録音、制作
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「虹色モザイク/ENJOY!! ENJO(Y)!!」の記事における「録音、制作」の解説
プロデュースをPandaBoYが務めた「虹色モザイク」の曲中にはメンバーの関根梓が「好きだよ」とウィスパーボイスでささやく部分があるが、その部分はウィスパーだけで切なさを表現する必要があり、レコーディングの際非常に苦労したという。関根は「マンガやアニメの告白シーンをイメージ」するなど、さまざまなシチュエーションを想像したが、最終的には単純に「レコーディング室で目の前に好きな人がいて」というイメージで録音した。
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録音、制作
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「ありがとう、だいすき」の記事における「録音、制作」の解説
「危ないくらいに熱くなれ」のレコーディングは5月14日に行われた。限界を超える勢いで臨み、B'zの稲葉浩志を意識しながら唄った。「ミラクルバング」のレコーディングは5月18日に行われた。
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録音、制作
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「みちしるべ (茅原実里の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
テレビアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のエンディングテーマを担当することが決まった際、茅原は原作小説を読み、テレビアニメ第1話のアフレコ現場の見学を行った。制作当初、監督の石立太一、シリーズ演出の藤田春香と打ち合わせを行い、作品と向き合いながら作詞を行った。テレビアニメ主題歌のタイアップ曲の作詞を担当するのは初めてであったため、プレッシャーを抱きつつ作詞に臨んだ。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の劇中で主人公「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の人生が描かれていることから、人生を楽曲テーマにし、人にとって大切な存在である親、友人、恋人が人生の「みちしるべ」になると茅原は考えたため、「みちしるべ」というタイトルをつけた。レコーディングは『Minori with Strings Quartet 〜弦楽四重奏の調べ〜』と並行して行われた。 「憧れは流星のように」のレコーディングは11月29日に行われた。当初は「憧れのYOU」というタイトルであったがレコーディング後に変更された。憧れの存在は輝いて見えることから流星をタイトルに取り入れた。レコーディングでは、人生の必死さ、人間臭さを表現するために、綺麗に歌わないことを心がけた。コーラスも茅原が担当しており、楽曲の本線の殆どにハモリが付いているため、コーラスのレコーディングでは苦労した。 「White ambitions」は、茅原とTRUEがメロディー上でバトルするイメージで制作。レコーディング時は、2つのメロディーラインの担当が決まっていなかったため、レコーディング中にキーチェックをしていく中で、どちらのラインを担当するかを決定した。
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録音、制作
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「DEADLY DRIVE 40th Anniversary Deluxe Edition」の記事における「録音、制作」の解説
今回、伊藤本人監修によりリミックスされた«2017 Re-Mix Back Track»、«2017 Re-Mix»、«2017 Re-Mix Alternative Version»のうち、ディスク1に収録された6曲の«2017 Re-Mix Back Track»はその名の通り、ヴォーカルを抜いたバックの演奏(カラオケ)。ただし、当時制作されていたものではなく、今回新たに発見されたマルチから新たに制作された、言わばリミックス・インスト・バック・トラックということになる。そしてディスク2収録の«2017 Re-Mix»は、現在の耳に合致したミックスが施されている。さらに、ディスク2収録の«2017 Re-Mix Alternative Version»の中には一発録りのバック・トラックに仮歌を入れた状態のものや、エンディングの長さの違うものなど、試行錯誤や実験をしていた段階の証明となる様々なテイクがある。これらをオリジナル・ヴァージョンと聴き比べることで、より楽曲の制作過程を立体的に知ることができる。収録されたテイクはいずれも、このアルバムがどのようなところを目指して制作されたのか、その志向を知ることが出来るレア・テイクである。 今回、これらのリミックスを手掛けたのはオフィス彩音工の坂本充弘。坂本によれば、今回のミックスのオーダーは“オリジナルの雰囲気を壊さず、今の時代にもマッチして聴ける作品に仕上げる”事だった。しかし、基本同じように仕上げると言う事は、思った以上に再現するのが大変だったという。マルチ・テープの音色はとても良い音で録れていて、今でも十分通用する音で、少し気になっていたピアノの音も良い音だった。ドラムのキック以外は殆どEQなどを使わずに済み、結果的に全体で足りない帯域を上げた程度になっている。一方、難しかったのは定位とリバーブなどのエフェクト類で、定位はオリジナルと細かく聴き比べ、多分ここだろうと思われる位置にしたが、短いディレイで広げられているようなものが有り、元がどこに有るのかが分かりづらいものも有ったという。リバーブは当時、リバーブ・プレートが殆どだったと思われたので長さと返りのEQに注意したという。また、今回一番苦労した作業は、曲スピードを合わせる事で、ミックス時にマルチトラック・レコーダーの回転数を上げ、約1/8音程高くする曲が有り、高くしているのが6曲、「I'm Tellig You Now(好きなんだ)」が少しだけ遅く、「こぬか雨」のみノーマル・スピードだったという。しかも上がったスピードがアナログなので決まってなく、曲中で揺れていたので合わせるのに毎曲凄く時間が掛かってしまったという。
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録音、制作
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「会いたかった空」のレコーディングは1月に行われ、楽曲を貰った時から抱いていた愛おしい気持ちを込めた。「凜の花」のレコーディングは3月5日に行われた。当日は喉の調子がよく、気持ちの良いレコーディングとなった。「ピエロ」のレコーディングは3月9日に行われた。
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録音、制作
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「安全地帯III〜抱きしめたい」の記事における「録音、制作」の解説
レコーディングは1984年9月から11月までKRSスタジオおよびキティ伊豆スタジオにて行われた。前作がレコーディングに9ヶ月間を要したのに対して、本作は2ヶ月間でレコーディングを完了している。プロデューサーは前作に引き続き星勝と金子章平が担当している。 この時期の曲作りはギターの武沢豊によれば、変拍子や突拍子もないアレンジは玉置が好んでいたと言い、玉置のアイデアも多数盛り込まれていると語っている。ポップなメロディに対して特殊なアレンジを施した事に関しては「画期的だったと思いますよ」とも語っているが、この時期の安全地帯は歌謡曲バンドという枠組みに入れられており、音楽性に関してあまり評価されていなかったため、「もうちょっと音楽的に理解された形で売れるバンドになって欲しいとは思ってましたね」とも語っている。また、ベースの六土開正は一番愛着があるのは本作であると語っている。 作詞を担当した松井は当初「恋の予感」の作詞も手掛けたが、30回ほど書き直した末に没となり、採用された井上陽水の歌詞を見て「書かないことの美学、美しさというのがあって。あ、これで良いんだって解答を見せられた感じがすごくあった」と語っている。 ジャケットデザインで、玉置が指を3本伸ばした左手を小指だけ伸ばした右手で覆いかぶせているが、これは「(左手が意味する)沢山の女性がいても、好きなのはあなた(右手の小指)だけ」という意味が込められている。
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録音、制作
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レコーディングは1985年7月から10月までKRSスタジオおよびキティ伊豆スタジオにて行われた。 当時の安全地帯はアイドル的な人気が出ていた事もあり、キティ伊豆スタジオでのレコーディング中に大勢のファンが押しかけ、ガラス越しにメンバーを見学する事などが発生した。これを受けてスタッフはスタジオの窓にカーテンを掛けるなど対応に追われた。また、ライブ終了後には会場の外で出待ちするファンが増加したため、ダミーの5人組が車で出ていく振りをしている隙にメンバーが裏の出口から会場を出ていく事などを余儀なくされた。 本作に関して六土は「完成された感じがある」と述べ、作詞を担当した松井は「セカンドから始まったやり方が完結した感じ」と述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 16:36 UTC 版)
「アヴリル・ラヴィーン (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
本作の制作は1年間行われ、レコーディングはヘンソン・スタジオで行われた。
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録音、制作
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「sympathy (下野紘の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
2019年5月18日にニューピアホールで開催予定の『下野紘 リーディング&ミニライブ2019”sympathy"』に向けて制作された。楽曲先行ではなく、下野の「ライブイベントをやりたい」という思いから本作の制作が決定した。コンセプトは「人と人のつながり、その距離感を大切に思う気持ち」。 レコーディング時は、楽曲同様、歌声を明るく優しくすることを意識し行った。既存の楽曲ではキーが高くなった際に声を張り上げ押し切った場面があったが、今回のレコーディングでは張り上げを一切禁止した。
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録音、制作
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「虹 (電気グルーヴの曲)」の記事における「録音、制作」の解説
本作は石野卓球がバリ島旅行に行った際の印象から制作された曲であり、石野自身は「すごくカルマが強い曲」であると述べている。ゲストボーカルとして、五島良子が参加している。本作はレコード会社側からシングルカットの要請が出されたが、これに不満を抱いた石野はFMラジオの番組出演の予定を放棄し、「トイレに行く」と言い残したまま帰宅した。 本作のレコーディングにピエール瀧は全く関与しておらず、瀧は「レコーディング作業を見てた記憶さえ無い」と述べている。瀧はその当時スーパーファミコン用ソフト『スーパーマリオカート』(1992年)をプレイしており、ディレクターにカメを当てて集中攻撃を行い、「足止めしてスタジオに入れない係」であったと述べている。また、レコーディング・データをバックアップしたCD-Rにはアシスタントが「虫」と記入しており、瀧は「電気グルーヴ入魂のシングル『虫』」と述べネタにしている。 本作に関して瀧は後に「いまも落ち着いて聴ける、一番穴が少ない曲」であると述べ、石野は「気持ちを素直に出した曲は、なんかしらパワーがある。で、なんか偽ってるやつはパワーないんだよね」と述べた上で、本作が電気グルーヴにおけるMr.Childrenの「innocent world」(1994年)およびX JAPANの「Forever Love」(1996年)であると例えている。 カップリング曲である「Pomato」に関しては、メンバー曰く「体がデカくて朴訥フェイス」から歌詞が広がっていった、2枚目のアルバム『FLASH PAPA』(1991年)収録曲「Cafe de 鬼」の外伝となる曲であり、世間からは「Shangri-La」(1997年)から電気グルーヴが変化したと言われているが、実際は「虹」で終わり「Pomato」から変化したと述べている。
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録音、制作
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「APRYL FOOL (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
1969年4月1日 (1969-04-01)に虎ノ門・テイチク・スタジオ8階にてレコーディングを開始。同月4日に終了した。
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録音、制作
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自分たちの曲ではあるけれど、『シェイプレス』でのその曲たちは、もう僕らからは少し離れた場所でまた違った息吹を吹き込まれて、新たな生命として育っているような。うん、そんな受け止め方をしてますね。 櫻井敦司, B-PASS 1994年9月号 本作はBUCK-TICKの過去作をアンビエントとしてリミックスするというコンセプトで制作が開始され、選曲は「最近のアルバムの中から」という要望以外は各リミックス担当者に委ねられた。また、通常のベスト・アルバムをリリースすることに抵抗があったため、新しい形のベスト・アルバムを検討した結果、リミックス・アルバムという形になったと樋口豊は述べている。今井寿は打ち込みやアンビエント、トランスなど様々なジャンルの音楽としてリミックスされることを覚悟の上で依頼していたが、出来上がりを聴いて予想以上の仕上がりに驚いたほか、原曲が分からないほどリミックスされた曲もあると述べている。櫻井敦司はアンビエントを好んでいたこともあり、本作の完成を楽しみにしていたと述べたほか、本作の制作にはメンバーはノータッチであったとも述べている。櫻井は本作の中で「In the Glitter」と「Killing (Urb mix)」が最も気に入っていると述べ、また本作は一度完成した楽曲が解体されて再構築されていることに関して、「ザマーミロ」という感覚を覚えたと述べている。星野英彦は「D・T・D (Air Liquide mix)」と「In the Glitter PT 1 (Glitter mix)」が最も気に入っていると述べ、生音に対して音の幅が広がっていることが印象的であるとも述べている。
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録音、制作
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「THE MUSEUM III」の記事における「録音、制作」の解説
「HOT BLOOD」、「粋恋」は約1年かけて制作。2曲のテーマは『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』と『バジリスク 〜桜花忍法帖〜』をつなぐ架け橋になる曲。 「HOT BLOOD」は、『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』の世界観を表現するために辞書を手に取り、「はつ恋」と同じく、音感の響き、語彙の選択などを繊細に気配りし、作詞を行った。詞には「猶予う」、「萍」、「現人」などの読み方の難しい言葉、『バジリスク 〜桜花忍法帖〜』の劇中で描かれる戦いで流れる血、甲賀、伊賀の血脈、親子の繋がりの意味を込め、「血」という言葉を多く使用。作詞は3週間かけて行い、レコーディング1時間前に完成。 「粋恋」の詞は、『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』、『バジリスク 〜桜花忍法帖〜』のシナリオを岩里が読み、水樹との打ち合わせを重ねた上で仕上げた。同じメロディーが繰り返され、歌声でストーリーを組み立てる事が肝になる曲であるため、レコーディングは苦戦した。 「えがおは君のためにある」は、楽曲制作メンバーが初めて水樹の楽曲に携わるメンバーであるため、水樹の楽曲の中では異なるイメージのものとなった。「えひめ」をキーワードに制作した為、水樹の愛媛愛を強く感じられる曲となっている。
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録音、制作
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レコーディング前の打ち合わせの段階で、尾崎が須藤に初めて渡した詞であり、その際は「無免で…」というタイトルであった。須藤は無免の意味が分からず、尾崎に対し「無免って何?」と尋ね、釈然としなかったためタイトル変更を要求した。その後、デモテープの段階で「無免許」に変更。さらに「15の夜」に改題された。 1983年7月30日18時から、当時高校三年生であった尾崎にとって初となるレコーディングが開始され、本作の他に「愛の消えた街」「僕が僕であるために」も同時にレコーディングされた。当日はリズム録りのみであったが、曲構成やボーカルとのリズムの照らし合わせのため尾崎のボーカルも同時に録音されている。10月1日には正式に歌入れが行われた。 当初の構想では無免許で暴走族のような行為を行った夜を題材とした長い歌詞となっており、レコーディングの段階で歌としての体裁を取るために家出をした友人に同情して集まったものの、一晩ともたずにそれぞれが帰路についたというストーリーの歌詞に変更された。曲の途中でメロディーを崩して語り口調になる箇所があるが、これは浜田省吾のアルバム『PROMISED LAND 〜約束の地』(1982年)の収録曲「僕と彼女と週末に」に影響された尾崎が「メロディーを歌いながら、一部語ってるみたいな曲にしたい」と希望したことから採用された。須藤は歌詞中の「自由になれた気がした」という箇所に関して「自由になれた」とは言わないところが尾崎らしいと述べている。
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録音、制作
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「はじまりさえ歌えない」の記事における「録音、制作」の解説
アルバム『十七歳の地図』のレコーディングに向けて、1983年7月5日頃に本作は制作された。レコーディング開始前に制作されていた曲は「街の風景」「15の夜」「十七歳の地図」「愛の消えた街」「OH MY LITTLE GIRL」「僕が僕であるために」の6曲。本作は尾崎が学校を停学となり、時間が出来たためにレコーディング開始に向けて新たに制作された曲であった。 レコーディング開始後の1983年8月24日から8月25日にかけて、ソニー信濃町スタジオにて本作のリズム録りが開始された。編曲を担当した西本明は当日初めて尾崎のレコーディングに参加する事となった。8月26日には鳥山雄司および後にロックバンド「FENCE OF DEFENSE」を結成する北島健二のギターダビングが行われた。9月24日には笛吹利明によるアコースティック・ギターの音がダビングされ、10月1日には尾崎本人による歌入れが行われた。
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録音、制作
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「I LOVE YOU (尾崎豊の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
1982年にCBS・ソニー主催の「SDオーディション」に合格した尾崎は、プロデューサーである須藤晃の指示によって「十七歳の地図」(1984年)を制作し、同曲の歌詞に感嘆した須藤からレコーディング開始を告げられる事となった。レコーディングも終盤に差し掛かった時、須藤は尾崎に対して「曲が足りないからバラードを書いてきて」と要請、尾崎は「バラードということはやっぱり、ラブソングのほうがいいんですかねえ」と返答した。出来なければアルバムは9曲でリリースするという須藤の言葉に対し、尾崎はその場で「あ、良い曲あります。『I LOVE YOU〜♪』って感じの曲なんですけど」と返答し、須藤も「うん、いいじゃない。そういう感じで書いてきてくれる」とのやり取りが行われた。尾崎が口ずさんだメロディーに対してその場でアレンジャーの西本明がコードを合わせて演奏、その翌日もしくは翌々日に尾崎は歌詞を完成させた。その後1983年10月1日にソニー信濃町スタジオにて歌入れが行われた。 本作は元々制作してあった曲ではなく、その場で即興で口ずさんだ可能性が高いと須藤は指摘、「もともとあった曲なら、それ以前にテープで渡してるはずだし。曲作りをしていたときに、大学ノートの歌詞を見ながら、その場で僕に歌って聞かせたのと似た感じだったんじゃないだろうか」と述べている。須藤は当時高校三年生であった尾崎が大人のビジネスに巻き込まれた結果、咄嗟についた嘘だった可能性があるとも推測している。また尾崎は歌詞に英語をなるべく使用しないと宣言していたが、本作はタイトルからして急場しのぎで作ったような感じがあると須藤は述べ、「でも急場しのぎって、すごくいいものができる。つまり、結局そこに実力が出ちゃうからなんだ。前々から用意したものっていうのは、その人の音楽的なイヤらしいクセとかも出ちゃうのね」とも述べている。また、アルバム『十七歳の地図』において最後にレコーディングが行われたのが本作であると須藤は断言している。その他、本作のイントロ部分は西本が制作している。
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録音、制作
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「HURRY UP MODE」の記事における「録音、制作」の解説
アニイ、ユータが、そろそろ音を録ってみようって言いだして。とにかくなんにもわかんないから、もうスタジオ・ライブ方式で。1日4曲、TDまで全部終わらせて。その場そのときは、こんなものかなと思ったけど……ヘタです。超ヘタ(笑)。 今井寿, SHAPELESS BUCK-TICK 東京でライブ活動を続けていたBUCK-TICKであったが、動員を増やしてさらに注目を集める方法はないかと検討が重ねられた。同時期に、インディーズ系の音楽誌『DOLL MAGAZINE』の「新人紹介コーナー」に掲載されたことからチケットの売れ行きが各段に伸びたことを踏まえ、「自主制作でレコードを作ったらどうだろう」とメンバーから提案が出されることとなった。その提案を受け、ヤガミの伝手を利用した結果格安の10万円でレコーディングが可能となり、1986年5月にヤマハ日吉センタースタジオにてリリースの当てもないままにレコーディングが開始された。レコーディング当日である5月18日には、「PLASTIC SYNDROME II」「TO-SEARCH」「ONE NIGHT BALLET」「SECRET RAECTION」の4曲がレコーディングされた。この4曲に関して、今井はライブでの演奏と全く同じ方法でレコーディングを行ったことを述べた上で、当時はそれなりに満足していたが後年になって演奏が下手であると自ら認めている。 同年7月には太陽レコードの主催者であるサワキ・カズヲから「メンバーに会いたい」とコンタクトが取られることとなった。サワキはライブハウス「屋根裏」でのライブにおいて、別のバンドを見に来ていたがBUCK-TICKのライブを見て興味を持ち連絡をしてきたという。サワキはBUCK-TICKメンバーの名前と生年月日が書かれた紙を見て「来年、君たちは売れるよ。まちがいない」と述べ、BUCK-TICKの個性と将来性を強く買っていた。同年9月21日にはシングルリリースが予定されたが1か月延長され、10月21日に太陽レコードよりBUCK-TICKとして初となるシングル「TO-SEARCH」がリリースされた。 その後本作の本格的なレコーディングが始まり、1987年1月21日から2月4日までの約2週間の内にヤマハ日吉センタースタジオにて行われた。レコーディングは時間的にも相当に厳しく、2週間でおよそ100時間の間に13曲がレコーディングされた。この期間はメンバー全員が櫻井の家に泊まり込み、ほとんど合宿状態で録音された。ヤガミは自著『1977』(2018年)において、「2週間近く、日吉のスタジオまで通いでレコーディングしたんだ。昼頃から始めて、夜遅くまで作業して、終わったら車でみんなを送って、また午前中に迎えに回るっていう」、「あっちゃんはヴォーカルだけじゃなく、運転もがんばってたね」と述べている。本作は太陽レコードとの契約以前にレコーディングされた4曲とほぼ同様のスタイルで録音が行われており、すべて一発録りで若干ダビングの要素が加えられた程度であると今井は述べている。
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録音、制作
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「OH MY LITTLE GIRL」の記事における「録音、制作」の解説
本作は1983年7月に尾崎によって当初は「セーラー服のリトルガール」というタイトルで制作された。その後デモテープ完成時には「となりのリトルガール」に変更され、さらにプロデューサーである須藤晃の助言で「OH MY LITTLE GIRL」へと変更された。同年8月24日および8月25日にソニー・ミュージック信濃町スタジオにてリズム録りが行われた。 本作の完成直後、尾崎は「すごくいい曲だ」と自画自賛していたが、アルバムの8曲目という須藤曰く「アルバムの墓場みたいなところ」に収録される事となった。須藤によれば、本作は尾崎豊的ではなく作品としては「デキが悪い」と判断されていたためであり、曲は良いが詞が今一つであることからスパゲッティブランドのオーマイに掛けて「オー・マイ・リトル・スパゲッティ」などと冗談扱いされていたという。須藤はとある雑誌で「尾崎豊はミュージシャンとしては一流ではない」と発言、これに憤慨した尾崎は須藤に対し釈明を求めたが、須藤はメロディー・ラインに関してはもっと優れたミュージシャンがいると反論、尾崎は詩人として素晴らしいと伝えたが、尾崎は「この曲だけは認めろ」としつこく本作を推していたという。また尾崎は晩年に「『OH MY LITTLE GIRL』みたいな曲がなぜ書けないんだろう」と本作へのこだわりを見せていた。
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録音、制作
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「十七歳の地図 (曲)」の記事における「録音、制作」の解説
1982年にCBSソニーが開催した「SDオーディション」に合格した尾崎は、担当となった音楽プロデューサーである須藤晃と月に一度会合する事となった。会合の席で須藤は尾崎の作成したデモテープや大学ノートに綴られた歌詞に目を通していたが、尾崎の書く歌詞は大人びたまるで人生を悟ったかのようなものであり、須藤の望むような作品ではなかったため音楽に関する話はせず、尾崎の読む本の話や日常の話をするに留めていた。また、尾崎がオーディションで演奏した「ダンスホール」のテープを聴いた須藤は、歌詞が大人びている事から当初は「この歌は、コイツ(尾崎)が創ったんじゃないよ」と周囲に断言していた。そして須藤は大人びた視点の歌詞ではなく、17歳の少年の息遣いが感じられるような「もっとシャープな歌が欲しい」と尾崎に言い続けていた。 その後須藤は中上健次の小説『十九歳の地図』(1973年)に登場する新聞配達の少年と尾崎のイメージを重ねていた事から、ファーストアルバムのタイトルを『十七歳の地図』と決定。須藤は尾崎に対して「十七歳の地図」というタイトルの曲を制作するよう指示を出す事となった。その際に須藤は「珍しく会社から早く引き揚げた日、家に帰る途中の歩道橋の上で、ぼんやりと夕陽を見ていたら、涙が出てきてしまってね。忙しい仕事、妻と小さな子供二人。青春には、もう永遠に戻れないほど年齢を取ってしまった気がしたんだ」と尾崎に述べ、それを受けた尾崎は「歩道橋に立って夕陽を見ていると、強く生きていかなければと思う。やっていかなければと思う」と回答した。尾崎は須藤の話を受けサビの歌詞を完成させ、歌詞を見た須藤は「これだよ! この曲だよ」と叫び絶賛した。この曲を切っ掛けとして、須藤は本作的なレコーディングの準備に取り掛かり、それまでに尾崎が制作したデモテープや歌詞カードを取り出して「じゃ、いよいよやろうよ。どれから始める?」と話すと、尾崎は「えーっ、やっとレコーディングしてくれるんですか」と顔を輝かせたという。 その後1983年8月24日から8月25日にかけて、ソニー信濃町スタジオにて本作のリズム録りが開始された。編曲を担当した西本明は当日初めて尾崎のレコーディングに参加する事となった。
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録音、制作
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「卒業 (尾崎豊の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
本作の題材となったのは尾崎の同級生であったKの行為であり、Kの家は裕福でピアノを所有していたことから、自宅にピアノがなかった尾崎はKの家で練習していた。Kは同級生の仲間2人と夜の校舎に忍び込み、すでに退学を決意していたことから腹いせのつもりで窓ガラスを何枚も割って回った。翌日ピアノを練習するためK宅を訪れていた尾崎にKはこのエピソードを語り、それから1か月後に再度K宅を訪れた尾崎は「ちょっと聴いてくれよ」と述べた後に本作を演奏した。尾崎の初期の曲に関してKは、「あのころのおれたちが経験したことだった」と述べている。しかしこの時点で尾崎はオーディションには合格したもののまだレコーディングが開始されていない段階であった。尾崎は本作に関して後年、「あれはものすごくプライベートな歌だった」と述べている。また本作のエピソードは同級生を題材としているが、尾崎自身も高校中退直前に校舎脇にあった嵌めガラスを殴打して破損させ、修理代5万円の内1万円を弁償している。 本作に関して須藤は尾崎からKに対する回答であり、また親や学校に支配され拘束されているイメージの中で、自身がどう立ち振る舞うべきか悩んでいたことへの解答でもあったと述べている。また、本来は「学校を体制だと考えて、それに無謀に反発してる人たちへのアンチテーゼみたいな歌だった」と須藤は述べており、表層的な部分のみが取り上げられ「学校にも家にも帰れない」反抗する10代を代表するかのように誤解されたことに関して須藤は「僕もすごくつらかった」と述べている。本作の歌入れのレコーディング中に須藤は、歌の形を崩して歌う尾崎に対して涙が止まらなくなったという。須藤はレコーディング中に本作が尾崎の代表作になると確信し、「その時の尾崎の輝きは、もうそれ以上輝けないほどにまぶしかった」と述べた他、本作のレコードにその時期の空気を凝縮して記録できたことが誇りであるとも述べている。本作は幾度となくライブでも演奏されたが、スタジオ録音版を超えるボーカルは一度もなかったと須藤は述べている。
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録音、制作
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「殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits」の記事における「録音、制作」の解説
『狂った太陽』でここまでできるんだったら、っていう発想から出てきたアルバムだったから。だから方法論は『狂った太陽』と同じです。 今井寿, SHAPELESS BUCK-TICK シングル「M・A・D」(1991年)のカップリングとして「ANGELIC CONVERSATION」を再録音し、その完成度にメンバーが予想以上の手応えを感じたことが本作制作の切っ掛けとなった。また、今井寿は『狂った太陽』の完成度に手応えを感じ、全く同じ方法論で過去の作品を再アレンジしたアルバムであると述べている。レコーディング時間は約1217時間に及び、今井はレコーディングで15本のギターを使用した。 制作時のコンセプトは「『狂った太陽』を経て劇的に向上したバンドスキルによる初期の楽曲の再生(リメイク)」であり、その意向に沿って、ビート・ロック、オルタナティヴ・ポップ、ゴシック・ロックという前作以前の楽曲を新たにデジタル・ロック、エレクトロニカの要素を交えて再構築している。ヤガミトールによれば、シングルとしてリリースした楽曲は基本的に手を加えないという方針をメンバー間で決定したという。星野英彦は3枚目のアルバム『SEVENTH HEAVEN』(1988年)収録曲である「VICTIMS OF LOVE」が本作制作の切っ掛けとなったのではないかと述べている。今井は一部の曲において、ライブでの再現性を無視してアレンジを行ったと述べている。 当初メンバーは『狂った太陽』に収録されている楽曲を収録するつもりはなかったが、レコード会社側の強い要望でいわゆる「ベスト・アルバム」としての商品価値を持たせるため、『狂った太陽』収録のシングル3曲も収録せざるを得えなくなってしまった。そのため、既に作品として完成されているこの3曲の再アレンジにあたり、メンバーはかなり苦心したようである。特に「M・A・D」はまったく原形を留めておらず、歌詞以外に共通項の無い別の楽曲となっており、リリース時のインタビューで今井は「(「M・A・D」は)原曲が完璧なのでああするしかなかった」と述べている。また、星野も「JUPITER」冒頭のコーラスをインタビュアーに「苦肉の策」と指摘された。「This is NOT Greatest Hits」という内容と相反するサブタイトルにはこういった経緯に対するメンバーの自虐的なメッセージが込められている。
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録音、制作
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尾崎は本作制作時に以下のコメントを残している。 ぼくは『永遠の胸』という曲の中で"この身も心も捧げようそれが愛それが欲望それが全てを司るものの真実なのだから"と歌った。つまり「君のためになんでもしてあげるから」って言われたら、それはもうすべてを言い尽くしている。ある意味では神様しか言えないような献身的な言葉に対して誠実に応えたいって思ったら、それが行き過ぎれば欲望に変わるし、そのはざまに揺れ動くものが真実だっていう。 —尾崎豊, 月刊カドカワ 1990年12月号 「永遠の胸」でも言ってるんだけれども、その、僕を求めるものがあるならば、僕が会えた、幸せになるために得た、すべての術を君に教えてあげようっていうような気持ちを、いつまでも持ち続けたいと思う。 尾崎豊, ギターブックGB 1991年1月号 尾崎はアルバム『誕生』の制作に関して、10代の頃に培った感覚によって全てが網羅されていくと考えていたが、実際には自身が10代で培った感覚を追い抜いてしまったという感覚があり、湧き出してくるアイデアが豊富である程に他人との距離が遠のいていくという趣旨の発言をしている。人との距離感が遠のく程に自身は枯渇し、その枯渇した部分を埋める為に過去を振り返りファンが見ている視点にまで戻る事で、表現する実体を得る事が出来たとも述べている。またニューヨーク滞在時の経験として、全ての文化が同地から発生するとは言われているものの、尾崎が見たニューヨークは実際には人々が日々の生活に追われており、人間としての実体は日本と何ら変わらないものであったとも述べている。さらに尾崎は国家に対して、最も必要な事は国民に対して食料を与える事と育てていく事の2点であると述べ、観念的な部分のみで生活しようとしていた尾崎は実際に生活する人々との間に強いギャップを感じており、生活感のある地点まで自身の感覚を戻す事がとても大変であったと述べている。その他に、アルバムタイトルは当初本作のタイトルである『永遠の胸』も候補として挙がっていたが、最終的に『誕生』に決定された。 尾崎は本作の歌詞が難解で理解しがたいという意見があった事に関して、人に対する愛情には宝石や車など物質的なものが付随し、更には欲望に至る危険性を孕んでいると指摘、10代のリスナーはその事を理解できるレベルに達していないと主張した。尾崎は本作の解説として、人は人と出会う事で何らかの影響を受けており、学ぶべき事があればそれが聖書であり自分自身にしか理解できないものであると述べている。また歌詞中の「裁くものがあるなら僕は 君の面影を強く抱えて」以降の部分について、出会った人々の面影を抱え、二者間でジャッジした事を安らかに抱えて待つ事が「永遠の胸」であり「抱えなくちゃいけない人間の気持ち」であると主張し、「全ての思いを抱えて、全て、君の面影を抱えていくってことが、全ての答えを、待ちつづけることなんだっていうのは、僕にとっては、すごくわかりやすい」と述べている。
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録音、制作
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「12月の雨の日/はいからはくち」の記事における「録音、制作」の解説
シングル・ヴァージョンの「12月の雨の日」と「はいからはくち」は、アルバムとは別に2回レコーディングが行われている。 日付スタジオ曲名ミキサートラック備考1970年12月3日 (1970-12-03) アオイ・スタジオ 12月の雨の日 吉田保 4トラック ボックス・セット『はっぴいえんどBOX』に収録 はいからはくち ベスト・アルバム『CITY』、ボックス・セット『はっぴいえんどBOX』に収録 1971年2月3日 (1971-02-03) キング・スタジオ 12月の雨の日 山崎聖次 8トラック シングル発売 ボックス・セット『はっぴいえんどBOX』に収録 1971年2月28日 (1971-02-28) はいからはくち
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 07:28 UTC 版)
「ブルース (UNICORNの曲)」の記事における「録音、制作」の解説
構想時のタイトルは「東京土方(ひじかた)ストーリーは勝つ」であった。西川は本作で初めてシングル曲を担当することとなり、「大きな進歩」であるとともにアルバムに収録する構想もまったくない作品であると述べている。西川からデモテープが持ち込まれた際にメンバー一同は大笑いとなったが、その後「どうすりゃええんじゃ!?」と狼狽することになったという。奥田民生は本作に関してはデモテープを再現することだけを心掛けたと述べたほか、キーが低いため歌うのが辛いとも述べているが、本作は音が良く非常に愛好していると述べている。また、堀内はソロ・アルバム『MUSÉE』(1991年)のレコーディングがあったことから、本作のシングル盤においては「任せといてくださーい」という雄叫びのみの参加となっている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:51 UTC 版)
本作は元々コンサートツアー「UNICORN TOUR 1992 "S.F.W"」にて初披露されたが、レコーディングはライブ時とほぼ同じアレンジで進められた。リリース前に楽曲がライブで披露されるのはシングル「働く男」(1990年)のカップリング曲であった「CSA」以来であると阿部義晴は述べ、手島いさむは「レコーディング前に歌詞があるということ自体すごい」と述べている。しかし、本作のようなテンポの曲はあまり制作していなかったことからレコーディングは行き詰まることとなった。また堀内はベースを交換するのを忘れて最後まで演奏していたという。その他にもイントロやコーラスも行き詰まり、堀内による「はぁぁぁ」という甲高い声を試しに挿入したが「気持ち悪くておかしいからやめた」と阿部は述べ、さらに全員で行った同じようなコーラスを挿入したところ余計におかしくなり断念したという。最後はただの叫び声をレコーディングするようになったが、コントロールルームのスタッフは「いい加減にせいよ」という顔つきをしていたと西川は述べている。 カップリング曲である「お年玉」は、本作が年末をテーマにした楽曲であったため、「2曲目は正月の歌だ」との発想から阿部が制作した楽曲が選定された。歌詞は神戸のホテル滞在中に阿部と西川によって制作され、その他のメンバーは飲み会に出かけたという。また「お年玉」にはシンクラヴィアやアコーディオン、カシオトーン、バンジョー、スライドギターなど多岐に亘り様々な楽器が使用されたほか、スネアドラムの上にタオルを置き、さらにその上に紙を敷いてブラシで叩いた音なども録音された。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 17:36 UTC 版)
レコーディングは1983年6月から1984年3月まで、9ヶ月間と長期に亘ってKRSスタジオおよび伊豆スタジオにて行われた。これに関しベースの六土開正は「2枚目は早く作ろうっていいながら、結局レコーディングに1年くらいかかっちゃった」と述べている。 本作ではシングルとしてリリースされた「ワインレッドの心」、「真夜中すぎの恋」以外の曲の作詞は全て松井五郎が手掛けている。松井と玉置の共作は1983年11月1日にリリースされた本田恭章のシングル「サヨナラのSEXY BELL」のB面曲であった「ONE NIGHT HEAVEN」が初であり、デモテープを聴いた松井は玉置に対して「ずいぶん良い曲を書くヤツだな」という印象を受けたという。また松井は自身の信条として「松井五郎という名前を覚えられるよりも、歌そのものが残っていったり、歌が人に伝わっていくことのほうが重要」と語り、「その人に一番似合う、その人そのものになっていく言葉、それが僕にとっては一番の目標」であるとも語っている。そのため後に週刊誌を賑わす事の多くなる玉置に対しては、アーティストとしての生活感を生々しく表現する事を目的に、難解な言葉は使用せずリアリティを重視して言葉を選定していたという。 さらに松井は「僕にとっては浩二のメロディと声は特別なんです」とも語り、「アーティストの生き様とか肉声というパーソナルな部分を大事にするやり方を、僕に一番植え付けてくれたのは浩二だった」と自身の方向性が玉置によって定められた事を述べている。松井は玉置の声の響きやメロディに絶大な信頼を感じており、ありふれた言葉であっても玉置が歌う事で異なる意味合いを持たせる事ができると述べている。松井は後にリリースされるシングル「恋の予感」の作詞も手掛けたが、30回ほど書き直した末に没となり、採用された井上陽水の歌詞を見て「書かないことの美学、美しさというのがあって。あ、これで良いんだって解答を見せられた感じがすごくあった」と述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 02:27 UTC 版)
「TESTAMENT (水樹奈々の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
「TESTAMENT」のレコーディングは4月6日に行われた。『戦姫絶唱シンフォギア』の主題歌は期を追うごとに曲の難易度が上がっており、汗だくになりながら行った。
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録音、制作
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「もうおまえしか見えない」の記事における「録音、制作」の解説
尾崎が1982年10月11日に受けたCBS・ソニー主催のオーディション『CBS SONY Sound Development Audition 1982』(SDオーディション)で「ダンスホール」、「町の風景」、「野良犬の道 (Street Blues)」と共に歌唱した曲であり、デモテープに収録されていた。その後尾崎はオーディションに合格し、尾崎のプロデューサーとなった須藤晃と間で複数回におよぶミーティングが行われた。ミーティングの度に尾崎は制作したデモテープや歌詞が書かれた大学ノートを持参していたが、須藤の望む作品ではなかったためレコーディングは開始されなかった。その後尾崎は「十七歳の地図」の歌詞を完成させ、それを見た須藤は「これだよ! この曲だよ」と叫び絶賛した。 「十七歳の地図」の歌詞が完成したことによって尾崎の1枚目のアルバム『十七歳の地図』(1983年)のレコーディングが開始され、収録曲候補として本作もリストアップされていたが、最終選考の段階で没とされレコーディングは行われなかった。「ダンスホール」はジャクソン・ブラウンの「ザ・ロード」に似ている事から同様に没とされた。しかし「ダンスホール」はその後もライブでは演奏されていたため、2枚目のアルバム『回帰線』(1985年)に収録される事になった。 尾崎が10代の内に制作した曲は29曲であり須藤はこの曲数が少ないと述べているが、これは尾崎と須藤が共に作品に対してシビアであった結果であり、両者が「レコードにしてもいい」と判断した曲が29曲であったと述べている。また、アルバム『十七歳の地図』以前に書き溜めた曲は多数あったが、本作や「野良犬の道」はレコードに入れておらず、尾崎の死後にレコード化された事に対して須藤は否定的な見解を示している。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 08:25 UTC 版)
「Alter Ego (ORβITのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
日本側のエグゼクティブ・プロデューサーは日本側所属事務所の社長である黒沢美樹、韓国側のエグゼクティブ・プロデューサーはリーダーであり韓国側所属事務所の社長であるHEECHOが務め、5曲中4曲をメンバーのHEECHO、JUNE、YUGO、TOMOが作詞した。 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う渡航制限の影響により日韓に分かれて行われて制作された前2作とは異なり、日本在住メンバーが渡韓し初めて同じ場所に集い制作された。録音、アーティスト写真撮影、MV撮影などは、すべて韓国で行われている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 08:26 UTC 版)
「00 (ORβITのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
本アルバムの制作およびMV撮影は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う渡航制限の影響により、日韓に分かれて行われた。 日本側のエグゼクティブ・プロデューサーは日本側所属事務所の社長である黒沢美樹、韓国側のエグゼクティブ・プロデューサーはリーダーであり韓国側所属事務所の社長であるHEECHOが務めた。楽曲制作にはメンバーも参加しており、JUNEが自身のソロ曲を含む計6曲の作詞(うち1曲は作詞作曲)に参加しているほか、YUGO、YOUNGHOON、HEECHO、TOMOが自身のソロ曲・ユニット曲の作詞を行っている。 収録曲のレコーディングではビデオ通話などを介してアドバイスなどのやり取りが行われた。タイトル曲「UNIVERSE」のMV撮影では、まず韓国でHEECHO、YOUNGHOON、YOONDONG、JUNEの撮影が行われ、日本では撮影された映像を参考に韓国の監督とビデオ通話をつないでリアルタイムで指示を受けながらJUNE、TOMO、SHUNYA、YUGOの撮影が行われた。メンバー内で唯一両国間を行き来できたJUNE(父親が日本人、母親が韓国人)のみ日韓両国で撮影を行っている。7人必要なダンスシーンについては日韓それぞれでサポートダンサーを入れて撮影が行われ、日本側サポートダンサーにはORβITと同事務所に所属するBUGVELのMAHIROとKOSHINが参加した。2020年12月24日に公開されたダンスパフォーマンス映像はHEECHO、YOUNGHOON、YOONDONGが来日して撮影されたため、初めてORβITメンバーが7人全員そろって撮影された「UNIVERSE」関連映像となった。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 08:25 UTC 版)
「Enchant (ORβITのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
日本側のエグゼクティブ・プロデューサーは日本側所属事務所の社長である黒沢美樹、韓国側のエグゼクティブ・プロデューサーはリーダーであり韓国側所属事務所の社長であるHEECHOが務め、5曲中4曲をメンバーのYOUNGHOON、YOONDONG、JUNE、HEECHO、YUGOが作詞した。 また、前作に引き続き、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う渡航制限等の影響により、日韓に分かれてアルバム制作およびMV撮影が行われた。2020年11月、韓国在住メンバーが短期間来日し結成発表以来初めてメンバー7人が集まることのできた機会に、リーダーのHEECHOが持参したデモ楽曲の中からメンバーによって収録する5曲とコンセプトを決定した。その後、再び日韓に分かれて制作が進められ、韓国では韓国在住メンバーが出演する「Blind」のMVが、日本では日本在住メンバーが出演する「Dionaea」のMVがそれぞれ撮影された。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 08:16 UTC 版)
本作のレコーディング時に西川は腱鞘炎となったため、シンバル以外の音はサンプリングを元にした打ち込みによる音が使用された。本作は当初最後まで完成していなかったが、アルバム『SPRINGMAN』が全体的に地味だという結論になり完成させることとなった。奥田は「独りよがり的な作風である」と述べている。 阿部義晴は本作が良曲であると主張し、本作を知らないことは焼肉で例えるとカルビを食べないようなものだと述べている。前作「雪が降る町」(1992年)が自信作であるにも拘わらず売り上げが伸びなかったことに奥田民生は落胆しており、周囲の者からの評判は良くてもUNICORNのシングルは売れないと述べている。また、手島いさむは本来であれば7枚目のアルバム『ヒゲとボイン』(1991年)の時点でブレイクするべきであったが、メンバー自ら地味なアルバムだと言い過ぎたために売り上げが伸びなかったと述べている。 しかし奥田は売り上げ枚数を上げるためにこれ以上一般受けするような曲は作りたくないと述べており、本作がギリギリのラインであるとも述べている。手島は奥田が想定する良曲の条件として、「メロディが聞きやすくて歌いやすいというラインのギリギリのところが彼は好きでやってると思う」と述べ、3枚目のシングル「働く男」(1990年)に関しても「ちょっとできそうで実はそうでもない微妙な部分を感じる」と述べている。メンバーはそれぞれ本作の売り上げ枚数の予測として、奥田は70万枚、阿部は50万枚、堀内一史は80万枚と述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 15:09 UTC 版)
甘えてたというか。すぐ流れちゃうんですよ。ツアーにしても“また明日”とか“また今度”っていう気持ちがあるんです。これじゃいかんと思いつつも、どこかで現状に甘えてた。イヤになりますよ、自分が。 西川幸一, ARENA37℃ 1993年5月号 本作のレコーディングは1992年12月後半から1993年2月半ばに掛けて、山梨県の河口湖スタジオ、札幌市のライブハウス「ペニーレーン24」、東京のソニー・ミュージック信濃町スタジオと場所を変更しながら継続的に行われた。「ペニーレーン24」でのレコーディングは、奥田がユニット「寺田」でライブを行った際に音が良かったとの判断から選定されることとなった。結果として、「ペニーレーン」では4~5曲程度レコーディングされた。 本作のレコーディングに際して、メンバーは全27曲を制作しその中から16~17曲に絞り込む作業が行われた。「田園(仮題)」という曲のレコーディングではオーケストラが導入され、阿部自身が指揮者となって指揮棒の代わりにチャッカマンを振って指揮を行っていた。またレコーディングにはミニ・アルバム『ハヴァナイスデー』(1990年)以来でミキサーのジョー・ブレイニーがプロデューサーとして参加したほか、ライブ時の舞台セットを製作していた大道具のスタッフがビンゴの景品で当てた「レコーディング参加券」によって参加することとなった。阿部は本作に関して、「『ハヴァナイスデー』よりクオリティが高くて、『ケダモノの嵐』よりはパワーなし」であると述べている。本作でミキサーを担当する予定であったジョー・ブレイニーは、来日の日程が遅れたために代わりに宮島哲博が担当することとなった。それによりブレイニーの担当する部分が少なくなったが、ブレイニーがトラックダウンを行うこととなり上手くバランスが取れたと阿部は述べている。 “西川君がいない”でバンドの威力は半減みたいなところはありますよね。やっぱりあの人は大きかったですよ。 奥田民生, 月刊カドカワ 1993年7月号 またレコーディング中の2月6日にドラムス担当の西川幸一のバンド脱退が発表された。脱退の理由は、UNICORNは各メンバーに音楽的な志向の違いがあり、それが音楽的にも面白い部分ではあったが、本質的な部分にズレを感じ、「舞監なき戦い」ツアーの終了時から「これでいいのか」と自問自答し始めたことが切っ掛けであると西川は述べている。またイベントライブ「UNICORNは九州がお好き?」においても攻撃的な要素が抑えられ、保守的な内容になっていたことが切っ掛けであるとも西川は述べている。レコーディングの最中に脱退したことに関して西川は、レコーディングが終了すると次にはコンサートツアーの話やプロモーションの話などで脱退する切っ掛けを失ってしまうとの判断であったと述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 06:09 UTC 版)
1971年 (1971)、当時所属していたプロダクション“風都市”を通じてトリオ・レコード傘下のレーベル“ショーボート”と契約。翌1972年 (1972)、キャラメル・ママをバックに、ファースト・ソロ・アルバムの本作『扉の冬』が制作された。アルバムについて吉田は「ティン・パン・アレーなんかのツアーに参加していたこともあって、ショーボート・レーベルから話を持ちかけられ、まあ1枚って。ピアノ弾きながら歌ったんです。だからピアノと歌の呼吸が混ざったプリミティヴな状態がそのまま出てる。私はそんなに融通が利かないから、一番やりやすい方法ということで、私のピアノと歌に合わせて、キャラメル・ママにサウンドを付けてもらうという感じでした」としている。『扉の冬』は全曲、吉田の作。プロデュースは細野、吉田、吉野金次、アレンジには吉田とキャラメル・ママの名前がクレジットされている。 JASRACに於いては、本作収録作品はすべて「出典:PO (出版者作品届)」と登録されているもののJASRAC作品データベースに特定の出版者は掲載されていない。故に本作収録作品の著作権表記はすべて“©1973 by MINAKO YOSHIDA.”となる。
※この「録音、制作」の解説は、「扉の冬」の解説の一部です。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:43 UTC 版)
尾崎は本作の制作に至った経緯として、当時アマチュアバンドが多数登場し、存在価値を認めてもらうために表面的なアピールが先に立ち、内容が後から付いてくるケースが多かった事に危惧感を抱いた事が切っ掛けであると述べている。尾崎はプロデューサー的発言であると前置きした上で、真実を知る人間が普通の格好で同じ内容を歌う方がよりすごい事になると述べ、それを表現する曲が本作であるという。尾崎はアマチュアバンドの純粋さに気になる点があったと述べ、「わかってもらえないからこそ、妙な恰好をしてみせるとか、妙な振りをしてみせるんじゃなくて、本質を客観的に見てごらんっていうことが、僕はあの曲を作るときに、あった」と述べている。 須藤は本作が英語のタイトルである事が尾崎の曲としては意外であったと述べ、それに対し尾崎は少しでも理解しやすいようにした結果であると述べている。また須藤はリスナーが自身で理解するための手段として本作があると尾崎に対し述べ、尾崎は共同幻想によって個体がそれぞれ同じ一つの物事に突き進む事で全ての虚像を突き抜けると返答し、それがテーマであったと述べている。尾崎は本作の歌詞が難解すぎるという反応に対して、それを聞いてむしろ安堵したと述べた他、補足が必要であるとも述べている。その他に須藤は、本作が2枚目のアルバム『回帰線』(1985年)収録曲の「存在」と同じような形で成長した曲であると述べている。 須藤は歌詞中の「共同条理の原理の嘘」という部分に関して、「人間が自分たちの考えていることをよりわかりやすくするために、ある種の仮定として考えだしたこと」であると解釈した上で、「アルキメデスの原理の嘘」や「ピタゴラスの定理の嘘」でも良かったのではないかと尾崎に提案している。また、須藤は交錯して矛盾していることを歌いたかっために「共同条理の原理の嘘」という歌詞にしたのではないかと指摘した上で、それ以上の表現として「アインシュタインの原理の嘘」を提案したが、尾崎はそれであれば「二つの矛盾した概念をより高い段階で調和させる」という意味で「アウフヘーベンの嘘」にして欲しいと回答している。
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録音、制作
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「バッファロー・スプリングフィールド (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
グループは1966年4月11日 (1966-04-11)にハリウッドのクラブ“トルバドール”最初のギグを行い、バーズのクリス・ヒルマン(Chris Hillman)がヤングとスティルスのギター・サウンドに衝撃を受け、コネがあった“ウィスキー・ア・ゴーゴー”(Whisky a Go Go)への6週間連続公演を取り付けてくれた。5月から6月にかけてのこのギグは評判を呼び、頃合いを見計らって、バンドの相談役でありかつてバリー・マクガイアらのロード・マネージャーを務めたディッキー・デイヴィスが動いた。彼はソニー&シェールを売り出した、チャーリー・グリーンとブライアン・ストーンが主宰するヨーク/パラ・プロダクション。そして、2万2千ドルの契約金を提示したアトランティック・レコード傘下のアトコ・レコードと契約を交わすことになる。この頃がバンドのまとまりとしては最高の時期だったようだが、この時期の記録が残っていないのが悔やまれる。初めてのレコーディングは、6月頃から、フィル・スペクターゆかりのゴールド・スター・スタジオにて進められてゆき、まず、当初B面の予定だった、彼らのデビュー・シングル「クランシーは歌わない」 (NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING)が7月31日にリリースされたが、思ったほどのチャート・アクションを起こさないまま、最初のアルバムである本作が12月20日にリリースされた。 ライブのエネルギーが伝えられていない華奢なミックスにより売り上げが伸びなかったことから、メンバーたちはグリーン&ストーンを制作面から遠ざける。しかし、12月5日に起きたサンセット・ストリップでの暴動(Sunset Strip curfew riots)を基にした、スティルス作の「フォー・ホワット・イッツ・ワース」が1967年2月 (1967-02)にチャート7位まで到達する大ヒットになり、急遽本作のセカンド・プレス以降に差し込まれた。そのため本作には曲目・曲順が違う二つのヴァージョンがあり、またそれぞれモノラルとメンバーの意図を無視したステレオ・ミックスの計4種類が存在する。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:20 UTC 版)
当アルバムの制作にあたり、大森はカーネーションの直枝政広をプロデューサーとして迎えた。村尾泰郎は大森と直枝の組み合わせについて「異色の組み合わせ」としている。大森は以下のような考えで直枝にプロデュースを依頼した。 アルバムのテーマが内向きなものであったため、繊細な音で録音する必要があった。 自身の歌についてCD音源よりライブの方が良いという自覚があったため「苦手なところは直枝さんにやってもらおう」と考えた。 ライブでセッションを行った際のフィーリングが良かった。 直枝は弾き語りでレコーディングすることを想定し「弾き語りを最高の音で録音する」ことを自身の任務として考え、アナログ録音に適したスタジオを選んだ。その後制作費が増え「音数増やして」と直枝に依頼があったという。直枝は依頼をうけ別のスタジオを取り、打ち込みによる楽曲も制作することとした。アナログ録音された曲は全15曲中13曲となった。
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録音、制作
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「SEXUAL×××××!」の記事における「録音、制作」の解説
本作のレコーディングは1987年7月26日から8月18日まで、アバコクリエイティブスタジオおよびスターシップスタジオ、ビクター青山スタジオにて行われた。 メンバーは制作に当たり、「日本のミュージック・シーンをかき混ぜるようなアルバムを作りたい」という思いでレコーディングを開始した。当時は「せーの!」の合言葉と共にで1発録りでレコーディングされ、ドラムおよびベース、サイドギターが問題なければ基本的にそのテイクを採用しており、ヤガミトールは「ユータとヒデがしくってなければまあOKだろうっていうレベル」と述べている。収録曲の「MY EYES & YOUR EYES」においてスネアドラムのフチを叩く「クローズド・リム」という叩き方をしているが、途中から位置がズレて音が変化している。当時は「メインの演奏が間違っていなければそれでいい」という判断だったため、再録音はされなかった。 レコーディング・エンジニアは、後にTHE BLUE HEARTSやTHE YELLOW MONKEYを手掛けることになる山口州治が担当している。表題曲である「SEXUAL×××××!」のレコーディング中にヤガミが「スネアの音がおれの感じじゃないんですけど」と伝えたところ、山口は録音機械を止めた上で「じゃ、明日やりますから」と言い残して帰宅。ヤガミは山口を怒らせたと思い、打ち上げの時に「生意気なこと言ってすいませんでした」と謝ったら、「君たちのアルバムだから、それでいいんです。セルフプロデュースでやってるんだから、それで間違ってないですよ」と返答されたと述べている。また新人バンドということもあり、ビクター側からプロデュースの補佐的な役割として、頭脳警察のパンタのサポートなどを行っていたキーボーディストの中山努が参加することとなった。 レコーディング中には演奏ミスなどもあったが、ビクターはそれを全否定することや、スタジオミュージシャンを起用し音源を差し替えるという提案をしなかった。BUCK-TICKが持っているものを活かしつつ、どうすればより改善されるのかという試行錯誤を真剣に検討してくれたと後にヤガミは述べている。特に、アルバムタイトルはもともとは性交を意味する英語の『SEXUAL INTERCOURSE』だったが、「あまりにもストレートすぎるから、『SEXUALXXXXX!』にしたらどう?』と提案された。「SEXUAL」とは英語で「性的」という意味であり、「SEXUAL INTERCOURSE」という言葉は収録曲である「SEXUAL×××××!」の歌詞の一部として使用されている。
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録音、制作
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「SEVENTH HEAVEN (BUCK-TICKのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
レコーディングがもう、イヤでイヤでしょうがなかった。曲は1日1曲書かなきゃなんないし、で、作ったら作ったでみんなに教えてレコーディング。家でやって、スタジオ入ってまた最初からやって、その繰り返し。で、取材だのライブだのがその合間に入ってきて。とにかく休みが欲しかった。 今井寿, SHAPELESS BUCK-TICK 本作のレコーディングは1988年2月13日から3月11日まで、音響ハウスおよびサウンドアトリエで行われた。レコーディングはコンサートツアー「東北ロックサーキット」と並行して進められたため、メンバーは東京のレコーディングスタジオとライブ開催地との往復に時間を要したほか、少ない空き時間にはテレビ番組出演や取材が入っていたために超過密スケジュールを強いられる事態となった。仕事が終わったメンバーは帰宅後すぐにベッドに倒れ込み、着替えもせず朝まで熟睡するような日々の繰り返しとなった。今井寿は本作のために多数のアイデアを持っていたが、時間の不足からまとめることが出来ず、ツアー先のホテルの部屋では曲作りに専念出来ないため四苦八苦していた。そのような日々の中で、締め切りに追われていた今井は自宅でデモテープ制作を行っていたが何日もまともに寝ていなかったため一瞬眠りに陥り、気が付くと寝ながらギターを弾いている自身に驚いたという。 前作『SEXUAL×××××!』リリースの4か月後にミニ・アルバム『ROMANESQUE』がリリースされ、その3か月後に本作のリリースが決定しており、アルバムのリリーススケジュールだけでもかなりのハイペースとなっていた。後のインタビューでは「忙しすぎてレコーディングの記憶が無い」と語るほど当時のメンバーのスケジュールは多忙を極めていたが、ビクターのスタッフからは「サザンも新人の頃はこれくらい忙しかったよ」と言われ奮起していたという。そのような状況にも拘わらず、本作ではインディーズ時代からあった曲は「…IN HEAVEN…」と「SEVENTH HEAVEN」の元となった曲のみで、他は全て新曲であった。そのために今井は1日に1曲を書かなければ間に合わず、またリハーサルは3時間で当日にスタジオで曲を合わせるという状態であった。前作まではスタジオに全員居合わせた状態でレコーディングが行われていたが、本作のレコーディング時には地方プロモーションの都合でメンバーが揃うのが困難となったこともあり、各パートを個別に録音して後で音を重ねる方法に変化したとヤガミトールは述べている。また、ヤガミは歌メロやどんな曲かも知らない状態でレコーディングした曲もあり、本作での自分のプレイに満足できておらず「録り直したい」と発言している反面、「楽曲に救われた」「これで楽曲が悪かったら最悪のアルバム」と述べている。さらに、地方のCDショップなどの予約特典として配布されるメンバーのサイン用色紙が5000枚用意され、ヤガミも1枚1枚サインを書いていたものの2000枚ほどで挫折、樋口は腱鞘炎になったほかにサイン書きのためにレコーディングが中断する事態となった。サイン書きにマジックインキを使用していたためスタジオ内はインクの匂いが充満していたという。 BUCK-TICKは後にLUNA SEAおよびSOFT BALLETと共にイベント・ツアー「LSB」を実施したが、本作にはSOFT BALLET結成前の森岡賢がキーボード担当として参加、また「FRAGILE ARTICLE」のコーラスにも参加している。ヤガミはレコード会社スタッフの秘蔵っ子であった森岡との出会いは重要であったと述べたほか、「森岡ちゃんのおかげで『SEVENTH HEAVEN』ができたところはある」と述べており、当時21歳であり自身より年齢が5歳年下であった森岡に関して、「貢献はホント素晴らしかった」と述べている。
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録音、制作
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「TABOO (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
結構勉強になりました。ギターに関して。おれとヒデのやるべきことっつうか。絡み具合、ギター・アレンジ……そういうところですごい勉強になった。レコーディングのやり方とかに関しては、まだ……全体を見られない。全体のアンサンブルとか、そういうところまで見れなかった。何が良くて何が悪いっていうのも、よく判断できなかった。 今井寿, SHAPELESS BUCK-TICK レコーディングは1988年9月2日から10月1日までロンドンで行われた。BUCK-TICKとしては初めてオーウェン・ポール(英語版)という外部の人物にプロデュースを依頼することとなった。本作はデモテープの段階でかなり作り込まれており、曲のイメージがメンバーに伝わりやすかったと樋口豊は述べている。今井寿はリズムボックスなどの録音機材が以前より良質なものになったことでニュアンスが伝わりやすくなったと述べている。 ヤガミトールは自著『ヤガミ・トール自伝「1977」』において、「俺たちは日本人のプロデューサーを付けたくなかったし、そういう色に染まりたくなかった」という理由でセルフプロデュースを続けてきたと述べ、本作制作時にはバンドの方向性も定まってきていたが、レコード会社の制作スタッフはそれはそれで「音楽性の幅が狭くなる」ことや「新しい刺激がなくなる」という問題が生じると判断し、UKチャート3位を獲得したこともあるシンガーソングライターであり新進気鋭のプロデューサーでもある、ヤガミと同い年であったスコットランド人のポールを起用することを打診してきた。実際に会った感想としてヤガミは「26なのに、頭の中にロックの教科書がすべて入ってるみたいな感じ」で「とんでもなかった」と述べたほか、同年齢とは思えなかったと発言している。 ポールはレコーディング前からメンバーに対して個別に「どんな音楽が好きで、好きなミュージシャンは誰か?」というリサーチを行い、メンバーからの回答によって「ちょっと暗めなイメージで、ドラムの音もバウハウス的というかデッドな方向」というレコーディングの方向性をあらかじめ決定していた。またポールとスタッフは「全曲作ってくること」と「きちんと練習してくること」を約束していたが、当時のメンバーは夏のイベントライブへの出演や取材などで練習ができず、超過密スケジュールであったことから事前の準備が何も出来ていないままロンドンに到着していたために、ポールと初対面でありながら「すぐ録れるような状態にしてくるって約束だっただろ!」と叱責されることとなった。また、詞が全く完成していなかったため、作詞はロンドンで行われた。その他、櫻井敦司はロンドンに「暗い」「退廃的」など自分なりの好ましいイメージを抱いていたが、いざ着いてみると毎日快晴でカラッとしており、「ちょっとがっかりした」と述べている。 ヤガミがドラムのチューニングをしていた際にポールから「NO! おまえはこのスタジオのことを何もわかっていない」と言われ、ポールはエンジニアと共に2人で2日かけてチューニングを行った。ヤガミが何故音決めに時間を掛けているのか尋ねたところ、ポールは「これがベーシックな(土台の)音になるからだ。俺たちはどんなに音が重なっても絶対に音が抜けるよう考えて、それぞれの音を作っている。だから時間がかかるんだ」と回答、メンバーは「なるほど。そういうところから音を組み立てていくのか」と感心した。また、今井はアルペジオが上手く弾けなかったが、ポールから「この指とこの指がちゃんと押さえられていないから音がビビるんだ」と教えられ、「もう本当に先生。ギターも普通に上手い」とヤガミは感心したと述べている。毛布を使ってドラムをデッドな音にするのもヤガミにとっては初体験のことであり、「今でもオーウェンに学んだ手法はいろんなところで活きてるよ。レコーディングもまずドラムの音をしっかり決めてから、その上に重ねていくし。それってロンドンスタイルを踏襲してるってことだよね」と述べている。また、今井はあまり人前で感情を表さないタイプのため、表現の大きい外国人にはテイクにOKを出した後に今井がそれに満足しているのかわからず、ポールは必ず「ヒサシはOKなのか?」と尋ねてきたという。ポールおよびレコーディング・エンジニアは共に卓球が趣味であったため、櫻井とヤガミは卓球をしながらスタッフとコミュニケーションを深めたと述べ、また櫻井とヤガミで卓球の試合をした結果ヤガミが勝利したと述べている。 ロンドンには1か月ほど滞在したが、『PATi PATi』や『B-PASS』などの雑誌編集者がロンドンまで取材をしに行ったため、実際にレコーディングできたのは20日ほどとなった。ヤガミは「田舎の方までロケに行ったし、ロンドンに行ってもこういうことをやるのかと思いつつ、音楽的には新しいことをいっぱい吸収できたから上機嫌」であったと述べている。「このままいけばいいアルバムになりそうだし、新しい刺激も受けてバンドもいい方向に進みそう。さらにバンドを取り巻く環境も絶好調」と思っていたが、本作を受けたツアー中に今井が事件を引き起こすこととなった。レコーディング中は1日しかオフがなく、その唯一のオフの日はメンバー全員でキングス・ロードに行くこととなった。しかし、前日のレコーディングが遅くまでかかったこともあり、行動開始が15時過ぎになったため、18時ごろには店が閉まってしまいたいした買い物ができなかったと述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:42 UTC 版)
「大瀧詠一 (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
大滝は、“アルバム”という呼び名は、もともとSP盤を束ねる入れ物がアルバムのように見えたのでそう呼ばれるようになったという話を耳にして以降、自分が作るならシングル盤6枚をリリースし、それらを集めてアルバム化したいと話していた。そしてソロ・デビュー・シングル「恋の汽車ポッポ」が『風街ろまん』からのシングル・カットである「花いちもんめ/夏なんです」と同じ日に発売された。そして、2枚目のソロ・シングル「空飛ぶくじら」の発売直前、三浦ディレクターがキング制作部教養課から独立して“ベルウッド”の設立に関係する。1972年2月17日 (1972-02-17)、ベルウッド発足記者会見が行われ、大滝はソロを継続する意味合いで参加する。その結果、1枚目はURC原盤、2枚目からベルウッド原盤という変則的な形で、「空飛ぶくじら」はベルウッドの3枚目のシングルとして発売された。三浦は出版をPMPに預け、大滝はここで朝妻一郎と初めて会うこととなった。 その後諸々の事情により“シングル6枚構想”は“ソロ・アルバム構想”に変更、大滝は2枚のシングルをとりあえず習作と考え、1972年4月 (1972-04)から新たにアルバム制作が開始された。そして、大滝にとって特に因縁の作品となった「空飛ぶくじら」はアルバムには入れなかった。なので、本来このアルバムのタイトルは「空飛ぶくじら」も入れて“乗合馬車”の意味で『オムニバス』となる予定だったが、シングル6枚構想が崩れた時点で『オムニバス』というアルバム・タイトルも消滅し、そこで考えられたのが自身の原点であるエルヴィス・プレスリーのデビュー・アルバムのタイトルだった。『ELVIS PRESLEY』というシンプルなものだったことから、このファースト・アルバムも名前だけの『大瀧詠一』となった。ただし、アーティスト名と区別するため、一般には『ファースト』と呼ばれている。
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録音、制作
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「MELLOW (氷室京介のアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
レコーディングはアメリカのアンドラスタジオ、マウンテンゲートスタジオ、ロイヤルトーンスタジオ、スタジオチェロの他に日本のソニースタジオ、サウンド・シティにて行われた。 レコーディングには前述のコンサートツアーにも参加したギタリストのスティーヴ・スティーヴンス、ドラマーのマーク・シュルマン(英語版)が参加している。シュルマンとの出会いはスティーヴンスが氷室と共にサンタモニカ付近のライブハウスにて行われたシュルマンのライブを見に行った事がきっかけとなり、氷室が非常に気に入ったためにツアーへの参加が決定した。 本作において氷室は初めてPro Toolsを使用して歌録りを行っている。収録曲の「ダイヤモンド・ダスト」に関しては、テレビ局のプロデューサーが氷室の大ファンであった事からドラマ主題歌として制作する企画を持ち込まれ、氷室がプロデューサーとの対話や台本を読んだ上でドラマ主題歌として制作される事となった。
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録音、制作
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フジテレビ系バラエティ番組『夢で逢えたら』(1988年 - 1991年)の主題歌制作の依頼が来たことが発端となり、UNICORNメンバーは各自で楽曲を持ち寄ることとなった。阿部義晴が制作した曲が後にミニ・アルバム『おどる亀ヤプシ』(1990年)に収録された「PTA〜光のネットワーク〜」、手島いさむが制作した曲が後にアルバム『ケダモノの嵐』(1990年)に収録された「自転車泥棒」、西川幸一が制作した曲は形にならず、堀内一史が制作した曲が『ケダモノの嵐』収録の「フーガ」となった。後の審査で「テンポがある曲」という基準に達したのが、奥田が制作した本作であったために主題歌として採用されることとなった。 しばらくライブなども行っていない時期であったため、レコーディング時に西川は腱鞘炎となった。そのためドラムスの音はハイハットなどをサンプリングして打ち込みした音が使用されている。しかしシンバルだけは川西がサンプリングにあわせ、生で叩いている。また、ドラマーが演奏時に声を出すことに倣って、西川に「プロッホゥ!」や「ヤプシィ!」など叫び声を上げさせてレコーディングしている。レコーディング時には西川をドラムセットに座らせて、マイク位置も通常通りにセッティングして行われた。最終的には叫び声のネタがなくなり、「イッ」とだけ叫んだ音声をカウベルが鳴る1か所にだけ入れている。
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録音、制作
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「BEAT EMOTION」の記事における「録音、制作」の解説
作った時のインパクトや、メロディアスなものをガンガンやっちゃおうってサ。逆に言えば、何も考えずに曲作りに専念したっていうかさ、アイディアよりも、メロディや曲自体をすごく大切にした。 布袋寅泰, ARENA37℃ 1986年12月号 レコーディングは1986年9月6日から23日まで新宿御苑にある老舗スタジオのテイクワン G&R スタジオで行われており、前作・前々作が日本国外でレコーディングやミックスを行ったのに対して、本作は全ての作業を日本国内で行った。また、前作が様々なスタジオでレコーディングされたのに対し、本作は一つのスタジオで集中して行われた。スタジオのロビーには麻雀卓が設置されており、リラックスした雰囲気の中でレコーディングが行われている。レコーディングには僅か18日間しか費やしておらず、ドラム、ベースは最初の5日間程で録り終えており、また1日で3、4曲は録り終えるほどバンドとしての力量が上がっている状態であった。その他、アルバムジャケットの撮影もレコーディング初日に行われた。リズム録りの終了後、松井はリンパ腺が腫れ高熱が3日ほど続き医者から入院を勧められる事態となった。 プロデュースは事務所プロデューサーであった糟谷銑司が務める事となり、音楽面に関しては前作に続き布袋寅泰がアレンジも含めほぼ全てを担当している。前作においてサウンド面で納得のいく「BOØWYの完成形」と呼べるアルバムを作ることが出来たメンバーが、今度は自分達の手法で商業面での成功である「チャート1位を狙う」目的でレコーディングを開始する事となった。ただ売れる事を目指す訳ではなく、プロのバンドである以上のケジメとして具体的に人に伝え広がっていく事に挑戦したいとの意図であると氷室は述べている。また、前作が作り込まれた作品であった事から、本作は「ライブハウス時代を思い出そう」というコンセプトでよりシンプルな4人だけでの演奏を追求した作品となった。しかし布袋の意向により、ゲストミュージシャンとして山下久美子やホッピー神山、矢口博康などが参加している。 松井は3枚目のアルバム『BOØWY』(1985年)に近い制作環境であったと述べ、布袋は前作が夢うつつや憂鬱などを表現し趣向を凝らした内容であったのに対し、本作では作曲時のインパクトやメロディアスな曲を大胆に取り入れる方向性で制作したと述べている。また布袋は前作とそれを具体化したツアー「JUST A HERO TOUR 1986」を経て本作に行き着いたとし、ツアーによってリスナーからのBOØWYに関する認知度が高まった事から「手のひらを見せたってかんじ」であると述べ、氷室はそれまでのライブで着飾った部分を見せてきた事からファンとの信頼関係を鑑みて「そろそろ肌を見せてもいい」と判断したと述べている。制作段階では本作をラスト・アルバムと想定していた事が明らかにされており、アルバムタイトルには全ての始まりとなった東芝EMIへの移籍前の1984年のライブツアーと同じ名称が使用された。
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録音、制作
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「悪の華 (BUCK-TICKのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
どちらかと言えば勢いとか、ストレートな感覚でグイッと引っ張っていきたくて。で、それならセルフ・プロデュースで、オレたちの身体の中とか気持ち的な部分をストレートに表現してみた方がいいんじゃないかな、と。 ヤガミトール, B-PASS 1990年1月号 本作のレコーディングは1989年9月から10月にかけて、ビクター青山スタジオにて行われた。本作では前作のように外部のプロデューサーを起用せず、BUCK-TICKによるセルフプロデュース作品となっている。セルフプロデュースとなった件に関してヤガミトールは、結果として前作は成功したが、本作では勢いやストレートな感覚を重視したためにあえてプロデューサーを起用せずに制作することになったと述べている。 今井による事件を受けて活動自粛していたことに関して、ヤガミはデビュー以来長期間の休暇が取れなかったため、前向きな形でBUCK-TICKについて考える時間が取れたことからBUCK-TICKの将来に向けて「絶対にプラスになるようにしたかった」と意気込みを述べていた。星野英彦は「落ち込まなかったと言ったら嘘になる」と述べながらも、いつ活動再開しても問題ないように準備を整えていたと述べ、樋口豊は同年夏頃からベースに触れることからスタートし、星野から譲り受けた古いギターで曲作りなどを行い、ヤガミとともに個人練習を始めるようになっていた。その後リリースは決定していなかったが、制作の欲求にかられたメンバーはスタジオ入りし、櫻井敦司は1枚目のアルバム『HURRY UP MODE』(1987年)レコーディング時のような雰囲気となったことから新鮮な体験であったと述べている。 いろんな方法で、いろんなチャレンジをしたかった。とにかく、ああいうやり方で作ったらどうなるかなとか、こうやったら面白いかもしれないとか。たくさんやってみました。 今井寿, B-PASS 1990年1月号 本作では初めて樋口が作曲を手掛けたが採用されなかった。また本作には収録されなかったが、シングル「悪の華」のカップリング曲「UNDER THE MOONLIGHT」にて初めて樋口が作詞を手掛けたほか、星野が初めて作詞した曲も収録され、メンバー全員が作詞を手掛けた初のアルバムとなった。星野は本作のために5、6曲程度制作しており、3曲が採用されることとなった。それまで星野は今井から機材を借りて曲作りを行っていたが、自身で8チャンネルのレコーダーやリズムボックスを購入し、本格的なデモテープ制作の環境を整えていた。今井は久しぶりのレコーディングということもあり、肩に力が入りすぎたためにメロディと演奏のバランスが崩れてしまったと後に述べており、前作のダークな要素にメロディを組み込もうとしたが意識しすぎたために「全体がギクシャクしてる」と述べたほか、「全体のトーンもちょっと地味」であると述べている。 謹慎期間に一切ドラムを叩いていなかったヤガミは、加齢による衰えも同時に発生したためにスタジオ入りした後も全くドラムが叩けず、樋口に対して「俺、もうダメだ。BUCK-TICKで叩く自信ねえ」と告げる事態となった。ギターなどは自宅でも練習が可能だが、ドラムはスタジオでなければ本格的な練習ができないことから演奏技術が瞬く間に後退するとヤガミは述べ、元々樋口に説得されて半ば強引にメンバーとなったヤガミはBUCK-TICKを手伝っているという感覚を当時はまだ持っており、いずれ高崎に戻って一般人として生活することを考えていたとも述べている。また、スタジオの帰りにはバイクに乗ったパパラッチに追いかけられるなど大変な出来事が多々あったとヤガミは述べている。
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録音、制作
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「SAMURAI GIRLS/ワイドルセブン」の記事における「録音、制作」の解説
2013年7月15日ごろ、アップアップガールズ(仮)のメンバーの関根梓が「SAMURAI GIRLS」のレコーディングを行った。今回、関根と佐保明梨の2人にはソロのラップのパートがあり、同曲の作詞・作曲・編曲を担当したmichitomoは「関根佐保関根佐保って交互に来る」と説明している。関根はラップ以外のパートでは問題なくレコーディングを進めていったが、ラップ部分では、1フレーズを収録するのにかかる所要時間が30分という状況で、予定時間内にレコーディングを終わらせることができなかった。その後、3日後に関根はレコーディングを終えた。michitomoは関根のラップについて「(ラップは)しゃべりじゃないから、どうしても関根さんしゃべりになっちゃう」と指摘した。また、佐保もラップ部分のレコーディングでは苦労したという。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:16 UTC 版)
みんなそれぞれの子供観で書いたんでしょうけど、それが自分の育ってきた背景を表してるみたいで興味深かったですね。(中略)今までの歌詞に比べて、もっと内面的なものが出ているんじゃないでしょうか。 西川幸一, ARENA37℃ 1990年12月号 本作のレコーディングは日本国内にあるサウンド・イン・スタジオおよびテイク・ワン・スタジオで行われた他、ニューヨークにあるエレクトリック・レディ・スタジオで行われ、同バンドとしては初の日本国外レコーディングとなった。前作のトラックダウンを目的として同地を訪れたメンバーは、国外でのトラックダウンの理由ついて、手島いさむは「知らないことを知るのは、なんにしても有益だと思います」、阿部義晴は「ミュージシャンとしての自然なながれ。勉強」、堀内一史は「いろいろなスタッフとやってみたかった」、奥田は「ジョーという外人がえらいのと、買物ができる」、西川は「おどる亀ヤプシは外人かと思ったので」とそれぞれ理由を述べている。 本作の制作に至った経緯は、CSAによるアンケート調査の結果、UNICORNは子供からの知名度がないことが発覚し、「母と子のためのアルバム」として制作されることとなった。西川は「子供にウケればあと10年は食えるんじゃないかと」、阿部は「子供を洗脳すればお母さんも聴くようになるし」、奥田は「子供というのは一番、最初に見たものを母親だと思いますからね。となれば最初に聴いたロックがユニコーンになればねぇ」とそれぞれ述べている。 本作は企画ものであり限定盤であることから「曲は自分達で作り、アレンジを外部に委託する」というコンセプトのもと制作された。歌詞は子供をイメージしたものが収録されており、堀内は自身が制作した「初恋」の主人公は小学生であり本作がコンセプト・アルバムであると発言している。西川は本作に関して「世の母と子に贈る問題作」と述べ、奥田は「まあ、2分でごはんを作っちゃいかんということです」と述べている。
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録音、制作
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SとNを使いたかったんですよ。S極とN極という正反対さを。最初は単なる『S/N』にしようかと思ったんだけど意味がわからな過ぎるから、もうちょっと何か無いかなと思ってたら、こういうぴったりハマる言葉があったんで。6と9も形的に正反対じゃないですか。 今井寿, 音楽と人 1995年6月号 本作のレコーディングは1994年12月から1995年3月にかけて、日本国内のスタジオ以外にもイギリスのマスターロックスタジオなどを使用し多岐に亘って行われた。1994年12月の段階で今井は7曲完成していたと述べており、「黙ってても曲が湯水のように溢れ出てくる」と豪語していたが、沢山あるアイデアをデモテープに落とし込む段階で手間取ったために制作に膨大な時間を要することとなった。そのためバンド史上最も制作が難航した作品となり、終盤にはトラックダウン、ボーカル録り、リズム録りを別々のスタジオで同時進行するという事態を引き起こした。作詞および歌入れを行った櫻井は後に「滑り込みセーフって感じです」と述べている。原因はアイデアが出てこなくなったわけではなく、出てくるアイデアを今井がまとめきれなくなっていったために作曲やアレンジ作業に行き詰まった結果であり、今井は星野英彦による制作曲ではギター演奏をしていない。今井は当初「楽園」のアルバムバージョンでは「絶対ギター弾こう」と思っていたが、気が付いた時にはトラックダウンまで終了しており間に合わなかったと述べている。また、星野は今井による制作曲において「限りなく鼠」以外はすべてギター演奏を行っている。 1曲目の「Loop」と最終曲の「Loop MARK II」はミックスを変えただけの内容であり、「Loop MARK II」に関しては曲順を決定する段階で、メンバーの誰かが制作すると言い出したために今井の関知しないところで収録されることになった。また「Somewhere Nowhere」に関しては、最後の音入れの段階で「Loop」に被せるための音を選定していた際に制作されたリズムを気に入った今井が土壇場で急遽1曲制作することを決定、周囲の人間に呆れられた今井は「1分で終わりますから」と説得して制作に踏み切ったと述べている。また本作の制作時間が膨大になった理由として、今井は曲のイメージに合わせて「4分15秒」など演奏時間を決めて作業に取り掛かり、実際の演奏時間が「5分20秒」など超過した際は録り直しを行っており、それらの作業にコンピュータを一切使用していなかったためであると述べている。その他、今井は本作において自身が斬新だと思える曲は「君のヴァニラ」「鼓動」「Somewhere Nowhere」「相変わらずの「アレ」のカタマリがのさばる反吐の底の吹き溜まり」「デタラメ野郎」であると述べている。アルバムタイトルは今井が決定しており、磁石のS極とN極から選択した「S」と「N」という文字を使用する意図があり、当初は『S/N』というタイトルが候補に挙がっていたが意味が分からないことから、さらに検討した結果数字の「6」と「9」が正反対になることで『Six/Nine』と決定されることとなった。 櫻井は本作にて様々な歌唱法を試しているが、自身が様々な歌唱法を試してみたかったことと曲が求めているキャラクターを考えながら考えて歌唱した結果であると述べている。デモテープ時と実際のレコーディングによって完成した音源は全く異なるものとなるため、櫻井は歌入れするまでに検討していたことはすべて一から再構築する必要性が生じると述べ、歌入れにおいて20回程度歌い直した曲もあれば3回程度で済んだものもあると述べている。また前作までのボーカルスタイルを破壊したいとの願望があったために日頃からノートに様々な言葉を書き留めていたが、結果としてノートに書かれた言葉は歌詞としては使用せず自身にとってリアルであり曲が持つキャラクターに合わせた言葉を選んで作詞したと述べている。
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録音、制作
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1986年の渡米時には歌詞の原型が出来上がっていた。当時ニューヨークに滞在中であった尾崎は、本作の冒頭にある歌詞の一節をノートに書いていた。1987年に逮捕された事で戸塚警察署に拘留され、その際に尾崎が署内で書き綴ったノートには「太陽の破片」というタイトルが付けられていた。その後ノートに書かれた一節を基に全体を作り上げる作業に入り、尾崎は制作途中の段階で歌詞を繁美に見せたが、その際にタイトルが「太陽の破辺」となっており、繁美にその事を指摘された尾崎は後に作詞用としてワードプロセッサを購入する事となった。この事が切っ掛けとなり、後にエッセイや小説の執筆を行う事となった。
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録音、制作
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「PANIC ATTACK」の記事における「録音、制作」の解説
『BOOM』では、テクニック的に追いついてなかったところもあるだろうし、やり方も違ってたけど、それより進んでみようと。実際想像以上にできたね。 川西幸一, ARENA37℃ 1988年8月号 レコーディングは1988年に音響ハウスおよびスターシップ・スタジオ、ソニー信濃町スタジオにて行われた。 川西はキーボーディストの脱退に伴い次作制作までの間にオーディションを行うと述べていた。しかしオーディションでめぼしい人材が発掘されず、本作のレコーディングが進行する中でサウンドスタッフとして参加していた阿部義晴が、5月25日に行われた名古屋市民会館でのイベントライブにて正式メンバーとして加入することとなった。阿部は前作のプロデューサーであった笹路正徳のサポートでシンセサイザー・マニピュレーターとして参加しており、本作のレコーディング中に感触を得たメンバーにより正式加入が決定された。しかしアルバムのリリース日はすでに決定していたため、アルバムジャケットには映っておらず、スタッフ・クレジットにおいてはSpecial Thanksとして記載されている。 奥田によれば本作は「明るいアルバム」を目指して制作された。川西は本作に関して、前作ではテクニック的に追いついていない部分があったため、本作では向上したテクニックを発揮したことと各パートの生音を活かすことを念頭にレコーディングを行ったと述べている。
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録音、制作
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1リスナーとしてボクがこのレコードを聴いたら次を聴く気にはならないと思いますね。 奥田民生, 月刊カドカワ 1991年3月号 音楽誌『別冊宝島724 音楽誌が書かないJポップ批評22 ユニコーン&奥田民生の摩訶不思議(ロック・マジック)』においてフリーライターの河田拓也は、UNICORNは川西による「プロを目指すバンド」という目標のために、コンテストを突破できる実力を持った技巧者による寄せ集めのメンバーによって構成されたバンドであったと述べている。また河田は、川西がインディーズシーンやストリートミュージックに対する関心が全くないために、当初は「売れ線」や「最大公約数」の曲を目的としており、作詞および作曲を担当していた奥田は目的のためにBOØWYやチェッカーズを足して2で割ったような、「取りあえずメジャー感のあるコードとフレーズで組み立ててみた」という「手堅く完成度の高い楽曲を書いた」と述べている。 本作のレコーディング時にはプロデューサーである笹路正徳からの要求に応じることにメンバーは精一杯であり、またレコーディングやアレンジの基礎的なことを笹路から多く学んだとメンバーは述べている。音楽誌『別冊宝島724 音楽誌が書かないJポップ批評22 ユニコーン&奥田民生の摩訶不思議(ロック・マジック)』においてライターの川口瑞夫は、本作から感じられる点として「彼らの飲み込みの早さであり、礼儀正しいアイドルみたいな優等生ぶりである」と指摘した上で、それこそが等身大のUNICORNの姿であるものの、「民生にとって、等身大のユニコーンは面白くも何ともないということなのだろう」と述べている。 書籍『114+4 UNICORN写真+作品集』にてディレクターである河合誠一マイケルは、本作のレコーディングが開始された頃にメンバーによる歌詞に対するミーティングが行われ、全員両親や世の中に対する不満はなく、所詮音楽は音楽であると割り切った上で、ありもしない絶望や怒りを歌詞のテーマにはしないという結論に到達したと述べている。
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録音、制作
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今はオリジナルなものってないんだから。自分たちでオリジナルなものを作り出すのは今では不可能なんですよ。だから、いろんなものから、そのオリジナルのものから、抜き出してきて、自分たちなりに組み合わせて作っていくしかないんですよ。 奥田民生, ARENA37℃ 1990年10月号 本作のレコーディングは1990年4月28日から5月8日にかけて、デジタル・スタジオおよびミュージック・イン、テイクワン・スタジオにて行われた。 ボーカリストである奥田民生は本作に関しては特別なコンセプトは立てておらず、曲独自の面白さを壊さないようにすることを心掛けたと述べている。また本作ではメンバー全員がボーカルを担当しており、奥田は曲を制作した本人が歌うことがニュアンスなども出やすいため理想であると思っていたが、その域に到達するまでには2年は掛かるとの自論から、次作からは全ての曲を自身が歌うと述べている。歌詞に関しては前作ほどの言葉のインパクトは求めず、その分煮詰めて中身が濃くなっていると奥田は述べている。 アルバムタイトルは前作がインパクトのあるものであったため、本作ではあえて普通のタイトルを目指してアルバム収録曲の中から厳選して決定された。本作にて奥田はアコースティック・ギターを中心とした音使いを目指していたが、キーボーディストである阿部義晴の意図によって結果的はそのようにはならなかった。本作では奥田が所有するリッケンバッカーやアコースティック・ギターなどが多用されている。また、レコーディング前に楽器店にてウクレレ、バンジョー、クイーカなど様々な楽器を購入している。そのほかにティンパニやマリンバも使用されたが、三味線の音はサンプリングとなっている。奥田は完全にオリジナルな音楽の制作は不可能であると述べ、既存の音楽から部分的に取り出して組み合わせることが必要であるとして、「いいかえればすべてがサンプリングとも言えるんですよね」と述べている。 音楽誌『別冊宝島724 音楽誌が書かないJポップ批評22 ユニコーン&奥田民生の摩訶不思議(ロック・マジック)』において音楽解説者の榊ひろとは、阿部がバンドマンとしてよりもアレンジャー的な資質に優れていると述べた上で「半ばグループの外部からオルタナティブな視点を持ち込める立場にあったようだ」と指摘し、阿部の立ち位置が初期ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズやレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズの役割を果たしていたと推測している。
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録音、制作
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5人になって、自分たちでほとんど決めて、オレらが崖に落ちそうになる所で、笹路さんが待ちんさい、こっち向きなさいというフォローを入れてくれるだけになって。 西川幸一, ARENA37℃ 1989年6月号 本作のレコーディングは1989年2月半ばより観音崎マリンスタジオおよびスタジオ・テイクワン、音響ハウス、サウンド・アトリエ、一口坂スタジオ、サウンドインスタジオ、ソニー信濃町スタジオと多岐に亘って行われた。 制作にあたっては従来のイメージを大きく覆すタイトルの『服部』が採用され、また制作方法も大きく様変わりした。メンバー全員が作詞・作曲を担当することとなり、演奏面でもボーカルの奥田民生以外のメンバーや、メンバーでない人物もリードボーカルとして歌唱している。奥田は「まわりの状況も見て」「ちゃんと自分らで考えて作れるようになった、最初のアルバムなんじゃないですかね」と述べている。このアルバム制作を通じ、UNICORNの歌詞や演奏フォーマットは従来のロックバンド的なものにとらわれないものとなった。奥田は「UNICORNが『服部』みたいな方向に行くようになった」のは、ディレクター河合誠一マイケルの影響が大きかったと述べている。手島いさむは本作のために12、3曲に及ぶ曲を制作しており、他のメンバーも全員作曲を手掛けたことから30曲以上におよぶ楽曲の中から絞り込みが行われた。西川は制作前に阿部の加入によって1枚目および2枚目のアルバムとはキーボードの存在意義を変えたいと発言している。 音楽誌『ARENA37℃』1989年6月号のインタビューにおいて堀内一史は、前作までは1曲づつ個別に聴かせる形で制作されていたが、本作ではライブを想定して最後の曲まで一貫して聴かせる形で制作したと述べており、奥田は最終曲の「ミルク」がアンコールをイメージしていると述べている。西川は1枚目のアルバムは状況が理解できないまま制作され、2枚目のアルバムは笹路のプロデュースから多くを学び、本作の制作では5人のメンバーでほぼすべてが決定され、行き詰まりかけた際に笹路からアドバイスを受ける程度になっており、次作ではセルフ・プロデュースも検討していると述べている。
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録音、制作
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10代の歌と20代の歌の自分自身での決別が、今回のアルバムでハッキリついたような気がする。新しい自分の方向がすごくクリアになってきた。 尾崎豊, Say good-by to the sky way 1992年 尾崎はディレクターとして前作に参加していた須藤晃との本作制作前の対談の中で、「ステージにしてもレコーディングにしても、僕は闘う兵士という感じでのぞんでいる」、「いつどんな時でも僕は独りぼっちだ」と述べていた。また、須藤は「僕は一人で闘っているんだ」という言葉が特に印象に残っていると述べている。須藤は本作の制作に当たり、「十代のころに話したことじゃなくて、最近の言葉をうまくまとめてみようか」と提案、それに対し尾崎は「時間がなければ、自由がない」という意味の『NO TIME, NO LICENSE』というアルバムタイトルを提案していた。当時の尾崎はMacintoshを購入し、コンピュータグラフィックスの制作に没頭していた。須藤は尾崎に対して「あまり閉じこもっていると、精神世界を彷徨いすぎて迷子になってしまうよ」と忠告したが、尾崎は「大丈夫です」と回答した上で、コンビニに買い物に行った際に前作でサックス担当であった古村敏比古と出逢い、サックスソロを気に入っていると告げると大変喜んでいたと述べた。また須藤が尾崎に「最近いちばん驚いたことは?」と尋ねた所、尾崎は「共産国家が次から次へと崩壊してゆくことかな」と述べ、さらに何故興味があるのかと尋ねた所、「自分の国が壊されていったときの国民の精神かな」と回答したという。尾崎は須藤に対し、度々ソニーを退所してアイソトープ専属となるよう要請していたが、マネージメントに関心がなかった須藤はこれを拒否し続けた。その後、尾崎は須藤と電話で連絡と取っていた際に「俺の金で家まで建てやがって」と突然言いがかりを付け決別、結果として須藤は本作に不参加となった。共同作業に当たったスタッフは極僅かであり、そのスタッフとも連携が取れなかった事から本作は尾崎一人の手によってレコーディングが進められることとなった。 前述の通りに本作では作詞、作曲だけでなく、プロデュース、ディレクション、アレンジ全てを尾崎自身が行っている。レコーディングは1991年末から準備が進められ、1992年1月から3月にかけて行われた。通常レコーディングは午後1時より行われていたが、社長業も兼任していた尾崎のスタジオ入りは午後3時から午後4時頃になることが多く、「すみません。遅れました」とスタッフに頭を下げてから開始されることが日常となっていた。尾崎による完成された音を確認する作業は深夜にまで及ぶことも多く、疲労によって寝てしまうことも多々あったが2時間ほど寝たのちに目を覚ました尾崎は「あ、ごめんなさい。もう少し頑張ります」と述べ朝の4時から5時、時によっては朝の7時まで作業が継続されることもあった。前作においてはレコーディング中に様々なトラブルを巻き起こしていた尾崎であったが、本作制作中には一切トラブルを起こさなかったという。また、尾崎はエンジニアとともにトラックダウン作業にも携わっており、曲中の雑音に気づいた尾崎が作業を中断させ確認するも、エンジニアには雑音は聞こえずさらに細かく音を拾っていくと極僅かな雑音が入っていたことから、エンジニアは「自信なくしちゃうな」と述べるも尾崎は「そんなことない。これは僕の曲だからね」と述べエンジニアの肩を叩いていたという。
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録音、制作
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「ハヴァナイスデー (UNICORNのアルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
空気も違うし、楽器も違うし、プロデューサーも違うしね。新しい環境に自分を置くことによって、生まれてくるものを期待していたから。 手島いさむ, ARENA37℃ 1990年12月号 本作のプロデューサーは、プリンスやビースティ・ボーイズなどを手掛けたミキシング・エンジニアのジョー・ブレイニーが担当、ブレイニーは前作においてもミキシング・エンジニアとして参加していた。 4枚目のアルバム『ケダモノの嵐』(1990年)は当初2枚組での制作を検討していたが、曲のコンセプトがはっきりと分かれていたために1か月ごとに別のアルバムとしてリリースするという形に変更となった。レコーディングはすべてニューヨークにて1か月程度で行われ、同バンドとしては初の完全日本国外レコーディング作品となった。楽器はすべて現地調達となり、また阿部曰く「いきおいのある物にしたかった」ことからほぼすべての曲が一発録りに近い形でレコーディングが行われた。 本作のターゲットを問われた際に、西川幸一は笑いながら「暴走族じゃないですか」と述べそれを受けて堀内一史は「キャロルの築いた」と述べたが、阿部義晴は「自分たちのためじゃないかな」と返答しニューヨークでのレコーディングを望んだことや様々な楽器を使用したいという願望があったことを述べている。また手島いさむはロックンロールにこだわった理由として、「シンプルじゃないですか。そのまんまだから自分が出せればそれでいいじゃないかと」と述べている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 20:29 UTC 版)
本作は、トレント・レズナーとアラン・モウルダーがプロデュースを努め、ニューオリンズのナッシング・スタジオで製作された。 ドラムはクリス・ヴレナに代わり、R.E.M.やミニストリーの作品に参加経験のあるビル・リーフリンや、2005年までツアードラマーを担当することになるジェローム・ディロンが参加した。 またツアーメンバーでもあるチャーリー・クローサーやダニー・ローナーも数曲で作曲に加わり、ギター等でも参加した。 ミキシングはアラン・モウルダー、マスタリングはトム・ベイカーが担当した。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:41 UTC 版)
「JUST ONE MORE KISS」の記事における「録音、制作」の解説
メジャー・デビュー後にアルバムを2枚リリースしていたBUCK-TICKであったが、シングル制作は本作が初となった。作曲を手掛けた今井寿はシングル曲であることを特に意識せず制作したと述べたほか、「BUCK-TICKっぽい曲にしたい」という考えで制作を行ったとも述べている。また、メロディーに関しても売れることやキャッチーさなどは全く考えずに制作したと述べており、ヤガミトールはBUCK-TICKの特徴的な要素を排除してまで売れる楽曲を作る必要性がないと当時述べていた。その他、今井は「バンドっぽさを出したい」というテーマを念頭に本作を3日間で制作したとも述べている。 本作の前にリリースされた3枚目のアルバム『SEVENTH HEAVEN』(1988年)がLPチャートにて1位を獲得したことに関して、作詞を手掛けた櫻井敦司は「ちゃんとしたものを作らなければっていう意識は前よりも強くなったかもしれない」と述べている。また歌詞に関して櫻井は、当初イメージしたのは「甘く切ない世界」であったが一度制作した歌詞が気に入らず、没にして新しく書き直しをしている。1日ないしは2日掛けて歌詞を書き直し、改めてレコーディングの仮歌として歌唱した時に、ノートに書いた状態とは異なりメロディーに乗せたことで「甘く切ない世界」が広がったと感じ、大変気に入ったとともに思わず涙が出たとも述べている。櫻井はそれまで歌入れの際に涙が込み上げたことはあったものの、実際に涙が出たのは本作が初めてであったという。櫻井は自身で手掛けた歌詞であるにも拘わらず「自分で書いた詞じゃないみたいなんです、不思議と」とも述べている。
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録音、制作
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「悪の華 (BUCK-TICKの曲)」の記事における「録音、制作」の解説
「悪の華」の詞っていうのは、映画の世界なのね。ある映画を見て、感じたものを自分の言葉にして書いてる。絶望の淵からはい上がってくるその架空の主人公が自分だとして、もう一人の自分がそいつに向かって言ってるんです。で、聴いてくれる人には、その主人公になってほしいんです。 櫻井敦司, B-PASS 1990年2月号 本作は作詞を手掛けた櫻井敦司が映画『気狂いピエロ』(1965年)を視聴し、主人公の境遇が自身の体験と重なり合う部分があると感じたことから、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』(1855年)から引用する形でタイトルが決定された。歌詞は同映画を見た櫻井が感じたことを自身の言葉で書いたものであり、聴いた人にも主人公になりきって欲しいと櫻井は述べている。櫻井は本作を映画の主題歌のような作品を目指して制作しており、それまでは1本の映画からの影響のみで作詞を手掛けたことはなく本作が初めてであったとも述べている。櫻井は制作において絶望的なイメージを追求することが本望であると述べ、映画『ルートヴィヒ』(1972年)を視聴した影響から、人からも自分自身にとっても自分は謎な存在でありたいと思うようになったとも述べている。
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録音、制作
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「十七歳の地図 (アルバム)」の記事における「録音、制作」の解説
彼はふつうの高校生ではあったけど、音楽的カン……ほとんどの人は最初のレコーディングでは声が出ないとか、マイクの使い方がヘタでうまく歌えないものなんだ……でも尾崎の場合はそういうカンがすばらしかった。やはり彼は生まれながらの表現者だったんだね。 須藤晃, 地球音楽ライブラリー 尾崎豊 プロデューサーは須藤晃が担当した。須藤はこの当時、浜田省吾、杉真理、村下孝蔵、国安修二、五十嵐浩晃、ハイ・ファイ・セットなどのアーティストを担当していた。須藤は当時オーディションに関心がなかったためほとんど関与していなかったが、「フォークっぽいから、須藤がやればいい」との会社の決定で尾崎を担当する事となった。本アルバムは全ての作詞、作曲を尾崎が行っており、編曲は佐野元春のバックバンド「THE HEARTLAND」のメンバーだった西本明や、浜田省吾のサポートを長年行っている町支寛二の2名が担当している。また収録曲の「ハイスクールRock'n'Roll」ではHOUND DOG所属の大友康平がコーラスとして参加している。 実際にレコーディングが始まるまでの間に須藤と尾崎とでミーティングが何度か行われ、いくつかの曲タイトルや曲構成などが変更されている。一例として「無免で…」は「15の夜」へ、「街の風景」は長すぎるという理由で歌詞を削られ5分程度に、「セーラー服のリトルガール」は「OH MY LITTLE GIRL」、「セーラー服」は「ハイスクールRock'n'Roll」へとそれぞれ変更された。その後、須藤はアルバムタイトルを『十七歳の地図』と決定し、尾崎に「十七歳の地図」というタイトルの曲を制作するよう指示、尾崎が実際に制作してきた「十七歳の地図」の歌詞を見て感嘆した須藤はようやくレコーディングに取りかかる事となった。正式なレコーディングが開始されるにあたり、須藤は尾崎が所属していた学校側に確認を行い、「海外に行ったりしなければいい」との返答を得る事となった。なお、レコーディング開始前に制作された曲は「街の風景」「15の夜」「十七歳の地図」「愛の消えた街」「OH MY LITTLE GIRL」「僕が僕であるために」の6曲であった。 無期停になって、学校生活から離れているときにレコーディングが始まった。青学というのはモデルや俳優の仕事をしている生徒が多くて、仕事に関してはまぁいいということで。外出禁止令は出てたんですけど、レコーディングはいい。それが唯一の救いで外出できるという感じだったですね。 尾崎豊, 月刊カドカワ 1991年6月号 1983年7月30日18時から、当時高校三年生であった尾崎にとって初となるレコーディングが開始された。尾崎は夏休み前に校内での喫煙や渋谷での飲酒、騒乱によって無期停学となっており、その期間にレコーディングが開始される事となった。7月30日から31日にかけて「愛の消えた街」、「15の夜」、「僕が僕であるために」が録音されている。当初はリズム録りが行われており、全体のメロディーとリズムを照らし合わせるため尾崎のボーカルも録音されていたが、その時のテイクがそのまま使用されている曲も多くある。 レコーディング開始に当たり、用意されていた曲は完成品に収録されている曲以外にも「ダンスホール」、「もうおまえしか見えない」、「野良犬の道」、「からっぽの疾走」などがあったが、須藤の判断によりこれらの曲はレコーディングされなかった。その後の打ち合わせの時点までは「ダンスホール」も収録曲候補として残っていたが、ジャクソン・ブラウンの「ザ・ロード」に似ている事から収録が見送られた。結果として、レコーディング準備の開始以前に制作された曲からは「町の風景」のみが採用され、残りの9曲は全てレコーディング準備が開始されてから制作される事となった。レコーディングも進み、終盤に差し掛かった所で須藤から「曲が足りないからバラードを1曲書いてきて」と要請された尾崎は、「I LOVE YOU」を制作する事となり、この曲が本作で最後に制作され、また最後にボーカル録りをした曲となった。レコーディング期間は4か月に亘り、10月にミックスダウンが行われ終了となった。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 10:16 UTC 版)
「ポケット カウボーイ」の記事における「録音、制作」の解説
本作は元々「サイン・ウェイヴ」という仮タイトルで制作が行われ、オーディオチェック用に流したドラムパターンを気に入った石野卓球がそれを基盤に楽曲を完成させた。デモテープを聴いたピエール瀧は本作を非常に気に入ったために自ら作詞することを申し出て、石野から「ポケット カウボーイ」というテーマだけ提示されて持ち帰ることとなった。しかし全く歌詞が浮かばず、乗車したタクシーが淡島通りを走行している際に突然歌詞が浮かび、慌てて運転手に紙とペンを貸してもらい作詞を行ったと述べている。 本作は歌部分を様々なパターンで録音し切り取った内容を繋げて構成されており、レコーディング時に全員で歌ったパートや砂原一人で歌ったパートなどをあみだクジのように繋げている。また途中の「ヘイ!」という掛け声の録音時に、全員で声を出すところを当時マネージャーであった道下善之以外は口裏を合わせ、本番では道下一人が「ヘイ!」と掛け声を行う形となり、実際にその音声がリリース版として使用された。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 09:03 UTC 版)
「FLASHBACK DISCO」の記事における「録音、制作」の解説
7枚目のオリジナル・アルバム『A』(1997年)リリース後、メンバーであった砂原良徳が音楽性の違いから1999年に入り脱退を表明した。そのため電気グルーヴは石野卓球とピエール瀧の2名となり、その後の活動に関しては手探り状態となったため、石野曰く「丸腰状態」であったことから自らの原点であるエレクトロおよびテクノ、ディスコをメインとした音楽性を志すこととなった。方向性が決定したことから、シンセサイザーの音を大量に入れてロボットが歌うようなニュアンスの曲制作を目指し、仮タイトルは「女子校ディスコ」とされていた。その後作詞の段階で、瀧はマイクに向かって「インベダー」「フラッシュ」などの叫び声を発したところ、石野が「ソレだー! 録ろう録ろう、いま録ろう!」と非常に気に入りレコーディングに取り掛かることとなった。 最初に完成したバージョンはカップリング曲として収録された「(Mr.) FLASHBACK DISCO」の方であり、当初は10分近くある長いバージョンのままでシングルカットを希望したが、所属事務所社長に聴かせたところ「オイ、この事務所終わるぞ!」「こんなもんが売れるかっ!」と猛反対されたという。その後実際に所属事務所は解散したと石野は述べている。結果としてシングルとしては曲時間を短くしてのリリースとなり、当初の10分近くあるバージョンはカップリング曲として全くの別曲として収録する予定であったが、その場合は会社の規定により価格が上がると言われ、「(Mr.) FLASHBACK DISCO」というタイトルの場合は同曲のミックス違いとなるため価格は据え置きになることからタイトルが決定した。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/08 13:55 UTC 版)
「Destiny's Prelude」の記事における「録音、制作」の解説
「Destiny's Prelude」のレコーディングは4月30日に行われた。レコーディング前日まで作詞を行った。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/28 11:09 UTC 版)
「Minori with Strings Quartet 〜弦楽四重奏の調べ〜」の記事における「録音、制作」の解説
演奏は室屋光一郎ストリングス。既存曲は全て新規レコーディング。レコーディングは10月6日から11月12日まで行われた。レコーディングでは波のように揺れ動く弦のリズムに乗ることに難しさを感じた。 「サクラピアス」は熱量のある曲なので短時間に集中して歌い上げた。 新曲「YELL 〜あなたのそばで〜」は、『Unification3 Melody feat Minori Chihara』に収録された「枯れない花」を思い出しながら制作を行った。自由に制作した曲であり、茅原がありのまま伝えたい事が込められている。
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録音、制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 17:20 UTC 版)
「恋 (茅原実里の曲)」の記事における「録音、制作」の解説
「恋」のレコーディングは8月27日に行われ、レコーディング時は恋モードを意識した。作詞は茅原が行い、恋する気持ち前回で臨んだ。「Come On!」のレコーディングは9月25日に行われ、元気な楽曲であるので体力勝負のレコーディングとなった。「あなたの好きなわたしで」のレコーディングは9月30日に行われた。コンペの中で茅原が選んだお気に入りの曲。作詞は茅原が手掛け、茅原の経験や体験したことが反映され、恋をした時に先走る感情や自分の理想をストレートに表現している。
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録音・制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/20 07:16 UTC 版)
表題曲はガールズバンド・赤い公園のメンバー津野米咲が書き下ろした楽曲で、「恋の罠は、愉快で切ないという曲です。舞さんを想って書きました」とコメントしている。録音も「赤い公園」がバックアップした。 表題は、「同じ穴のムジナ」などの悪い意味で使われる「狢(ムジナ)」の事だが、歌詞の一節に採用しただけで、曲自体は愛らしく切ないポップチューンとなっている。遠藤自身もタイトル名の印象と、その後に聴かされた曲調とのギャップに驚いたようである。
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録音・制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 20:46 UTC 版)
「Innocent Age (茅原実里のアルバム)」の記事における「録音・制作」の解説
茅原とプロデューサーが手応えを感じた21枚目のシングル「会いたかった空」を生かし、「“恋”が“愛”へ移り変わる気持ち」をコンセプトに制作された。ジャケット写真はシンガポールで撮影された。 アルバムタイトルの『Innocent Age』には、「純粋に人に恋をして、人を愛した時間」という意味が込められている。 2曲目「視線の行方」のレコーディング時は、曲を聴き終えた後にほっこりと笑顔になるようなイメージで行った。 4曲目「きみのせいだよ」の作曲を楠瀬拓哉が担当した経緯は、プロデューサーの斎藤滋の念願叶っての制作となった。また、茅原自身も10代にHysteric Blueの楽曲を聴いていたので、楠瀬が作曲を担当すると決まった時は驚きと嬉しさを感じたという。 5曲目「あなたの声が聴きたくて」のレコーディング時、歌の方向性で迷走してしまった時にディレクターに「自分のキャラクターソングだと思って唄ってごらん」と言われた事が衝撃的であり、悩みを打破する言葉になった。 7曲目「月のように浮かんでる」はコンペで選ばれた曲であり、デモを聴いた時にイントロのストリングスに衝撃を受け心を打たれたという。 8曲目「春風千里」は茅原が作詞に取りかかったときに、何かいい言葉はないかと言葉を調べていた時に見つけた言葉であり、「春風千里」自体の言葉の意味は「春風は千里先にも吹き渡る」という意味であったので、「この先どんなに離れていてもどんなに遠くても、いつまでもどこまでもあなたのことを好きでいます。」という思いを込めてタイトルをつけたという。楽曲もテーマの「嫉妬」という感情もハードだったので、レコーディング時は汗をたくさんかきながら行った。 9曲目「ラストカード」のレコーディング時は「最後のもう一歩がなかなか踏み出せないもどかしい気持ち」を描きたかったので、なるべくクリックは聴かず、ビートやリズムを感じて歌う事を心がけたという。 10曲目「Love Blossom」の制作途中、より優しさや温かみを感じさせたい為、木管でフルートとピッコロを入れたのが印象的だという。 11曲目「Dancin'世界がこわれても」は攻めた歌詞であるため、レコーディング時はエロティックな歌を目指し、西城秀樹を意識していたという。 12曲目「カタチナイモノ」は前半は心の弱さ、中盤から後半にかけては徐々に溢れる感情が止まらなくなり心がだんだん壊れて行くというイメージを持ってレコーディングに臨んだ。
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録音・制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 08:21 UTC 版)
「リッスン・ライク・シーヴズ」の記事における「録音・制作」の解説
『リッスン・ライク・シーヴズ』は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州シドニーにあるリノセロス・スタジオで、3ヶ月の時間をかけて制作された。収録曲の多くは、それまでも楽曲作りを組んでおこなっていたボーカルのハッチェンスと多くの楽器をこなすファリスの2人組によって書かれた。制作が大詰めを迎えた頃、トーマスはバンドに、決定的なヒット・シングルになる楽曲が欠けていると告げ、バンドの面々はそれを受けて数日間スタジオを離れ、その間に最後の1曲ができあがった。「クリス・トーマスは僕たちに、まだ「ヒット」がないぞ、と言ったんだ (Chris Thomas told us there was still no 'hit')」とファリスは後に回想している。「僕らはその晩スタジオを離れたんだ、まだ1日余裕があることも、とにかく「ヒット」を生み出さなきゃならないことも分かっていたから。プレッシャーをかけられたわけさ。(We left the studio that night knowing we had one day left and we had to deliver a 'hit'. Talk about pressure.)」ハッチェンスとファリスは、アルバム制作中にファリスが作曲したデモをひと通り聞き直した。まだ使っていなかったデモ素材の中から、残されていたデモの中から、トーマスは「Funk Song no 13」と題されていたデモを選び出し、これを基に曲を書くようふたりを説得した。「それは素晴らしい出来だった。<このグルーヴ感なら10分間は聴き続けられる>と思ったね。そこで、「このグルーヴでやってみよう」と言ったんだ。(It was great. I thought, 'I could listen to that groove for 10 minutes!' I said, 'Let's work with that groove)」とトーマスは述べている。INXSは、その後2日間このデモを基に曲を作り、最終的にこれがヒット・シングル「ホワット・ユー・ニード」となり、バンドにとって初めての全米トップ5入りを果たすことになった。
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