5070系
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1984年(昭和59年)6月より、5050系の6両固定編成版として登場した。更新のペースアップを図るため、本系列ではアルナ工機のほか、富士重工業と津覇車輌の2社でも製造が行われた。1986年(昭和61年)3月までに6両編成13本計78両が登場し、本系列の増備終了をもって78系全車の更新が完了した。 本系列はクハ5170形-モハ5270形-モハ5370形-サハ5470形-モハ5570形-クハ5670形の順に編成され、モハ5270形にはパンタグラフが2基、モハ5570形にはパンタグラフが1基それぞれ搭載されている。 基本仕様は5050系に準じているが、後部標識灯がLED化され、車内非常通報装置とその側面表示灯を新設し、前面助士席側の窓に手動ワイパーが追加された点が異なる。また、CPは6両編成化に伴い大容量のHB-2000CAを新製し、両先頭車に各1基ずつ搭載している。MGはサハ5470形に140kVAのものを、クハ5670形に75kVAのものをそれぞれ搭載した。 1985年(昭和60年)7月に竣工した5178編成以降は当時最新鋭の10000系と同等の車内アコモデーションとなり、車内のイメージアップが図られたほか、側面戸閉表示灯がLED化された。また、5181編成以降は当初から現行の通勤車塗装で竣工しており、鋼製車体の通勤形車両でセイジクリーム一色に塗装されていた経歴のない唯一の例となった。 本系列はその大半が竣工後野田線に直接配置されているが、5175 - 5177編成のみは竣工後伊勢崎・日光線系統に配置され、浅草口に乗り入れていた経歴を持つ。その後、1991年(平成3年)までに全編成が野田線に集約された。なお、本系列は東上線系統には配置されたことはない。
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5070系
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前述のように、後年5000系および5050系の大半が野田線から栃木地区・群馬地区のローカル支線区に転属したが、本系列は6両固定編成であることから支線区転用が不可能であり、全編成が野田線に残留し8000系とともに運用された。 1999年(平成11年)3月のダイヤ改正時に5171 - 5173編成が運用を離脱し、館林駅構内へ回送された後休車となり、2001年(平成13年)4月17日付で5173編成が除籍され、5000系列初の廃車となった。同編成は内装部品の一部を1800系の通勤車転用改造に際して供出したほか、主要機器の一部を予備部品として確保した上で解体処分された。次いで同年5月には5172編成が廃車となったが、同編成は乗務員室扉および客用扉(2箇所)を8000系8154編成の事故復旧工事に際して供出している。 2002年(平成14年)9月以降は、本線に30000系を新製配置して8000系を野田線に転属させる「玉突き転配」による淘汰が進められた。この結果同月26日付で火災事故により休車となっていた5174編成を皮切りに、2003年(平成15年)3月までに5175 - 5179・5183編成が順次廃車となった。 2004年(平成16年)10月19日のダイヤ改正より、野田線は東岩槻 - 春日部間の複線化完成に伴うスピードアップに際して全ての運用を8000系で統一することになり、残存していた5180 - 5182編成についても同月18日限りで運用を離脱。5182編成が同月16日・17日に大宮 - 柏 - 七光台間でさよなら運転を行った後、同月26日付で除籍され本系列は形式消滅した。支線区に転用できず、かといって野田線に長く使用することもできなかったために、すべての編成が20年経たずで廃車になってしまっている。
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