比島決戦の歌
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比島決戦の歌(ひとうけっせんのうた[注釈 1][3])は、第二次世界大戦末期の1944年〈昭和19年〉12月に発表された日本の戦時歌謡(軍国歌謡)で、フィリピン防衛戦の戦意を高めるために作られた。敵将の名前を盛り込んだ「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落し」という過激な歌詞で知られる[4][5]。
作詞は西條八十、作曲は古関裕而[注釈 2]であるが、歌詞の一部に西條以外の手が入っているとされる[6][7](後述)。ラジオで盛んに放送され[8]、レコード化も予定されていたが、実際にレコードが発売されたかどうかは疑わしい[8][9]。戦後の一時期は“幻の曲”と見なされていた[1][10]。
製作と発表の経緯
1944年〈昭和19年〉、フィリピン防衛戦に向けて、日本放送協会と読売新聞社が国内の戦意高揚のための軍国歌謡を企画し、作詞を西條八十、作曲を古関裕而に依頼した[11]。楽曲検討の会議を開き、まず古関が用意してきた2曲のメロディーから1曲を選び出し[12]、次にそのメロディーに西條が歌詞をつけた[12]。歌詞の案がほぼ固まった段階で軍からの強い要望により歌詞が一部変更された[13](後述)。
1944年〈昭和19年〉12月10日の『読売報知』紙で発表され[11]、12月16日に陸海軍に献納された[14]。12月17日のラジオで初放送となり[14][8]、その後はラジオの各種音楽番組で繰り返し放送された[8]。
酒井弘と朝倉春子の歌唱で12月26日に録音を行い[15]、翌1945年〈昭和20年〉の2月(3月[16]とも)にレコードの発売が日蓄レコードから予定されていたが[10][17]、実物のレコードや録音原盤は発見されておらず、本当に発売されたかどうか疑わしい[8][9][16]。物資不足により実際には製造されなかったのではないかと推測されている[9]。
ラジオ放送で繰り返し流されていたことから、少なくとも放送用原盤は存在したと考えられるが、それも発見されていない[1]。敵将を名指しで罵る歌詞(次節参照)を進駐軍に咎められると警戒した関係者が、終戦時に証拠隠滅のため廃棄したのではないかとの推測もある[1]。
録音が残っていないことに加えて一時は歌詞や楽譜も散逸したと考えられており[18][10]、“幻の曲”と見なされていた[1][10]。実際には楽譜(メロディのみの簡単なもの)と歌詞が『読売報知』1944年12月10日号[11]や『写真週報』1945年1月31日号[19]に掲載されて残っていた。
歌詞について
過激な歌詞
歌詞の1番から4番までのすべてに共通するリフレインの部分に、敵将のチェスター・ニミッツ(当時アメリカ海軍大将)とダグラス・マッカーサー(当時アメリカ陸軍大将)の名前を盛り込んだ以下の歌詞が出てくる。
歌詞のこの部分はスローガンのようにも扱われ、ほぼ同じ文章が垂れ幕や大看板として丸ビルなどに掲示されていたが[20][21]、当時から品位に欠けるとの批判を受けた(後述)。
敵将の名前だけでなく、歌詞の2番では「猛虎の山下将軍」(陸軍大将の山下奉文[22])や「鉄血大川内」(海軍中将の大川内伝七[22])と、日本側の司令官にも言及している。また歌詞の3番では特攻隊にも言及している[23]。
歌詞の変更
作曲担当の古関裕而の回想[24]によれば、上記引用部分の歌詞は元々は
であった。しかし楽曲検討の会議がそろそろ終わろうかという段階になって、会議出席者の軍人が、小学校唱歌『水師営の会見』[注釈 4]の歌詞にロシア軍のステッセルの名前が出てくることに倣い、この曲の歌詞にも敵将の名前をぜひ入れてほしいと言い出した[26][27]。作詞担当の西條八十はこの要求に抵抗したものの結局押し切られてしまい[26][27]、「レイテは地獄の三丁目」は「いざ来いミニッツ、マッカーサー」に差し替えられた[28][27]。
作詞者の西條、作曲者の古関、および楽曲検討会議に同席していた日本放送協会の丸山鉄雄[8]はいずれも、歌詞に敵将の名前を入れろと言い出した軍人の名を明かしていない[29][26][12]。しかし西條の弟子だった丘灯至夫によると、この軍人は大本営陸軍報道部の親泊朝省中佐(階級は当時)だとされ[6]、これが定説となっている[30][31][28][3][5]。また差し替え部分の歌詞「いざ来いミニッツマッカーサー」を考えたのも親泊とされる[6][32]。
「いざ来い」か「出て来い」か
リフレインの部分の歌詞は正確には
いざ来いニミッツマッカーサー (太字強調は引用者、以下同様)
であり[28][23]、『読売報知』[11][14]や『写真週報』[19]に掲載された歌詞もこの通りである[注釈 3]。しかしこの部分は、しばしば誤って
出て来いニミッツマッカーサー
と言及される[28][23]。この誤りは古くから多数見受けられる。戦後間もない昭和20年代の文献にも、「いざ来い」の部分を「出て来い」(あるいは表記揺れで「出てこい」)とした言及が複数存在する(例えば[33][34][35][6]など)。作詞者の西條八十の回想録[7][36]や作曲者の古関裕而の自伝[24]ですら、「いざ来い」ではなく「出て来い」と表記している[28]。
評価
他者からの評価
「いざ来い(出てこい)ニミッツマッカーサー」は子供には受けたが[37][8]、大人には下品で幼稚な歌詞だと受け止められ、不評であった[20][21][8]。発表当時、福田正夫や千々波敬太郎を始めとする文化人100人が連名で「行き過ぎた良識なき行為は、今後日本文化の名誉のため慎まれたい」との主旨を情報局に申し入れた[20][21][5]。また新聞の投書欄にも「低調下等な歌」で歌うに堪えないとする声が寄せられた[4]。戦後に書かれた文章でも、「低俗」[34]、「品性卑しい歌詞」[38]、「文字通り末期症状を示す曲 〔中略〕 すさまじい歌詞」[39]などと酷評されている。
このように歌詞については低評価が大多数であるものの、メロディーについてはいい曲だとする意見が複数ある(例えば[40][1][23])。ただし古関メロディーの中では力強さや悲愴感に欠けるとする低評価の意見もある[5]。
作者自身による評価
作詞者の西條八十は、1962年〈昭和37年〉に日本経済新聞に連載した『私の履歴書』で、歌詞の「出て来い〔ママ〕ニミッツ、マッカーサー」の部分を「ひどい詞句」[36]と評している。
作曲者の古関裕而は1980年〈昭和55年〉に発表した自叙伝『鐘よ鳴り響け』で、「いやな歌」[41]で「今さら歌詞も楽譜も探す気になれない」[18]と述べた。ただしこの曲の楽譜は、同じ1980年出版の『古関裕而作品集』(全音楽譜出版社)に初めて掲載されている[23]。時期は不明だが、軍歌研究者の八巻明彦が『写真週報』(1945年1月31日号[19])に『比島決戦の歌』の歌詞と楽譜が掲載されていることを発見し、それを古関に知らせたところ、公表しないでほしいと古関に口止めされたという[23]。古関の生前に再録音が計画されたものの、「これだけは演奏するのはやめていただきたい」と古関に拒否されて見送りとなった[1]。新録音によるCD化(後述)が実現したのは、古関の没後の1995年〈平成7年〉のことである[1][10]。
戦後
マッカーサー来日
本曲の発表後1年足らずで日本は降伏し、歌詞で名指しされていたダグラス・マッカーサーは1945年〈昭和20年〉8月30日に進駐軍の最高司令官として厚木飛行場に降り立った[42][43]。“出て来いと呼んだら本当に来てしまった”、“地獄に逆落としにするはずの相手に支配されることになった”という風にしばしば皮肉を交えて言及される(例えば[42][44][31][28][45][46][43]など)。
「いざ来いニミッツマッカーサー」の部分の真の作詞者(上述)ともされる陸軍の親泊朝省大佐は、日本の降伏文書の調印式が行われた同年9月2日[47]に自決した[6][32]。
風説
作詞者の西條八十は終戦後、この歌詞のせいで(戦犯として)「進駐軍に絞首刑にされるだろう」[36]などと新聞に書かれ、本人も拘束される覚悟をしていた[29][48]。実際には作詞者の西條も作曲者の古関も進駐軍からの処分は何も受けなかった[28]。
西條や日本放送協会の丸山鉄雄によれば、この曲にまつわる戦後の噂話として他にも以下のものがあったという。
- 映画撮影所に視察に訪れた米軍部隊が『比島決戦の歌』のレコード再生を耳にし、ニミッツとマッカーサーの名前の部分だけを聴き取って歓迎歌だと思い込んで拍手喝采した[49]。
- バスの中で泥酔者が『比島決戦の歌』を大声で歌っていたところ、乗り合わせた米軍兵士がマッカーサーを賞賛する歌だと勘違いし、立ち上がって握手を求めた[45]。
50年ぶりの再録音
前述したように発表当時の音源は一切見つかっておらず[1]、現存する楽譜[11][19]はメロディーのみを記した簡単なものである。また古関裕而自身がこの曲を嫌がり、生前の再録音は許可しなかった[1]。古関の死後の1995年〈平成7年〉に古関の軍歌を集めたアルバムが企画された際、江口浩司が新たに編曲を担当して、50年ぶりの再録音が実現した[1][10]。
引用
『比島決戦の歌』を引用している作品として以下のものがある。なお上述したように、この曲の歌詞の「いざ来い」の部分はしばしば「出て来い」という誤った形で引用されるため、各引用での歌詞の正誤も補足する。
1945年〈昭和20年〉2月公開の映画『必勝歌』(松竹)の中に『比島決戦の歌』が断片的に出てくる[15]。映画の開始20分付近で、集団登下校する子供たちが2番の歌詞を歌っている。歌詞の「いざ来い」の部分は、この映画の中では正しい形の「いざ来い」で歌われている。
落語家の川柳川柳が1970年頃から演じていた歌う新作落語『ガーコン』は、近代日本史を流行歌を通して振り返るという内容である[50]。言及される流行歌の多くが軍歌で、『大東亜決戦の歌』『英国東洋艦隊潰滅』『同期の桜』『若鷲の歌』などに加えて『比島決戦の歌』も紹介される[50][51]。歌詞の「いざ来い」の部分を川柳川柳は「出てこい」で歌っていたが[50][52]、『ガーコン』の出版された文字起こし[51]では正しい歌詞の「いざ来い」に修正されている。
浅田次郎が1993年〈平成5年〉に発表した小説『日輪の遺産』[53]、およびそれを原作とする2011年〈平成23年〉8月公開の映画『日輪の遺産』(角川映画)には、登場人物が『比島決戦の歌』を口ずさむ場面が複数出てくる(原作小説[53]では13章、間章、25章、映画[54]では開始38分付近、開始45分付近、開始1時間55分付近など)。歌詞の「いざ来い」の部分は、原作小説[53]でも映画[54]でも「出てこい」で歌われている。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 「比島決戦の歌」の読みがな「ひとうけっせんのうた」は日本音楽著作権協会(JASRAC)での登録情報に従う。JASRACの作品データベース検索サービス「J-WID」[2]で作品コード「072-5510-1」あるいは作品タイトル「比島決戦の歌」を検索し、検索結果の詳細ボタンを押して別ウィンドウに表示されるページの「作品タイトル一覧(正題・副題)」の項を参照。
- ^ 西條八十と古関裕而のコンビによる歌謡曲として、本曲以外に軍歌では『若鷲の歌』(予科練の歌)、軍歌以外では『ミス仙台』(仙台小唄)、『山形県スポーツ県民歌』、二代目の『水戸市歌』などがある。
- ^ a b 歌詞の読点の打ち方、空白文字の挿入場所、改行の有無などは出典により若干異なる。以下にそれぞれを示す。なおオリジナルはいずれも旧字旧かな遣いであるが、新字新かな遣いに置きかえて引用する。
- 「いざ来い、ニミッツ、マッカーサー/出てくりゃ地獄へ逆落し」(『読売報知』1944年12月10日号[11]※「/」は改行の代用。)
- 「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ、地獄へ逆落し」(『読売報知』1944年12月17日号[14])
- 「いざ来い ニミッツ マッカーサー/出てくりゃ 地獄へ 逆落し」(『写真週報』1945年1月31日号[19]※「/」は改行の代用。)
- ^ 尋常小学唱歌の『水師営の会見』は佐佐木信綱作詞、岡野貞一作曲。日露戦争の旅順攻囲戦を終わらせた「水師営の会見」での乃木希典大将とアナトーリイ・ステッセリ(ステッセル)中将の様子を歌っている[25]。
出典
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- ^ 西條 2007, p. 178.
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- ^ a b c 松田 2021.
- ^ a b 川柳 2013, p. 283.
- ^ 池袋秘密倶楽部 2021.
- ^ a b c 浅田 2011.
- ^ a b 毎日新聞 2011.
- ^ 八巻 1986, pp. 182–183.
参考文献
新聞雑誌記事
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- 「比島決戦の歌 陸海軍へ献納 出て来りゃ地獄へ逆落し きょう午後・ラジオで発表会」『読売報知』読売新聞社、1944年12月17日、2面。
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- 南博、社会心理研究所『昭和文化 1925~1945』勁草書房、1987年、500頁。NDLJP:12230160/259。
- 西條八十「我愛の記 絞首刑」『西條八十全集 第十七巻 随想・雑纂』国書刊行会、2007年、178-179頁。ISBN 978-4-336-03317-8。※初出: 1962年西日本新聞夕刊。
- 浅田次郎『日輪の遺産』(Kindle版)角川書店、2011年。ASIN B009SKXYJC。※初出: 1993年青樹社。
- 小村公次「替え歌にみる抵抗」『徹底検証・日本の軍歌 ――戦争の時代と音楽』学習の友社、2011年、190-196頁。 ISBN 978-4-7617-0671-5。
- 川柳川柳 著「特別寄稿 大ガーコン」、落語ファン倶楽部 編『新作落語傑作読本 (3)』白夜書房〈落語ファン倶楽部新書 7〉、2013年、251-289頁。 ISBN 978-4-86191-995-4。
- 古関裕而「幻の、いやな歌」『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』集英社〈集英社文庫〉、2019年、148-150頁。 ISBN 978-4-08-744059-1。※初出: 1980年主婦の友社。
- 刑部芳則「比島決戦の歌」『古関裕而 ――流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社〈中公新書 2569〉、2019年、128-130頁。 ISBN 978-4-12-102569-2。
- 辻田真佐憲「最末期の軍歌は録音されず?」『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』文芸春秋社〈文春新書 1256〉、2020年、193-195頁。 ISBN 978-4-16-661256-7。
- 菊池清麿「比島決戦の歌」『[新版]評伝古関裕而』彩流社、2020年、150-154頁。 ISBN 978-4-7791-2674-1。
ウェブサイト
- 松田健次 (2021年12月8日). “【追悼 川柳川柳師匠】軍歌を歌い続け「戦争体験」を伝え続けたオンリーワンの落語家”. livedoor ニュース(BLOGOS). 2025年9月11日閲覧。
-
池袋秘密倶楽部 [@gahcon] (30 December 2021). “談之助師おまけ~比島決戦の歌……”. X(旧Twitter)より2025年9月11日閲覧.
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: CS1メンテナンス: デフォルトと同じref (カテゴリ)※「池袋秘密倶楽部」は川柳川柳のファンクラブで、川柳川柳の高座の録音CD(『川柳百席』シリーズ)などを製作販売していた。ツイートに出てくる「談之助」は落語家の立川談之助を指す。
外部リンク
比島決戦の歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:29 UTC 版)
フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西條八十がそれを断ると出席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。 後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、この歌のレコードと楽譜が見つからず、古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。
※この「比島決戦の歌」の解説は、「親泊朝省」の解説の一部です。
「比島決戦の歌」を含む「親泊朝省」の記事については、「親泊朝省」の概要を参照ください。
- 比島決戦の歌のページへのリンク