亀塚古墳
亀塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 02:39 UTC 版)
亀塚古墳 | |
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所属 | 亀塚古墳群 |
所在地 | 大分県大分市里 |
位置 | 北緯33度14分5秒 東経131度44分22.5秒 / 北緯33.23472度 東経131.739583度座標: 北緯33度14分5秒 東経131度44分22.5秒 / 北緯33.23472度 東経131.739583度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長116m |
埋葬施設 | 組合式箱型石棺 |
出土品 | 勾玉・管玉 |
築造時期 | 5世紀初頭 |
史跡 | 国の史跡「亀塚古墳」 |
特記事項 | 大分県最大級の規模 |
地図 |

亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市里にある前方後円墳の古墳。国の史跡に指定されている。
大分県では小熊山古墳(杵築市狩宿)と並び最大級の規模の古墳で、5世紀初頭(古墳時代中期)の豊国の範囲での築造と推定される。近年の住宅地開発などで周辺の古墳調査が進み、一帯は「亀塚古墳群」として認知されつつある。
概要

墳丘は前方部を南に向けた3段構築で、全長116メートル(前方部長52メートル、後円部直径64メートル)、高さは前方部7メートル・後円部10メートルで、西側のくびれ部に造出しがある。墳丘は白い石英質の葺石で覆われていた。
埋葬施設は前方部墳頂に2つ設けられており、第1の埋葬部には長さ3.2メートルにもおよぶ大形の箱型の組合せ式石棺が埋められており、第2の埋葬部はその東側に後から設けられた。すでに盗掘を受けていたが、短甲・鉄刀の破片、滑石製の勾玉、碧玉製の管玉、ガラス製の小玉などが出土している。
古墳域は1996年(平成8年)3月28日に国の史跡に指定されている。
築造時期
被葬者
古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。
保存・復元整備
大規模な盗掘によって石棺が破壊され、大半の副葬品も持ち去られてしまっていたが、墳丘の保存状態は良く、上空からもはっきりと前方後円墳であることが確認できる状態であった。ただし周辺の整備は平成に入るころまでほとんど行なわれず、車道から竹薮に入り獣道を辿っていくと不法投棄も多く、それを超えていくと、突然視界が開けて姿を現すような場所だった
1996年(平成8年)に国の史跡に指定されたことから「亀塚古墳公園」として大規模な保存事業および観光開発が行われた。古墳は部分的に葺石や埴輪のレプリカなどが置かれ築造当時の様子が再現され、展示施設として微力ながら海部古墳資料館が建設されている。
海部古墳資料館

亀塚古墳の出土品のほか、大分各地域の古墳について豊富なジオラマなどで展示解説されている。
- 開館時間:午前9時 - 午後5時
- 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日 - 1月4日)
- 入館料:無料
- 駐車場:無料
- 問い合わせ:大分市教育委員会 文化財課
催事
10月 「海部のまつり」と題して想像上の古代衣装を身に着けた海部媛(あまべのひめ)や市長行政関係者などが古墳の周囲を回り、族長が海・山・川の幸を奉納する儀式を行なう。史跡指定による観光開発の一環として始められたが、年々集客率が低下してきている。
所在地
- 大分県大分市大字里
アクセス
周辺の古墳

- 小亀塚古墳(大分市里) - 亀塚古墳の近くにある小型の前方後円墳。2段築造で全長35メートル、後円部の直径は25m。葺石はなく、埋葬部は破壊されていた。築造時期は亀塚古墳より半世紀ほど後の5世紀後半とみられている。
- 築山古墳(大分市本神崎) - 前方後円墳。亀塚古墳とは数キロメートル離れているが、向きが平行になるように作られており、一方の頂上から相手を視認することができる。
- 城原古墳(大分市城原) - FIFAワールドカップ開催に伴う道路建設によって惜しくも破壊された評衙跡(海部郡衙跡)として有名な中安遺跡の近くにある。古墳そのものも現在アスファルトの下にあり、石室が残るのみである。
参考文献
関連項目
外部リンク
- 亀塚古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 大分市|亀塚古墳公園・海部古墳資料館
- 亀塚古墳 - ウェイバックマシン(2004年11月22日アーカイブ分)
- パノラマ写真で見る大分県/亀塚古墳
亀塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:46 UTC 版)
詳細は「亀塚古墳 (狛江市)」を参照 亀塚古墳(かめづかこふん)は猪方支群に属す、確証のある古墳の中で唯一の帆立貝形古墳である。5世紀末の築造、全長42m、高さ7mとされ、狛江古墳群最大の古墳であり、且つ世田谷区にある野毛の首長墳である狐塚古墳を抑え、5世紀末の南武蔵野における最大の古墳である。 ブリッジの左右から須恵器の甕と土師器が出土している。墳頂の真下に第二木炭槨、前方部先端と墳頂の中間の位置に箱式石棺とそれぞれ呼ばれる2つの埋蔵施設を持つ。木炭槨の副葬品に直径21cmの神人歌画像鏡、鈴釧と金銅装毛彫金具の一部が見つかっている。この金銅装毛彫金具に描かれた人や動物の絵が、高句麗にある古墳の石室内に描かれた壁画と類似していたことから狛江と渡来人を結びつける学説が発表されることになった。 かつては最大の古墳であったが、今日では宅地開発によって墳丘の殆どが失われてしまっている。残った前方部の一部は2020年3月に亀塚古墳公園として整備され、前方部に登ことができる(墳頂部は失われた)。1956年に建てられた「狛江亀塚」と書かれた石碑が残る。なお、この「狛江亀塚」の文字は徳富蘇峰による揮毫である。公園内の園路を囲むツツジの植栽は周溝の位置を示している。年中何時でも公園内に入ることができる。
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