デンパサール【Denpasar】
デンパサール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 17:58 UTC 版)
デンパサール Kota Denpasar ![]() |
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位置 | |||||
![]() デンパサールの位置 |
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位置 | |||||
![]() インドネシア内のバリ州の位置 |
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座標 : 南緯8度39分 東経115度13分 / 南緯8.650度 東経115.217度 | |||||
行政 | |||||
国 | ![]() |
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州 | バリ州 | ||||
市 | デンパサール | ||||
市長 | イ・グスティ・ングラ・ジャヤ・ネガラ | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 123.98 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2021年現在) | ||||
市域 | 1,008,709人 | ||||
備考 | 統計[1] | ||||
その他 | |||||
等時帯 | インドネシア時間 (UTC+8) | ||||
夏時間 | なし | ||||
公式ウェブサイト : http://www.denpasarkota.go.id/ |
デンパサール (インドネシア語:Kota Denpasar) は、インドネシアのバリ州の都市であり、「北(デン)の市場(パサール)」という意味である。旧名はバドゥン。バリ島の南部に位置し、バリ州の州都。小スンダ列島の中心地でもある。1958年にバリ州が設置された当初はシンガラジャが州都であったが、1960年に州都となった。デンパサール市 (Kotamadya Denpasar) は第二級地方自治体 (Daerah Tingkat II) であり、県 (Kabupaten) と同等である。ビーチリゾート地として知られるサヌールも含まれるが、普通デンパサールと言えばププタン広場周辺を指す。郊外のングラ・ライ国際空港からはタクシーで約40分程度かかる。
歴史
植民地時代
デンパサールはバドゥン王国の首都だった。
1906年、オランダのバリ侵攻によって王宮は破壊・略奪された。中央広場の像はププタン(王や貴族を含む何千人ものバリ人が、オランダ軍に降参するよりも自決を選んだ事)の記憶を残している[2]。
独立時代

1958年、デンパサールはバリ州の州都及びバドゥン県の県都になった[3]。デンパサールとバドゥン県は経済・社会・文化のどの面でも急速な成長を遂げた[3]。デンパサールは政庁が有るだけでなく、商業や教育、観光の中心にもなった[3]。人口成長率は年間4.05%を記録し、急速な発展と伴って、様々な都市問題を引き起こした。これを解決する為に、デンパサールはバドゥン県から独立した[3]。
1992年1月15日、デンパサール市は自治市に昇格する事が決定した[3]。
2009年11月16日、バドゥン県の県都がデンパサールからマングプラに移動した。
観光
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- ププタン広場
- オランダ軍の侵略に対しバトゥン王国の人々が決死の覚悟で立ち向かった行進(ププタン)を称える記念碑が建っている。東西約150m、南北約200mの広場であり、デンパサールの中心地である。
- ジャガナタ寺院
- ププタン広場東側に面して建っており、「ジャガッ」は「宇宙/世界」を意味する。境内中央には石灰岩の塔が建てられており、バリ・ヒンドゥーの最高神サンヒャン・ウィディが祭られている。
- バリ博物館
- 1932年にオープンしたバリを代表する博物館で、石器時代の発掘品、オランダ軍との戦争で使われた武器、バリの伝統工芸である木彫りや象牙の装飾品、バリ人の儀式などが展示されている。入場料は大人5,000ルピア、子供2,500ルピアで、日~木曜日が8:00~16:30、金曜日が8:00~12:30に入ることができる。
- バサール・バドゥン/クンバサリ・ショッピングセンター
- バドゥン川の東側にバサール・バドゥン(マーケット)が、川の西側にクンバサリ・ショッピングセンターがある。バサール・バトゥンには生鮮食料品、香辛料などが所狭しと積み上げられて強烈な匂いを放っている。価格は交渉で決まることが多いので、観光客には高い値段をつけることがある。雰囲気を味わいたければ早朝、夕方に行くと良いが、大変混雑しており初めて行く観光客はスリに注意したほうが良い。
- 鳥市場
- 70軒近くのペットショップが建ち並び、鳥以外にも熱帯魚、金魚やサル、ウサギなど多くの種類の生き物が売られている。
教育
初等・中等教育は土地の人達が通う公立・宗教関係学校以外に、インターナショナル・スクールがいくつかある[4]。高等教育機関にはウダヤナ大学など、いくつかの大学もある[5]。
隣接自治体
地域
- 東、西、南の3つの区 (kecamatan) に分かれる。
交通
中心エリアの周辺に4つのベモステーションがあり、行き先によって乗り場が分かれている。市内循環のベモも走っている。
バリ島には鉄道は存在しないが、市内にインドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)の事務所があり、バス→フェリー→ジャワ島パニュワンギへ、そこから鉄道でスラバヤや、その他のジャワ島内の都市へ向かうことが出来る。
姉妹都市
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バリ博物館
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デンパサール市西区ガジャマダ通り
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デンパサール市西区クンバサリ・ショッピングセンター
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デンパサール市西区バドゥン・マーケット
脚注
- ^ “statisticstimes”. 2022年12月16日閲覧。
- ^ “Bali History from 1846 to 1949 - Bali Historical Guide, The Dutch Occupation in Bali”. 2013年1月25日閲覧。
- ^ a b c d e “Sejarah Kota Denpasar”. 2013年1月25日閲覧。
- ^ 12 of the best international schools in Bali that offer a world-class education and a globally recognised curriculum (2022)
- ^ 8 Universities in Bali: The Most Prestigious Ones
関連項目
デンパサール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 02:46 UTC 版)
「オランダのバリ島侵攻 (1906年)」の記事における「デンパサール」の解説
オランダ軍がデンパサールに進軍したときは、ドレス・パレードのようであった。宮殿に到着すると、そこでは儀式puriによる香が焚かれて、太鼓を打つ音が聞こえた。オランダ軍の到着以前、宮殿では静かな葬儀儀礼がなされている最中で、ラージャ(君主)が4人の担ぎ手によって輿に担がれて進行していた。ラージャは白い伝統衣装、大量の宝石、儀式的な剣(クリス)を着用しており、また王の臣下たち、僧侶、護衛隊、王妃や皇太子らも同様の衣装を着用していた。これらは死のための儀式であった。 葬儀儀礼がオランダ軍より100歩ほど進んだところで、列は停止し、ラージャは神輿から降りて、僧侶に促すと、僧侶は剣をラージャの胸に突き刺し、同時に参列者たちもみな自殺したり、互いに刺しあって集団自決を行った。これはププタンとよばれる風習で、「死との戦い」を意味するものであった。女性たちは身につけていた宝石や金のアクセサリーを外すとからかうようにオランダ軍に投げつけた。 オランダ軍は小銃と大砲による攻撃を開始、宮殿から飛び出ると、死体の山が高く積み上げられていった。儀式では数百人、または1000人以上が参列していたといわれ、これらはオランダ軍の砲撃で殺害された。 別のププタンの記録では、オランダ軍は最初に宮殿の外で伝統的な短剣や槍や盾で武装したバリ人の群衆に攻撃を開始し、生存者が集団自決を行ったといわれる。オランダ軍兵士は遺体から宝石など価値のあるものを剥ぎ取り、宮殿の廃墟から略奪をし、こうしてデンパサールの宮殿は破壊された。 同日午後、同様の事件がペメクテン(Pemecutan)宮殿の近くでも発生し、オランダ軍は宮殿の支配層が集団自決をしたあと、財宝などの略奪を行った。これらのププタンは「バドゥン・ププタン」とよばれ、その後外国勢力への抵抗の例として賞賛され、宮殿跡地のデンパサールの中央通りに巨大なブロンズ製の記念碑が建設された。
※この「デンパサール」の解説は、「オランダのバリ島侵攻 (1906年)」の解説の一部です。
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固有名詞の分類
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