治定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:56 UTC 版)
「吾平山上陵#比定の経緯」も参照 明治7年(1874年)に現在の3陵(可愛山陵・高屋山上陵・吾平山上陵)に治定された。治定地はすべて現在の鹿児島県(薩摩国、大隅国)の範囲であった。 ただし、薩摩国は大宝2年(702年)には日向国から分離して成立していたとみられ、大隅国は和銅6年(713年)にすでに日向国から分離して成立していたにも関わらず、日本書紀は720年にウガヤフキアエズが日向国(宮崎県)で没した旨を記録していることなどから、本来の神代三陵の場所は、宮崎県日南市宮浦の鵜戸神宮の周辺であるとする説は根強い。 比定地を巡り諸説が生じたため、宮崎県の陵墓は陵墓参考地に治定されており、現在はいずれも宮内庁により管理されている(治定の経緯は各項目参照)。
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