各題目および大要とは? わかりやすく解説

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各題目および大要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:35 UTC 版)

「遠野物語」記事における「各題目および大要」の解説

献辞 此書を外国在る人々呈す — 柳田國男献辞 『遠野物語』明治という時代日本関心が外へ向く時代にあって、その対極ある日本の山村目を向けた柳田周囲向けて送った言葉であり、清書本書き加えられ題名とこの献辞のみ筆で書かれていることから、清書本印刷所持ち込む最終段階加えられたものと考えられている。 序文 此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話し上手に非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷には此の類の物語数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人伝説あるべし。願はくは之を語り平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。 — 柳田國男序文 『遠野物語』近代化国是の基、あらゆる事象西洋的な解釈でもって説き伏せようとする明治にあって未だ前代的な精神生き続けている人たちが日本存在している「現在の事実」を当時の社会知らしんとする柳田考え書かれているこれまでの考え否定するのような都市部生活する一部の「平地人」に対す警告とも、あるいは山中には列島渡来民族とは異な先住異民族いまだに生存していると考えた柳田の、山人論を立証しようとする意気込み窺える物語の舞台1話遠野地理的情報、あるいは地名、歴史に関する解説陸中国上閉伊郡の西の半分、山に囲まれ盆地となった地域であり、明治22年1889年)から明治30年1897年)の間に旧再編され遠野土淵附馬牛松崎青笹上郷小友綾織鱒沢宮守達曾部の1町10となった近代までは西閉伊郡とも称され、さらに遡れば遠野保とも呼ばれた役所存在する遠野町は、鍋倉山にある横田城とも称される要害屋敷中心に小さく城下町としての外観有し山奥としては珍しい繁華の地として賑わいをみせていた。伝説では太古遠野の地は一円の湖であったとされており、またアイヌ語の「To(湖)」+「Nup(丘原)」に遠野語源があるという由来譚も存在している。 神の始(2話早池峰山 六角牛山 石上山 遠野三山 遠野の町は南北の川の落合にあり、以前七七十里として、月に6度開かれる市には7つ渓谷70里(およそ28km)の距離から売買のために商人1000人、馬1000頭が集まる賑わいをみせていた。周囲には遠野三山呼ばれる山々があり、早池峰山六角牛山石上山石神山)、これらには成り立ちに関する神話存在する大昔女神その3人の娘が遠野訪れ来内村伊豆権現のある所に宿った際、女神は娘達に最も良い夢を見たに対して良い山を与えると伝えたその夜深く天から舞い降り、姉の胸の上にこれが降りるも、末の娘目を覚まし、これを自分の胸の上に移すことで最も美しいとされる早池峰山手に入れた。そして姉達はそれぞれ六角牛山石上山得た草稿版には夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載無く、姉から奪うことで利益得たという妹の行為に対して柳田の手加えられたと考えられている。早池峰山はその経緯より、盗み働いた者がその発覚免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験得られる考えられ、早地峰信仰普及一役買ったとされている。また、これら3つの山は女神住まう山であるため、遠野の人たちは神罰恐れ戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり姥石牛石になってしまったという逸話残されている。 「早池峰山」、「六角牛山」、および「石上山」も参照 山人 I(3話4話5話6話7話神隠し(8話) サムトの婆伝承地 サムトの婆伝承地 黄昏時に子女が生活の痕跡そのまま忽然とその姿を消すという、各地にも類似の話がある神隠しに関する説話遠野物語では寒戸という場所で梨の木の下に草履残したまま娘が姿をくらました。その30年後、親類縁者が家に集まっているところ、突然姿をくらました娘が皆に会いたいからと再び姿を現した。かと思うと、また何処か去っていったとされている。 里での生活から突然居なくなるということは、その者と死別するということか、あるいは発狂して山野彷徨うか、異質な存在遠国の者にかどわかされるなど、さまざまな理由考えられる残された者達の悲しみや、諦め切れない苦しみ折り合いをつけるためにこういった話が残され、この事象山人よるものであると「6話」や「7話」では説かれている。また、人里から離れた場所にはいかなる危険や未知なる存在がいるものか解らないため、見知った場所で生活していくことの安全を諭す事にもこういった話が用いられてきた。 「寒戸の婆」も参照 母殺し(9話、10話11話) 境木峠 境木峠 菊池弥之助という、若い頃駄賃付け携わっていた者が遭遇した話では、道中薄月夜仲間とともに境木峠を通り白樺木々生い茂る大谷地というところに差し掛かると、谷の底から突然「面白いぞー」という叫び声聞こえたという。(9話) また、ある時、菊池弥之助がきのこを採りに入った山で夜を越そうとしていると、遠くから「きゃー」という女の叫び声聞こえたという。里へ帰ってみると、叫び声聞こえた同時刻には妹がその息子殺されていたという。(10話菊池弥之助の妹は母一人子一人の家にあり、息子が嫁をとるも、その嫁と姑の折り合い悪かった。嫁は度々親里帰って戻らないこともあり、次第息子孫四郎狂気募らせてゆき、ついには母を生かしてはおけないと大鎌研ぎ始める。この姿に尋常ならざるものを感じた母は事を詫びるも孫四郎はこれを聞き入れない。嫁も泣いて諌める取り付く島無く、母が戸外逃れようとするのを見つけると、戸を閉ざして屋内監禁した。日も傾く頃には母も終に諦め囲炉裏の傍にうずくまり、ただ泣いている孫四郎十分に研いだ大鎌を左肩目掛けて振り下ろす。すると、母は弥之助聞いたという悲鳴をあげた。一撃目は囲炉裏火棚引っかかりうまく切れなかったため、次いで右肩目掛けて振り下ろしたが、これでも絶命には至らなかった。騒動聞きつけた里の者達は息子取り押さえ警察官身柄引き渡すが、その際息子暴れて巡査追い回すなどした。母は滝のように血を流しながらも「おのれは恨も抱かず死ねるなれば、孫四郎は宥したまはれ」と懇願する様子見て駆けつけた者たちに感動しない者はいなかったという。殺人犯した孫四郎であったが、狂人であるとして放免され、家に戻って余生過ごしたという。(11話) この話には凶行に至るもその息子を宥す母、そして一連の騒動証人となる村人といった話の内容慈母譚の例を見ることができる。 乙爺(12話、13話土淵村山口 土淵村山口 土淵村山口新田という老人居りの者からは乙爺と呼ばれていた。歳は90近くで体を病み、いつ死んでもおかしくない状態であった。この老人は、遠野郷に点在する館の主に関する話、村の家々の盛衰伝承されてきた歌に関する話、山に伝わる伝説やその奥に住むという人の事などをで最も知っていたが、あまりに臭いため近寄って耳を傾けようとするものは居なかった。(12話) 乙爺は生まれ良い家柄であったが、若い頃財産失い家を傾けたため、世間との繋がり絶ち、山に小屋建てて数十一人生活していた。甘酒作り界木峠を通る人々売りに行くことで収入得ており、通る駄賃付けの者たちから父親のように慕われていた。時折収入余裕のあるときには町へ降りてきて酒を飲み赤毛布設え半纏着て、赤い頭巾被り町中踊りながら帰っていったものだが、警察にもこれを咎める者はいなかった。年老いてからは戻り子供たちは皆北海道へ移住してしまったため、独り残され12のような生活をおくり、明治42年1909年)の夏頃に亡くなった。(13話オシラサマ I(14話、15話) 部落に1軒は旧家があり、この家は大同呼ばれオクナイサマという神を祀っている。この神の像桑の木削って顔を型取り真ん中に穴の開いた四角い布を上から被せ衣装としている。正月15日には小字中の村人達が集まってこれを祭っている。また、オシラサマという神もいて、同様に桑の木から造られ正月15日には白粉塗って祭られることがある大同の家には必ず畳一帖の部屋があり、この部屋で寝るとを蹴飛ばされる、体の上乗られる、何者かに抱き起こされる部屋から突き飛ばされるなどされ、静かに眠る事ができない。(14話) オクナイサマ祀る家には幸せが多いという。土淵村大字柏崎長者阿部氏田植え行っていた時のこと。空模様怪しいことから早々に田植え行ってしまいたい考えていたが、人手足りず翌日に少し持ち越してしまいそうだ危惧していると、どこからとも無く背丈の低い男の子現れ田植え手伝うと申し出た昼飯時に差し掛かったので、食事とらせよう辺り見回すが姿が見えなくなっていた。しばらくするとどこからか再び現れサセ取り手伝ってくれたこともあって無事、その日のうちに田植え終える事ができた。主人感謝し夕食ご馳走する男の子誘ったものの、日が暮れて現れることは無かった。家に帰ってみると縁側小さな泥の足跡点々残されていて、家の中通ってオクナイサマ神棚の前で途切れていた。主人ゆっくりと神棚扉を開けてみると、オクナイサマの像の腰から下は田圃泥にまみれていてという。(15話) コンセサマ(16話) コンセサマを祀る家も少なくない。この神の神体オコマサマとよく似ており、石や木で男性器ってこれを祀るのだが、オコマサマの社は里に多く見られる最近ではその数も少なくなった。 コンセサマとは金勢様、あるいは金精様漢字充てられる男性器った精神で、生命力象徴悪霊邪気祓う力、あるいは縁結び子宝安産祈願などの加護得られる考えられ信仰されてきた。オコマサマ東北地方から関東にかけて馬の守り神として信仰されてきたが、祀られ当初は他の神を祀ったものとする考え方もある。多数駒形神社馬頭観音石塔などが存在する遠野名高い駒形神社附馬牛駒形神社であるが、これは中世阿曾時代蒼前駒形明神祀ったのが初まりとされている。この「そうぜん」という言葉やまとことばには存在せず駒形神社宗社である水沢駒形神社延喜式神名帳にも記載されている式内社で、原初山の神である水分神祀ったものであったという。こういった伝承により、本来の駒形の神というものは北方より伝来したアイヌ語における山の神関わりのあるものであったが、奥羽からアイヌ影響力失われていくと共にその原義失い何を信仰していたものかわからなくなったところに全国有数馬産としての必要性から馬の神としての神格与えられたものと考える説もある。いずれにおいても石や木でできた男性器神体とする点で同じであるが、コンセサマは主として女の神であるの対してオコマサマ馬の神であり、別の神格有している。『拾遺141516話などの話から佐々木喜善少なくない伝承柳田語った考えられるが、柳田の性の民俗に関する伝承考え方から、『遠野物語』取り上げられ内容極々概説的なものに限られている。 ザシキワラシ17話) 旧家にはザシキワラシという神様が住む事が少なくない多く1213歳ほどの童子で、時折人に姿を見せることもある。先日土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という家で、高等女学校で学ぶ娘が帰宅していた時のこと、廊下で男のザシキワラシ遭遇して驚いた事があったという。同じ山口に住む佐々木氏の家では、妻が独り縫い物をしている時に隣の部屋からなにやらガサガサ物音がするものだから板戸開いてみるも人影無く、しばらくは縫い物続けていたが、しばらくすると今度鼻を鳴らす音が聞こえてきたという。ザシキワラシが住む家は名誉も財産も思うがままだという。 詳細「座敷童子」参照左衛門家の盛衰18話、19話、20話21話ザシキワラシ女の子供場合もあるという。土淵村山口の、山口孫左衛門の家には童女ザシキワラシ2人いると伝えられていたが、ある日、同じに住む男が街へ出て、その帰り道渡ろうとしていると、向かいから見知らぬ童女2人歩いてくるのに出くわした2人なにやら考え事をしているようで、男はどこから来たのか尋ねてみると、山口の孫左衛門の家から来たとの事であった行き先尋ねてみると、ある豪農の家の名を答え、男はこれはおそらくザシキワラシであろう、孫左衛門の家もそう永くは無いだろうな、と思ったほどなくして、孫左衛門の家では主従20数名の毒にあたり死亡しその間に出かけていた7歳の娘だけが生き残ったという。(18話) 孫左衛門の家である日梨の木周囲見たことのない綺麗な生えているのに気づき、これを食べか否か男たち相談していた。孫左衛門あまりに綺麗なには毒があるものだ、と食べるのを止めるよう忠告したが、一人下男がどんなきのこであっても張ったにいれ、苧殻アサでもってよく廻してから食べればあたることはないものだ、と言うのでこれを信じて皆は食べることにした。命の助かった娘はその日遊び夢中で昼飯食べに家に戻らず、難を逃れたという。残された者たちが突然の主人死に動転している間、生前主人貸しがあった、あるいは約束をしていたなどと言う者が次々現れ、孫左衛門の家からは味噌の類まで持ち出されてしまい、このはじまっての長者であった瞬く間滅んでしまったという。(19話) これらの悲劇が起こる前にさまざまな異変があったという。下男たちが刈っていた秣を取り出そうと鍬で掻き出していると、その中から大きな出てきた。主人の孫左衛門殺さないよう下男たちに命じたが、下男たちはそれを聞かず勝手に殺してしまった。すると、秣の下からは小さなたちが次々と出てきたので、下男たちは面白半分にそれも皆殺しにしてしまった。それだけの数のともなると捨てる場所も無いので、下男たちは屋敷の外に蛇塚作り、そこに埋めたというが、埋めたの数は竹籠で何杯もの数になったという。(20話) 孫左衛門とはに珍しい学者で、京都より和漢の書を取り寄せて読みふけるような者であった親しくなることで家に富をもたらそう考え、庭に祠を設置し、自ら京都出向いて正一位神階得て日々油揚げ供えることを欠かさないなど、少し変人とも言われていた。そうして孫左衛門には慣れ、近づいても逃げたりせず、時には首を掴ませる事も許すほどに気を許すようになったというが、それを聞いた薬師堂守は、うちの仏様は何も供物捧げずとも、孫左衛門よりご利益があると度々笑いものにしたという。(21話) 丸い炭取り22話、23話) 佐々木氏曾祖母が年をとって亡くなった時のこと。納棺済ませわけあって気が触れたことで離縁になった娘もその日は家に集まり親族一同座敷眠っていた。喪に服す間は火の気絶やさずにいるのが慣わしのため、その夜祖母と母が常居囲炉裏の前で夜通し火の番務めていた。母が炭取り使って炭を継ぎ足していると、裏口の方からこちらへ近づいてくる足音聞こえてきたため、そちらの方へ目を向けると、入ってきたのは亡くなったはずの曾祖母であった。身に着け着物生前からの特徴そのままで、皆が眠る座敷の方へ向かって二人の座る囲炉裏の脇を通ると、二人は声もあげられず、曾祖母の裾に触れた丸い炭取りだけが、ただくるくる回っていた。母は気の強い人だったので、通り過ぎた曾祖母を目で追いかけると、その先座敷から、離縁になった娘の「おばあさんが来た」とけたたましく叫ぶ声が聞こえた寝ていた者は皆、その声に目を覚ましたが、ただオロオロと驚くばかりであった。(22話) その曾祖母27日逮夜のこと、夜更けまで知り合い縁者集まって皆で念仏をあげていた。用も済んで皆が帰り始めた頃、門口の石にまたしても亡くなった曾祖母の姿があった。後姿曾祖母特徴そのままだったので、見た者は誰もその存在疑いはしなかったが、なぜそこに居たのかはついに誰にも解らなかった。(23話) 大同の家(24話、25話) 旧家大同と呼ぶのは、大同元年806年)に甲斐の国から移り住んだことに由来しているという。大同坂上田村麻呂蝦夷征討時代であり、甲斐国南部家本国である。これらの伝説合わさってこのようないわれになたのではなかろうか。(24話) 大同祖先たちがこの地に辿り着いたのは年の暮れであった急いで門松こしらえたが、片方門松立て終わる前に年が明けてしまった。そのため、この家々では片方門松伏せたまま、注連縄を渡すことを吉例としているとの事である。(25話) 田中円吉(26話柏崎田圃のうちと呼ばれる阿倍氏遠野有数旧家であり、この家の先代彫刻巧みな者で、遠野一帯神仏の像にはこの者の作であるものが多い。 田中家当主代々円吉を襲名し二代目円吉も彫刻長けていた。題目の円吉は文化十年1813年)頃の生まれ明治26年1893年)に亡くなった八代目で、土淵村本宿石田家からの養子考えられている。明治以前常堅寺京都から仏師招いて十六羅漢延命地蔵を作らせた際に仏像彫刻技術会得したという。この者の作品には土淵村山口にある薬師堂十二神将常堅寺地蔵菩薩早池峰神社神門随神像、田中家薬師如来などがあり、常堅寺仁王像移転にも関わっているという。田圃のうちの屋号を持つ田中家がなぜ安倍氏名乗ったのか、その理由明らかになっていない池端石臼27話) 原台の淵 池端石臼 遠野にある池端という家の先代主人宮古用事があってその帰り道閉伊川の辺、原台に差し掛かったあたりで若い女出会ったこの女は「遠野物見山中腹にある沼で、沼に向かって手を叩けば宛名のものが出てくるのでこの手紙を届けてほしい。」と頼むので、主人は訝しがりつつもこの頼み引き受けた引き受けたとはいえ怪しく思いながら道を進んでいくと六部行き会い、事の経緯説明する六部手紙の内容読み主人に「この手紙をこのまま持っていけばあなたに大変な災い降りかかるだろう」と言って手紙の内容書き換えた。この手紙を持って言われたように主人物見山中腹にある沼で手を叩くと、若い女出てきてその手紙を受け取った。女は読み終えると主人労いお礼にと小さな石臼主人手渡した。この石臼米粒一粒入れて回すと1枚黄金出てくる不思議な石臼で、みるみるうちに池端の家は立派になった。だが、強欲な妻はそれに満足せず主人留守合間たくさんの米を入れてたくさんの金を得ようとした。すると石臼ひとりでに廻り続け傍らにあった主人毎朝石臼供えた捨てていた水溜り沈んでいき、そのまま見えなくなってしまった。その水溜りは後に小さな池となり、池端という名はこの出来事端を発しているという。 山人 II28話、29話、30話、31話) 畑屋の縫32話) 仙磐山 片羽山 権現山 畑屋の縫 千晩ヶ嶽山中には不思議な沼がある。この沼から湧き出る水のせいか谷一帯は生臭いにおいが立ち込め、山に入って帰ってきた人は何人も居ないという。昔、何の隼人という猟師山中で白い鹿を見つけたのでこれを追っていくと、鹿は谷を越え、山を越え、この山へと逃げ込んでいった。隼人来る日も来る日も辛抱強く鹿を待ち続け、千晩がたったころついに鹿を見つけた。鹿を撃つと鹿はさらに逃げていくが、次の山で片足折れて舞い戻った千晩ヶ嶽で終に息絶えた。このことから隼人が千晩待ち続けた山を千晩ヶ嶽と呼ぶようになり、鹿の片足折れた山を片羽山絶命した場所を死助と呼ぶようになった死助にて死助権現として祀られているのはこの白鹿だという。 この話は三山由来譚であり、その舞台となったのが千晩ヶ嶽現代における釜石市の仙磐山となる。「縫」は「鵺」とされることもあり『拾遺』や『聴耳草子』などに多く取り上げられ題目畑屋の縫に関する伝承遠野市上郷町細越小字である畑屋伝わっている。この地には「縫」を祀ったとも、殺めた「畜霊」を祀ったとも云われる畑屋観音堂があり、その棟札には延宝六年(1678年)に機屋村高縫之介から頼まれ中沢村工藤氏藤九郎参拝行った京都仏師から買い求めこの年5月14日購入し同月29日届けたものと記されている。この時高橋縫之介は31歳であったという。また、釜石市甲子町には千晩神社があり、その由緒によると勧請されたのは文禄二年(1593年)頃で、次のような伝承がある。 元文三年1738年機屋ノ奴ハ国守ノ命ヲ受ケ千晩山ニ九百九十九日籠リ将ニ千日ニナラントスル暁、千晩様ノ御告ニ依リ国守所望広ノ大鹿見付ケ之レガ俊足ノ蹄ヲ狙ヒテ少シモ傷ツケスニ射止メテ国守ニ献セリト云フ、其ノ際機屋ノ奴ノ使用セシ鍋ヲ千晩ニ納メタリト云ヘトモ今ハ無シ —  釜石市文化財報告書 第十五集『歴史の道甲子道と小川新道」』 中世遠野阿曾沼氏に代わって南部氏南下して支配する一方北上する仙台伊達氏との間で境界にあった旧領主であった阿曾沼広長や新支配者鱒沢左馬之助などと伊達藩の間には三度戦闘があり(平田赤羽根峠坂峠の戦い)、さらにその後小友赤坂金山支配権巡り南部伊達との境は緊張状態続いた。それを受け、藩境を明確にするために藩境塚設置され、御境古人任命された。元禄10年1697年)に記された「遠野領における境論争有無についての書上」には盛岡出頭した古人7名の中に鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」という名があり、文書に「縫殿」という名が確認できる。あるいは、享保七年1722年)の「御境古人由緒書上之事」に寄るところ、遠野領の藩境には小友五輪峠から仙人峠仙人堂までに7人の古人充てられ、その中にはたや六左衛門七十五という人物書き記され高橋縫之介とはたや六左衛門はいずれ慶安元年1648年)に生まれたことになる。これらの事から「百姓縫殿」と「高橋縫之介」と「はたや六左衛門」は同一人物考えられている。 仙磐山は鉱物標本とも言われるほどの鉱産地であり、その開山譚の背景には六角牛山片羽山権現山五葉山らに深い関わり持った畑屋の縫」がいたのではなかろうかとも考えられている。 白望山33話、34話、35話) 離 白望山 白望の山で野宿をすると、深夜であるにもかかわらずあたりがぼんやりと明るくなる事があるとされ、秋にを採りに入った者達が遭遇する事が多い。あるいは、同じく真夜中であるにも関わらず、谷の向こうで木を切り倒す音や何者かの歌声聞こえてくることもあるという。その他にも、5月刈りに山に入った際、遠く満開桐の花咲いている山があり、たくさんの人がその木を間近見ようと山に入ったが、誰一人として木の生えた場所まで辿り着くことはできなかった。また、山奥で金の杓子見つけた者がいて、持ち帰ろう試みたというが、あまりに重く持ち上げる事が出来ないしかたがないので、持ち合わせた鎌で削って持ち帰ろうとするも、鎌の刃がこぼれるだけで傷つけることもできないしかたがないので一度直そうと、木に傷を付けながら帰っていき、翌日に人を連れて再びその場所を目指したが、再びそこへ辿り着くことはできなかったという。(33話) 白望の山の峰続きに離という土地があり、そこの小字である長者屋敷という場所はまった人気の無い場所であるが、そのような淋しい場所であっても炭を焼いている者がいる。ある夜、髪を二つ分け長く垂らした女が炭焼き小屋の中を覗き込んでいたという。この辺りでは深夜に女の叫び声聞くことは少なくないという。(34話) 佐々木氏祖父の弟が白望の山にを採りに行き夜に野宿していた時のこと、谷を隔てた向こう横切って長い髪振り乱した女が走っていくのが見えた。まるで飛んでいるかのように見えるも、すぐに消えてしまったが、その際待てちや」と二声ばかり声が聞こえたという。(35話) (おいぬ)(36話、37話、38話、39話、40話、41話、42話) 境木峠 境木峠 遠野ではの事を御呼び経立もそうであるが、経立もまた恐ろしいものである。ある雨の日小学校から帰る子供が、山口に近い二ツ石山所々うずくまっているのを目撃した正面から見ると生まれたての子馬ほどの大きさ見えるが、後ろから見ると存外小さい。とはいえ呻き声ほど恐ろしいものはない。(36話) 昔は境木峠と和山峠の間で駄賃付の者がしばしば遭遇したという。夜に峠を越える時にはたいてい10人くらいで行動し1人あたりの引く馬は一端といって5、6頭から多くても7頭、全体で馬の数は4~50程度になる。ある時、駄賃付の集団が2~300匹ほどの襲われた事があり、その足音は山も鳴り響くほどで、あまりに恐ろしく、馬も人も一ヶ所に集まって火を焚いて襲われないようにした。それでも火を飛び越えてようとするがいるので、馬の綱を解いて周囲張り巡らしたところ、は訝しがり、それ以上襲いかかってはこなかったものの、朝まで周囲吠え続けていた。(37話) 小友に住むとある老人が町出て、その帰りの事。鳴き声聞こえたので、酔っていたその老人はその鳴き声真似てみたところ吠えながら後を付いてきたという。さすがに恐ろしくなった老人急いで家へ帰り、戸を堅く閉ざして息を潜めていたが、一晩中鳴き声は止まなかった。夜が明けて外へ出てみると、馬屋土台の下に穴を掘り、7頭いた馬が全て食い殺されていたという。それからこの家は身代傾き始めたと云われている。(38話) 佐々木喜善幼い頃祖父2人山から帰る際、近くの川の崖の上大きな鹿が倒れているのを見た事があるという。その鹿の腹は食い破られ死んで間もないからかそこからは湯気立っていた。祖父はこれはがやったのだろう、この鹿の毛皮欲しいが、近く潜んで見ているからこれは取ってならない、と話したという。(39話) 三寸(9センチ強)もあれば草むら身を隠す事ができる。草木の色の移ろいあわせて体毛季節ごとに変わっていく。(40話) 和野佐々木兵衛が、秋も終わり近づき木の葉散って山もあらわになった時期境木越え大谷地狩り行った時のこと。向かいの峰から何百頭ものがこちらへ向かって走ってくるのが見えたため、恐ろしくなってこれをやり過ごそう木に登ると、群れ木の下足音響かせ、北を目指し走り去っていった。その頃から遠野野山からはの数が目立って少なくなったという。(41話) 六角牛山の麓にヲバヤ、板小屋という場所がある。ある年の秋、飯豊村の者が刈りにこの場所に行った際、岩穴中に子供が3匹いるのを見つけ、2匹殺し、1匹を持ち帰った。それからというもの、は他のの馬を襲うことなく飯豊村人の馬を襲うようになった困った飯豊村人狩りを行う事にし、その中には普段から力自慢通ったという男もいた。探し草原まで行くとそこには数匹のがいたが、雄の警戒して遠くから様子伺っていたが、雌の飛び掛ってきた。とっさに脱いだワッポロ(仕事着)を腕に巻き狼の口の中へ突っ込むと、は腕に噛み付いてきた。加勢求めるも皆恐れて近寄れず、は腕をの腹にまで押し込みその場死んだものの、鉄の腕の骨を噛み砕き程なくして亡くなったという。(42話) 熊と「熊」(43話) 上郷村に熊という男が居た。あるの日、知人とともに六角牛山狩りに行くと、谷深入った場所でクマ足跡見つけたため、これを追うことにした。熊が峰を進んでいくと、岩の影にクマがいるのを見つけたその時、すでに銃を構えるには近すぎる距離のため、熊は銃を捨てるとクマ掴み掛かっていった。知人は熊を助けようとするも、ただ斜面転がり落ちていく様子見届けることしかできずにいた。やがてそのままの状態で谷川落ち、ちょうど熊が下になった状態であったため、その隙を見計らってクマ討ち取る事ができた。熊は溺れることも無く、爪の傷跡はあったものの、命に別状無く、この出来事一昨年遠野新聞明治39年11月10日遠野新聞第13号)にも取り上げられるものとなった。 この話では熊はクマ格闘してもほぼ無傷生還した屈強なと書かれているが、新聞記事内容とは異な部分いくつかある。遠野物語では知人2人六角牛山入ったとなっているが、遠野新聞では篠切の季節旧暦10月から降りはじめる季節)に佐藤末松筆頭とする7~8人からなる一団沓掛山遭遇した事件とされている。熊と呼ばれた畑屋次郎負傷目も当てられない態となり、着衣ずたずたに裂けクマ噛み付こうとした際に拳を口に押し込んで難を逃れたために手は酷い有様で、発行時点でも治療を必要としていたとなっている。あるいは、次郎近所に住む高橋金助証言によれば、こちらは怪我負ったものの、病院へ行く必要があるような状態では無かったとされており、新聞では読み物として面白くするために誇張されていたのではないか考えられている。 経立(ふったち)(44話、45話、46話、47話、48話) 林崎 経立(ふったち) 六角牛山峰続き野というがあり、その上にある金鉱使われる木炭焼いて生計建てていた人達の中に笛のとても上手な者がいた。ある日、昼の間に小屋寝転んで笛を吹いていると、小屋入り口なにやら気配がしたのでそちらを見てみるとそこには経立がいた。驚いて起き上がると、おもむろに走り去っていった。(44話) 経立は人と同様に女を好み、里の女性さらっていく事があるまた、毛を松脂固めその上に砂をつけているため、体毛は鎧のようになり鉄砲の弾も通らない。(45話) 栃内林崎に住む何某という50歳に近い男が、10年ほど前に六角牛山へ鹿撃ち行った時の事。鹿を呼び寄せるためにオキ鹿笛)を吹くと、経立が姿を現した。笛の音を鹿の鳴き声思ったのか、大きな口を開け、竹を掻き分けて峰を下ってくるので驚いて笛を吹くのを止めると、経立もそれに気づき谷のほうへ走り去っていった。(46話) 遠野では子供戒める際、六角牛山さんの経立が来る、とよく聞かせる。この山にはそれほど多く、緒桛の滝を見に行けば、崖のにはたくさんのがいる。中には人を見ると、逃げながら木の実などを投げつけてくるもいる。(47話) 仙人峠にもがたくさんいて、旅人などに石を投げつけて楽しむもいる。(48話) 仙人堂(49話) 仙人峠 仙人峠 仙人峠登り15里、下り15里あり、その中間地点には仙人の像を祭ったお堂がある。そして、このお堂の壁は旅人たちが山中遭遇した不思議な出来事を記すのが昔から慣わしとなっていた。例えば、何月何日夜に越後から来た者が山中で髪を長く垂らした女に遭遇したところ、女はこちらを見てにこっと笑った。あるいは、いたずらをされた、三人盗賊遭遇した、といったことが書き記されていた。 実際遠野側の沓掛からと釜石側の大橋からでは、大橋からの方が2倍弱の距離があり、厳密に中間地点ではない。この峠には仙人が住むと伝えられ昭和に入ってからも団体写真撮れば1人多く写ると云われてきた。昭和10年代遠野市川によって雨風がしのげる程度の堂が奉納されその後トンネル開通したことにより人通り少なくなってからは仙人堂の本尊上郷町生田へと遷された。 花 いろいろの50話、51話、52話53話) 死助の山には5月閑古鳥鳴く頃になるとカッコ花が咲き遠野の女や子供達はこれを採りに山へ行く。酢に漬けておけば紫色になり、酸漿実のように吹いて遊ぶこともあり、若い者達の恰好娯楽となっている。(50話) 山には様々な生息しているが、最も寂しい声で鳴くのはオットである。夏の夜中に大槌町の方からやって来る駄賃付けの者などが峠を越える際、谷底の方から聞こえてくるという。この泣き声には謂れあり、かつて長者の娘が親しくしていた男と山へ行った時のこと、気がつくと男の姿を見失ってしまったという。娘は夜になるまで探し続けたが、結局見つける事ができず、終にになり、哀れな泣き声探し続けているという。(51話) 馬追ホトトギス似ているが少し大きく、羽の色は帯びた赤で、肩には馬の綱のような縞が、胸の辺りにはクツゴコのような形がある。このにも謂れがあり、ある長者奉公人が山へ馬を放し行って帰ろうとすると1頭足りないことに気がついた。夜通しなくなった馬を探して山を彷徨うが見つからず終にはになってしまったという。馬追は「アーホー」と鳴き、この地方では馬を追う際に似た声を上げるのだという。また、この時折里に来て鳴く事があるというが、これは凶作前触れとされている。(52話郭公時鳥前世姉妹であった伝えられている。ある時、姉が掘った焼き周り堅い部分自分食べ真ん中部分を妹に与えた。すると、妹は姉がおいしい部分独り占めしているものと考え憎らしくなり姉を包丁殺してしまった。姉はになり、方言堅い部分意味するガンコガンコ」と鳴いて飛び去ってしまった。妹は姉が自分によい部分をくれていたのだと気づく悔恨さいなまれ同じくとなって包丁かけた」と鳴いているのだという。(53話) 閉伊川機織淵54話) 小国川閉伊川合流地点 閉伊川機織淵 閉伊川流域には淵が多く、これにまつわる伝説多数残されている。小国川との落合川井というがあり、そこの長者奉公する男が淵の近くで木を切っていると、誤って淵に斧を落としてしまった。主人の斧を無くしてはいけないと、男は淵に潜って斧を探していると、水底近づくなにやら物音聞こえてきて、この音のする方へ近づいてみると、岩陰に家がある事を発見した。家を覗いてみると中では美しい娘が機を織っており、機織台の傍には落とした斧が立てかけてあることに気がついた。斧を返してもらうよう声をかけると女は振り返りその女は2~3年前亡くなった長者の娘であったという。「斧は返すので、私がここにいることは誰にも言わない下さい約束するなら財産増やしてさしあげます」と女が言いそれ以降、男は博打で勝ち続け自分田畑持てるくらいに豊かになったという。しばらくその女の事も忘れて生活していたが、ある日町へ出る際、その淵の近く通りかかったものだから男は連れ立った友人その事をつい口にしていしまうと、あっというまにその話は村中広まってしまい、その頃から家産傾き始め終いにはまた長者の下で奉公する生活に戻ってしまったという。この話は長者の耳にも入り長者何を思ったのか人を使ってその淵に熱湯注ぎこませたというが、淵は特に変化無くそのままあり続けているという。 河童55話、56話、57話、58話、59話詳細は「河童」を参照 鉄砲撃ち(60話、61話、62話) 和野の嘉兵衛爺が雉子撃とう雉子小屋待ち構えていると、雉子はやってくるが、その度現れてこれを追い払ってしまう。嘉兵衛憎らしくなり、このを撃つことにした。がこちらを向いて涼しげな顔をしているので狙い定め引き金を引く火薬に火が点かない。胸騒ぎがしたので銃口除いてみると、いつのまに銃身には土が詰められていた。(60話) 嘉兵衛六角牛山入った際、白鹿出会った事があるという。白鹿神の使いと言われており、殺せば必ず祟りがあると考えられていたが、この機を逃せ世間から嘲られ名が廃るとも思い、これを討つ事を決めた手ごたえがあるにもかかわらず撃った白鹿微動だにしないため、胸騒ぎがし、常日頃から魔除けとして携えている黄金弾丸取り出し、これに巻きつけて撃つが、それでも鹿は動かないさすがに怪しく思い、近づいて確認してみると、鹿の形によく似た白い石であったという。数十年山で猟師生計をたててきた者がこんな見間違いをするはずが無い、何か魔性のものに誑かされたと思い、この時ばかりは猟師辞めよう考えたという。(61話) 同じく兵衛は、夜の山中で赤い僧衣を纏った者に遭遇した事があるという。夜の山中小屋作る時間無かったため、適当な大木の下で、周囲三途縄を巡らせて銃を抱えてまどろんでいると、真夜中に突然物音がし、僧侶恰好をした者が衣を羽ばたかせ、その木の飛び掛ってきたという。嘉兵衛身構えて銃を放ったものの、その者は中空を羽ばたいて何処か去ってしまった。三度恐ろしい出来事遭遇しその度猟師やめようかと考え氏神願掛けなどもしたが、結局思い返して年をとるまで猟師辞める事ができなかった、と人には語っていたという。(62話) マヨヒガ63話、64話) 小国 金沢 山崎 マヨヒガ 小国三浦某という家は、今でこそ一番の金持ちだが、2~3代前は貧しい家であった。この家の妻は魯鈍な人だったが、その妻がある日、角前を流れる川を遡って、山まで取り行った時の事。あまりよいがないものだからついつい山奥まで入り込んでしまうと、山中立派な黒い門の家があることに気がついた。訝しがりつつも家の中入ってみると、大きな庭には紅白の花が咲きがたくさ放し飼いになっていた。家の裏手に回ってみると牛小屋にはたくさんの牛がいて、馬舎にはたくさんの馬がいる。しかし、どこにも人の気配はしなかった。家人はいないものだろうか、と妻は玄関向かってみると、奥の間にはと黒の立派な膳椀がたくさ用意されており、隣の座敷では火鉢鉄瓶の湯が沸いているにもかかわらず、それでも人の気配を見つけることはできなかった。もしやここは山人住居なのではないだろうか、そんな考え頭をよぎると妻はとたんに恐ろしくなり、急いでその場所を立ち去った無事に家に着いたので、この出来事を人に話してはみたが、信じるものは誰もいなかった。後日、角前で洗い物をしていると、とても美し流れてきたので妻はそれを拾い上げた美しではあるが、食器として使おうと言えば汚いと叱られる思ったので、妻はこれをケセネギツに入れて、ケセネ(雑穀)を計るのに使うことにした。それからというものの、いつまでたってもケセネは無くならず、そうして三浦家は今のように豊かなになったという。遠野ではこのような山の中の不思議な家をマヨヒガ呼びマヨヒガはその者に富を授けるために現れ、そこに行き着いた者は家畜でも道具でも、何かしら家の物を持ち帰るよう伝わっている。この妻の場合では、女が無欲であったため、が自ら妻のところまで流れ着いたものと云われている。(63話) 白望の麓にある金沢村は、上閉伊郡中でもとりわけ山奥にあるため、人の往来はとても少ない。6~7年前、このから栃内のある家へ婿に行った者が、実家帰る道中、やはりマヨヒガ行き当たった家屋様子、牛、馬、といった家畜がたくさんいること、紅白の花が咲いていること、それら話に聞いたままであった。話に聞いたように家の中入ってみると、膳椀置かれ部屋があり、座敷には今から入れるかの如く湯のたぎった鉄瓶置かれ便所には人が立っているようにすら感じられた。しばらく呆然としていたものの、だんだん怖くなり、引き返してみるとそこは小国村里だった。小国でこの話をしてみたが誰も信じなかったが、山崎話してみると「それこそマヨヒガだ、膳椀持ち帰って長者になろう」と婿に案内をさせてたくさんの人が山へ入っていったが、門があったであろう場所に行ってみても何もなく、婿が金持ちになったという話も聞こえてはこなかった。(64話) 詳細は「迷い家」を参照 安倍伝説65話、66話、67話、68話) 足洗川 八幡座 八幡山 安倍ヶ城 安倍貞任と縁のある場所 早池峰御影石の山で、この山には小国方角向いた場所に安倍ヶ城という岩窟がある。険しい崖の中程にあり、人が容易に辿り着けない場所であるが、ここには今でも安倍貞任の母が住んでいると伝わっている。翌日なりそう夕方などには岩戸閉ざす音が聞こえてくるとされ、小国附馬牛人々安倍ヶ城の錠の音がするから明日になる、などと言う事があるという。(65話) 同じく早池峰山附馬牛寄り登り口にも安倍屋敷呼ばれる岩窟があり、とにかく早池峰山安倍貞任に縁のある山である。小国側の入口にも八幡太郎討ち死にした家臣埋めたとされる塚が3つ存在している。(66話) 安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多くかつては野といわれた栗橋村土淵村の境、山口から2~3里ほど登った山中開けた場所がある。そのあたりは貞任呼ばれ、沼があり、かつて安倍貞任が馬を休ませた場所とも陣屋構えた場所とも伝えられている。(67話) 土淵村には安倍貞任末裔という家があり、その家は今も屋敷周りの堀にはをたたえ、刀剣馬具の類も多数残されている。当主安倍右衛門という者で、村会議員務めている。安倍貞任の子孫はこの家の他にも多く盛岡安倍館近くにもある。小烏瀬川折れ曲がった場所には八幡太郎が陣を構えたとされる場所があり、ここから遠野の町へ向かった場所に八幡山という小高い丘があり、安倍貞任はここに陣を構えたという。これらの場所は20余町ほど離れており、一連の戦の出来事から名前がつけられたと考えられている似田貝、あるいは足洗川という地名があり、矢戦をしたという伝承裏付けるように周辺からは鏃が発掘されたこともある。(68話) オシラサマ II69話、70話) 土淵村には大同という家が2軒あり、山口大同主人の名前が大洞万之丞といい、この人養母であるおひでは80歳を越えてなお健在であった佐々木喜善祖母の姉にあたり魔法長けていたという。呪いでもって殺したり木に止まったを落とすのを佐々木喜善見せてもらった事があるという。そのおひでが語った話に、次の話がある。昔、貧し百姓がいて、早くに妻を亡くしはしたもの美しい娘と馬を所有していた。娘はこの馬のことを愛しており、夜になれば馬と共に眠りついには馬と夫婦になったという。様子がおかしい事に父も気づき、ある晩に一緒にいるところを見つけるや馬が憎らしくなり、娘が居ない隙をみて嫌がる馬を連れ出し桑の木ぶら下げて馬を殺してしまった。夜になって馬が居ないことに気づいた娘は父を問い詰め起こった事を知ると桑の木駆け寄っていき、ぶら下がった馬の首に縋りついて泣き出してしまった。父はその姿をみてまた憎しみ募りぶら下がった馬の首を斧で切り落とすと、馬の首は娘もろとも天へと昇っていってしまった。オシラサマとはこの時生まれた神で、馬を吊り下げたでその神の像作られた。像は3体作られ、元の部分作られたものは姉神と呼び山口大同にある。中ほど作られたものは山崎在家権十郎という者の家に、末の方で作ったものは妹神として附馬牛村にあるとされている。(69話) オクナイサマオシラサマ在る家には必ず伴にいる神様であるが、オシラサマがいないのにオクナイサマだけがいる家もある。また、家によってその形は様々で、山口大洞柏崎安部氏では木像だが、辷石たにえという人の家では掛け軸になっている。(70話) 隠し念仏71話) おひでは念仏熱心に信奉していたが、多くの人が行信仰とは異なっていた。信者教え説くことはあれど、親や子供口外することは信者同士厳しく禁じ、また寺とも僧侶とも関係が無く在家の者だけの集まりであった信者の数はそう多くはないが、その仲間には辷石たにえの名前もあった。阿弥陀仏斎日には皆が寝静まった夜中見計らって隠れた部屋集まって祈祷行っていた。彼等魔法呪い通じていることからの者からは権威者のように恐れられていた。 カクラサマ(72話、73話、74話) 琴畑 西内 カクラサマ 栃内の字琴畑小烏瀬川支流のさらに上流、家の数は5軒ばかりの深山の沢にあり、栃内集落までは2里程離れている。琴畑入口には塚があり、その上にはカクラサマという木の座像がある。かつてはお堂中に納められていたというが、今では雨ざらしとなっている。の子供達がこれをおもちゃにして道を引きずり回したり、川へ投げ入れたりするもので、鼻も口も分からない状態になってしまっている。そのような扱い子供叱って戒めた者がいたというが、かえって祟りをうけたという。(72話) カクラサマの木像琴畑だけでなく、遠野郷に多数存在している。栃内の字西内にもあり、山口分の大洞にもあったと証言する人もいる。カクラサマを信仰する人は既におらず、彫刻粗末造形もはっきりとしないため、詳しいことはよくわかっていない。(73話) 栃内のカクラサマは西内大洞大小2体で、土淵村全体では3~4体存在している。いずれも木の半身像で、鉈で荒く削られたものだが、人の顔ということは理解できる。カクラサマとは、以前神々が旅をした際に休息した場所の名前とされ、その場所に常に居た神の名前をそう呼ぶようになったという。(74話) 長者屋敷75話、76話) 離れ長者屋敷には、数年前までマッチ軸木工場があったが、そこでは夜になる度に戸口に女が現れ、人を見てげたげた笑うという事続いていた。結局、その工場は気味悪がって山口移転したが、その後その場所に枕木切り出すために小屋建てた者がいた。ところが、今度夕方になると何処か人夫が行方をくらまし帰ってきても呆然としているような事が続いたこのような者が4人も5人も出て、なおも続くのでどういう事か理由聞いてみると、女がやってきて何処か連れ去られてしまう、ということであった。皆、帰ってきて2~3日記憶が無い、という点も同じでした。(75話) 長者屋敷は昔長者住んでいた場所ということもあり、その辺りには長者の家の糠を捨てたのが由来とされる、糠という山がある。この山には5つのうつ木の木が生えており、その下には黄金埋められているという伝承があるため、時折そのうつ木を探す人の姿を見かけるという。この長者は金の採掘で財を成しただろうかこの辺りには鉄滓多く見られまた、恩徳金山とも山続きでそう遠くはない。 田尻家をめぐるお化け話、家のさま(77話、78話、79話、80話、81話、82話、83話) 土淵村一番の金持ちである田尻長三郎という老人40歳程の頃、おひで婆の息子亡くなったということ葬式参列することになった。他の者は念仏もあげ終え、既に帰っていったが、長三郎話好きだったもので、他の者より少し遅くまで残っていた。外は既に夜であったが、家を出ると軒の落の石をにして仰向け寝ている男がいた。見たところ会った事もない男で、月明かり照らされた姿は膝を立て口をだらしなく開け、足で蹴ってみても身動ぎひとつせず、どうやら死んでいるようである。道の妨げになっているため、長三郎はこれを跨いで家へ帰っていった。次の朝にその場所へ改め行ってみると、にしていた石など記憶のままであったが、その姿は跡形無くなっており、また、誰もその姿を見たという者はいなかった。(77話) 田尻家奉公していた山口長蔵は昔、夜遊びに出かけた帰り田尻家の門の前で浜の方から来る雪合羽着た人に会った。近づいてみるとその者は立ち止まり怪しく思っているとその者は道路隔てた畑の方へいなくなってしまった。そこには生垣があったはず、と確認してみると確かにそこには生垣があり、とたんに恐ろしくなった長蔵は家に飛び込んでおきた事を主人話した。後に聞いた話によると、その時刻に新張である者が浜からの帰りに馬から転落して亡くなったのだという。(78話) 長蔵の父もまた長蔵といい、妻と伴に代々田尻家奉公していた。同じく夜遊びに出かけた長蔵が、そう遅くない宵のうちの時間帰ってみると、門の口から入って馬屋ところに懐手をして筒袖袖口垂らした人影があることに気がついた。顔はよく見えないが、妻のおつねのところに来た夜這いではなかろうか近寄ってみると、裏へは逃げず、むしろ玄関の方へ近づいてくるので長蔵腹立たしくなり、さらに進むとその影は3寸程しか開いていない玄関から家の中入っていった。長蔵その事は不思議と思わなかったが、中に入ってみると障子はきちんと閉まっていることからとたんに恐ろしくなり、後ずさりしようとふと目線を上にむけてみると、男は壁にへばり付いて長蔵見下ろしていた。首は低く垂れ長蔵触れそうな位置にあり、眼は一尺以上飛び出ているように感じられたという。長蔵ただただ恐ろしかったというが、これが何かの前触れであったというと、とくに何かの前兆という事はなかった。(79話) 79話をよく理解するには田尻家間取りを図にする必要がある遠野一帯の家の建て方はいずれもこれとほぼ同じである。門は田尻家北向きだが、東向き一般的で、図の馬屋のあたりにある。門の事は錠前呼び家屋周りは畑で塀や柵はもたない主人部屋常居との間には座頭部屋呼ばれる小さく暗い部屋があり、これは宴会時に呼んだ座頭待たせる部屋である。(80話) 栃内の字野崎に住む前川万吉という、2~3年前30歳過ぎで亡くなった男もまた、亡くなる2~3年前似たようなことを経験したという。6月夜に遊びに出かけて家に帰った時の事、門の口から廻り沿って角まで来たところで、なんとなしに壁を見ると、青ざめた顔で壁に張り付いて寝ている男がいた。万吉は大変驚いてしばらく心を病んだが、これも同様に何かの前触れという事では無かった。(81話) 田尻家の丸吉は前川万吉懇意であった事により、万吉体験した出来事聞いていたが、丸吉も不可解な出来事遭遇した事がある。丸吉が少年だった時の事、常居にいた際、便所行こう茶の間に入ると、座敷との境に人が立っていた。微かにぼやけてはいるが衣服の縞も髪を垂れ下げていることや目鼻立ちもはっきりと解るため、丸吉は恐ろしく思いながらも手を伸ばしてみたところ触れことなく奥の板戸に手が当たった触れられはしない延ばした自分の手見えず、影のように人影だけが手に重なって見えた常居戻って異変話し行灯を手にして確認しにいったが、そこには既に何も居なくなっていた。丸吉は近代的なものの考え方をする人で、嘘をつくような者でもなかったという。(82話) 山口大同大洞万之丞の家の建て方は他の家と少し異なるため、その間取り説明する玄関は東に向かっており、極めて古い。また、中のものを出して確認する祟り降りかかる伝わっている葛篭がひとつある。(83話) 西洋人84話、85話) 土淵村柏崎 山田町 釜石市 船越半島 西洋人住んでいたとされる場所 佐々木氏祖父佐々木万蔵は3~4年前に70歳亡くなったが、この万蔵若かった頃、嘉永年間時代1848年から1854年)には既に海岸地方には西洋人多く住んでいた。釜石にも山田にも西洋風の館があり、船越半島先に西洋人住んでいたという。耶蘇教密かに振興されていたというが、遠野でも信仰露見して磔になった者がいた。海岸地方では西洋人との合の子かなりの多かったという。 土淵村柏崎には両親ともに日本人であるにも関わらず、髪も肌も西洋人そのまま白子2人いる家がある。歳は2627で、家で農業従事しており、語音土地の人たちとは異なり細く鋭いという。 シルマシ86話、87話、88話) 土淵村中央本宿豆腐屋を生業とする政という3637歳の男がいた。その政の父親大病患い生死狭間にあったときの事、この小烏瀬川挟んだ向かい下栃内地固めの堂突きしていると、夕方に政の父親現れ、皆に挨拶して突き手伝う事になった夕方には作業終え、皆と伴に父は帰っていったが、他の者は病に伏せていると聞いていたので不思議に思っていた。後にお悔やみ駆けつけ皆で話を照らし合わせると、その日のちょうその時刻に父親亡くなっていたという。(86話) とある遠野豪家が病を患い生きるか死ぬかの瀬戸際にあったときの事、菩提寺にその者が訪ねてくる事があった。和尚出して丁寧にこれをもてなした世間話済んで帰ろうとしていると、何やら不審様子和尚感じ坊主に後を追わせる事にしたが、門を出て角を曲がったところで男は見えなくなってしまった。その後確認してみたところ、男が座っていた場所には出したこぼれていた。菩提寺から自宅までの帰り道には、他にもこの男を見て挨拶交わしたという者がいたが、この日の晩にこの男は亡くなっており、外出のできる状態では既に無かったという。(87話) 土淵村大字土淵常堅寺にも似た話が伝わっている。ある村人本宿から来る道である老人会った。この老人は前より病に伏せっているという話を聞いていたので、いつの間に良くなったのかと聞くと、ここ2~3日調子良いので寺へ話を聞きに行くということであった常堅寺でも和尚がこの老人出迎えてしばらく話をした後、老人帰るところを小僧に後を追わせているが、門を出たところで見失ってしまった。また、出したお茶は畳の間にこぼれており、老人その日のうちに亡くなっていたという。(88話) 山の神89話、90話、91話、92話、93話) 94話) 和野柏崎の姉のところへ用事があり、ご馳走になって帰途着いた時のこと。振舞われた残りの餅を懐にしまって帰る道すがら愛宕山の麓の過ぎたところで象坪の藤七という仲の良い友人会った。そこは中にしては芝生整った場所であったからか、藤七から相撲をとろうと誘われもこれを承諾した。ところがいざ相撲を取ってみると今日藤七は非常に弱く思うよう投げ飛ばせることからは気をよくし、気がつく3番相撲を取っていた。そうして藤七今日はまったく歯が立たないと言うと、あっさり帰ってしまった。勝利余韻に気をよくしたがさらに4~5間ほど進むと、いつの間に貰った餅が無くなっていることに気がついた。あわてて先ほど相撲を取った場所に戻って探すも見つからず、これは化かされたと気がついた。4~5日後、酒屋藤七会ったのでこの話をしてみるとその日藤七は浜の方へ用事があったため、その場所には居るはずがないと言われた。さらに後日正月皆で集まって酒盛りをしていると、皆が代わる代わる化かされた話をするものだからこれまで外聞を気にして口外しないでいたもこの出来事話してみると、皆は大笑いしたという。 不思議な庭石95話) 松崎菊池某という4344歳くらいの男は暇があると山に入って草木面白い形の石を集める事が趣味であったある日いつものように山に行ったところ、これまで見たことの無い岩を見つけた。人が立ったような形、大きさ美しい岩であったのでこれを持って帰ろう考え持ち上げようとするも、普段であればなんて事のない大きさであるにもかかわらず、この岩は経験した事がないほどの重さであった難儀しながらも10間ほど歩いて一休みしようと道の傍らに石を置き、それにもたれかかるように腰を下ろすと、その岩と共に空中浮かび上がっていくような不思議な感覚襲われた。突き抜けた先は明るく清々しい所で、一面様々な花が咲きどこからともなく大勢の人の声が聞こえてくる場所であった。岩はさらに登り続け登りきったところで男は意識失ったしばらくして目を覚ますと、男は最初姿勢で岩にもたれかかったままであった。この体験から、この岩を持ち帰ったらどんな目に会うわかったものではないと菊池某は岩を持ち帰ることを諦めたが、それでも時折無性に岩を持ち帰りたい衝動に駆られる事があるという。 『拾遺』にも霊力を持つ岩の話があり、夫婦通ってはいけない岩の話、成長比べをした羽黒岩の話、尼が石神となって参拝すると乳が出るようになる岩の話などがある。 火事シルマシ96話) 遠野には一昨年まで芳公馬鹿という歳の頃3536になる白痴の男がいた。この男は路上木切れやごみを見つけては拾って匂い嗅ぎ、人の家を訪れた際にもなどを擦って匂いを嗅ぐ事が癖であったまた、往来歩いているとおもむろに立ち止まり、あたりの家に石を投げ入れて火事火事だと叫ぶこともあった。石を投げ入れられた家はその晩か次の日には火事にあい、同じ事が幾度とあるものだから石を投げ込まれた家も十分に予防講じるようになったものの、結局火事免れた家は無かった。 魂の行方97話飯豊松之丞という男が傷寒患って危篤状態にあったときの事、ふと気づく菩提寺の喜清院へ向かっていたという。足に少し力を入れてみると体は宙に浮かび上がり、人の頭ほどの高さを前下がり滑空し、とても心地よい気分であったという。寺の門に近づいてみると沢山の人が集まっており、門をくぐる満開赤い芥子の花の間に亡くなった父の姿があった。父は「お前もきたのか」と語りかけるのでそれとなく返答し、さらに進むと、ずっと昔に亡くなった息子の姿もそこにあった。「父ちゃん、お前も来たのか」と言われたので「お前、ここにいたのか」と近づこうとすると「今は来てはいけない、ダメだ」と強く誡められた。そうこうしていると門の辺りから自分の名前を騒がしく呼ぶ声がするものだから渋々引き返してみると、ふと正気取り戻したという。なんでも、親族の人たちが集まって水をかけるなどして意識取りさせようとしていたという。 所謂臨死体験とされる話であり、同様の話は『拾遺』にも多数取り上げられている。その定型違わず空中浮遊遺族との邂逅美し情景などの要素確認される。 「臨死体験」も参照 石塔98話) 遠野郷では旧道分岐点村境山の神田の神、寒の神の名彫った石塔多く見かける早池峰山六角牛山の名を刻んだ石塔見かけるが、むしろこれは浜の方で多く見かける近世はおよそ10程度集落からなり、これらが集まって庚申念仏などの講中行っていた。結界護り、安全祈願のために石塔建てられたと考えられ遠野市内で1900宮守村加えるとその数は3000近くに及ぶ。なお、浜に多いと書かれている早池峰山六角牛山の名を刻んだ石塔遠野宮守合わせて22基であるのに対して岩手県沿岸部60基が確認されている。 大津波99話) 田の浜 大津土淵村助役務めた北川清という男が字火石住んでおり、家は代々山伏祖父正福院といい、この祖父著作の多い学者貢献したであった。清の弟である福二は海岸の田の浜へ婿へ行ったが、明治24年1891年)の大津波妻と子供失いその事があってからも生き残った2人の子供と家のあった場所に小屋建てて1年ばかりそこで生活していた。ある夏のはじめの晩に用をたそうと、小屋から離れた便所立って波の打ち寄せる渚を歩いていると、立ち込める中から男女2人連れが近づいてくるのに気がついた。女は津波失った妻であることに気づき、福二は思わずその後をつけ、船越村へ行く岬の洞穴があるところまで追っていった。妻の名を呼ぶと女はこちらを見て笑い、男を見やると、男の方も同じく津波亡くなった聞くところによると自分が婿に入る前、心通わせていたと聞き及んでいた同じ里の男であった。「今はこの人一緒になっている」と妻が言うものだから、「子供かわいくないのか」と問いかけると妻は顔色変え泣き出してしまった。死んだ者と話しているようには思えず、ただ足元に目を落とし立ち尽くしていると、再び男女足早にその場立ち去り小浦へ続く道の山陰廻ると姿が見えなくなってしまった。少し追いかけてはみたものの、相手死んだ人間なのだと考え直しそれ以上後を追うことは止めた。しかし、夜明けまで道に立っていろいろと考えその事があってからも福二はしばらくは悩み苦しんだという。 「明治三陸地震」も参照 海岸通りの話 100話、101話四十八坂 豊間根 ある日夜遅く船越漁師の男が仲間の者と吉里吉里から帰る道中四十八坂のあたりの小川の側で妻に出くわした。しかし、こんな夜中にこんな場所に妻が来るはずはない、化物に誑かされているのだと男はマギリ小刀)を持って背中から女を刺した。女は悲しい声をあげて死んでしまったが、一行本性を現さないので男は狼狽し仲間その場任せて家路急いだ。家では妻が何事も無く夫を待っていたが、あまりに帰り遅かったからか、途中まで迎えにいく夢を見たのだが、山道何者かに刺されそうになったところで目が覚めたと言う。この話に合点がいった男は四十八坂へ戻ると、刺し殺した女は皆の見ている前で古狐になったという。(100話) ある旅人豊間根村過ぎた辺りで、夜も更けたため休む場所を探していた時のこと。幸いにも通りがかった知人の家にはまだ灯が点いていたので、泊めてもらおうと頼むと、主人は「夕方亡くなった者がいるのだが、留守番頼めるものがいなくて困っていた、しばらく頼む」と言って人を呼び行ってしまった。旅人は迷惑に思いながらも致し方ない、と囲炉裏腰掛けて煙草吸おうとしたが、その時亡くなった者と思われる老婆が突然起き上がったので大変驚いた肝を冷やしたが心を鎮めて辺り見回すと、台所水口の穴からのようなものが頭を入れて老婆を見つめているのに気がついた。旅人静かに外に出て背戸の方へ回りこんでみるとやはりだったので、その場にあったでもってこの打ち殺した。(101話小正月行事102話、103話、104話、105話) 正月15日の晩は小正月呼ばれ、この日の宵には子供達が4~5人で組を作り家々回っては「明の方から福の神舞い込んだ」と叫んで餅を貰う慣わしがあり、これを福の神呼んだ。しかし、宵を過ぎれば山の神が里に降りてくると伝えられており、の者は皆家から出ることはなかった。山口の字丸子立ちに住むおまさという3536歳の女が1213歳だった頃、なぜだか一人福の神に出かけ、家々回って遅くなってしまった事があったという。淋しい道を一人歩いていると、向かいから顔は赤く、目の輝く男がやってくるので、貰った餅も捨てて逃げ帰ったが、以後しばらく悩み苦しんだという。(102話) 小正月の夜、あるいは小正月でなくとも冬の満月の夜には雪女が童をたくさん連れてやって来ると云われている。冬になると、里の子供達は近くの丘へ行ってソリ遊び興じ、つい夢中になって夜まで遊んでしまう事がよくあるため、15日夜に雪女が出るから早く帰れ窘められるものだが、実際に雪女遭遇したという話は少ない。(103話) 小正月の晩には行事がとても多い。そのひとつに、胡桃用いてその年の天候を占う「月見」という行事がある。6つ胡桃12個に割り、それらを同時に炉の中へくべ、取り出し一列並べる。満月の夜晴れる月は胡桃いつまで赤く、曇る月はすぐに黒くなり、風の強い月はふーふー音をたてて火が揺れているという。何度繰り返しても、のどの家で同じ結果得られるいい、稲の借り入れの日に天候悪化するといった結果になればその年の借り入れ早めるなどといった事を決めていた。(104話) 同様に小正月夜に行う行事に「夜中見」という行事がある。まず、数種類の米でもって鏡餅作り、それらの米を膳の上平らに敷く。米の上鏡餅置いての上から鍋を被せる。翌朝になって鏡餅付いている米粒の多いものほど豊作になるとされ、付着している状況から早生中手晩生作付け銘柄を選ぶというものである。(105話) 蜃気楼106話) 太平洋面した山田町では蜃気楼見える事があり、その景色はいつも外国風景だという。見たともないような都会で、道路たくさんの馬車が行交い見え建物形状毎年変わる事がないという。 山の神占術107話、108話) 上郷村早瀬川の岸に河ぷちの家という家があり、ここの若い娘が川で石を拾っていると、背の高く、顔の赤い見慣れない男が現れ木の葉などを渡していった。娘はそれ以来占いの術が出来るようになり、その男山の神で、山の神の子になったためだと伝わっている。(107話) 山の神乗り移ったなどとして占いを行う者は様々な場所におり、附馬牛木挽をする者もその内一人で、柏崎孫太郎もそうであった孫太郎以前発狂して喪心したとされていたが、ある日、山に入って山の神から術を得たと言われるようになってから、不思議に人の心を読む事が出来ようになったという。その方法は他の者とは異なり書物などは何も見ず尋ねた者と世間話をしていると突然立ち上がり常居歩き回ったかと思うと、相手の顔も見ることなく心に浮かんだ事を告げるというった方法であるが、不思議なことに当たらない事がないという。家の常居の下に鏡か折れた刀が埋まっているので、それを取り出さなければ死人が出るか家が焼ける、といった具合告げられたので、帰って指定された場所を掘ってみると言われたた通りの物が出てくるということである。(108話) 雨風祭(109話) 盆の頃には刈り入れが無事終えられるよう、雨風といって作られた人の背丈より大きい人形を道の分岐点立て風習がある。紙に描かれた顔を貼り付けたり、瓜で男女性器表したりすることもある。祭りという行事でも同様に人形作るが、こちらはだけの簡素小さな人形である。雨風祭の際にはひとつの部落から頭屋選び、皆が集まって酒を飲んだ後、太鼓や笛を鳴らし、あるいは歌を歌いながら人形置きに行く歌詞は「二百十日雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という内容である。 ゴンゲサマ(110話) ゴンゲサマとは、神楽舞の組にひとつづつ備わる獅子頭似た木彫りの像で、とてもご利益のあるものとされている。新張にある八幡社ゴンゲサマ土淵五日市ゴンゲサマはかつて、火伏の途中で争った事があるといい、新張ゴンゲサマ負けて方耳を失いそれ以来、方耳は失われたまであるゴンゲサマとりわけ火伏にご利益があるとされ、次のような話が残されている。ある年、八幡の神楽組は附馬牛村に出かけ、夜になって宿を探していると、ある貧しい家の者が快くこれを引き受けたゴンゲサマは五升伏せてこの上安置し、皆が休むと、夜中がつがつと何かを噛む音が聞こえる。皆が驚いて起き上がると、軒先燃え移った火をゴンゲサマ飛び上がり食い消していたという。頭を病む子供などはゴンゲサマに病を噛んでもらうよう頼むこともある。 ダンノハナ・デンデラノ・ジャウヅカ111話、112話、113話、114話) ダンノハナと デンデラノ 山口飯豊附馬牛の字荒川東禅寺火渡、青笹の字中沢土淵村の字土淵にはダンノハナという地名があり、これの傍には向かい合うようにデンデラノという場所がある。昔は60歳過ぎた老人全てこのデンデラノへ追いやる習わしがあったという。老人ただただ死ぬわけにはいかず、日中は里に下りて農作業従事して生活していた。そのため、山口土淵辺りでは、朝に田畑働きにでることをハカダチと呼び夕方帰っていくことをハカアガリと呼ぶと云われている。(111話) ダンノハナは昔、山口館のあった時代囚人を斬った場所と云われている。山口飯豊もほぼ同じで、村境の丘の上にあり、仙台にも同様の地名がある。山口ダンノハナ大洞に至る丘の上にあり、山口館の跡と続いている。デンデラノの周囲は沢になっていて、東の低地ダンノハナ繋がっていて、南は星谷呼ばれ、ここは蝦夷屋敷という四角にへこんだ所が多く石器土器が沢山見つかってます。山口にはもう一ヶ所、石器土器出土する場所があり、そこはホウリョウ呼ばれている。星谷から出土されるものは模様は単純で用いられる原料安定していないが、ホウリョウから掘り出されるものは精緻模様巧み材質均一で、埴輪なども見つかっている。(112話) 和野にジョウヅカという所がある。象を埋めた場所と伝えられているが、正しくは人を埋めた墓のようですこの辺りは「地震があったときにはジョウヅカ逃げろと言い伝えられているように、地震の影響少ない場所と知られており、また、掘れ祟りのある場所のひとつとされている。この塚の周りには掘りがあり、塚の上には大きな石が乗っている。(113話) 山口ダンノハナ今は共同墓地になっていて、丘の頂上にうつ木を廻らしてあって入り口は東を向いて門のようになっている敷地内には青い大きな石があり、かつてその石の下掘った者がいたが、何も見つからなかった。しかし、後に改め掘った時には大きな瓶が見つかった。しかし、老人達はそれは館の主を納めたであると非常に怒り元に戻させた。この近くにはボンシャサの館というのがあり、山から引いて三重四重に堀が張り巡らされている。寺屋敷、砥石という地名もあり、井戸の跡とされる立派な石垣残っている。なお、18話から21話登場した山口孫左衛門祖先がここに住んでいたということは遠野古事記に詳しい。(114話) 昔々115話、116話、117話、118話) しし踊り歌119話)

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