比定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:22 UTC 版)
鹿児島県 吾平山上陵のある鹿屋市の「吾平町」(あいらちょう)は、かつて大隅国の姶羅郡姶良郷であったところ、薩摩藩支配のあと1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までは肝属郡姶良村(あいらむら)であった。なお、鹿児島湾北西部の姶良郡や1955年発足の姶良町は、廃仏毀釈前の米山薬師があった場所であり、上名(かんみょう)の字もあるが、別の土地である。 1871年(明治4年)、御陵内の「鵜戸六所権現」が、「吾平町 麓」に遷座され、鵜戸神社となった。祭神はウガヤフキアエズを含む6柱である。 1872年(明治5年)には肝属郡高山郷宮下村(鹿屋市肝付町)の六所権現が桜迫神社と改称されているが、当時の高山町の説明によれば、ウガヤフキアエズが没した西州の宮であるとされている。 1874年(明治7年)7月10日、明治政府は肝属郡姶良郷上名村(かんみょうむら)に治定を見た。 宮内庁により、ウガヤフキアエズとその母玉依姫命の御陵に治定されており、円形の塚の大きな方が前者の陵、小さな方が後者の陵であるといわれている。 宮崎県 宮崎県日南市にはウガヤフキアエズの生誕地とされる鵜戸神宮があり、その子である神武天皇は、皇后が日向国吾田邑の吾平津媛であり、ウガヤフキアエズの陵墓は宮崎県にあるとする反論が生じた。そのため明治政府は1896年(明治29年)、鵜戸神宮の背後の山上を「御陵墓伝説地吾平山上陵」と定めており、現在は「鵜戸陵墓参考地」となっている。
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