ3406 1977年7月 モハ3106-サハ3206-モハ3306-クハ3406 モハ3111-サハ3211-モハ3311-クハ3411 モハ3111-サハ3212-モハ3312-サハ3211-モハ3311-クハ3411 モハ3112-クハ3412 1983年4月 モハ3112-サハ3212-モハ3312-クハ3412 モハ3113-サハ3213-モハ3313-クハ3413 モハ3113-サハ3214-モハ3314-サハ3213-モハ3313-クハ3413 モハ3114-クハ3414 1977年7月 モハ3114-サハ3214-モハ3314-クハ3414 モハ3116-サハ3216-モハ3316-クハ3416 モハ3116-サハ3217-モハ3317-サハ3216-モハ3316-クハ3416 モハ3117-クハ3417 1979年10月 モハ3117-サハ3217-モハ3317-クハ3417 モハ3123-サハ3223-モハ3323-クハ3423 モハ3123-サハ3224-モハ3324-サハ3223-モハ3323-クハ3423 モハ3124-クハ3424 1977年7月 モハ3124-サハ3224-モハ3324-クハ3424 モハ3125-サハ3225-モハ3325-クハ3425 モハ3125-サハ3226-モハ3326-サハ3225-モハ3325-クハ3425 モハ3126-クハ3426 1978年11月 モハ3126-サハ3226-モハ3326-クハ3426 モハ3128-サハ3228-モハ3328-クハ3428 モハ3128-サハ3229-モハ3329-サハ3228-モハ3328-クハ3428 モハ3129-クハ3429 1979年10月 モハ3129-サハ3229-モハ3329-クハ3429 斜字は編成替えによって新たに組み込まれた中間車を示す。 本系列は登場当時伊勢崎線・日光線や東上線といった幹線系統でも運用されたが、1972年(昭和47年)10月には前述のように全車野田線へ集約された。なお、同時期には本系列同様3列式の列車番号表示幕兼種別表示幕を装備していた8000系に対して、一般的な種別表示幕に交換する改造が行われたが、優等運用に充当される機会のない本系列は交換対象外とされ、廃車まで原形の種別表示幕を装備していた。 その後、1980年(昭和55年)から列車無線の新設、1985年(昭和60年)から車体塗装の新塗装化が順次施工されたが、利用客の増加に伴う輸送力増強が急務であった野田線においては18m級車体の本系列は輸送力不足となりつつあった。加えて本系列の搭載する機器はその多くが1920年代に製造された高経年のもので老朽化が著しく、また台車の許容荷重ゆえに冷房装置の搭載も困難であったことから、10000系を新製して幹線系統へ投入し、捻出された8000系および5000系を野田線へ転用する、いわゆる「玉突き転配」によって1987年(昭和62年)2月より廃車が開始され、1992年(平成4年)3月までに全車廃車となって本系列は形式消滅した。
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導入後の変遷
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「東武クハ101形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
太平洋戦争の激化に伴い、クハ101形・サハ101形のクロスシートは1944年(昭和19年)に撤去され、全車ロングシート仕様に改造された。この状態で終戦および大改番を迎えることとなった。
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導入後の変遷
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「武蔵野鉄道クハ5855形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
前述した(現)西武鉄道成立後、戦災国電払い下げ車両(モハ311形・クハ1311形電車など)の導入に伴う車両限界拡大が実施されたことに伴って全車とも客用扉下部に張り出し形のステップを新設したのち、1948年(昭和23年)6月の一斉改番に際してクハ5855形5855 - 5857はクハ1231形1231 - 1233(いずれも初代)に、クハ5860形5861 - 5864はクハ1231形1234 - 1237(いずれも初代)にそれぞれ改番され、同一形式に統合された。同時期には連合国軍 (GHQ) の要請により西武鉄道においても連合軍専用車両が導入されたが、クハ1231形(以下「本形式」)は全車が専用車両に充当され、車内半室(側面中央部の客用扉より前部)を専用区画とし、1950年(昭和25年)頃まで運用された。 1952年(昭和27年)4月には(旧)西武鉄道が保有した制御車クハ1151形1159(初代)を同車の池袋線への転属に際してクハ1238(初代)と改番し本形式へ編入したが、1954年(昭和29年)7月には同車をクハ1231(2代)と改番、それに伴って車番の重複するクハ1231(初代)以下、旧クハ5855形・クハ5860形全車を対象に原番号に1を足した形で再改番が実施され、クハ1232 - 1238(いずれも2代)と再編された。 その間、全車を対象に片運転台構造化・運転台の進行方向左側への移設・台車のTR10(鉄道省制式の釣り合い梁式台車)への交換などを順次実施、電動車各形式と編成して運用されたが、後年の20m級車体の大型車増備に伴って本形式は武蔵野鉄道が新製した半鋼製車体を備える車両としては最も早期に淘汰が開始され、1957年(昭和32年)2月から1959年(昭和34年)2月にかけて順次廃車となって全車とも地方私鉄へ譲渡され、本形式は形式消滅した。 なお、譲渡された車両のうち、1957年(昭和32年)8月に一畑電気鉄道(現・一畑電車)へ譲渡されたクハ1232(2代・旧武蔵野鉄道クハ5855)は、1961年(昭和36年)11月に除籍されて西武鉄道へ返還され、翌1962年(昭和37年)4月にモハ151形162(2代)として復帰した。同車は一畑電気鉄道への譲渡に際して電動車化および両運転台構造化のほか、戸閉装置(ドアエンジン)が撤去されて手動扉仕様となっており、西武鉄道への復帰に際してもそれらの装備に手を加えられなかったことから、主に西武園線における単行運用に専従した。その後モハ162(2代)は、木造車体の荷物電車であったモニ1形1(初代)の代替として1964年(昭和39年)8月に荷物電車へ改造され、クモニ1形1(2代)と改称・改番された。 同車は(現)西武鉄道の前身事業者、すなわち武蔵野鉄道および(旧)西武鉄道が保有した旅客用車両としては最後まで西武鉄道に在籍した車両であったが、老朽化と小手荷物輸送量減少によって1976年(昭和51年)8月に廃車・解体処分された。同車の廃車によって、(現)西武鉄道の成立以前より在籍した、いわゆる「社形電車」は全廃となった。
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導入後の変遷
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「東武キハ2000形気動車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1954年以降熊谷線のみで使用され、他線で使用されることもなく、また当初の3両以降の増備も行われなかった。 閑散時は単行、ラッシュ時は2両編成を組んで1両予備という最低限の陣容は、廃線までの30年近く全く変わることがなく、熊谷線の閑散ぶりが伺える。この間、前照灯は通常の1灯式から、同時期の東武の電気機関車類似の2灯並列に改造され、また窓枠のアルミサッシ化、客室照明の蛍光灯化も施されている。 車体塗装は落成時点では下半分がライトブルーで上半分がベージュのツートン(コバルトブルーとクリームともいわれる。本線快速列車の塗色と同じ)であったが、後にロイヤルベージュとインターナショナルオレンジのツートーン(2000系電車に始まる一般用電車標準色)に変更され、さらに1970年代中期には、東武電車の塗装変更に伴いそれらと合わせたセイジクリーム1色塗りとなった。ただしこの最後の塗装は、油煙がこびりつきやすい気動車には不向きな色であった。 蒸気機関車牽引列車が運行されていた当時、熊谷 - 妻沼間10.1kmを24分で運行していたため、その鈍足ぶりから沿線乗客には揶揄混じりの「カメ」と呼ばれていた。しかし、本形式は17分で走破し、またずんぐりむっくりな車両でもあったので「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、また「カメ号」に戻った。他の愛称としては「プッチ」と呼ばれてもいた。車両の全般検査(以下:全検)のため杉戸工場へ入出場際、妻沼-熊谷間では自走。熊谷からは機関車による牽引で秩父鉄道。羽生より東武伊勢崎線経由で杉戸工場まで回送されていた。 そして1983年(昭和58年)の熊谷線廃止とともに廃車された。キハ2002は妻沼町に寄贈され、熊谷線妻沼駅跡の側にある熊谷市立妻沼展示館で保存されている。キハ2003は個人に売却され東船橋駅近くで学習塾として使用されたが、老朽化により解体され現存しない。 全部で3両しか在籍せず、最大でも2両編成でしか運用されなかったキハ2000形だが、廃止直前に運転士達により妻沼駅構内で最初で最後の3両編成を組成して走行した。ただし、構内を出て本線を走行したりはしていない。
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導入後の変遷
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1964年(昭和39年)1月に制御電動車(Mc)の形式記号がモハからクモハへ一斉変更されたことを受け、本系列の制御電動車もクモハ551 - 562と改称された。以下、それ以降の変遷について述べる。
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導入後の変遷
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「一畑電気鉄道80系電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は前述の編成愛称表示板を全車とも撤去した以外、主立った改造を実施されることなく、80系・90系は20m級車体という収容力の大きさを生かし北松江線の主力車両として、デハ60形は日中閑散時の単行運用もしくは前掲2系列の増結用車両に充当されるなど、それぞれの特性を生かして運用された。 その後、1993年(平成5年)11月に発表された列車増発・駅施設の整備や老朽車両の置き換えを主軸とする一畑電気鉄道の「経営改善5ヵ年計画」を受け、比較的近代的な全金属車体を備えるものの、非冷房仕様かつ旧態依然とした吊り掛け駆動車であった80系・90系・デハ60形の各形式についても代替が決定した。翌1994年(平成6年)以降、車両近代化目的で導入された2100系電車(元京王5000系電車 (初代))および3000系電車(元南海21000系電車)の増備に伴って、80系デハ82-クハ182編成およびデハ83-クハ183編成が1995年(平成7年)12月31日付で、80系デハ81-クハ181編成および90系デハ91-クハ191編成が1996年(平成8年)12月31日付でそれぞれ廃車となり、80系・90系は全廃となった。 デハ60形61・62のみは予備車として残存したものの、最終的に2006年(平成18年)10月31日付で除籍・解体され、デハ60形の全廃をもって西武鉄道より譲り受けた20m級車体の各形式は全て形式消滅した。このため、一畑からは一旦は20m級車両が消滅していたが、2016年12月に投入された86年振りの自社発注車となった7000系で再度20m級車両が投入され復活した。
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導入後の変遷
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「東濃鉄道ED1000形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は主に貨物列車牽引用途に供されたほか、貨物列車に旅客用電車を混結した混合列車牽引にも用いられた。 1956年(昭和31年)8月5日に発生した正面衝突事故において、本形式は台枠部分を損傷した。被災した本形式ならびにモハ100形101は損傷した部分の修復のため製造メーカーである東芝へ送られたことから、本形式が運用を離脱している間の貨物列車牽引機として、名古屋鉄道(名鉄)よりデキ370形が貸し出された。同機は運転方式などが本形式と異なることから、運転は同機とともに名鉄より出向した運転士が担当した。本形式は同年内に修復されて運用に復帰したが、修復に際して運転室側面に取り付けられている銘板(メーカーズプレート)が交換され、銘板記載の製造年が「昭和31年」となった。 1972年(昭和47年)7月13日に発生した昭和47年7月豪雨による橋梁流失に伴い、同日より駄知線は営業休止となり本形式も休車となった。 詳細は「東濃鉄道駄知線#水害による路線廃止」を参照 その後復旧されることなく、1974年(昭和49年)10月21日付で駄知線は廃止され、本形式も同日付で除籍された。駄知線に在籍した電車(モハ100形・クハ200形、ならびにモハ110形・クハ210形)については全車とも高松琴平電気鉄道(琴電)、総武流山電鉄(現・流鉄)、名古屋鉄道の各社へ譲渡されたが、本形式については引き取り手が現れることはなく、廃止の翌年となる1975年(昭和50年)3月に解体処分された。
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導入後の変遷
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「宮城電気鉄道キ1形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
キ2は1928年(昭和3年)7月に製造メーカーである日本車輌製造において箱形切妻車体の側面に引戸を設けた電動貨車に改造され、番号もキワ2(後にデワ2に再改称)に改められた。時期は不明であるが、両車はさらに改番され、自重が約27tであったことからED27形(ED27 1・ED27 2)に改められた。さらに1944年(昭和19年)に宮城電気鉄道が戦時買収により国有化されたことに伴って、両車とも国有鉄道に継承され国鉄ED27形(初代)(ED27 1・ED27 2)として原形式・原番号のまま国鉄籍へ編入された。 太平洋戦争後の1950年(昭和25年)に、仙石線へED20形2両が転入したのにともない、2両とも同年に架線電圧が600Vから1,500Vに昇圧された宇部西線(旧宇部電気鉄道)に転出し、1961年(昭和36年)に廃車となるまで運用された。私鉄への譲渡機、保存機はない。
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導入後の変遷
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「江ノ島電気鉄道200形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
前述の通り、納涼電車は夏季のみ100形111・112から主要機器・台車を移設して運用された。1938年(昭和13年)に100形113・114(車番はいずれも初代)が導入されると、主要機器共有先は同2両に変更され、納涼電車の車体の車番標記も113・114と変更された。その後、太平洋戦争激化による戦時体制への移行に伴って納涼電車の運行機会はなくなり、2両の車体は極楽寺検車区の庫内にて保管された。
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導入後の変遷
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「蒲原鉄道モハ31形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
竣功当時における蒲原鉄道線に在籍する電動車各形式中、最も車両定員数の多かったモハ31・41は主力車両として運用された。また、大型の二枚窓で構成された前面構造は、視界の広さから運転士から好評を博した。 落成後10年程度を経過した1962年(昭和37年)6月に、モハ31に対して外板張り替え・車体木部の一部金属化など修繕工事および制御方式の間接非自動制御化改造が西武所沢車両工場において実施された。改造後のモハ31は前面窓がHゴム固定支持による固定窓となり、その他乗務員扉の増設・客用扉の鋼製扉化・戸袋窓のHゴム固定化・ドアエンジン新設による半自動扉化・開閉可能窓のアルミサッシ化・客室内照明の蛍光灯化などが施工された。翌1963年(昭和38年)6月にはモハ41に対しても同様の工事が実施されたが、モハ31に施工された改造項目に加えて車体延長工事ならびに車内のロングシート仕様化が施工された。 蒲原鉄道線においては1978年(昭和53年)10月より新潟県下における鉄道路線としては初となるワンマン運転が開始されたが、それに先立って同年7月にモハ31・41に対してワンマン運転対応改造が、村松車庫内において西武所沢車両工場の出張工事によって実施された。改造後の同2両は前面窓内側にワンマン表示器を、妻面左右部にバックミラーを、側面腰板部に車外スピーカーをそれぞれ追加し、車内には料金箱が新設された。 モハ31・41は1985年(昭和60年)4月1日付で実施された村松 - 加茂間廃止に際しての余剰車両整理対象には含まれず、路線縮小後も残存した。モハ31は1989年(平成元年)4月から翌1990年(平成2年)3月にかけて、沿線に所在する釣り堀「村松魚パーク玉泉」の広告電車として、車体全体に魚のイラストを配した特別塗装が実施されていたが、広告契約期間満了に伴って従来塗装に戻された。 蒲原鉄道線は1999年(平成11年)10月4日付で全線廃止となり、モハ31・41を含む全在籍車両も同日付で除籍された。廃線後、モハ31はED1形電気機関車とともに村松駅跡地に留置されていたものの、その後解体された。モハ41は新潟県五泉市の五泉市総合会館に静態保存されている。
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導入後の変遷
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「蒲原鉄道EL形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本形式は前述の通り貨物輸送目的で新製されたものであるが、蒲原鉄道線における主要出荷物は米穀であったことから、米穀の出荷時期である秋季を除いて需要は低迷した。年間輸送量は最盛期においても10万t程度に留まり、1957年(昭和32年)以降定期貨物列車の運用は消滅した。また、不定期運行の貨物列車においても積載量が少ない場合は電車牽引の混合列車形態によって運行されたことから、本形式は主に村松車庫内の入換作業ならびに冬季の除雪用途に供されることとなった。そのため、後年には除雪列車運行時の前方視界確保のため前後日よけの上部へ補助前照灯を左右2箇所増設し、前後台枠部分へスノープロウ固定用のアングル材ならびにスノープロウ動作用のエアシリンダが新設された。 蒲原鉄道線における貨物輸送が1984年(昭和59年)2月1日付で廃止となったのち、本形式は構内入換作業および工事列車牽引など事業用電機として運用され、1985年(昭和60年)4月1日付で加茂 - 村松間が廃止となった後も残存した。もっとも、路線縮小後の残存区間である五泉 - 村松間においては機関車による除雪を必要とするほどの積雪量を記録することはなく、後年日よけ上部に追加された補助前照灯は撤去された。貨物輸送廃止後も事業用として残存した無蓋貨車ト1形が1995年(平成7年)7月に除籍されたことに伴って、以降本形式は主に村松車庫内の入換作業に専従した。1999年(平成11年)9月26日には蒲原鉄道最後のイベントであるかんてつレールまつりにおいて旅客列車の牽引機として稼働し、同年10月4日の蒲原鉄道線全線廃止まで在籍した。 路線全廃後の本形式は、モハ31とともに蒲原鉄道本社敷地内(旧村松駅構内)に一旦保管されたのち、2009年(平成21年)6月に新潟県加茂市の冬鳥越スキーガーデンに移設の上で修復工事が実施され、既に同地において静態保存されていたモハ1・モハ61とともに保存されている。 現役当時のED1形(村松 1998年3月) 廃線後、旧村松駅にて保管されていた当時のED1形(2008年9月) 冬鳥越スキーガーデンにて(2014年8月)
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導入後の変遷
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本系列は落成当初から群馬地区におけるローカル運用(伊勢崎線館林以北・佐野線・小泉線・桐生線)に充当され、その大半が館林検修区(現・南栗橋車両管理区館林出張所)に配属された1974年(昭和49年)には全車が七光台検修区および館林検修区の配属となり、野田線および群馬地区のローカル運用に充当され、その後は列車無線新設および車体塗装の新塗装化以外、特筆すべき改造を受けることなく運用された。 本系列の淘汰は、野田線に配属されていた2両編成3本(3551・3553・3556編成)が1992年(平成4年)3月31日付で除籍されたことを皮切りに開始された。同年11月30日限りで野田線の運用が20m車で統一されたことに先立って、同年10月26日付で廃車となった3160・3552編成を最後に野田線運用から撤退した。群馬地区においても1993年(平成5年)より廃車が開始され、1996年(平成8年)4月29日に3152編成を使用して行われた小泉線でのさよなら運転を最後に営業運転を終了し、同年5月2日付で3152・3563編成が除籍され、本系列は形式消滅した。
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導入後の変遷
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「宮城電気鉄道ED35形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1944年(昭和19年)に宮城電気鉄道が保有する路線が戦時買収により国有化され、本形式も国鉄籍へ編入された。買収後も改番されることなく使用され、1952年(昭和27年)の車両形式称号規定改訂に際して、他の私鉄買収機各形式へ国鉄形式が付与された際にも、従来からの形式番号を維持した。 本形式は買収後も引き続き仙石線において運用されたが、1956年(昭和31年)に豊橋機関区に転属し、飯田線で使用された。ただし、転属後の本形式は予備機として区に待機していることが多く、あまり使用されなかった。 1961年(昭和36年)に、当時残存していた私鉄買収機とともにED28形(2代)ED28 11と改称・改番されたが、翌1962年(昭和37年)2月に廃車となった。 廃車後は浜松工場に保管されていたが、日本国有鉄道(国鉄)が当時京福電気鉄道福井支社が保有したテキ511形511をEC40形へ復元して静態保存する目的で譲り受けることとなり、その代車として同社へ譲渡された。京福では、テキ531形531と改称され、1980年(昭和55年)まで使用された。
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導入後の変遷
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「東濃鉄道モハ100形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
高松琴平電鉄71(元東濃モハ101・切妻側前面 片原町駅) 高松琴平電鉄73(元東濃モハ103 片原町駅) モハ100形・クハ200形とも全車駄知線へ導入されたが、電動車2両に対して制御車3両という体制は運用効率上問題があったことから、1952年(昭和27年)にクハ202・203は運転台機器を撤去して車両番号(以下「車番」と記す)はそのままにサハ200形と改称した。サハ202は運転台撤去と同時に非電化路線である笠原線へ転属し、客車代用として運用された。 翌1953年(昭和28年)には、サハ203が両運転台の電動車に改造され、車番はモハ100形2両の続番であるモハ103と改番・編入された。電装品はモハ101・102と同一のものを搭載したが、台車はそのままBW-78-25Aを装備した。モハ103の竣工によって電動車3両体制となり、通常ダイヤにおける運用を全て電車のみでまかなうことが可能となったことから、駄知線の客貨分離が達成された。また、先に笠原線へ転属したサハ202も1959年(昭和34年)に駄知線へ再転属し、運転台機器を設置しクハ202として復帰した。また1960年(昭和30年)以降、モハ103ならびにクハ201・202に対して傷みの著しかった外板の一部張り替えが順次施工され、張り替えが実施された部分はウィンドウシルが原形のリベットを有した段付形状から溶接による平板形状に改められた。 モハ101は1956年(昭和31年)8月に電気機関車ED1000形1001と正面衝突事故を起こした。復旧に際して損傷した駄知側の妻面が引き扉式の貫通扉を有する平妻形状に改められたほか、前面左右の窓の大きさが異なるという変形車となった。 その後、輸送量の増加に伴って2両編成での運用が常態化したことから、1963年(昭和39年)にモハ102・103は駄知側妻面に、クハ201・202は土岐市側妻面にそれぞれ貫通扉を設置し、クハ2両については土岐市側の運転台を撤去して片運転台化された。新設された貫通扉は鋼製の扉窓Hゴム固定タイプのもので、改造後は前面から受ける印象に変化が生じた。なお、貫通幌ならびに幌枠は設置されていない。次いで1966年(昭和41年)にモハ102が、翌1967年(昭和42年)にはモハ101が、それぞれ土岐市側妻面にも貫通扉を新設した。さらに後年、モハ102・103ならびにクハ201に対して前面・側面全ての窓サッシのアルミサッシ化が施工され、モハ103・クハ201は側窓が上段固定下段上昇式の二段窓から上昇式の一段窓に改められた。 1972年(昭和47年)7月13日に発生した昭和47年7月豪雨による橋梁流失に伴い、同日より駄知線は営業休止となり本形式も休車となった。 詳細は「東濃鉄道駄知線#水害による路線廃止」を参照 約2年間の営業休止期間を経て結局復旧は断念され、1974年(昭和49年)10月21日をもって駄知線は廃線となり、本形式を始めとした駄知線に所属する全車両も同日付で除籍された。
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導入後の変遷
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運用開始後は大正13年系とともに形式ごとの区別なく混用された。なお、大正13年系デハ1形は書類上は全車とも電動車であったものの、内2両(デハ7・8)は制御車代用として運用されていたことから、本系列竣功後における東武が保有する電車の内訳は電動車8両・制御車8両となっていた。
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導入後の変遷
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前述した架線電圧の1,500V昇圧に際して、電1形については制御方式が直接式かつ主電動機出力が低く、デハ1形電車など他形式との共通運用が不可能であることなどを理由として、1928年(昭和3年)7月17日付認可により全車とも電装解除・運転機器を撤去の上で付随車となり、サハ21形21 - 25と改称・改番、架線電圧昇圧後はデハ1形など他の制御電動車に牽引される形で運用された。 その後、サハ23 - 25の3両については1929年(昭和4年)12月9日付認可で車内の半室を荷物室もしくは郵便室へ改造、荷物室(郵便室)側の扉を拡幅し、サハ23は荷物合造車サハニ23形23、サハ24・25は郵便合造車サハユ24形24・25とそれぞれ形式区分された。同3両は扉の拡幅に伴って側面窓配置がB 2 2 2 3 D(B:荷物用扉)と変化した。翌1930年(昭和5年)には同年12月8日付認可によって全車とも再度運転台機器を装備して制御車化され、クハ21形(初代)21・22、クハニ23形23・クハユ24形24・25とそれぞれ改称された。また同時期には屋根部構造を二重屋根(ダブルルーフ)から丸屋根(シングルルーフ)へ改造した。
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導入後の変遷
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「伊那電気鉄道デキ1形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1943年(昭和18年)の伊那電気鉄道の戦時買収に伴って、本形式も鉄道省籍に編入された。買収後も伊那電気鉄道時代の番号のまま使用されたが、1952年(昭和27年)の車両称号規程改正により、ED31形ED31 1 - ED31 6と改称・改番された。 本形式は竣工から国有化後を通して終始伊那松島機関区に配置され、天竜峡以北の飯田線で使用された。1955年(昭和30年)から廃車が始まり、翌年までに全車が除籍された。 除籍後は、ED31 1およびED31 2が西武鉄道に譲渡され、1形(3代)1・2として導入された。同2両は多摩川線で砂利輸送の貨物列車牽引に使用されたのち、1960年(昭和35年)に近江鉄道に譲渡され、ED31形ED31 1・ED31 2と国鉄在籍当時の原番号・原形式を再び称した。 ED31 3 - ED31 5の3両は直接近江鉄道に譲渡され、日本国有鉄道(国鉄)時代の番号のまま使用された。前述した西武鉄道経由で入線したED31 1・ED31 2の導入以降、近江鉄道には5両の本形式が揃うこととなったが、1990年(平成2年)にED31 5が廃車となった後、運用を失って彦根工場内に留置されていたED31 1とED31 2が2004年(平成16年)7月1日付で廃車された。 残存したED31 3・ED31 4は、その後もイベント列車や工事列車の牽引および彦根車両基地内の入換用として長らく使用されていたが、ED31 4が機械故障を起こし休車となったのち除籍され、2011年(平成23年)時点でED31 3のみが車籍を保持していた。しかし、同機は構造上自動列車停止装置(ATS)の装備が困難な点、そして電気機関車の運転免許を保有する運転士の数が定年退職などにより減少したことから、事実上本線走行は困難な状態となった。ED31 5は台車が同社モハ51形と同じKS-33Lに交換されたため、同じく彦根駅に留置されている他の本形式とは違う外観をしていた。 除籍後も全車が彦根工場に保管され、近江鉄道ミュージアム鉄道資料館で5両揃って展示されてきたが、2017年(平成29年)12月に老朽化のため、一部(ED31 1・ED31 2・ED31 5)が解体された。 ED31 4も解体される予定であったが、2019年(令和元年)9月よりびわこ学院大学地域調査プロジェクトチームが同機の保存へ向けたクラウドファンディングを行い、同年12月に目標金額を達成し、保存が決まった。同年12月から、滋賀県東近江市の近江酒造敷地内で保存されている。最後に残ったED31 3も製造元の芝浦製作所の後身である東芝インフラシステムズへの譲渡が決まり、2020年1月17日に搬出された。 一方、ED31 6は1957年(昭和32年)に上信電気鉄道に譲渡され、同社でも国鉄時代の番号のまま使用されたが、後年、車体は箱型に改造されている。詳細は、上信電気鉄道ED31形電気機関車を参照されたい。 イベントで展示されていたED31 3(2007年撮影) 近江鉄道ED31 4(2007年撮影) ED31 4の側面(2007年撮影) 車体の改造等を受けた上信電鉄ED31 6(2009年撮影)
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導入後の変遷
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「西武40000系電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
2020年1月から、先頭部の室外解錠ハンドル(ドアコック)蓋が容易に開かないよう、四辺に銀色のテープを貼り付けて簡易封鎖されている。 2020年8月から10月にかけて、車内に抗ウイルス・抗菌加工を実施した。
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導入後の変遷
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本形式の第一陣となる1651 - 1657は1957年(昭和32年)6月から同年7月にかけて竣功したが、竣功後間もなく準備工事のみであった車内扇風機が新設され、同年7月より特急用車両に先んじてその使用を開始した。 また、本形式は前述のように1300系の制御電動車1300型と2両編成を組成して運用されたが、そのまま併結を行った場合本形式と比較して車内設備に大きな格差が生じることから、本形式と編成された1300型1301・1302・1305 - 1309に対して車体塗装を濃緑色・淡緑色の2色塗りへ変更し、同時に車内壁面を木造ニス塗り仕上げから淡緑色塗り潰しに改めたほか、車内照明の蛍光灯化・扇風機の新設といった近代化改造を施工した。
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導入後の変遷
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「京阪700系電車 (2代)」の記事における「導入後の変遷」の解説
本系列は当初より7両固定編成として設計・製造されたものの、増備の途上等において3 - 4両編成程度の短編成や600系との連結編成が存在した時期があり、宇治線や交野線への入線実績を有する。ただし、竣功当時運行されていた近鉄京都線への乗り入れ運用には充当されなかった。 全44両が出揃った後は、中間運転台の存在しない7両固定編成という収容力の大きさを生かし、主に急行・準急運用に充当された。同様の理由から京都競馬開催時に運行される臨時列車にも多用された。なお、7両編成6本を組成すると半端となる2両の中間電動車については、同一性能である600系 (2代)の編成へ組み込まれて運用された。 竣功後は側面種別表示幕の新設、ならびに列車無線装置の設置といった小改造を実施されたのみで、概ね原形を保ったまま運用された。
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導入後の変遷
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「三岐鉄道501系電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
505編成は入線後2年足らずの1979年(昭和54年)に、サハ1505(初代)に木部を中心とした深刻な老朽化が判明した。同年12月には西武よりサハ1501形1523を譲り受け、翌1980年(昭和55年)2月にサハ1505(2代)と改番の上で初代を置き換えた。代替されたサハ1505(初代)は同年3月に廃車解体され、本系列は全金属車体の西武501系後期車を出自とする車両で統一された。 525編成は1984年(昭和59年)に京王帝都電鉄デハ1900形電車の廃車発生品である日立製作所製上天秤式ウィングバネ台車KBD-107へ全車換装され、乗り心地の改善が図られた。 1988年(昭和63年)1月7日より、三岐線ではワンマン運転が開始されたが、本系列は2編成ともワンマン対応改造の対象から外れ、以降は朝ラッシュ時のツーマン運転列車に限定運用され、稼働率は大幅に低下した。1990年(平成2年)2月には505編成のクモハ505・506が廃車となったが、サハ1505(2代)のみは廃車を免れてサハ1525(2代)と改番の上で525編成に組み込まれ、より状態の悪かったサハ1525(初代)が廃車となった。この玉突き転用に際してサハ1525(2代)は初代が装備したKBD-107台車を流用し、クモハ525・526と仕様を統一した。 残存した525編成は後年ワンマン化改造を施工されたものの、車体・走行機器ともに老朽化が著しくなったことから、851系(元西武701系電車)に代替されて1995年(平成7年)8月24日付で廃車となった。同編成の廃車をもって、本系列は形式消滅した。
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導入後の変遷
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「上毛電気鉄道700型電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は300型・350型を淘汰し、上毛電鉄の主力車両となった。当初は前面上半分の塗色が薄青緑色(フィヨルドグリーン)だったが、2005年11月から2009年2月にかけて711Fを除く各編成の正面上半分の配色変更が実施され、全編成それぞれが色違いとなった。このことから種車同様に「レインボーカラー」とも呼ばれている。なお、この経緯から京王時代より1色多い8色となっており、使用色は京王時代と異なる。また、車体側面の帯は登場以来フィヨルドグリーンと赤の2色のままである。 前面窓下にある行先表示器は、導入当時は車掌乗務のツーマン運転だったため縦書きゴシック体表記だったが、ワンマン運転開始に伴い、種車のものと類似した緑地に白抜きの ワンマン 表示を上部に添えた横書きの配列に変更された。 配色変更とともに、空気圧縮機を従来のC-1000形からより容量の大きいHB-2000CA形への換装が全編成にわたって実施された。これは容量を大きくして、空気圧縮機の焼き付けを防止するとともに、保守容易化・機器更新を目的としている。また、車輪も軽量化などのために波打ち車輪に交換された編成もある。 714Fは「はしる水族館」として、車内外に海産動物のイラストシールが、車内には水色のカッティングシールが貼付されている。 712Fは2015年4月から、みどり市に本社を置くスナガの広告ラッピング車となっている。 713Fは2020年4月からの「群馬デスティネーションキャンペーン」に合わせ、同年4月1日から2年間の予定で「ぐんまちゃん列車」として運行されている。 前面の助士席側ワイパーは、2000年代後半に京王時代から装着しているWP-35型空気式ワイパーシリンダーを予備部品とするために、外側から窓拭器が撤去されていた。2010年12月下旬に検査出場した712Fは大型ワイパーを装着している。外観は、無塗装(銀色)から黒色に着色された窓拭き器に代わっており、ワイパーユニットも空気式から電動式に交換されている。 第1編成 第2編成 第3編成 第4編成「はしる水族館」 第5編成 第6編成 第7編成 第8編成
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導入後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 04:48 UTC 版)
本系列は更新以前の53系運用線区であった、栃木地区におけるローカル運用(日光線・鬼怒川線・宇都宮線)に充当され、野田線七光台検修区に配属された5104・5105編成(のち3174・3175編成)を除く26両が新栃木検修区(現・南栗橋車両管理区新栃木出張所)に配属された。その後、1986年(昭和61年)には3174・3175編成も新栃木検修区へ転属し、全車新栃木検修区所属となった。 また、1982年(昭和57年)に、落葉期および積雪時における空転防止目的で、2両編成全編成を対象に散砂装置が設置された。これは空転時に運転士が運転台下部に新設されたペダルを踏むことによって動作させるもので、モハ・クハ両先頭車の運転室仕切壁面に砂箱を設置し、動作時にはモハの砂箱から電動車車軸第1軸へ、クハの砂箱から同第4軸へそれぞれ散砂される仕組みとなっている。 1986年(昭和61年)12月には、2両編成のクハ3両(クハ3671 - 3673)の運転台寄り車端部に霜取り用のパンタグラフを増設する改造が施工された。増設されたパンタグラフは下枠交差型のPT-4815で、集電機能を持たない純然たる霜取り用途であった。翌1987年(昭和62年)9月にはこれらパンタグラフを撤去すると同時に、4両編成の3171 - 3173編成と2両編成全編成を対象に、今度は各編成の電動車に霜取り用パンタグラフを増設する改造が1990年(平成2年)11月にかけて施工された。対象となった電動車はパンタグラフ2基搭載仕様となり、1両で霜取り用のPT-4815下枠交差型パンタグラフと、通常集電用のPT42系菱型パンタグラフという異なる形態のパンタグラフを搭載する特異な様相となった。こちらも当初は集電機能を持たなかったものの、後年引き通し線を新設して集電機能が付加され、パンタグラフも予備品の都合上PT42系を2基搭載するよう改められた。 その他、晩年にはクハ・サハの装備するKS-33L台車の老朽化に伴い、3050系の廃車発生品である日本車輌製造・W-2-18Dウィングばね台車に交換された車両も存在する。 このように3000系列中、最も手を加えられつつ運用された本系列であったが、非冷房仕様であったことがネックとなり、走行機器の老朽化も目立ち始めたことから、1995年(平成7年)8月より廃車が開始された。最初に廃車となったのは4両編成の3176編成で、モハ5800形を種車とする同編成は電動車が住友金属工業製FS106ゲルリッツ式台車を装備し、編成内に釣り合い梁式台車を装備する車両が存在しない異端編成であった。本系列の淘汰は3050系と同時進行で実施され、翌1996年(平成8年)4月27日に3571・3574編成によって宇都宮線で運行されたさよなら運転を最後に営業運転を終了した。 その後、同年5月9日に3571・3574編成が解体のため北館林荷扱所へ自力回送され、同日付で除籍されて本系列は形式消滅し、3000系列は全廃となった。なお、本系列は他社へ譲渡された車両は存在せず、全車解体処分された。 非冷房車として最後まで残存した本系列の形式消滅をもって、東武鉄道は旅客用車両の冷房化率100%を達成した。
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導入後の変遷
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登場時は伊勢崎線浅草口や東上線池袋口に入線する本線運用にも数多く充当され、東上線では本系列の10両編成運用も存在した。しかし、8000系を始めとした他のカルダン駆動車両と比較すると、本系列は起動加速度や高速走行性能など走行性能面で見劣りしたことから、年々高速化するダイヤ編成上のネックとなった。その後は10000系列の増備に伴って本系列は本線系における運用から離脱し、1991年(平成3年)1月以降全車が野田線へ集中配置された。
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導入後の変遷
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「伊那電気鉄道デキ20形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1943年(昭和18年)の伊那電気鉄道の戦時買収に際して、本形式も鉄道省籍へ編入され、当初は原番号・原形式のまま運用された。1952年(昭和27年)に実施された車両称号規程改正に際して、本形式はED33形ED33 1・ED33 2と改番されたが、1961年(昭和36年)10月にはED26形(2代)ED26 11・ED26 12と再び改番された。 その間、架線電圧1,200V規格であった旧伊那電気鉄道が保有する路線について、国有化後に1,500V昇圧工事が実施され、本形式も昇圧対応改造を施工したが、その際一部の主要機器については国鉄制式機器に換装され、同時に重連総括制御装置は撤去された。 本形式は竣功から最晩年まで終始伊那松島機関区に配置されて飯田線で運用され、また前述のとおり国鉄ED11形・ED14形を模して設計・製造された本形式は、子公有化された私鉄が保有した電気機関車、いわゆる「買収電気機関車」としては最も遅くまで日本国有鉄道(国鉄)に在籍したが、1973年(昭和48年)に2両とも廃車となった。廃車後はいずれも解体処分され、現存しない。
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導入後の変遷
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前述のように701系の制御車クハ1701形はTR11A台車を装着して落成したが、同台車は701系への装着に際して改修が実施されたとはいえ、枕ばねを重ね板ばねとした釣り合い梁式台車という旧弊な設計は原形のままであり、電動車モハ701形と比較して乗り心地が劣ったことから、1969年(昭和44年)以降、当時最新のダイレクトマウント式空気ばね台車であるFS072への交換が順次実施された。また翌1970年(昭和45年)以降、落成当初前面強化対策が未施工であったクハ1701 - 1748に対して、前面腰板部の厚板化による補強工事が施工された。さらに一部編成については、電動発電機 (MG) を801系と同一のMG-534-Mrbに換装し、低圧電源の交流化が実施されたが、こちらは全編成には普及せず、後述冷房化改造まで低圧電源が直流仕様のままであった編成も存在した。 その他、747編成は101系新製に先立つ1968年(昭和43年)9月から翌1969年(昭和44年)2月までの期間、同系列に採用された車体塗色の試験塗装が実施され、レモンイエローとウォームグレーの2色塗装に変更された。同編成においては101系とは異なり客用扉部分も車体と同色に塗り分けられたため、若干印象が異なる外観を呈した。 801系については冷房化改造以前における主だった改造は実施されず、ほぼ原形を保ったまま運用されたが、1973年(昭和48年)以降、軽量構造が災いして走行中の振動が著しかったアルミハニカム構造の客用扉について、101系同様の扉窓固定支持をHゴム方式としたステンレス無塗装扉に順次交換された。
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導入後の変遷
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「近江鉄道モハ51形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入以来、主に近江鉄道が非電化・蒸気動力当時から保有する木造客車を牽引して2 - 3両編成で運用されたが、戦後の西武鉄道からの譲渡車両導入に伴って制御電動車および制御車の組み合わせによる編成形態が常態化し、両運転台構造である必要性が薄れたことから、1961年(昭和36年)3月31日付認可によりモハ51・52ともに片運転台化改造が実施された。改造に際しては非パンタグラフ側妻面の運転台を撤去して貫通路を設置したほか、パンタグラフ側の妻面をモハ131形電車など「近江形」の流儀に則って湘南型類似のHゴム固定支持方式による2枚窓構造に改造した。撤去された運転台側の乗務員扉は埋め込み撤去され、撤去跡には乗務員扉幅に合わせた狭幅の側窓を新設、側面窓配置はd2D7D3と変化した。 片運転台化改造後の本形式はクハ1207形・クハ1212形など制御車各形式と編成され、後年車内照明の蛍光灯化・車内放送装置および扇風機新設など改造を受けつつ運用されたが、500系電車の増備によって1978年(昭和53年)1月に廃車となり、モハ51・52とも銚子電気鉄道へ譲渡された。
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導入後の変遷
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「三岐鉄道601系電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
File:Sangi railway 607F tsurikake sound.ogg 601系607編成の走行音(三岐線伊勢治田 - 東藤原間) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 601 - 605編成は1984年(昭和59年)3月に台車を京王帝都電鉄デハ1900形電車の廃車発生品である日立製作所製上天秤式ウィングばね台車KBD-107へ換装され、乗り心地の改善が図られた。さらにクハ1604は1988年(昭和63年)に小田急2400形電車の廃車発生品であるアルストムリンク式台車FS330に、クハ1606は1993年(平成5年)に西武701系列の廃車発生品であるペデスタル式ウィングばね台車FS342にそれぞれ台車を換装した。また、607編成は導入後間もなくクハ1608の台車をFS330に換装したのち、1989年(平成元年)にはクモハ607の台車をKBD-107へ換装し、他編成と台車の仕様が統一された。 その他、603・605編成は西武より購入した解体発生品を活用する形で客用扉のステンレス無塗装扉化・側窓サッシの無塗装化・乗務員扉のステンレス小窓化が順次施工された。607編成についても客用扉のステンレス無塗装扉化が実施されている。一方で601編成は乗務員扉のステンレス小窓化が実施されたのみで、比較的導入当時の原形を保ったまま運用された。 その後冷房車101系(元西武401系電車)の導入に伴い、601編成が1992年(平成4年)5月20日付で本系列初の廃車となった。603・605編成についても、801系(元西武701系電車)導入に伴って1997年(平成9年)6月15日付で603編成が、同年10月12日付で605編成が相次いで廃車となり、西武451系電車を出自とするグループは全廃となった。なお、605編成は除籍前日の1997年(平成9年)10月11日に、「鉄道の日」記念イベントの一環としてさよなら運転が実施された。 唯一残存した607編成は他系列とともに一般の運用に継続使用されたほか、三岐線に在籍する唯一の吊り掛け駆動車という希少性から各種イベントにおいても重用された。1998年(平成10年)にはクハ1608の台車がクハ1606の廃車発生品であるFS342に交換されるなど、手を加えられつつ運用された。しかし、751系(元西武新101系電車)の導入に伴って廃車の方針が決定し、2009年(平成21年)2月1日に実施されたさよなら運転を最後に翌2月2日付で廃車となった。607編成はパンタグラフ等を取り外した状態で伊勢治田駅に留置されていた。 607編成の除籍をもって本系列は形式消滅し、同時に三岐鉄道は三岐線に在籍する全車両のカルダン駆動化、ならびに冷房化率100%を達成した。
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導入後の変遷
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「下野電気鉄道デハニ101形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本形式は下野電気鉄道の東武への吸収合併後も、下野電気鉄道当時の原番号のまま運用されていたが、1951年(昭和26年)に施行された大改番によってモハニ1670形1670 - 1672と形式称号および記号番号が変更された。その後も引き続き鬼怒川線を運用線区とし、主に大正15年系クハ420形と編成して2両編成で運用された。 しかし、最急勾配25‰の区間が点在する勾配線区である鬼怒川線において、低出力の主電動機を搭載する本形式でMT編成を組成し運用するには性能不足が明らかであり、運転速度向上の障害ともなりつつあったことから、1960年(昭和35年)7月にモハニ1671・1672の2両が館林地区に転属した。 転属に際しては荷物室・荷物積卸用扉を撤去して客室化したほか、モハニ1671は旧荷物室側の運転室を、モハニ1672は旧荷物室と反対側の運転室をそれぞれ完全撤去し、モハニ1672については乗務員扉の新設が施工され、運転室を撤去した側の妻面へ貫通路・貫通幌を新設して2両固定編成化された。また、客用扉幅が従来の760mmから1,000mmへ拡幅され、同時に客用扉下部のステップが撤去された。 同改造に際して客用扉の位置には手を加えなかったことから、改造後の窓配置は2両で異なり、モハニ1671がd1D10D3、モハニ1672がd1D10D2となった。なお、同2両は荷物室が撤去されたにも関わらず、改造後も車両番号(車番)・記号ともにそのままとされていたが、1961年(昭和36年)7月にモハ1600形1601・1602と改称・改番され、旅客車両形式に改められている。2両固定編成化されたモハ1601・1602は、以降小泉線太田 - 西小泉間の区間運用専用編成として運用された。 残るモハニ1670は引き続き鬼怒川線で運用された後、1965年(昭和40年)6月にこちらは荷物電車へ転用され、モニ1670形1671と改称・改番された。転用当初は外観上ほぼ原形のまま荷電として運用されたが、翌1966年(昭和41年)に車体側面中央に荷物積卸用大型扉を増設し、同時に元来の荷物室側の運転室にも乗務員扉を新設した。ただし、落成当初からの荷物積卸用扉はそのまま存置され、元の客用扉に相当する扉も改造されていないため、モハ1601・1602と比較すると落成当初の原形を保った外観となっていた。 その後モハ1600形・モニ1670形とも前面窓のHゴム固定化・パンタグラフの東洋電機製造PT-41系への換装・制動装置への中継弁付加、ARE自動空気ブレーキ化・保安装置(東武形ATS)の取り付けが実施された。さらにモハ1600形に対しては前照灯のシールドビーム2灯化も施工された。 しかし、後年の新型車両の増備に伴って従来車の運用に余裕が生じたことから、一支線区の専用編成という位置付けのモハ1600形は運用上不便な存在となりつつあったこと、モニ1670形については荷物輸送量の減少により荷電の所要数が削減されたことによって、モハ1600形・モニ1670形3両とも1972年(昭和47年)12月25日付で廃車となった。 東武の鉄道線における旅客用電車では、大正13年系デハ1形を客車化改造したコハフ10形11 - 13が矢板線廃線に伴って1959年(昭和34年)8月に廃車となって以来、事故被災等によるものを除くと約13年ぶりの除籍処分の発生であった。これは東武において車体の老朽化等で旧型車を代替した場合、相対的に寿命の長い主要機器については再利用され、車体更新名義によって車籍継承が行われていたことによるものである。本形式は主電動機出力を始めとした主要機器の仕様が異なり、他形式との互換性が低かったことからそのような措置が取られることはなかった。 現車は廃車後杉戸工場構内に留置された後、翌1973年(昭和48年)3月から同年6月にかけて解体処分された。
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導入後の変遷
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「西武モハ351形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本形式は導入後池袋線系統に配属され、主に狭山線の線内区間運用に専従し、幹線系統における運用は休日に池袋 - 狭山湖(現・西武球場前)間において運行された、狭山湖駅に隣接する狭山スキー場利用客向けの臨時急行列車「スキー急行」運用程度に限られた。本形式の運用実績次第で、さらにクロスシート車の払い下げを受ける計画も存在したとされるが、2扉構造のクロスシート車では幹線系統におけるラッシュ時の運用に対応できないことなどから、クロスシート車の導入は本形式のみに終わった。 1964年(昭和39年)1月31日付で実施された車両記号改正に際して、本形式はクモハ351形352(初代)と改称されたのち、同年12月の411系クモハ411形(2代)の新製開始に先立って、同年7月にはクモハ411形(初代)が351系クモハ351形(2代)と改称・改番され、本形式がクモハ351形(初代)352からクモハ251形(3代)252と改称・改番されるという、玉突き的形式称号変更が実施された。 本形式は2扉構造のクロスシート車であることによる構造上の制約によって、前述のように運用が限定されていたが、1965年(昭和40年)4月には荷物電車化改造が実施され、クモニ1形2(2代)と改称・改番された。荷物電車化改造後の本形式は、他の荷物電車と同様、主に新聞輸送など小手荷物輸送に充当され、小手荷物輸送がトラック便に切り替えられた1978年(昭和53年)まで運用されたのち、同年1月に廃車・解体処分された。 なお、荷物電車への改造後の本形式の詳細については西武モニ1形電車項目を参照されたい。
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導入後の変遷
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「北陸鉄道モハ5000形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
竣工後、約14年に渡って加南線の看板電車として運行された。その後、より接客設備の充実した6000系・6010系が順次新製投入されたため、本形式は1964年(昭和39年)に同系のモハ5100形が配置されていた石川総線へ転属し、この際座席がオールロングシート化された。
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導入後の変遷
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「西武モハ101形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
架線電圧600V当時の多摩湖線に導入された上記4形式は、西武鉄道における運用期間は延べ12年間に過ぎなかったものの、モハ101形・クハ1111形についてはその間複数回にわたる各種改造ならびに改番(車番振替)が行われ、非常に複雑な車歴を辿っている。以下、導入後に実施されたそれらについて述べる。
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導入後の変遷
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「豊川鉄道クハ100形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
前述のように本来両運転台構造の電動車として設計された本形式であったが、落成当初は豊橋駅寄りの運転台には機器を搭載せず片運転台構造の制御車として竣工し、従来車の中で最も高出力の主電動機を搭載したモハ80形を片運転台化の上で編成相手として固定編成を組んだ。その後1942年(昭和17年)夏頃に固定編成を解消し、豊橋寄り運転台にも機器を搭載し両運転台仕様とされたものの、電動車化されることはなく制御車のまま運用された。 国鉄籍編入後も引き続き飯田線で運用された本形式であったが、1952年(昭和27年)2月にクハ102が、同年5月にはクハ101が相次いで宇部電車区(広ウヘ)へ転属となり、宇部線・小野田線で運用された。同時期に2両とも車内の転換クロスシートを撤去し、オールロングシート仕様に改造されている。翌1953年(昭和28年)2月にクハ102が、同年4月にはクハ101が再び相次いで府中町電車区(岡フチ)に転属し、福塩線で運用された。 1953年(昭和28年)6月には、国鉄の車両形式称号規程改正に伴って、本形式はクハ5610形5610・5611と改称・改番された。 なおこの間、1953年(昭和28年)にクハ5611(旧クハ102)が車体更新修繕を施工された。更新に際しては片側の運転台を撤去の上で完全に客室化し片運転台化されたほか、前面貫通扉を埋め込んで非貫通構造とし、ベンチレーターを国鉄標準のグローブ形に換装するなど、外観に若干の変化が生じた。さらに翌1954年(昭和29年)にはクハ5610(旧クハ101)も車体更新修繕を施工され、こちらは前面は貫通構造のままとされたものの、車体全周に雨樋が新設され、前照灯も取り付け式に改造されるなど、大きく原形を損なう結果となった。またクハ5611同様、片運転台化ならびにベンチレーターのグローブ形への換装も実施されている。 他の買収国電各形式とともに運用された本形式であったが、首都圏で余剰となった国鉄制式電車の転属によって買収国電の淘汰が開始されたことに伴い、1962年(昭和37年)2月に2両とも廃車となった。
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導入後の変遷
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「三岐鉄道モハ150形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は車体塗装をイエロー地に車体裾周りをオレンジとした三岐の新標準塗装に改められ、前面向かって左側の窓内側に西武より購入した電照式行先表示器の新設が行われたほか、モハ150は前照灯のシールドビーム2灯化が施工された。ただし、ライトケース形状はモハ151と同一であったものの、電球が内嵌め式(内側交換式)に改められたことから電球周りの形状が異なる。その他は大きな改造を受けることなく運用され、1987年(昭和62年)にはATSの整備ならびにワンマン運転対応工事が実施された。 三岐鉄道に在籍する車両では最も経年が浅かった本グループであったが、経年の高い主要機器の老朽化に加え、20m級車体の車両が主流となった三岐線において18m級車体の本グループは相対的に輸送力が見劣りするようになったことから新型車導入に伴う代替対象となり、801系(元西武701系電車)803編成の導入に伴ってモハ150が1991年(平成3年)12月に、モハ151が翌1992年(平成4年)5月20日付で相次いで廃車となり、本形式は全廃となった。 廃車後は後述車体流用車グループを含めて全車解体処分され、現存する車両はない。
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導入後の変遷
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「南武鉄道1001形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本形式は自社線内だけでなく、青梅電気鉄道(現・JR青梅線)や南武鉄道の宿河原駅から分岐して小田急電鉄の稲田登戸駅に至る連絡線を介して小田急電鉄にも乗り入れていた。1944年(昭和19年)に南武鉄道の保有する路線が戦時買収・国有化されたことに伴い、本形式も国鉄籍へ編入されたが、買収後も南武鉄道在籍当時の形式番号のまま、西国立機関区(後の立川機関区)に配置され、南武線や青梅線で貨物列車の牽引に使用された。 1952年(昭和27年)に国鉄形式を付与され、ED34形ED34 1 - ED34 4と改番されたのち、1961年(昭和31年)にはED27形(2代)ED27 11 - ED27 14と再び改番された。その後車体の改装が実施され、側面通風器形状の変更や、側面の乗務員室扉の埋め込みなどが行われた。 1968年(昭和43年)にED27 11・ED27 12が、1971年(昭和46年)にED27 13・ED27 14がそれぞれ廃車となり、日本国有鉄道(国鉄)における本形式は形式消滅した。そのうちED27 12は1969年(昭和44年)に岳南鉄道に譲渡され、ED27 1と改番の上で導入されたが、自重が過大であったことなどが災いして1971年(昭和46年)に廃車となった。廃車後の各車両はいずれも解体処分され、南武鉄道1001形として新製された車両は現存しない。
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導入後の変遷
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「伊那電気鉄道デキ10形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1943年(昭和18年)に実施された伊那電気鉄道の戦時買収・国有化に伴い、本形式も鉄道省籍へ編入された。買収後も伊那電気鉄道時代の番号のまま使用されたが、1952年(昭和27年)の車両称号規程改正により、ED32形ED32 1と改称・改番された。なお、伊那電気鉄道の保有する路線は架線電圧1,200V仕様であったが、国有化後に1,500Vへの昇圧工事が実施され、本形式も昇圧対応改造を施工した。その際、一部の主要機器については国鉄制式機器に換装された。 本形式は落成後から国有化以降にかけて一貫して伊那松島機関区に配置され、天竜峡以北の飯田線で使用された。1960年(昭和30年)2月に廃車され、岳南鉄道に譲渡された。 岳南鉄道では国鉄時代の形式番号のまま導入され、従来車体中央部に1基のみであったパンタグラフを車体端部に移設の上で2基に増設されるとともに、運転士側に1枚のみであった前面窓についても中央部に1枚を増設した。 同じく国鉄から移籍したED29形などとともに貨物列車の牽引や構内入換用に使用されたが、1976年(昭和51年)の水害によって路線が寸断された際、本形式は終点の岳南江尾駅にとり残されてそのまま運用を離脱し、長期間休車となった後、1988年(昭和63年)に廃車・解体処分された。
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導入後の変遷
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「富山地方鉄道16010形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
第1編成は1995年(平成7年)7月に、第2編成は翌1996年(平成8年)4月にそれぞれ竣功し、「アルペン特急」「うなづき」運用など、主に優等列車運用に充当されたほか、普通列車運用にも充当された。以下、導入後に施工された主な改造項目ならびに変遷について述べる。
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導入後の変遷
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「信濃鉄道1形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
1937年(昭和12年)に信濃鉄道は買収・国有化され、本形式も国有鉄道への継承対象となった。国有鉄道籍への編入に際しては、直ちに省形式が付与され、ED22形ED22 1 - ED22 3と改称・改番された。国有化後も引き続き北松本機関区に配置され、大糸南線で使用されたが、1943年(昭和18年)に豊橋機関区に転属し、飯田線で使用された。 1948年(昭和23年)にED22 1が廃車され、西武鉄道に譲渡されて1形(初代)1となったが、同年10月に近江鉄道に貸与された。1950年(昭和25年)に正式に譲渡され、ED1に改番された。これが同社初の電気機関車となった。1955年(昭和30年)にはED22 1と再び国鉄在籍当時の原形式・原番号へ改番された。近江鉄道ではぶどう色に塗られ、彦根-貴生川間の貨物列車などで用いられたが、その後の電気機関車の増備によって持て余すことになり、1960年(昭和35年)には一畑電気鉄道に譲渡(番号の変更なし)された。その後1974年(昭和49年)に同社の貨物営業廃止にともなって、弘南鉄道に譲渡(番号の変更なし)された。大鰐線で除雪用に使用されており、2016年(平成28年)現在も車籍を保持する。 残るED22 2とED22 3は、1956年(昭和31年)に廃車となり、ED22 2は三岐鉄道(前年6月から同社に貸出)に、ED22 3は一時期岳南鉄道に貸出された後、西武鉄道に譲渡された。 ED22 2は、1956年9月に竣工し、国鉄時代の番号のまま電車故障時の救援用や富田駅構内の入換用に使用されていたが、1984年(昭和59年)8月26日にさよなら運転を実施。翌9月に廃車された。その後は、三重県いなべ市大安町の中央児童センターで静態保存されていた。2016年6月より西藤原駅構内において保存されている。 ED22 3は、西武鉄道ではA1形A1となったが、1960年8月に松本電気鉄道(現・アルピコ交通)に譲渡され、ED30形ED301と改番された。そのため1,500V→600V(岳南貸出時)→1,500V→750Vと使用電圧の昇降圧を繰り返す特異な車歴を持つこととなった。同社では構内入換、工事、除雪用として使用され、1986年(昭和61年)には同社上高地線の架線電圧1,500V昇圧に伴う通算4度目の電圧変更工事も受けるが、2005年(平成17年)9月に除籍され、新村駅での静態保存へ移行した。 以上の経緯により、本形式は製造された3両全機が現存する。 弘南鉄道 ED22 1 三岐鉄道 ED22 2 松本電気鉄道 ED301
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導入後の変遷
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「近江鉄道モハ131形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は前述運転台位置移設のほか、客用扉が手動扉であった車両については戸閉装置(ドアエンジン)設置による自動扉化が実施され、モハ201・202およびクハ1201 - 1204が1956年(昭和31年)8月3日付認可で、モハ131・132が翌1957年(昭和32年)8月14日付認可でそれぞれ施工された。さらにモハ131・132およびクハ1203・1204を対象に1957年(昭和32年)8月14日付認可で屋根部のシングルルーフ化改造が実施され、クハ1203・1204についてはクハ1214・1215と改番された。もっとも、同時期には後述する鋼体化改造計画が具体化したことから以降同様の改造は実施されず、またクハ1201・1202については同日付でシングルルーフ化改造認可を得たものの結局施工されずに終わった。
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導入後の変遷
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「西武クハ1411形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
前述の通り、本形式は当初対応する電動車を持たなかった。竣工後は主にモハ311形と編成されて運用されたのち、501系の編成替えに伴って余剰となったモハ501形初期車(モハ411形・初代)および451系モハ451形と固定編成化された。以下、導入後の変遷について述べる。
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導入後の変遷
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1993年(平成5年)4月より山口線ならびに本系列の愛称が「レオライナー」とされたことに伴って、先頭部のレオを象ったペットマーク直下に「LEO LINER」のロゴが追加されている。 2000年代に至り、製造後15年以上を経過して制御器ならびにSIVのGTO素子の劣化が進行したため、2001年(平成13年)より制御装置をIGBT素子を使用したVVVF制御器に、SIVについても同様にIGBT素子を使用したものにそれぞれ換装する修繕工事が、8521編成(V3編成)を皮切りに順次施工された。同時に車体の修繕や車内自動放送装置の更新も施工されている。前述のように本系列は2両1ユニット方式で編成を構成しており、更新工事は編成単位ではなく1ユニット(2両)単位で施工されたことから、更新過程においては同一編成内に更新済ユニットと未更新ユニットが混在する例が見られた。 また1990年代に一時、ユネスコ村大恐竜探検館開館やプロ野球をアピールする目的で、「冒険3億年。ユネスコ村大恐竜探検館」「西武ライオンズ SEIBU DOME」などの側面上部への文字ラッピングが施されていた。 2007年度(平成19年度)以降、車椅子乗車への対応および混雑時の乗降をスムーズにする目的で、先頭車へのつり革・握り棒の新設と一部座席の撤去・立席スペースの拡大といった車内改良工事が開始され、2009年度をもって全編成への施工が完了した。 2020年(令和2年)9月15日より、8511編成 (V2) を使用した「SDGs×Lions GREEN UP!プロジェクトトレイン」が運行を開始。西武グループが主体となり「サステナビリティアクション」の一環として実施するもので、緑を地色にSDGsや「Lions GREEN UP! プロジェクト」などのロゴを配した全面ラッピングが施されている。本系列を使用した理由としては西武ライオンズの球団旗が車体にデザインされていることや、本拠地メットライフドームのある区間を走行することが挙げられている。 2021年(令和3年)5月15日より、8521編成 (V3) を使用した「西武園ゆうえんちラッピング電車」が運行を開始。西武園ゆうえんちリニューアルオープンを記念したもので、同所のコンセプトに合わせて実際に1960年代に西武線を走っていた車両のカラーリングをイメージした全面ラッピングが施されている。 8511編成 (V2)「SDGs×Lions GREEN UP!プロジェクトトレイン」 8521編成 (V3)「西武園ゆうえんちラッピング電車」
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導入後の変遷
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「富士身延鉄道200形電気機関車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本形式5両のうち、200は1941年(昭和16年)に飯田線の前身の一つである三信鉄道に譲渡され、デキ501形501となった。残る201 - 204の4両については同年5月1日付で実施された富士身延鉄道の買収・国有化に伴って鉄道省(国有鉄道)籍へ編入され、甲府機関区に配属されED20形の省形式が付与されてED20 1 - ED20 4と改称・改番された。 三信鉄道デキ501となった元200についても、1943年(昭和18年)8月1日付で実施された三信鉄道の戦時買収・国有化によって鉄道省(国有鉄道)籍へ編入され甲府機関区に転属したことから、富士身延鉄道200形を出自とする全車両が国有鉄道の籍を有し身延線で使用されることになった。ただし、デキ501は前述4両とは異なりED20形に編入されることなく国有化後も三信鉄道時代の原形式・原番号のまま運用された。同機は太平洋戦争終了後長らく第一種休車指定を受けたのち1948年(昭和24年)11月に鳳電車区に移動したが、本線に復帰することなく休車のまま1949年(昭和24年)に廃車となった。 ED20形の形式称号を付与された4両については、1948年(昭和24年)6月にED20 1とED20 4が、同年7月にED20 3がそれぞれ鳳電車区に移動し阪和線で使用され、同年の秋口にED20 2も作並機関区に移動し仙石線で使用されたが、1959年(昭和34年)3月までに全機が廃車となり、私鉄へ払い下げられることなく全機とも解体処分された。
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導入後の変遷
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「東急3000系電車 (2代)」の記事における「導入後の変遷」の解説
1次車落成・東横線暫定運用 1999年3月、1次車として8両編成1本 (後の3001F・3002Fの中間2両、詳細は#編成表参照) が落成し、一時的に東横線へ投入された。1999年4月16日の入籍から2000年1月15日まで営業運転が行われ、主に急行運用に就いていた。 8両編成の組成は暫定的であるため将来の編成替えに備え、本来編成内で統一される車両番号末尾や制御装置など不揃いなだけでなく、車椅子スペースの位置も2・6号車の日吉方となっていた。しかしながら、サハ3500形の2両ではCP・SIVなどの補機類が未搭載(編成替え時に設置)であったことが特筆される。 2次車落成・本格運用開始 1999年10月から2000年1月にかけて、2次車として6両編成10本 (3003F - 3012F) と、3001F・3002F向けの4両 (クハ3002・クハ3102・デハ3401・デハ3402) が落成した。入籍はすべて営業運転開始日である2000年8月6日付とされている。営業運転開始までは乗務員訓練での使用のほか、鷺沼留置線などへの疎開留置もみられた。 2次車での以下の通り様々な仕様変更が行われている。 スカートの連結器部の切欠きを縮小 前面ガラスのワイパーを黒色化 運行番号表示器を拡大 通過標識灯を廃止 前面ガラス上部に遮光フィルム貼付け(車上ITVの視認性向上のため) 運転台のスイッチ類の配置を見直し(乗降促進スイッチの大形化など) 車内ITV設置 前面ガラスの遮光パネルをカーテン式に変更 乗務員室仕切扉の開く向きを変更(運転台側に開く→車掌台側に開く) 乗務員室背面仕切りガラスの遮光率を変更(50%→90%) 客室内のカーテンをフリーストップ式に変更(東急初) 車内の車いすスペースの手すり延長・ヒーター形状の変更(薄型化) 客用ドア脇の戸柱(手すりの設置してある面)をFRP製から化粧板仕上げに変更 妻面貫通扉に若干の変更 なお1次車においても後に量産化改造が実施され、一部を除き仕様が揃えられた。 2000年2月、3001Fと3002Fの編成替えが行われた。3001Fはサハ3502・デハ3252・デハ3202の3両を外し、デハ3401を組み込み。3002Fは3001Fから抜かれた3両が組み込まれた。またサハ3500形はSIV・CP等の取付が行われ、これにより同2編成は他の編成と同一の組成となった(#編成表参照)。なお1次車の8両は2000年8月6日付で東横線から目黒線へ転属している。 2000年8月6日の運転系統変更とともに目黒線で本格的に運用を開始した。運用開始当初は3012Fまでの12本が在籍、うち1本を予備車としていた。 3次車落成 2001年3月、定期検査時の予備編成確保を考慮して3次車1本 (3013F) が増備された。仕様については若干の変更があり、運転台側のワイパーがシングルアーム式(直線状)へ変更されたほか、両先頭車の床下には側面非常はしごを新たに設置した。また、比較検討目的で空調装置も変更(#主要機器参照)されており、この編成での試験結果を基により能力向上させた冷房装置が5000系において採用されることとなった。 なおこれに合わせ1次車・2次車においても側面非常はしごの設置が行われている。 本系列の増備は3013Fの新製をもって打ち切られ、よりコストダウンを図った5080系の増備に移行した。その後、2006年9月の目黒線内での急行運転開始に伴い、前面・側面の行先表示器に列車種別を表示するようになった。 編成ごとの仕様差 編成単位で変更が行われたものを以下に示す。 現在の3001F - 3005F・3007F - 3013Fでそれぞれ床面の柄が異なる。車号末尾の数字に依存しており、東横線時代の8両編成では2種が混在していた。 このほか、主制御器・主電動機や空調装置なども変更が行われている(#主要機器参照)。 3001FがフルカラーLED化されているのが鉄道ピクトリアル2022年8月号に写真掲載されており、2022年6月迄に全編成がフルカラー化された事が鉄道ファン2022年9月号に記載されている。
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導入後の変遷
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「三岐鉄道モハ150形電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
導入後は新製車グループと同様に、車体塗装の新塗装化、前面向かって左側の窓内側に西武より購入した電照式行先表示器の新設といった小改造を施工された程度で、大きな改造を受けることなく運用された。 しかし、後年のATS整備ならびにワンマン運転開始に際して、本グループは車体が小型であったため各種機器の取り付けスペースの確保が困難であったことから、同対応改造施工の対象外となり運用から離脱した。そして601系607編成の導入に際してその代替対象となり、1988年(昭和63年)3月20日付で2両とも廃車・解体された。
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導入後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 12:46 UTC 版)
3100系は1997年9月に竣工し、11月1日に運用を開始した。同年11月16日のダイヤ改正で阪急と直通する特急「日生エクスプレス」の運転が開始され、同時に能勢電鉄車両のワンマン運転が開始されている。 2003年に塗装変更が行われ、阪急と同じマルーンに戻った。2017年8月には前面にスカートが設置された。 2021年3月22日から4月26日の運用終了まで引退HMが掲出され、4月15日からは側面のドア横に『ありがとう April 2021 3100系』のステッカーも貼り付けられた。 4月18日には川西能勢口駅 - 日生中央駅間での引退記念貸切列車が2往復運転された。 3170Fの車内 前照灯LED化、スカート設置後の3120(2017年) 運転台1500系、1700系と同様のワンマン装置が載っている。 1700系1754F祝電と並ぶ3170F引退HM(2021年3月22日 山下駅) 側面に貼られた『ありがとう3100系』ステッカー(2021年4月18日 平野駅 車庫内入換中に撮影)
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導入後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:54 UTC 版)
一部改良が施された初期型車両(2014年2月17日) 客用扉付近滑り止め付床材の色が黄色となった中期型車両(2014年2月17日) 後期型車両の車内(2014年2月7日) 2008年4月頃から現行の方向幕に交換した。 4両編成のクモハ2401形(2500番台奇数車)はパンタグラフを2個装備していたが、後に全編成撤去され、編成中のクモハ2401形-モハ2101形(2500番台偶数車)のユニットはモハ2101形(2600番台奇数車)から受電する方式に変更された。2012年以降、2463編成を皮切りに屋根上のベンチレータ撤去工事が行われ、最後まで未撤去であった2545編成が2020年3月に撤去されたため現存しているすべての編成に施工が完了した。なお、2531編成、2533編成は、行先・種別表示器のLED化とクモハ2401形のパンタグラフ跡完全撤去、2515編成、2535編成、2541編成はクモハ2401形のパンタグラフ跡完全撤去も併せて行われた。2533編成は施工後しばらく新宿線に在籍したが、2531編成の工事完了と同時に新101系の代替を目的として池袋線へ転出した。また2000系の更新工事と前後して当形式にも長時間停車時の車内保温対策として3/4ドアカット機構が追加されている。 2002年から8両編成でパンタグラフの削減(モハ2101形奇数車の池袋・本川越寄りを撤去、2063編成を除く)と行先・種別表示器のLED化が実施されている。なお、中期車の8両編成は2006年3月の2059編成を皮切りに2063編成を除く4本に、前期車の8両編成である2057編成も2059編成とほぼ同時期に施工されている。 2003年度から前期車と中期車の4両編成車は空気圧縮機をスクリュー式又はスクロール式に、電動発電機を静止形インバータに換装されたがスクリュー式に換装された編成は2018年頃より順次レシプロ式に再換装されている。 2003年から2004年にかけて転落防止外幌が全車の連結面に装備された。2005年度からはドア付近へのつり革増設が実施されている。 2007年2月に検査出場した2505編成では、各部の改良が行なわれた。この工事の内容は、つり手増設工事の他、スタンションポールの設置・ドア付近の床への警戒色の追加・非常通報装置の交換・消火器の床下→室内への移設・優先席部分のつり革の低位置化・本川越方先頭車スカートへの連結面注意放送用スピーカーの設置などで、2007年度には2507編成・2509編成にも施工された。以降、検査時期にあわせて順次施工されているが、編成や施工時期により若干差がある。 2008年3月には、2045編成の行先・種別表示器がフルカラーLED式に交換された。この工事は、後述する東急車輛でのリニューアル施工車のほか、他編成でも波及している。 なお、2008年4月頃から2008年6月14日のダイヤ改正に備えて幕式・LED式両方に種別・行先にローマ字表記を追加し、各駅停車の種別表示が「普通」から「各停」に変更がされた。
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導入後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:45 UTC 版)
第1編成となる2181編成は1988年5月に、第2編成となる2182編成は翌1989年(平成元年)11月にそれぞれ落成し、七光台検修区に配置された。 計画段階では本系列は6両編成4本が登場する予定であった。しかし、本形式は歯車比6.31と頻繁に加減速を繰り返す日比谷線など大都市での運用に特化した仕様であり、比較的駅間の長い郊外区間を高速で走行することを想定した設計ではなかった。さらに変電所の問題から全電動車方式で設計された2000系を一部電装解除せざるを得なかったなど、無理のある高速かつ高負荷走行が災いして故障が頻発したことや、当時は既に冷房装置搭載が常識となりつつあった時期であったにも関わらず、本系列は非冷房仕様のままであったため利用客の不評を買ったことなどから、6両編成2本をもって増備は打ち切られた。また、野田線から撤退した後には短編成化の上で支線区へ転用、3070系の置き換えを計画していたが、非冷房で老朽化が進んでいるものの性能の安定している3070系を継続運用する方針によりこちらも見送りとなった。 1991年(平成3年)以降、野田線柏 - 船橋間の運用は20 m車に統一されたため、本系列を始めとした18 m車の運用範囲は大宮 - 柏間に限定された。 その後1992年(平成4年)12月1日より、野田線の運用が全て20 m車で統一されたことに先立ち、同年10月に2182編成が、11月には2181編成がそれぞれ廃車となり、本系列は種車となった2000系の全廃に先んじて、改造後わずか4年で形式消滅した。廃車後は2000系同様に全車が解体処分されたため、現存する車両は存在しない。 この時点で本来置き換えるはずだった3070系は28両在籍しており、1996年(平成8年)4月に全車引退したことから、2080系による3070系の淘汰計画は完全に失敗したことになり、それどころか同時期に5070系3編成が伊勢崎・日光線系統から転属してきており、結果的には2080系が3070系同様に釣り掛け駆動の更新車である5070系によって置き換えられる形となった。
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導入後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 07:23 UTC 版)
「伊豆箱根鉄道1100系電車」の記事における「導入後の変遷」の解説
本系列は前述した入線時のATS搭載によって運転台仕切直後の座席が撤去されているが、後年同位置は車椅子スペースとされた。その他、全編成ともMGの再換装が行われたほか、クハ2100形に搭載するCPをMH16B-AK3からHB-2000へ換装した。 第1編成(1009編成)はワンマン運転に対応させるため2008年(平成20年)にワンマン・ツーマン切替スイッチ、戸閉放送スイッチ、ワンマン表示板が設置された。ただし、他系列(3000系および7000系)と異なり、ドアチャイムは設置されていない。また、各車両の客用扉に車両・扉位置案内プレートが、各車両の車端部(外側も含む)には号車番号表記がそれぞれ貼付された。号車表記は修善寺側から1号車(クハ2100形)・2号車(モハ1200形)・3号車(クモハ1100形)となっている。 しかし、同時期には全編成とも車齢40年を超えて老朽化が著しくなったことから、2009年(平成21年)以降、同じく西武鉄道からの譲受車である1300系導入によって代替が進められることとなり、同年1月16日付で第2編成(1011編成)が、同年6月10日付で第3編成(1013編成)が相次いで廃車となった。最後に残った第1編成(1009編成)についても、営業運転の終了予定が決まった後の2011年(平成23年)7月16日より引退を記念するヘッドマークを掲出して運行され、2012年(平成24年)6月13日をもって営業運転を終了した。一方、2011年9月3日には、伊豆の国市韮山の地ビール「反射炉ビヤ」が飲み放題の『反射炉ビヤガー電車』が計画されていたが、都合により1300系の運行に変更された。
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