調査成果
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調査の結果、縄文時代前期中葉の遺物も出土したがその量は少なく、主として縄文時代中期と古代の遺跡であることが判明した。土器は大木10式土器を主体とし、炉は複式炉という東北地方南部に特徴的な遺構をともなっている。
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調査成果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 16:01 UTC 版)
近代以降、約60年にわたり軍用地として人の立ち入りが制限された環境であったため、地形の改変や破壊が少なく結果として旧石器時代から近代にいたる数多くの遺構や遺物(埋蔵文化財)が発見されることとなった。遺跡内最古(最下層)の遺構は弥生時代のもので、同時代中期後半を中心とする竪穴住居や掘立柱建物、方形周溝墓などが見つかった。また、それらと共に幅5~8メートル・深さ最大3メートルの旧河道(縄文時代晩期末~古墳時代ごろまで流れていた川跡)が検出され、川床面から弥生土器や石器のほか、骨角製品や木製品が大量に見つかった。旧石器時代・縄文時代の遺構は検出されなかったが(約6000年前以前は海だったと推定されている)、河底からはナイフ形石器や、縄文土器、独鈷石(どっこいし)など、旧石器~縄文時代の遺物も2次的に堆積したものとして少量見つかっている。 丘陵や台地上など、地下水の少ない遺跡では、骨角製品や木製品などの有機質遺物は、土壌埋没後に腐朽・分解されてしまい残存しにくい(土器や石器などの無機質遺物は残存する)が、谷底など沖積地(低湿地)の遺跡では、多量の地下水によって酸素が遮断されるため、有機質遺物が分解されず良好に保存される事が多く、池子遺跡群も河道や埋没谷に貴重な木製品遺物が残されていた。弥生時代の木製品は、鋤・鍬(広鍬・又鍬)・エブリ・石斧を装着した木製柄・杵などの農耕具や工具、高坏・碗・編籠等の容器や食器類が出土した。また、河道内では、木材で組まれたしがらみ状の遺構も検出された。骨角製品では、骨鏃や骨製釣り針・ヤス・鹿角製アワビオコシ等の狩猟・漁労具のほか、火で焼きヒビの入り方によって吉兆を占う占術(太占)に用いられた鹿の肩甲骨=卜骨(ぼっこつ)等の祭祀具が出土した。これらの遺物から、弥生時代の池子の谷では川の周りに集落が営まれ、水田耕作と漁業が行われていたと推定されている。 古墳時代には引き続き水田が営まれ、木製農具や土器(土師器・須恵器)が出土した。また、卜骨や刀剣・鏡・玉を模した滑石製の石製模造品が出土しており、水辺で祭祀が行われたと推定されている。奈良時代・平安時代には、再び竪穴住居や掘立柱建物が建てられ集落が形成された。墨書土器を含む土師器・灰釉陶器、曲物・靴・馬の鞍・農具などの木製品のほか、鍛冶具や銙帯(かたい)金具などが出土した。 中世(鎌倉時代・室町時代)には、丘陵の山裾部に数多くのやぐらが掘られ、五輪塔などが出土した。また、近世(江戸時代)から近代(幕末・明治時代)にかけての陶磁器やガラス製品なども多く出土した。これらは軍関係用地として接収され、立ち入りが出来なくなる前の池子の村民の残した生活用品であり、近世池子村の歴史を明らかにするものとなった。
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調査成果
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「港北ニュータウン遺跡群」の記事における「調査成果」の解説
調査団長の岡本勇は、港北ニュータウンと言う広大な範囲を一斉に発掘調査する大事業にあたり、そこに広がる個々の遺跡の内容と、それぞれの遺跡同士が相互にどのような関係にあるのかを明らかにするという「遺跡群研究」の方針を調査全体のテーマとして掲げていた。この方針は、鶴見川流域の地域全体の遺跡の様相や、歴史変遷を明らかにするという調査成果に繋がった。
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