被葬者について
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碑文によると被葬者である張黒女は諱を玄といい、没年から逆算すると和平3年(462年)に南陽郡の白水(現在の河南省)で生まれた。張氏は代々役人としてそれなりの地位を保った家系であった。黒女も中書侍郎となり、南陽郡太守(郡長官)に任命されたが、太和17年(493年)に死去。享年32であった。 この墓誌で特徴的なのは、黒女の妻についての記述もあることである。鉅鹿郡太守であった陳進寿の娘で、黒女の夭折から実に38年後、普泰元年(531年)に天寿を全うした。享年は不明。 なおこの記述の存在により当墓誌の彫られた年代が明らかになったが、本人の死後30年も経ってから墓誌を刻むのは不自然であるし、文の途中であることから追刻とも考えられないので、成立過程に疑問が残された。現在は黒女が死去した時に一回彫られ、妻が死去した時に妻の記述も加えて改刻されたと考えられている。
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被葬者について
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この古墳の入口には、ガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨蔵器も追納されており、被葬者は、宗像一族の首長墓であるとされる。『日本書紀』天武天皇二年(673)正月条で帝紀を記している中に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善であるとの説が有力であるが、宮地嶽古墳は6世紀の築造であり7世紀前半の人物である徳善では時代が合わず、諸説あるが磐井氏の関係者との説もあると宮地嶽神社では説明している。
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被葬者について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 03:52 UTC 版)
副葬された墓誌の誌蓋には「大隋故儀同虞公墓誌」の九字が篆刻されている。墓誌の誌文には「公諱弘、字莫潘、魚国尉紇驎城人也」と記載されており、ここから被葬者の本名が虞弘といい、字を莫潘といい、魚国の尉紇驎城の出身であると知ることができる。石槨上のレリーフには、蓮台の上の聖火が描かれており、つまりは彼がゾロアスター教の信徒であることを表している。虞弘は柔然国王の命を受けてペルシア・吐谷渾・月氏などの西域国家に出使し、かつてのパルティアの統治した地域を巡っている。後には北斉に出使し、その後は北斉にとどまり、北周と隋の官僚をつとめた。虞弘は北周において「検校薩保府」に任じられているが、「薩保」はソグド語の「s′rtp′w」からの音訳であり、もとの意味は「商隊の首領」である。当時は中原に進出したソグド人は数多く、朝廷の設置した「薩保」の官職は中国に進出した外国人を管理する事務を担当し、これは中原地区で唯一外来語で命名された官職であった。 虞弘は享年59歳で592年(隋の開皇12年)に死去し、埋葬された。最終官は隋の正五品の儀同三司であった。石槨上のペルシア風のレリーフから推測するに、魚国は中央アジアに位置していたということができるが、それがどこにあたるのか、いまなお決定的な説は示されていない。
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