被葬者
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常憲院(5代将軍、徳川綱吉) 以下の将軍等が合祀されている。 有徳院(8代将軍、徳川吉宗) 温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫) 孝恭院(徳川家基)
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被葬者
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叡福寺北古墳について、宮内庁では第31代用明天皇皇子・第33代推古天皇皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の墓に治定している。考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性は高いとされるが、棺3基が認められることから、厩戸皇子に加えて皇子と同時期に亡くなった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ/あなほべのはしひとのおうじょ、用明天皇皇后で皇子母)・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、皇子妃)ら3人の合葬墓(三骨一廟)とする説が有力視される。 文献で知られる厩戸皇子の死に係る出来事は次の通り。 推古天皇29年(621年)12月21日、穴穂部間人皇女の崩御。注)天寿国繍帳・『上宮聖徳法王帝説』による。法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘では12月の崩御とする。 推古天皇30年(622年)2月21日、膳部菩岐々美郎女の薨去。注)法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『上宮聖徳法王帝説』による。 推古天皇30年(622年)2月22日、厩戸皇子(聖徳太子)の薨去。注)法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・天寿国繍帳・『上宮聖徳法王帝説』による。『日本書紀』では推古天皇29年(621年)2月5日の薨去とする。 厩戸皇子の墓について、『日本書紀』では「磯長陵(しながのみささぎ)」に葬ったと見えるが、合葬の旨の記載はない。『延喜式』諸陵寮では遠墓の「磯長墓」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西3町・南北2町で守戸3烟を毎年あてるとするが、こちらにも合葬の旨の記載はない。同書では母の穴穂部間人皇女の墓についても大和国平群郡所在の「龍田清水墓」として記載される点が注意される(比定には異説もある)。その後も、厩戸皇子が早い段階から神聖視された関係で伝承が途切れることなく護られており、他の陵墓とは異なり現在でも皇子の墓の可能性は高いとされる。しかしながら、前述のように石室の年代観としては皇子の死から半世紀下る7世紀後半頃に位置づけられる点等に問題点を残し、これについて天武天皇期の改修・改葬を推測する説等が挙げられている。 なお叡福寺北古墳を包摂する叡福寺は、寺伝では推古天皇による聖徳太子墓守護のための開基で、神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願によって伽藍が整備されたという。寺伝の史実性は詳らかとしないが(飛鳥時代・奈良時代の寺院系遺物・遺構は検出されていない)、正面に叡福寺北古墳を据える伽藍配置であり、この点でも厩戸皇子を祀るため建立された寺院であることが認められる。 以上のほか、聖徳太子伝記のうち『上宮聖徳太子伝補闕記』では、推古天皇27年(619年)にはすでに皇子自ら当地に墓所を築いていたとする。 梅鉢御陵関係系図 石姫(太子西山古墳) 29 欽明 [蘇我氏]小姉君 [蘇我氏]堅塩媛 天皇 広姫 30 敏達天皇(太子西山古墳) 33 推古天皇(山田高塚古墳) 31 用明天皇(春日向山古墳) 穴穂部間人皇女(叡福寺北古墳) 32 崇峻天皇 押坂彦人大兄皇子 竹田皇子(山田高塚古墳) [膳氏]膳郎女(叡福寺北古墳) 聖徳太子(叡福寺北古墳) 茅渟王 36 孝徳天皇(山田上ノ山古墳) 35 皇極天皇 /37 斉明天皇 34 舒明天皇
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 21:07 UTC 版)
佐紀高塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇重祚)の陵に治定している。『続日本紀』によれば、称徳天皇は宝亀元年(770年)8月4日に西宮寝殿で崩御したため、即日に作山陵司等の諸司が任じられ、鈴鹿王(高市皇子次男)の旧宅の場所に畿内・近国の役夫6,300人をして山陵が営造され、8月17日に天皇をその大和国添下郡佐貴郷の「高野山陵」に葬ったという。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「高野陵」として記載され、大和国添下郡の所在で、兆域は東西5町・南北3町で守戸5烟を毎年あてるとする。 称徳天皇の真陵については、『西大寺資財流記帳』の記述を基にすると、この佐紀高塚古墳(西大寺の東方に所在)ではなく西大寺の寺域西限の地に存在したと推定される。しかし後世に陵に関する所伝は失われ、鎌倉時代の「大和国西大寺往古敷地図」(徳治2年(1307年)以前成立)を初見として本古墳に比定する説が生じた。江戸時代には、さらに北方の五社神古墳を称徳天皇陵にあてた説も生じている。その後、幕末の文久の修陵に際し、「大和国西大寺往古敷地図」等を基に本古墳が改めて称徳天皇陵に比定され、これが現在に踏襲されている。 なお、本来の称徳天皇陵の位置については明らかでないが、西大寺西方にある奈良自動車学校の南側丘陵付近に推定する説がある。
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被葬者
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メンテム(mengtemu、孟特穆) - フマンの曾祖父。 フマン(fuman、福満) - ギオチャンガの父。ヌルハチの曾祖父。 ギオチャンガ(giocangga、覚昌安) - タクシの父。ヌルハチの祖父。 タクシ(taksi、塔克世) - ヌルハチの父。 リドゥン・バトゥル(lidun baturu、礼敦巴図魯) - タクシの兄。ヌルハチの伯父。 タチャ・フィヤング(taca fiyanggū、塔察篇古) - タクシの弟。ヌルハチの叔父。
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被葬者
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「築山古墳 (大分市)」の記事における「被葬者」の解説
1932年(昭和7年)、植林作業の際に後円部から2基の緑泥片岩製箱式石棺が発見され、その後の調査で「北棺」(長さ1.8メートル、幅0.65メートル、深さ0.73メートル)と呼ばれる石棺からは右腕に貝釧をつけた1体の女性、「南棺」(長さ1.95メートル、幅0.75メートル、深さ0.8メートル)からは3体の人骨(うち一体は女性)が発見された。 女性のみが単独で埋葬されている点などから呪術者であった女性の墓ではないかと推測されている。地元で祀られている「速吸日女」の墓ではないかという説や、邪馬台国論議に加わり卑弥呼の墓ではないかとする説が主張されている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/01 17:21 UTC 版)
『日本書紀』に基づく関係系図 24 仁賢天皇(在位:5c末) 26 継体天皇(在位:507?-531?) 手白香皇女 25 武烈天皇(在位:5c末-6c初) 29 欽明天皇(在位:539?-571?) 今城塚古墳(大阪府高槻市) 6世紀前半頃の築造で、一説に継体天皇(在位:507年?-531年?)の真陵。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。 西山塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、第26代継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ、手白髪郎女/手白髪命)に比定する説が知られる。手白香皇女の陵について、『古事記』・『日本書紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では遠墓の「衾田墓」として記載され、大和国山辺郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町、守戸は無く山辺道勾岡上陵(崇神天皇陵)の陵戸が兼守するとする。 中世には手白香皇女陵の所在地に関する所伝は喪失し、1876年(明治9年)に教部省によって西殿塚古墳(天理市中山町)が陵所と定められたのち、これを踏襲して現在も宮内庁では西殿塚古墳が手白香皇女陵に治定される。しかし、考古学的には西殿塚古墳の築造年代は3世紀後半頃と推定され、手白香皇女の想定年代(6世紀前半頃)とは大きなズレが存在する。これに対して西山塚古墳を手白香皇女の陵に比定する説は、大和国山辺郡一帯において前期古墳が大多数を占めるなかで、西山塚古墳のみが古墳時代後期の大型前方後円墳であることを根拠とする。 なお手白香皇女の陵所については、父の仁賢天皇(第24代)の陵所である河内の古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)とも、夫の継体天皇の陵所と見られる摂津の今城塚古墳(大阪府高槻市;宮内庁治定は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳)とも異なる所在である点が注目される。『日本書紀』の継体天皇即位に関する伝承によれば、武烈天皇(第25代)に後継者がいなかったため、応神天皇五世孫の男大迹王(のちの継体天皇)が越前から呼ばれて即位したという。しかし、即位後も大和へ遷都するまでにはさらに10数年を要しており、旧来勢力からは根強い抵抗が存在したと想定される。このことから、継体天皇が手白香皇女を娶ったのは、旧来王統への「入り婿」の形を取って大王位の正統性を示す意図であったと見られ、初期ヤマト王権の大王墓の墓域地として知られる大和古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群の地に手白香皇女の陵が営まれたのも、そうした大王位の正統性を示す行為の一環と推測される。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/28 19:55 UTC 版)
淡輪ニサンザイ古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)にの墓に治定している。この五十瓊敷入彦命の墓について『日本書紀』『古事記』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」として見え、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓としている。しかし中世には荒廃して所在が失われ、明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、明治13年(1880年)に淡輪ニサンザイ古墳に改められている。ただし本古墳に治定された明確な根拠はない。 考古学的には、岬町の大型前方後円墳2基はいずれも当地の経済力のみで築造されたと考えにくいことから、これらの築造において紀伊勢力(紀氏)の関与が想定される。特に『日本書紀』雄略天皇9年条に「田身輪邑(たむわのむら = 淡輪村)」に葬られたと見える、5世紀後半の将軍の紀小弓(きのおゆみ)に比定する説もある。 そのほか、『和泉志』では紀小弓の墓とする説を挙げ、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳のどちらか一方を紀小弓の墓としてもう一方を紀船守(きのふなもり)の墓とする説を挙げる。ただし、この紀船守は8世紀の人物(731年-792年)になる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 04:17 UTC 版)
中山茶臼山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと、吉備津彦命)の墓に治定している。この大吉備津彦命について、『古事記』では本の名を「比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)」、亦の名を「大吉備津日子命」とし、弟の若日子建吉備津彦命とともに吉備国を平定したとする。また『日本書紀』では、本の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」、亦の名を「吉備津彦命」とし、四道将軍の1人として西道に派遣されて平定したとする。両書には大吉備津彦命の墓についての記述はないが、1874年(明治7年)に本古墳がその墓に治定され、それが現在まで踏襲されている。 なお吉備の中山の山麓では、大吉備津彦命を祭神とする吉備津神社(岡山市北区吉備津、備中国一宮)、吉備津彦神社(岡山市北区一宮、備前国一宮)の鎮座が知られる。特に前者の吉備津神社は国史にも「吉備津彦命神」として見える霊廟になり、その社伝で大吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くなって山頂に葬られたと伝えている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/18 20:23 UTC 版)
『日本書紀』に基づく関係系図 24 仁賢天皇(在位:5c末) 26 継体天皇(在位:507?-531?) 手白香皇女 25 武烈天皇(在位:5c末-6c初) 29 欽明天皇(在位:539?-571?) 西殿塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第26代継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ、手白髪郎女/手白髪命)の陵に治定している。手白香皇女の陵について、『日本書紀』・『古事記』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では遠墓の「衾田墓」として記載され、大和国山辺郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町、守戸は無く山辺道勾岡上陵(崇神天皇陵)の陵戸が兼守するとする。その後、中世には陵の所在に関する所伝は喪失。1876年(明治9年)に教部省によって西殿塚古墳が陵所と定められ、1889年(明治22年)に修営がなされている。 箸墓古墳(桜井市箸中) 伝倭迹迹日百襲姫命墓。考古学的にはヤマト王権初代大王墓で卑弥呼の墓か。 以上の一方、手白香皇女の真陵に関しては、西殿塚古墳ではなく西山塚古墳(天理市萱生町)に比定する説が有力視されている。この説は、西殿塚古墳の築造年代が前述のように3世紀後半頃とされる一方、西山塚古墳の年代が6世紀頃と手白香皇女の想定年代と合致する点を根拠とする。一方で西殿塚古墳の真の被葬者については、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(桜井市箸中)に後続することから台与(壹與/臺與)とする説、崇神天皇とする説などが挙げられている。 ヤマト王権の推定初期大王墓代古墳名1 箸墓古墳 2 西殿塚古墳 3 外山茶臼山古墳 4 メスリ山古墳 5 行燈山古墳 6 渋谷向山古墳
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/15 07:30 UTC 版)
古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり、両河川即ち福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられている。大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関係が注目される。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/15 17:26 UTC 版)
「ノルマンディー米軍英霊墓地」の記事における「被葬者」の解説
埋葬されている戦没者にはセオドア・ルーズベルト大統領の子息であるセオドア・ルーズベルト・ジュニア(英語版)を含む3名の名誉勲章の受勲者が含まれる。墓地が改修されたのち、ルーズベルト大統領のもう一人の息子で第一次世界大戦において戦死したクエンティン・ルーズベルト(英語版)の遺体は掘り起こされ兄の隣に改葬された。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 07:59 UTC 版)
被葬者は不明であるが、皇族が被葬者であることにほぼ間違いはない。(天智天皇皇子、川島皇子との説がある。)
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/28 16:50 UTC 版)
村居田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第30代敏達天皇皇后の広姫(ひろひめ)の陵に治定している。広姫について、『日本書紀』では敏達天皇4年(575年?)11月に崩御したとするが、陵の記載はない。『延喜式』諸陵寮では遠墓の「息長墓」として記載され、近江国坂田郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、息長墓の所在に関する所伝は失われ、後世の坂田郡内には「皇后塚」と称される古墳が数ヶ所存在していた。村居田古墳もその「皇后塚」の1つになる。 前述のように、村居田古墳では元禄9年(1696年)に石棺等が出土したのち堀居氏邸内に埋納され、1874年(明治7年)5月には教部省により息長陵に考証、1875年(明治8年)7月には掌丁付置が命じられたが、上述の経緯を踏まえて同年9月に遺物埋納地に円丘が築かれてそれが息長陵に定められた。その後、光運寺本堂南側の古墳残丘は息長陵付属地と定められ、陵の参道に囲い込まれている(この息長陵付属地を遺物埋納地に比定する解釈もある)。ただし、前述のように村居田古墳の築造年代は広姫から遡る時期であるため、現在では広姫の陵である可能性は低いとされる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 14:11 UTC 版)
桝山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第10代崇神天皇皇子の倭彦命(やまとひこのみこと)の墓に治定している。倭彦命について、『日本書紀』では垂仁天皇28年に薨去して「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られたとし、その際の殉死の悲惨な様によって殉死の禁令が出されたとする(埴輪起源説話の発端)。『延喜式』諸陵寮では記載を欠く。 その後、倭彦命墓の所在に関する所伝は失われ、江戸時代には『大和志』・『大和名所図会』等において鬼の俎・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった。1877年(明治10年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、1886年(明治19年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、1890年(明治23年)から修営された。ただしその治定には否定的な見解が強い。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 21:43 UTC 版)
日岡陵古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)の墓に治定している。播磨稲日大郎姫命は、『日本書紀』では「播磨稲日大郎姫」や「播磨太郎姫」、『古事記』では「針間之伊那毘能大郎女」と見えるほか、『播磨国風土記』に見える「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)」も同一人物とする説がある。いずれにも見える「いなび(いなみ)」は播磨の地名(播磨国印南郡)に由来する。 この播磨稲日大郎姫命について、『日本書紀』では景行天皇52年5月4日に薨じたとするが、『日本書紀』『古事記』や『延喜式』諸陵寮では葬所の記載はない。一方『播磨国風土記』賀古郡条によれば、印南別嬢が薨じた際に日岡に墓を作ったが、別嬢の遺骸を船に載せて印南川(加古川)を渡ろうとした時につむじ風に巻き込まれ、遺骸は川中に没した。そして、ただ匣(くしげ:化粧道具箱)と褶(ひれ:首に掛ける布)が見つかるのみであったので、これらを墓に葬って「褶墓(ひれはか)」と名付けた、という。本古墳がその褶墓になると伝承されていたことから、印南別嬢と播磨稲日大郎姫命を同一人物と見て1883年(明治16年)に播磨稲日大郎姫命の陵に治定され、1885年(明治18年)に陵域を定めるとともに修陵され、1895年(明治28年)に陵号が「日岡陵」と定められた。 なお、日岡山南麓には延喜式内社の日岡神社が鎮座し、その社伝では播磨稲日大郎姫命の日本武尊らの出産の際に天伊佐佐比古命(日岡神社祭神)が安産祈願をしたと伝えている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 21:34 UTC 版)
『日本書紀』に崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていた。歴史学者・考古学者の間ではいまなお本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:48 UTC 版)
被葬者は明らかでない。熱田神宮では、古くから「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓とする。神宮では、南方約300メートルにある白鳥古墳も「白鳥御陵」と称して日本武尊の陵としており、現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳とにおいて御陵墓祭を行なっている。ただし史書上でのヤマトタケル伝説の想定年代は4世紀頃となり、断夫山古墳の築造時期とは大きく隔たる。 『日本書紀』に基づく関係系図 [尾張氏]尾張連草香 26 継体天皇 目子媛 27 安閑天皇 28 宣化天皇 学術的には、この断夫山古墳は尾張地方で最大規模の古墳であることから、古代豪族の尾張氏(おわりうじ、尾張連)の首長墓になると考えられている。『日本書紀』ではこの6世紀頃のこととして、継体天皇(第26代)の妃として尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)があったとし、さらに目子媛はのちの安閑天皇(第27代)・宣化天皇(第28代)を産んだと記載しており、尾張氏が継体大王の外戚としてヤマト王権と強い結びつきを持っていたことが知られる。古墳分布の様相的にも尾張地方は継体大王の支持勢力の中で最大勢力を成しており、越前から擁立されたという継体大王の即位に尾張氏が大きく貢献した様子が指摘される。具体的な断夫山古墳の被葬者については、尾張連草香に比定する説や、目子媛に比定する説がある。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 23:19 UTC 版)
和志山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第12代景行天皇皇子の五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓に治定している。この五十狭城入彦皇子は、史書では系譜のみで事績の見えない人物であるが、『先代旧事本紀』「天皇本紀」では三河長谷部直の祖と見える。『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の「気入彦命(けいりひこのみこと)」が逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見え、これを五十狭城入彦皇子と同一人物とする説がある。また、本古墳周辺が『和名抄』に見える三河国碧海郡谷部郷(はせべごう)に比定されることから、五十狭城入彦後裔の長谷部氏の当地への来住説もある。この五十狭城入彦皇子(および気入彦命)の墓について史書に記述はないが、1895年(明治28年)に当時の宮内省によって和志山古墳が気入彦命の陵墓伝説地に治定され、のちに五十狭城入彦皇子墓への治定変更を経て、現在まで踏襲されている。 なお、和志山古墳の南東方には五十狭城入彦皇子を祭神とする和志取神社(岡崎市西本郷町御立、式内社論社)が鎮座し、五十狭城入彦皇子に関する由緒を伝えるほか、本古墳の陵墓治定に関する史料を伝世する。
※この「被葬者」の解説は、「和志山古墳」の解説の一部です。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 22:53 UTC 版)
周辺が中臣氏の根拠地であることから、被葬者はその一族とされていたが、昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫は、条里制の復元研究結果にもとづき同墓が坂上田村麻呂(758年~811年)の墓である可能性を指摘した。平成19年(2007年)、京都大学大学院文学研究科教授の吉川真司が清水寺縁起の弘仁2年(811年)10月17日付の太政官符表題の記述と当時の地図(条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで坂上田村麻呂墓説を裏付けた。 山科西野山古墳出土品のうち革帯飾石は三位以上および四位参議が用いた白玉の可能性が高く、鉄鏃の出土は弓矢の副葬を意味している。また瓦硯の年代は長岡京期から平安時代初期とされている。このことから被葬者は8世紀末から9世紀初頭に死去した公卿クラスの上級貴族であり、武官であったと考えられ、位置・年代・内容のどれをとっても坂上田村麻呂と一致する。
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被葬者
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山田上ノ山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第36代孝徳天皇の陵に治定している。孝徳天皇について、『日本書紀』では白雉5年(654年)10月に崩御し、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。『延喜式』諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。 梅鉢御陵関係系図 石姫(太子西山古墳) 29 欽明 [蘇我氏]小姉君 [蘇我氏]堅塩媛 天皇 広姫 30 敏達天皇(太子西山古墳) 33 推古天皇(山田高塚古墳) 31 用明天皇(春日向山古墳) 穴穂部間人皇女(叡福寺北古墳) 32 崇峻天皇 押坂彦人大兄皇子 竹田皇子(山田高塚古墳) [膳氏]膳郎女(叡福寺北古墳) 聖徳太子(叡福寺北古墳) 茅渟王 36 孝徳天皇(山田上ノ山古墳) 35 皇極天皇 /37 斉明天皇 34 舒明天皇
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被葬者
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「王塚古墳 (神戸市)」の記事における「被葬者」の解説
本古墳の被葬者は明らかでない。宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地に治定しているが、被葬候補者として用明天皇(第31代)皇子の当麻皇子の妃の舎人姫王(とねりのひめおおきみ、舎人皇女<とねりのひめみこ>)が想定されている。この舎人姫王は飛鳥時代の皇族で、『日本書紀』推古天皇紀によれば、推古天皇11年(603年)に夫の当麻皇子が征新羅将軍として出征する際に付き従ったが、同年7月にその途上の播磨の赤石(= 明石)で薨じ、赤石の「檜笠岡の上」に葬られたという。本古墳が宮内庁により陵墓参考地に治定されたのは、その墓に擬されたことによる。ただし、前述のように本古墳が実際には舎人姫王のはるか以前(5世紀初頭)の築造になることは明らかで、舎人姫王は本古墳の被葬者として不適当であり、また正確な「檜笠岡の上」の所在も未だ詳らかでない。
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被葬者
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詳細は「鎮 (高句麗)」を参照 墨書の文面は、「鎮」という人物が被葬者で、77歳で死去し、本葬は永楽18年12月25日であり、佳き日佳き地を選んだうえでの葬送であり、福は子孫万世におよぶであろうというものであった。「永楽」は高句麗19代の好太王(広開土王)の年号で、永楽18年12月は西暦409年1月に相当する。「鎮」なる人物が仏教に帰依したことが墨書よりうかがえるが、この人物が高句麗人なのか漢人なのかについては見解が分かれている。しかしながら、研究が進展した結果、現在は「鎮」は中国人亡命者とする見解が有力であり、李成市は「冬寿の没年から五一年後に葬られた中国系人士の墳墓(徳興里古墳)が、一九七六年に平壌西方の南浦市江西区で発見され、ここからも壁画とともに、墓誌を含む多数の墨書銘が確認された。その墓誌には、高句麗年号(永楽一八年)が掲げられ、高句麗の官位(國小大兄)を帯びていることもあって、被葬者の某鎮については、これまで高句麗人とする見解もあった。しかし彼もまた、五胡十六国の動乱のなかで、華北から東流し、高句麗領へ投帰、亡命した中国人の一人であったことは疑問の余地がない」「冬寿と某鎮は、同じく高句麗の地で没し、また同じく生存中は高句麗王権との間に一定の政治的関係を有した流入中国人であった」と評している。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 21:54 UTC 版)
佐紀石塚山古墳は成務天皇陵に治定されているが、「続日本後紀」によると神功皇后の狭城盾列後陵と間違えられた時期がある。843年(承和10年)、奇異があることにより、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されている。
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被葬者
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『日本書紀』に基づく関係系図 広姫 30 敏達天皇 大俣王 押坂彦人大兄皇子 糠手姫皇女 茅渟王 34 舒明天皇 35 皇極天皇(37 斉明天皇) 36 孝徳天皇 牧野古墳の実際の被葬者は明らかでないが、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)に比定する説が有力視されている。押坂彦人大兄皇子は第30代敏達天皇の第一皇子で、当時皇位の有力候補として物部守屋ら反蘇我氏に擁立されたが、途中で歴史から名を消した人物である(一説に蘇我馬子により暗殺)。 押坂彦人大兄皇子の墓について、『延喜式』諸陵寮では遠墓の「成相墓(なりあいのはか/ならいのはか)」として記載され、大和国広瀬郡の所在で、兆域は東西15町・南北20町で守戸5烟を毎年あてるとする。この15町×20町という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町四方を大きく上回るものになる。押坂彦人大兄皇子に関して宮内庁による治定墓はないが、広陵町赤部にある三吉陵墓参考地(新木山古墳)では押坂彦人大兄皇子が被葬候補者に想定されている。ただし現在では、新木山古墳は押坂彦人大兄皇子から遡る古墳時代中期の5世紀前半頃の築造とされる。一方で牧野古墳を押坂彦人大兄皇子の墓とする説では、確かな資料は欠くが、所在地の『延喜式』の記載との対応、築造時期、墳丘規模、石室規模が根拠とされる(ただし子の茅渟王の墓と推定される平野塚穴山古墳(香芝市)とは時期差が開く)。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 00:15 UTC 版)
被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)であるとの説が有力である。 八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 08:32 UTC 版)
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。 天武天皇の皇子説 忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)、猪熊兼勝(現京都橘大学名誉教授)、王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いこと、副葬品、人物像の服装など。 高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六(考古学者)、河上邦彦(奈良県立橿原考古学研究所副所長、現神戸女子大学教授)、豊田有恒(作家)ら。 弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。 しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。 臣下説 岡本健一(京都学園大学教授)、白石太一郎(奈良大学教授)らは石上麻呂説を主張する。この説となると高松塚古墳は奈良時代の年代となる。 朝鮮半島系王族説 百済王禅光と主張するのは千田稔(国際日本文化研究センター教授)。 堀田啓一(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。
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被葬者
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七輿山古墳は、5世紀後半に築造された土師ニサンザイ古墳の相似形であり、名古屋市熱田区の断夫山古墳と規格が合致するため、倭王権から緑野屯倉に派遣された尾張氏の人間が現地に葬られたとする説がある。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:53 UTC 版)
室宮山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説として武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね)の墓に比定する説が知られる。この武内宿禰は、『日本書紀』や『古事記』によれば景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)に5代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。記紀ではその墓に関する記載はないが、中世の『帝王編年記』仁徳天皇78年条の記す一説では、武内宿禰は大和国葛下郡で薨じ死所は「室破賀墓」であるとしており、同記の編纂当時(南北朝時代頃)には本古墳に関して武内宿禰被葬者説が存在したことが知られる。ただし、この武内宿禰は7世紀頃の創出と見られる史実性の薄い人物になる。 別説として近年では、被葬者を葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)に比定する説が有力視される。この襲津彦は『古事記』で武内宿禰の子に位置づけられる人物で、記紀以前の『百済記』にも類似名称の記載があることから、4世紀末から5世紀前半頃の実在性が有力視される。襲津彦の活動時期は本古墳の築造時期とも一致し、また朝鮮半島に派遣されたという襲津彦の人物像は北石室出土の船形陶質土器とも関連づけられるが、本古墳を襲津彦の墓とする明確な根拠は知られていない。また葛城襲津彦に比定する場合でも、記紀の記す襲津彦の人物像にはモデル人物が複数存在する可能性があるため、本古墳の被葬者と一対一に対応するものではない。 そのほか、かつては本古墳を孝昭天皇陵や孝安天皇陵に比定する説もあった。なお、『日本書紀』『古事記』では孝安天皇の宮(皇居)が室の「秋津島宮(あきつしまのみや、葛城室之秋津島宮)」であると見えるが、その宮を当地に比定する説が古くからあり、室宮山古墳の東側に鎮座する八幡神社境内には「室秋津島宮阯」碑が建てられている。 後円部に隣接する八幡神社 八幡神社境内にある室秋津島宮阯碑
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:32 UTC 版)
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、 この古墳の後円部の直径が長里説を取れば『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致するとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3センチメートル、一里は1800尺=300歩であり、魏・晋時代の1里は約435メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる。 後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。 大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。 一方これに対する反論もあり、根拠としては、 魏志倭人伝では、對馬國や一大國などの旅程記事などから一里約76メートル(これを短里と呼ぶ)とする説が有力であり、この場合古墳の直径は約30メートルとなる。またこれだけ巨大な前方部が無視されている合理的な説明がつかない。 もっとも早い築造であっても並立王朝説などに対しては全く反論にならない上、早くとも3世紀後半という卑弥呼没年との築造年代のズレも問題がある。 殉葬跡が存在せず、箸墓古墳と同時期に築造された古墳は全て有棺有槨であるなど、『魏志倭人伝』の槨がないとの記述と一致しない。 といったものがある。このような議論があり、意見の一致を見ていない。 広瀬和雄は「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べている。白石太一郎は「卑弥呼の墓である事の証明はしがたいが、蓋然性は高い」とする見解を示している。石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓とし、「纒向遺跡。二世紀末に突然あらわれ、四世紀中頃に突然消滅したこの大きな集落は、邪馬台国の有力な候補地として浮かびあがってきた」としている。箸墓を寿陵と考える寺沢薫は「壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこよう」と評価している。 奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280~300年(±10~20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、C14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したとして、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低いとする意見もある。 2009年(平成21年)5月30日に国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾は、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする研究成果を報告した。ただし、歴博は弥生時代開始をAMS法で測定した結果、これまでの定説より600年早い紀元前10世紀から始まったと発表して批判を浴びており、箸墓周濠出土の土器でも通説より20年ないし数十年ほど古い値が出ている としているが、海洋リザーバー効果を考慮していないなど多くの批判がある。 歴博教授の西本豊弘らによる2009年(平成21年)1月の報告によると、紀元前650年付近と紀元後100年頃から200年頃に放射性炭素濃度が世界標準と乖離する部分があることがほぼ確実となっており、これを補正するために日本独自の炭素年代較正曲線(J-Cal)がまとめられつつある段階で、年代推定には誤差があることに注意する必要がある。 2011年(平成23年)には、国立歴史民俗博物館調査チームによる日本産樹木年輪資料を用いての較正を行った結果として、築造「直後」の年代を西暦240年-260年頃と報告した。白石太一郎は、この自然科学分析による年代測定結果は、現代の考古学による古墳出現期の暦年代観とも巨視的に一致するとして肯定的に評価しつつ、築造開始時期が西暦240年よりも古くなる可能性をも示唆する報告書の見解については、分析に使用した布留0式土器が出土状況からみて築造「直後」のものとは考えにくい(築造開始時期とする可能性のほうが高い)として疑問を示している。 いずれにせよ、現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:42 UTC 版)
古墳について文献からは発見されておらず不詳である。宮内庁の陵墓参考地には指定されていないが、本格的な墳丘内部の学術的調査は不十分であり、考古学的にも被葬者について具体的には解明されていない。 足守川一帯は遺跡や古墳が多く(上東遺跡 - 弥生時代、楯築遺跡 - 2世紀後半から3世紀 、上述の中山茶臼山古墳、作山古墳 - 5世紀中葉、王墓山古墳 -6世紀後半 など、日幡城も古墳跡といわれる)、古来からの一帯を支配した勢力の首長級の陵墓、さらには、現在大阪府に残る陵墓以外では最大の規模の陵墓であることから、ヤマト王権に拮抗する勢力首長の陵墓とも考えられている。 一方で、吉備単独勢力の首長ではなく、ヤマト王権と連合した倭王のうちの一人の陵墓ではないかと見ている研究者もいる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:52 UTC 版)
「見島ジーコンボ古墳群」の記事における「被葬者」の解説
同時代の島内の集落規模から考えて、被葬者たちを島人とするのは無理がある。積石塚と副葬品の組み合わせが岩手県に多数存在する蝦夷塚と共通する事と、副葬品の帯具の特徴から、発掘調査された56号墳の被葬者は長門国に移配されてきた俘囚集団の長であったと考えられる。副葬品はこの首長が七、八位の位を持つ有位者であることを示しており、見島の俘囚集団は国司の庇護の元に自治的に統率されていたと考えられる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:33 UTC 版)
太田茶臼山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第26代継体天皇の陵に治定している。継体天皇について、『古事記』では丁未年(527年?)に崩御して「三島之藍陵」に、『日本書紀』では継体天皇25年(531年?)に崩御して「藍野陵」に葬られたと見える。『延喜式』諸陵寮では継体陵は遠陵の「三嶋藍野陵」として記載され、摂津国島上郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で、守戸5烟を毎年あてるとする。また正治2年(1200年)の『諸陵雑事注文』では「摂津島上郡継体天皇」と記載が見えるほか、13世紀後半の西園寺公衡の日記に「摂津嶋上陵」の盗掘記事が見える。なお、陵名に見える「藍」は一帯の広域地名であり、現在も「安威川(あいがわ)」という地名が遺存する。 その後、継体天皇陵の所在に関する所伝は失われた。江戸時代に入り、元禄9年(1696年)に松下見林の『前王廟陵記』によって初めて太田茶臼山古墳を継体天皇陵とする説が挙げられ、享保17年(1732年)までには治定に至った。ただし、太田茶臼山古墳は島下郡の郡域に属して『延喜式』の記載とは齟齬が生じるため、本居宣長は後世に島上郡・島下郡の郡界が移動したと解釈を加えている。太田茶臼山古墳を継体天皇陵とする説は以降も踏襲され、1884年(明治17年)には宮内省(現・宮内庁)の管轄に移り、現在に至っている。なお、大阪府内にある宮内庁治定の他の天皇陵は百舌鳥・古市古墳群など主に府南部に集中しており、そちらは古市陵墓監区事務所の管轄であるが、府北部に唯一ある本陵は百舌鳥・古市古墳群などからは距離が離れており比較的京都府の伏見桃山陵の方が近いことから、桃山陵墓監区事務所の管轄となっている。 以上の一方、継体天皇の真陵に関しては、太田茶臼山古墳ではなく今城塚古墳(高槻市郡家新町)に比定する説が有力視されている。この説は大正から昭和初期頃より提唱されるもので、その説の中では、郡界の移動は無く今城塚古墳のみが島上郡の郡域に属したとする。築造年代の点でも、太田茶臼山古墳(5世紀中頃)には継体天皇の没年から開きが生じているが、今城塚古墳(6世紀前半頃)の方はその没年に一致することが判明している。 太田茶臼山古墳の真の被葬者については、継体天皇ではないとしても、ヤマト王権の大王墓群(百舌鳥・古市古墳群)から近い摂津における巨大古墳である点、摂津では唯一陪塚を伴う古墳である点、当地でそれまでに築造された古墳に比べて飛躍的な規模である点、後世にヤマト大王墓(今城塚古墳)が営まれている点等を踏まえて、ヤマト王権から分派した王族と推測する説が挙げられている。具体的な被葬者としては前述の允恭天皇陵との関連から允恭天皇の皇后忍坂大中姫の兄で継体天皇の曽祖父に当たる意富富杼王に比定する説がある。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 22:52 UTC 版)
林ノ腰古墳の実際の被葬者は明らかでないが、近江毛野(近江毛野臣)の墓とする説が挙げられている。近江毛野は6世紀前半頃の武人で、『日本書紀』によれば継体天皇21年(527年)に新羅に奪われた加耶の復興に赴く途上で磐井に阻まれ、磐井鎮圧後の継体天皇23年(529年)に朝鮮半島に赴くも失敗し、召還命令を受けて帰国中の継体天皇24年(530年)に対馬で病死したとされる人物である。 近江氏(近江臣)の本拠地については必ずしも詳らかでないが、林ノ腰古墳は真の継体天皇陵とされる今城塚古墳の墳丘平面規格の配布を受けたと推定されることから、継体天皇と密接な関わりを持った人物として近江毛野が想定されている。北方では弥生時代以来の伝統的首長墓系譜として大岩山古墳群の営造が知られるが、それらとは性格を異にする本古墳と越前塚古墳(林ノ腰古墳の前代首長墓)は、新興の首長層の勃興を示すとして注目される。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:58 UTC 版)
斉明天皇の夫舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳であり、今回の精査によって、本古墳もまた当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳であることが確認された。また、本古墳が築造当初より合葬が明確に計画されていたことは調査成果によっていっそう明らかになった。さらに、加工石をこれほどふんだんに用いた古墳は他に類例がなく、古墳自体が巨大な石造記念物であることも明らかとなった。以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。 いっぽう宮内庁は、本古墳から西南西の方向へ2.5キロメートル離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵として有力視される今城塚古墳(大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳(奈良県明日香村平田字中尾山)などと同様、従来の陵墓の治定を見直す必要があるのではないかという議論が起こっている。しかし、宮内庁書陵部では斉明天皇陵「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の候補地として牽牛子塚古墳が有力であるとする説があることを認めながらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている。
※この「被葬者」の解説は、「牽牛子塚古墳」の解説の一部です。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:03 UTC 版)
黄金塚2号墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では後円部墳頂の五輪塔を伊予親王(いよしんのう)の墓に治定している。伊予親王は第50代桓武天皇の第三皇子で、式部卿・中務卿兼大宰帥などを歴任したが、大同2年(807年)に謀反の疑いで母の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、親王位が剥奪された翌日の11月12日に母と服毒自殺した人物である。『延喜式』諸陵寮では遠墓の「巨幡墓」として記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東1町・西1町5段・南2町・北3町で守丁1人を毎年あてるとする。 その後、中世期には陵の所在に関する所伝は喪失。近世期の『山城志』・『陵墓一隅抄』では現在の場所を示しており、明治維新後の1884年(明治17年)1月に巨幡墓に治定された。ただし前述のように、黄金塚2号墳の築造年代は伊予親王から大きく遡る4世紀後半頃とされる。
※この「被葬者」の解説は、「黄金塚2号墳」の解説の一部です。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 04:19 UTC 版)
被葬者は、宮内庁により第12代景行天皇皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと、倭建命)に治定されている。ただし考古学的には詳らかでない。治定の経緯は次による。
※この「被葬者」の解説は、「能褒野王塚古墳」の解説の一部です。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 04:54 UTC 版)
被葬者は二人の武人であり「王」のもとに奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文を持つ鉄剣を下賜されたと考えられている。なお、銘文中の「王」は倭の五王の可能性がつよく「済」(允恭天皇)とする説が有力である。しかし和歌山県の隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘に「大王」の記述が見られ、この鏡の銘の癸未年を443年とすると允恭天皇は「大王」を名乗っていたと推測されることから、「王」を上海上の首長である対岸の姉崎二子塚古墳の被葬者とみる説もある。
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被葬者
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本古墳の被葬者は明らかでない。当時としては丹波地方で最大規模であることから、亀岡盆地のみならず南丹波全域を支配した首長墓と推定される。西丹波(篠山盆地)まで支配した広域首長墓とする説もある。 一説では、被葬者は『日本書紀』継体天皇即位前紀に見える王族の倭彦王(やまとひこのおおきみ/やまとひこのおう)に比定される。この倭彦王とは丹波国桑田郡にいたという仲哀天皇(第14代)5世孫で、6世紀初めに武烈天皇(第25代)が後嗣なく崩御した際、男大迹王(のちの第26代継体天皇)とともに皇位継承候補者に挙げられていたが、皇位につくことはなかったという。この倭彦王自体は、実在性の薄い仲哀天皇の後裔であり、かつ名前も「ヤマトヒコ」という普通名詞であることから伝承性の強い人物とされる。しかしこの時期としては近畿地方屈指の規模である千歳車塚古墳の存在を基に、そのモデルとなる皇位継承候補者がクワタ地域にいた可能性が指摘される。 『新修亀岡市史』では千歳車塚古墳の様相を基にして、倭彦王のモデル人物を墳形に見られるようにヤマト王権の血統を受け継ぐ人物と見て、埴輪供給地に見られるように継体天皇とも友好関係にあったが何らかの事情により皇位継承は辞退し、それがのちに「ヤマトヒコ」伝承になったと推測している。そのほかに千歳車塚古墳をこの「ヤマトヒコ」の墓にあてる根拠の1つとして、当地に本古墳の前後に同規模の古墳がないことから、被葬者が一時的に外から来た人物の可能性が高いと指摘する説もある。 以上とは別に『日本書紀』仁徳天皇(第16代)16年7月条では、宮人の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)が故郷の桑田に帰る途中で死去し、今に玖賀媛の墓があると記されている。千歳車塚古墳の年代からは大きく隔たるが、『新修亀岡市史』ではこの伝承もクワタ地域を代表する千歳車塚古墳に基づくものと見て、本古墳の本来の被葬者がわからなくなったのちに玖賀媛の墓が本古墳に擬された可能性を指摘する。 なお千歳車塚古墳の西方に「吉備」という字があることから、地元ではかつて本古墳を元明天皇陵とし、吉備何某がその守をしたとする伝承があった。
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被葬者
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菖蒲池古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には皇族の墓と推定される。この説では、天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)と同様に、本古墳が藤原京の朱雀大路南延長線上に位置することが指摘される。 一方、本古墳を蘇我氏の墓と推定する説もある。この説では、蘇我氏系寺院の配置とも考え合わせて、植山古墳・菖蒲池古墳・五条野宮ヶ原1・2号墳(いずれも方墳)一帯は蘇我氏の墓域であったと推測する。特に、天武・持統天皇陵などの天皇陵が築造された地域からは離れて、飛鳥への入口を抑える道沿いに築造された点が、造墓氏族の性格として指摘される。また近年には、付近で巨大方墳の小山田古墳が発見されたことから、同古墳と菖蒲池古墳を特に蘇我蝦夷・入鹿の墓(『日本書紀』の大陵・小陵)に比定する説も挙げられている。
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被葬者
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韓国では、高句麗第20代の長寿王(在位:413年 - 491年)の墓に比定されている。日本の永島暉臣慎、田村昇一、東潮らの研究者は、谷豊信による太王陵・将軍塚両陵墓で出土した瓦と平壌で出土した軒丸瓦などの比較研究などをもとに将軍塚を第19代好太王(広開土王、在位:391年 - 412年)の陵墓とみている。一方、桃崎祐輔は太王陵を好太王墓とする見解を支持している。中国の学界では、太王陵から馬具や装身具と共に「好太王」銘を持つ銅鈴が出土したことから、太王陵を好太王、将軍塚を長寿王の墓とする説が有力である。
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被葬者
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雄略天皇 古事記河内之多治比高鸇 日本書紀丹比高鷲原陵 延喜式丹比高鷲原陵 現在丹比高鷲原陵 丸山古墳および平塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第21代雄略天皇の陵に治定している。雄略天皇の陵について、『古事記』では「河内之多治比高鸇」の所在とあるほか、後段では顕宗天皇が復讐として雄略陵の破壊を命じたが意祁命(仁賢天皇)は一部を壊すに留めたとする。また『日本書紀』では「丹比高鷲原陵」とあり、続けて天皇崩御時に臣下の隼人が陵の側で不眠不休で泣き7日目に死んだので陵の北側に墓を造り葬ったとするほか、後段では顕宗天皇が復讐として雄略陵の破壊を計画するも億計尊(仁賢天皇)が思いとどめたとする。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「丹比高鷲原陵」として記載され、河内国丹比郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で、陵戸4烟を毎年あてるとする。 本古墳を雄略天皇陵に比定する説は、古くは延宝7年(1679年)編纂の『河内鑑名所記』に見え、1885年(明治18年)以降には丸山古墳・平塚古墳が合わせて前方後円形に修陵されているほか、北側の隼人塚古墳(後述)が『日本書紀』に見える隼人の墓に比定され飛地陪冢に治定されている。丸山古墳を雄略天皇陵に比定する説では、当地の地名が丹比郡高鷲原であることが有力な根拠になる。しかし立地・墳形・規模が古市古墳群の大王墓群とは性格を異にする点で問題があり、1970年代には前方部は削平されているとする説が挙げられ、近年では真の雄略天皇陵を岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)に比定する説等も挙げられている。本古墳が雄略天皇陵である場合には、雄略天皇は倭王武(倭の五王)にも比定される強力・先進的な大王とされるため、中国南朝の影響を受けて大円墳・横穴式石室の墓制を導入した画期的古墳である可能性が指摘される。 なお、河内大塚山古墳(羽曳野市・松原市、大塚陵墓参考地)について、宮内庁では陵墓参考地として雄略天皇を被葬候補者に想定し、かつては考古学的にも雄略天皇の真陵とする説が有力視されたが、近年では古墳時代後期の築造とする説が定着して雄略天皇陵説は否定的である。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:59 UTC 版)
垂仁陵・安康陵の陵名垂仁天皇(第11代)安康天皇(第20代) 古事記菅原之御立野中 菅原之伏見岡 日本書紀菅原伏見陵 菅原伏見陵 続日本紀櫛見山陵 伏見山陵 延喜式菅原伏見東陵 菅原伏見西陵 現在菅原伏見東陵(宝来山古墳) 菅原伏見西陵 宝来山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第11代垂仁天皇の陵に治定している。垂仁天皇の陵について、『古事記』では「菅原之御立野中」の所在とあり、『日本書紀』では「菅原伏見陵」とある。また『続日本紀』霊亀元年(715年)条では「櫛見山陵生目入日子伊佐知天皇陵」と記載し、守陵3戸を充てると見える。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「菅原伏見東陵」として記載され、兆域は東西2町・南北2町で、陵戸2烟・守戸3烟を毎年あてるとする。 以上のほか、『日本霊異記』では犬養宿禰真老が「諾楽(なら)の京の活目の陵の北の佐岐の村」に居住する旨が記されるほか、『東大寺要録』雑事章では「菅原伏見野山陵」と記載される。 その後、江戸時代の元禄探陵では、奈良奉行所は分明陵として本古墳を垂仁天皇陵と報告しており(ただしかつては天武天皇皇子の新田部親王墓に比定する説もあった)、これが現在に踏襲されている。ただし、崇神天皇(第10代)陵や景行天皇(第12代)陵がヤマト王権の発祥地ともされる奈良盆地南東部に位置するのに対して、垂仁天皇陵が奈良盆地北部に位置するのは不自然であり、考古学的な築造順序も食い違うため、『古事記』・『日本書紀』・『延喜式』の時代にはすでに垂仁天皇陵自体の所伝に錯誤が生じていたとする説がある。その説の中では、本古墳が垂仁天皇陵と想定された理由として、宝来山古墳付近を本貫とした土師氏と、垂仁天皇の埴輪説話との関係が指摘される。 なお『古事記』・『日本書紀』などでは、垂仁天皇陵と安康天皇(第20代)陵が類似する陵名で記載されており、その安康天皇陵を現陵(考古学的には中世の豪族居館跡か)ではなく宝来山古墳近くの兵庫山古墳(現在の垂仁天皇陵飛地い号:後述)に比定する説もある。
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被葬者
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念仏寺山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第9代開化天皇の陵に治定している。開化天皇の陵について、『日本書紀』では「春日率川坂本陵(坂上陵)」、『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年あてる旨とともに遠陵とされ、これらが本古墳に比定されている。ただし綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの「欠史八代」と称される8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』の諸人物の中でも極めて創作性が強い人物になる(詳細は「欠史八代」を参照)。 なお文久の修陵以前は、後円部墳頂の円丘状の高まり部分のみが開化天皇陵と見なされていたという。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:38 UTC 版)
鳥屋ミサンザイ古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第28代宣化天皇および皇后の橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)の合葬陵に治定している。宣化天皇について、『日本書紀』では宣化天皇4年(539年?)2月に崩御し、宣化天皇4年11月に「大倭国身狭桃花鳥坂上陵」に葬られたとし、皇后の橘皇女およびその子もこれに合葬したという。『延喜式』諸陵寮では宣化陵は遠陵の「身狭桃花鳥坂上陵」として記載され、大和国高市郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸5烟を毎年あてるとするが、合葬の旨の記載はない。その後、宣化陵の所在に関する所伝は失われ、江戸時代の元禄の探陵に際し、元禄12年(1699年)4月に京都所司代の松平信庸によって現陵に治定された。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:17 UTC 版)
古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。
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被葬者
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春日向山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第31代用明天皇の陵に治定している。用明天皇について、『日本書紀』では用明天皇2年(587年?)4月に崩御し、同年7月に「磐余池上陵」に葬られたのち、推古天皇元年(593年)に「河内磯長陵」に改葬されたとする。また『古事記』では「御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也」と見える(掖上は池上の誤写か)。『延喜式』諸陵寮では用明天皇陵は遠陵の「河内磯長原陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元治元年(1864年)に修補および拝所設置が実施されたのち、1899年(明治32年)には御在所修理が実施されている。 本古墳が用明天皇陵であれば、天皇陵としては最初の方形墳に位置づけられる。なお、初葬地の「磐余池上陵」については明らかでないが、一説には奈良県桜井市阿部付近に推定される。 梅鉢御陵関係系図 石姫(太子西山古墳) 29 欽明 [蘇我氏]小姉君 [蘇我氏]堅塩媛 天皇 広姫 30 敏達天皇(太子西山古墳) 33 推古天皇(山田高塚古墳) 31 用明天皇(春日向山古墳) 穴穂部間人皇女(叡福寺北古墳) 32 崇峻天皇 押坂彦人大兄皇子 竹田皇子(山田高塚古墳) [膳氏]膳郎女(叡福寺北古墳) 聖徳太子(叡福寺北古墳) 茅渟王 36 孝徳天皇(山田上ノ山古墳) 35 皇極天皇 /37 斉明天皇 34 舒明天皇
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 02:55 UTC 版)
小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか/なめだにのおか)」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される。 一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 20:16 UTC 版)
女狭穂塚・男狭穂塚の両古墳とも実際の被葬者は明らかになっていない。現在宮内庁では被葬者を特に定めずともに陵墓参考地と治定し、女狭穂塚に木花開耶姫、男狭穂塚にその夫の瓊瓊杵尊を当てている。 一説に、古墳は仲津山古墳を元に築造されており、被葬者を女狭穂塚には第16代仁徳天皇妃の日向髪長媛(ヒムカノカミナガヒメ)、男狭穂塚にはその父の諸県君牛諸(モロカタキミウシモロ、『古事記』では「牛諸」、『日本書紀』では「牛諸井」)とするものがある(北郷泰道 - 宮崎県立西都原考古博物館主幹)。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 21:33 UTC 版)
『日本書紀』に基づく関係系図 30 敏達天皇 押坂彦人大兄皇子 大俣王 茅渟王 35 皇極天皇(37 斉明天皇) 36 孝徳天皇 平野塚穴山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、茅渟王(ちぬのおおきみ/ちぬのみこ/ちぬおう、茅渟皇子)に比定する説が有力視される。茅渟王は押坂彦人大兄皇子(第30代敏達天皇皇子)の子で、皇極・斉明天皇(第35・37代)・孝徳天皇(第36代)の父であるが、『古事記』・『日本書紀』等では系譜の記載のみで事績は詳らかでない人物である。 茅渟王の墓について、『延喜式』諸陵寮では遠墓の「片岡葦田墓」として記載され、大和国葛下郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸は無しとする。平野塚穴山古墳を茅渟王の墓とする説では、確かな資料は欠くが、所在地の『延喜式』の記載との対応、築造時期、薄葬令の規定を上回る石槨規模、飛鳥地域の古墳との構築技術の共通性、夾紵棺・漆塗籠棺の使用が根拠とされる(ただし父の押坂彦人大兄皇子の墓と推定される牧野古墳(広陵町)とは時期差が開く)。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/18 21:50 UTC 版)
両石室の被葬者としては、日本書紀に推古天皇は628年に子息の竹田皇子の墓に合葬されたとあり、古事記には「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」とある。河内の磯長谷にある伝推古天皇陵(山田高塚古墳)に改葬される前の、大野岡にあった2人の合葬墓であった可能性が考えられている。推古天皇は最初、自分の遺言で夭折した息子の墓に合葬されたものの、やはり帝にふさわしい規模の陵墓が必要ということで、科長(磯長谷)に新しい陵墓が造営され、2人の遺骸が移されたということらしい。これには蘇我氏が自分の勢力範囲にある南河内に歴代の天皇(敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇)の陵墓を造営することで己の権力を固めるといった政治的思惑も働いたのではないかとの指摘もある。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:51 UTC 版)
雲部車塚古墳の実際の被葬者は明らかでない。宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地に治定しているが、被葬候補者として開化天皇(第9代)の孫にあたる丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を挙げ、1958年(昭和33年)の宮内庁の書類でも「四道将軍である命」としている。 被葬者論の経緯として、まず江戸時代頃には本古墳を源資賢の邸跡とする伝承があったが、その根拠は明らかでない。明治に入ると本古墳を皇族の墓とする説が生じ、その確認のため1896年(明治29年)に石室の発掘が実施された。そして1897年(明治30年)には、被葬者を具体的に丹波道主命に比定する説が生じた。この丹波道主命は、『日本書紀』によれば崇神天皇(第10代)の時に四道将軍の1人として丹波に派遣されたという人物になる。しかし1896年の発掘でも明らかとはならなかったため、さらに石棺を開いて調査することが提唱されたが、宮内省が発掘を回避して1900年(明治33年)に被葬者を特定しないまま陵墓参考地に治定したことで事態は決着した。なお、明治の当時には神明山古墳(京都府京丹後市)を丹波道主命の墓に比定する説もあった。 考古学的には、南側石室の被葬者は副葬品の多様な武具の存在から男性と推測される。本古墳が5世紀中頃に突如出現する大型古墳である点や、畿内大王墓に見られる長持形石棺を使用するなど大王墓と共通する画一性を持つ点から、ヤマト王権と密接な関係を持ち王権から派遣された人物の可能性が推定される。ただし上記の丹波道主命の場合、崇神天皇の実在を仮定すると丹波道主命の活躍時期は4世紀前半頃となり、年代的には大きな隔たりが生じるため、否定的な見解が強い。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:55 UTC 版)
被葬者は明らかでない。岬町の大型前方後円墳2基はいずれも当地の経済力のみで築造されたと考えにくいことから、これらの築造において紀伊勢力(紀氏)の関与が想定される。 一説では、被葬者は『日本書紀』雄略天皇9年3月条・5月条に見える5世紀後半の将軍の紀小弓(きのおゆみ、紀小弓宿禰)に比定される。『日本書紀』によると、紀小弓は新羅征討の将軍に任じられて戦ったが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じて、「田身輪邑(たむわのむら)」に紀小弓の墓を造らせたという。西陵古墳がこの紀小弓の墓に比定されるのは、その「田身輪」が「淡輪」に比定されることによる。 そのほか、『和泉志』では紀船守の墓とする説を挙げ、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳のどちらか一方を紀小弓の墓としてもう一方を紀船守の墓とする説を挙げる。ただし、この紀船守は8世紀の人物(731年-792年)になる。また『南游紀行』では五十瓊敷入彦命とする説を挙げている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 20:22 UTC 版)
木櫃の中央部が丹念に調査されたが、遺骸を埋葬していた形跡を認めることが出来なかった。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 13:59 UTC 版)
「大谷古墳 (和歌山市)」の記事における「被葬者」の解説
20歳から30歳くらいの人骨が出土している。紀氏一族の武将の奥津城(おくつき)と推定されている。紀ノ川下流域における5~6世紀の首長の墳墓は、左岸にある岩橋千塚古墳群であると考えられているので、本古墳の被葬者は別の首長と考えられる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 21:37 UTC 版)
被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。 ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。 また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張している。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 16:15 UTC 版)
「守矢氏」も参照 古墳の立地や呪術性を持つ副葬品(蛇行剣・鏡・釧・鹿角小刀子等)が大量にみられることから、被葬者は武力と呪術性に傑出して天竜川上流と諏訪湖水系を統治した人物と考えられている。 外来の建御名方神(諏訪明神)が先住の洩矢神(守矢氏の遠祖)を征服したという諏訪地方に伝わる入諏神話をもとに、古墳に埋蔵された人物を守矢氏と結びつける説も挙げられている。この神話では洩矢神が建御名方神以前の神とされているため、守矢氏は外来勢力(上社大祝家の神氏に比定)に制圧された土着氏族と想定されることが多い。これに関連してフネ古墳の副葬品は「反大和的」であると評されることもあった。しかし、割竹形木棺はヤマト王権中枢にも見られており、北信地方にある中野市にもフネ古墳と同時期で同様式の古墳が見つかっている。このことから、築造当時の諏訪が既にヤマト王権にとって重要な地域であったことをフネ古墳が物語っており、これを中央政権に対立した在地首長の墓とする見解には無理があるという意見が近年では出てきている。
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被葬者
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『日本書紀』に基づく関係系図 30 敏達天皇 押坂彦人大兄皇子 茅渟王 36 孝徳天皇 35 皇極天皇(37 斉明天皇) 34 舒明天皇 有間皇子 中大兄皇子(38 天智天皇) 大海人皇子(40 天武天皇) 岩内1号墳の実際の被葬者は明らかでないが、有間皇子(ありまのみこ)に比定する説が有力視されている。有間皇子は第36代孝徳天皇皇子で、斉明天皇4年(658年)に蘇我赤兄または中大兄皇子(のちの天智天皇)の謀略によって謀反の罪で捕らえられ、紀伊の牟婁温湯(現在の南紀白浜温泉)に滞在中の中大兄皇子のもとに連行されて藤白坂で絞首刑にされたという人物である。有間皇子の処刑の際には、側近のうち塩屋鯯魚・新田部米麻呂の2人も斬刑に、他に2人が流刑に処せられている。 有間皇子の墓に関しては文献上で明らかでないが、岩内1号墳では漆塗木棺・棺飾金具・銀線蛭巻大刀の出土および版築技法の使用の点で非常に高位の人物の埋葬が想定されており、紀伊で処刑されたという有間皇子との関連性が指摘される。なお有間皇子とともに処刑された塩屋鯯魚について、塩屋鯯魚は当地域の出身であるとして塩屋連(塩屋氏)一族が有間皇子の墓を作ったともいわれる。 なお有間皇子の墓に関しては、藤白坂伝承地の藤白神社(海南市)そばにも墓碑が建てられている。
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被葬者
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山田高塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第33代推古天皇および子の竹田皇子(たけだのみこ)の合葬陵墓に治定している。推古天皇について、『日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月に崩御したとし、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い。『延喜式』諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする。また『扶桑略記』によれば、康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという。 その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。また古書では、横穴式石室(いずれの石室か不明)の内部には石棺2基があって、右が推古天皇棺で左が竹田皇子棺であると見える。ただし前述のように本古墳には2基の石室の存在が推定されるため、性格を規定するには石棺2基の石室とは別の石室の内容も考慮するべき点が注意される。 なお、推古天皇・竹田皇子の真の合葬陵墓としては東方約200メートルの二子塚古墳に比定する説もあるほか、改葬前の陵墓(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある(詳細は「植山古墳」参照)。 梅鉢御陵関係系図 石姫(太子西山古墳) 29 欽明 [蘇我氏]小姉君 [蘇我氏]堅塩媛 天皇 広姫 30 敏達天皇(太子西山古墳) 33 推古天皇(山田高塚古墳) 31 用明天皇(春日向山古墳) 穴穂部間人皇女(叡福寺北古墳) 32 崇峻天皇 押坂彦人大兄皇子 竹田皇子(山田高塚古墳) [膳氏]膳郎女(叡福寺北古墳) 聖徳太子(叡福寺北古墳) 茅渟王 36 孝徳天皇(山田上ノ山古墳) 35 皇極天皇 /37 斉明天皇 34 舒明天皇
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被葬者
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男狭穂塚古墳の実際の被葬者は明らかでない。宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地(男狭穂塚陵墓参考地)に治定しているが、被葬候補者として瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を挙げ、隣接する女狭穂塚古墳(女狭穂塚陵墓参考地)では被葬候補者として妃の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)を挙げる。 瓊瓊杵尊は日本神話に登場する神であり、『日本書紀』ではその陵について「筑紫日向可愛之山陵」と記載されるが所在地は詳述されていない。また『延喜式』諸陵式では遠陵の「日向埃山陵」として記載されるが、「在日向国、無陵戸」とのみ簡潔に付記されるため、『延喜式』当時には所在が失われていたとする説もある。この瓊瓊杵尊の陵を巡っては、宮崎県域・鹿児島県域に本古墳含む数ヶ所の伝承地が存在したが、1874年(明治7年)に現在の可愛山陵(鹿児島県薩摩川内市の新田神社境内)に治定され、本古墳は1895年(明治28年)に陵墓参考地に治定された。
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被葬者
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石室からは被葬者の歯が3本発見され、鑑定の結果熟年の女性のものであることが判明した。また明治に発掘された耳環は11点を数えるため、被葬者は少なくとも6人いたとみられている。
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被葬者
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被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである。 筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されている(磐井の乱参照)。また『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したという。 なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流であった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在まで定説となっている。
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被葬者
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崇神陵・景行陵の陵名崇神天皇(第10代)景行天皇(第12代) 古事記山辺道勾之岡上 山辺之道上 日本書紀山辺道上陵 山辺道上陵 延喜式山辺道上陵 山辺道上陵 現在山辺道勾岡上陵(行燈山古墳) 山辺道上陵(渋谷向山古墳) 行燈山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第10代崇神天皇の陵に治定している。崇神天皇の陵について、『古事記』では「山辺道勾之岡上」の所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」とある(景行天皇陵と同名)。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「山辺道上陵」(景行天皇陵と同名)として記載され、大和国城上郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で、守戸1烟を毎年あてるとする。なお同書では、大和国山辺郡の衾田墓(手白香皇女墓)の条において、「山辺道匂岡上陵」の陵戸が衾田墓の守戸を兼ねることが記されている。 その後、陵の所在に関する所伝は喪失。江戸時代後期に蒲生君平は『山陵志』で本古墳を景行天皇陵に比定したが、江戸時代末期に谷森善臣は『山陵考』で崇神天皇陵に比定し、その説が現在まで踏襲されている。この説の根拠の1つとしては、上述の衾田墓(衾田陵。現陵は西殿塚古墳、真陵は西山塚古墳か)には行燈山古墳の方が近いことがあった。 なお、考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳(桜井市箸中)からは数代後に位置づけられる。 ヤマト王権の推定初期大王墓代古墳名1 箸墓古墳 2 西殿塚古墳 3 外山茶臼山古墳 4 メスリ山古墳 5 行燈山古墳 6 渋谷向山古墳
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被葬者
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「稲荷山古墳 (行田市)」の記事における「被葬者」の解説
礫槨被葬者は豊富な副葬品をもって葬られており、ヤマト王権に関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高いとみることができる。 ヲワケの出身をどのように考えることができるかで各種の説があるが、大きく三つの説に分けることができる。 ヲワケを畿内ヤマト王権の有力首長とし、礫槨被葬者はその部下で、この鉄剣を下賜されたとする説。オオヒコが阿倍臣・膳臣の祖であることから両氏の内の一人とみる。 ヤマト王権の有力者であるが、東国に派遣されて礫槨の被葬者になったとする説。 ヲワケをヤマト政権に連合していた東国の首長とし、礫槨の被葬者とする説。 以上三つの説は、いずれも決定的な根拠は無い。 王賜銘鉄剣によって、5世紀中葉期の関東の小首長が大王のもとに、武人として奉仕していたことが分かっている。 そこで第三の説に立つと、ヲワケも宮廷に出仕してその力量を認められて「杖刀人首」の地位を得、自身の出自の由緒を誇示しようとして八代の系譜を造作したと考えられる。銘文の末に「吾が奉事の根源を記す也」と特記されており、ヲワケの絶頂期にこの鉄剣をつくって誇示したとも推測できる。 また第一の説、第二の説では、日本書紀によると、534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ、おぬし)が武蔵国造と定められ、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったことが分かる。何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が出現したこと、鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラとも読めることから、笠原を本拠としたとされる武蔵国造の墓であるとする説もある[要出典]。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 09:31 UTC 版)
後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、有力者の夫妻であろうと思われる。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:54 UTC 版)
「白鳥古墳 (名古屋市)」の記事における「被葬者」の解説
古墳は、尾張氏の首長墓と考えられている。 熱田神宮社伝では、日本武尊の陵としている。これは、能褒野に葬られてのち白鳥となった日本武尊が当地に降り立ったという伝承に基づく。神宮では、北方約300メートルにある断夫山古墳を「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の宮簀媛(みやずひめ)の墓とし、現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳とにおいて御陵墓祭を行なっている。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:12 UTC 版)
関係略系図 19 允恭天皇 木梨軽皇子 穴穂皇子(20 安康天皇) 大泊瀬稚武皇子(21 雄略天皇) 東宮山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、第19代允恭天皇皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ/きなしのかるのおうじ、木梨軽太子)の墓とする伝承があり、宮内庁では陵墓参考地に治定している。 『日本書紀』によれば、木梨軽皇子は允恭天皇第一皇子で、允恭天皇23年に立太子したが、同母妹の軽大郎皇女との相姧が発覚したことで皇女は伊予に流され、皇子は皇太子であったために刑を免れた。そして允恭天皇崩御後に第三皇子の穴穂皇子(安康天皇)との間で皇位を争ったが破れ、逃げ隠れた物部大前宿禰の家で自害したという(一云として伊予国に流されたとも)。また『古事記』では、允恭天皇崩御後に木梨軽皇子は失脚し、大前小前宿禰の家に逃げ込んだが捕らえられて伊予の湯(愛媛県松山市の道後温泉)に流刑となり、その後を追ってきた軽大娘皇女と自害したという。『日本書紀』・『古事記』のほか『延喜式』諸陵寮では葬所の記載はない。 本古墳が木梨軽皇子の墓であるという根拠は明確でないが、当地では本古墳を墓所とする伝承が古くから存在した。1874年(明治7年)の陵墓取調指示に応じて春宮神社祠官からその旨の報告があったのち、1894年(明治27年)に地元民による発掘が行われ(木梨軽皇子の墓とする証拠を得るためか)、1895年(明治28年)に陵墓参考地として保存することが決定されて現在に至っている。 なお木梨軽皇子・軽大娘皇女の墓については、軽之神社(松山市姫原)の比翼塚とする伝承もある。
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被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/16 10:09 UTC 版)
北花内大塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女:いいとよのあおのひめみこ)の陵に治定している。飯豊青皇女の墓について『古事記』に記載はないが、『日本書紀』顕宗天皇即位前紀では「葛城埴口丘陵」と見える。『延喜式』諸陵寮では遠墓の「埴口墓」として記載され、大和国葛下郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で、守戸3烟を毎年あてるとする。 飯豊青皇女(飯豊女王/飯豊郎女/飯豊王/青海皇女/青海郎女/忍海部女王/忍海郎女)は、清寧天皇(第22代)の崩御後に億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)が皇位を譲り合ったため、忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮、伝承地は葛城市忍海の角刺神社)で政務をとったとされる人物である。『日本書紀』では清寧天皇5年11月に崩御し、『本朝皇胤紹運録』では45歳であったとする。飯豊青皇女が即位したかは明らかでないが、『日本書紀』では「飯豊青尊」として墓所も「陵」と記す(通常の皇族墓は「墓」)ことから、古くから歴代天皇に位置づける説が生じており、『扶桑略記』・『本朝皇胤紹運録』では「飯豊天皇」と記載されている。本陵においても元治元年(1864年)に『日本書紀』に従って「陵」と定められており、これが現在まで踏襲されている。 『日本書紀』に基づく関係系図16 仁徳天皇 17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇 市辺押磐皇子 20 安康天皇 21 雄略天皇 飯豊青皇女(飯豊天皇?) 億計王(24 仁賢天皇) 弘計王(23 顕宗天皇) 22 清寧天皇
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