比島・蘭印方面
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1941年(昭和16年)11月、台南航空隊(台南空)着任。1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が開戦。台南空は比島航空撃滅戦に参加。開戦日の笹井は戦闘には参加せず上空哨戒の任務を行う。12月10日、フィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加する予定だったが、このときはエンジン不調で台南基地に引き返した。12月13日、鹿屋空のニコルス攻撃を支援後、マニラ周辺の飛行場も銃撃し、笹井は初の戦闘を経験する。 1942年(昭和17年)1月29日、蘭印タラカン基地を発進した笹井中尉指揮の5機(笹井中尉、石原二飛曹、西山一飛/上平一飛曹、大正谷三飛曹)は、ボルネオ島バリクパパン泊地上空で、米陸軍第7爆撃大隊他のボーイングB-17フライングフォートレス4機と交戦、笹井機は35発被弾した。笹井は、敵機は「白煙吐くも撃墜には至らず」と報告したが、戦後の照合では、うち1機(機長:スタンリー・ロビンソン少佐)が攻撃で尾翼を破壊され、飛行不能となって海面に激突しており、笹井らによる共同撃墜であった。 1942年2月3日、バリクパパン基地を発進した笹井はジャワ島マオスパティ基地攻撃で蘭印軍のブルースターF2Aバッファロー戦闘機の協同撃墜を報告。2月21日、高雄空の一式陸上攻撃機21機を護衛のため、バリ島デンパサール基地より、零戦6機(笹井中尉、上平一飛曹、石原二飛曹/宮崎飛曹長、篠原二飛曹、本吉一飛)の指揮官として出撃した。スラバヤ上空で、迎撃のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機16機を優位な高度から奇襲。笹井中尉は、うち1機撃墜(米陸軍第17追撃航空隊のジョージ・ハインズ中尉機またはウォーリー・ホスキン中尉機)を報告、スラバヤ港爆撃の陸攻隊全機無事帰還に成功する。
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比島・蘭印方面
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1941年(昭和16年)10月、台湾の台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。台南空では下士官のみの小隊も組まれ、坂井は初めて僚機を持つことになった。戦後、坂井は、下士官のみで組まれた小隊は自分の隊が唯一であり注目されていたと話しているが、台南空には他にも同様の小隊が複数存在していた。坂井は副長の小園安名中佐に頼まれ、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。また、夜中に現地住民のニワトリを盗み出し、小園安名から「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗みに行ったこともあったという。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分が含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官の笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部の士官にだけ上等なタバコが支給されていることを批判した。すると笹井は怒りで唇を噛み顔を曇らせて立ち去ると、士官向けに支給された通常の煙草をいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と指示し、坂井の思惑通りになったこともあったという。 1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦、台南空はフィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加。第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空の一式陸上攻撃機27機、一空の九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で、米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃でP-40戦闘機を大破、同機は滑走路に滑り込んだ。戦後の1991年5月、米国テキサス州で同機に搭乗していたサム・グラシオ中尉と会見し、この空戦の記憶が一致した。 1941年12月10日、空の要塞と呼ばれたボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機を日本が初撃墜した。戦後、坂井がAP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと語り、ラッセルが「あれは撃墜だった」と答える会見の様子が「日本タイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば、交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生、和泉秀雄、野澤三郎の協同撃墜であり、坂井は交戦していない。 台南空は、12月25日より、スールー諸島のホロ島へ順次進出。1942年(昭和17年)1月16日、蘭印のタラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島・バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で、20分にわたり攻撃し、うち3機の大破。1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。日本陸軍が上陸を開始したセレベス島マカッサル方面に対する爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で交戦。零戦隊は、その後方から忍び寄り、B-17爆撃機の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。 2月18日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜。晩年、坂井は、敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れ、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機ダグラス DC-4に遭遇し、当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていて、相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えたため、日本の基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づき、それが青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と似ていたため、さすがに闘志が萎え、当該機を見逃す事に決め、敵機のパイロットに行けと合図して逃がし、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告したと語っている。それ以前の著書では、輸送機を捕虜にしようと威嚇射撃を行ったが、断雲を利用して全速で逃げられたと書いていたが、その理由は、『坂井三郎空戦記録』の執筆に取りかかった昭和25年は、占領下でマッカーサー司令部が戦犯追及をしていたので、関わり合いになりたくないと思ったからと述べている。坂井の主張とは別に、「海外の調べで機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦の生存が確認された」、「看護婦が「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会して坂井と分かり再会した」、「看護婦が坂井の著書を読んで知り再会して日時や両者の記憶が一致し互いの無事を喜び合った」などの詳細不明の後日談が様々な形で主張されている。しかし戦闘行動調書によると、著書に記載された2月25日は輸送船団上空直衛の任務についており、2月18日、25日ともに輸送機を発見しておらず、また別日にも坂井が輸送機を発見したような出撃記録はない。 2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブルースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜。
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