比島・蘭印方面とは? わかりやすく解説

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比島・蘭印方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:14 UTC 版)

笹井醇一」の記事における「比島・蘭印方面」の解説

1941年昭和16年11月台南航空隊台南空着任1941年昭和16年12月8日太平洋戦争開戦台南空比島航空撃滅戦に参加開戦日の笹井戦闘には参加せず上空哨戒任務を行う。12月10日、フィリピン・クラーク空軍基地攻撃参加する予定だったが、このときはエンジン不調台南基地引き返した12月13日鹿屋空ニコルス攻撃支援後、マニラ周辺飛行場銃撃し、笹井は初の戦闘経験する1942年昭和17年1月29日蘭印タラカン基地発進した笹井中尉指揮の5機(笹井中尉石原二飛曹、西山一飛/上平一飛曹、大正谷三飛曹)は、ボルネオ島バリクパパン泊地上空で、米陸軍第7爆撃大隊他のボーイングB-17フライングフォートレス4機と交戦笹井機は35被弾した。笹井は、敵機は「白煙吐くも撃墜には至らず」と報告したが、戦後照合では、うち1機(機長:スタンリー・ロビンソン少佐)が攻撃尾翼破壊され飛行不能となって海面激突しており、笹井らによる共同撃墜であった1942年2月3日バリクパパン基地発進した笹井ジャワ島マオスパティ基地攻撃蘭印軍ブルースターF2Aバッファロー戦闘機協同撃墜報告2月21日高雄空の一式陸上攻撃機21機を護衛のため、バリ島デンパサール基地より、零戦6機(笹井中尉上平一飛曹、石原二飛曹/宮崎曹長篠原二飛曹、本吉一飛)の指揮官として出撃した。スラバヤ上空で、迎撃カーチスP-40ウォーホーク戦闘機16機を優位な高度から奇襲笹井中尉は、うち1機撃墜米陸軍17追撃航空隊ジョージ・ハインズ中尉機またはウォーリー・ホスキン中尉機)を報告スラバヤ爆撃陸攻全機無事帰還成功する

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比島・蘭印方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:59 UTC 版)

坂井三郎」の記事における「比島・蘭印方面」の解説

1941年昭和16年10月台湾台南基地新設され台南航空隊(以下、台南空と略)に配属坂井台南空先任下士官兵搭乗員であった台南空では下士官のみの小隊組まれ坂井初め僚機を持つことになった戦後坂井は、下士官のみで組まれ小隊自分の隊が唯一であり注目されていたと話しているが、台南空には他にも同様の小隊複数存在していた。坂井副長小園安名中佐頼まれ新任上官笹井醇一中尉戦闘教育任せられたという。また、夜中現地住民ニワトリ盗み出し小園安名から「いやしくも日本海軍軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗み行ったこともあったという。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部士官にだけ上等なタバコ支給されていることを批判した。すると笹井怒りで唇を噛み顔を曇らせ立ち去ると、士官向けに支給され通常の煙草いっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコ捨てろ」と指示し坂井思惑通りになったこともあったという。 1941年昭和16年12月8日太平洋戦争開戦台南空はフィリピン・クラーク空軍基地攻撃参加第一中隊新郷英城大尉指揮)の第三小隊坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地出撃坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空の一式陸上攻撃機27機、一空の九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で、米陸軍21追撃飛行隊カーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井零戦得意の左急旋回からの一撃P-40戦闘機大破同機滑走路滑り込んだ戦後1991年5月米国テキサス州同機搭乗していたサム・グラシオ中尉会見し、この空戦記憶一致した1941年12月10日空の要塞呼ばれたボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機日本初撃墜した。戦後坂井AP通信社東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影見届けずに「戦果未確認」と報告した語りラッセルが「あれは撃墜だった」と答え会見様子が「日本タイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井当日出撃はしたが、当時台南空三空資料記載されている、B-17攻撃した複数搭乗員中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生和泉秀雄野澤三郎協同撃墜であり、坂井交戦していない。 台南空は、12月25日より、スールー諸島ホロ島順次進出1942年昭和17年1月16日蘭印タラカン進出1月24日坂井ボルネオ島バリクパパン上空哨戒中、米陸軍19爆撃飛行隊B-17爆撃機の7機編隊発見台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で、20分にわたり攻撃し、うち3機の大破1月25日坂井バリクパパン基地進出2月5日、同基地出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空米陸軍20追撃飛行隊P-40戦闘機1機を撃墜2月8日新郷大尉指揮9機(新郷大尉田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地出撃日本陸軍上陸開始したセレベス島マカッサル方面対す爆撃向かっていた米陸軍19爆撃飛行隊B-17爆撃機の9機編隊ジャワ海カンゲアン島上空交戦零戦隊は、その後方から忍び寄りB-17爆撃機防御砲火相対的に弱いと考えられ正面回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破2月18日オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空蘭印軍フォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜晩年坂井は、敵基地への侵攻途中で発見した偵察機攻撃するために味方編隊から離れ偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人民間人満載したオランダ軍大型輸送機ダグラス DC-4遭遇し当時当該エリア飛行する敵国機(飛行機への攻撃軍民武装有無通常問わない)は撃墜する命令出ていて、相手鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井この機に敵の重要人物乗っているのではないか疑い生け捕りにする事を考えたため、日本基地誘導するために輸送機の横に並んだ時、輸送機の窓に震え慄く母娘思われる乗客たちが見えることに気づき、それが青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人マーチン夫人似ていたため、さすがに闘志萎え当該機を見逃す事に決め敵機パイロットに行け合図して逃がし帰投上官には「雲中見失う」と報告した語っている。それ以前著書では、輸送機捕虜にしようと威嚇射撃行ったが、断雲利用して全速逃げられと書いていたが、その理由は、『坂井三郎空戦記録』の執筆取りかかった昭和25年は、占領下マッカーサー司令部戦犯追及をしていたので、関わり合いになりたくないと思ったからと述べている。坂井主張とは別に、「海外調べ機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦生存確認された」、「看護婦が「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体通じて照会して坂井分かり再会した」、「看護婦坂井著書読んで知り再会して日時両者記憶一致し互いの無事を喜び合った」などの詳細不明後日談様々な形主張されている。しかし戦闘行動調書によると、著書記載され2月25日輸送船団上空直衛の任務についており、2月18日25日ともに輸送機発見しておらず、また別日にも坂井輸送機発見したような出撃記録はない。 2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍ブルースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜

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