調査局の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 00:32 UTC 版)
有賀が調査局廃止後の1908年 - 1909年(明治41年 - 42年)に清から日本に留学した憲法調査団へ語った話では、調査局は皇室の制度化による政治からの分離と首相の内閣に対する権限強化を目的として皇室典範増補と公式令を制定したとされる。それによると、有賀は憲法第4条で天皇の権利を制限していることを重視して、皇室令を通して天皇非政治化の促進を図り、皇室を国家の一部に纏めて宮中・府中の分離も推し進めようとした。また、法律の公布と勅令に必要な天皇の上諭に関する手続きも改められ、各省についての勅令は閣僚の副署だけで済ませていた内閣官制の第4条を削除、勅令に上諭を加え閣僚と共に首相の副署も必要とする公式令の制定で首相の権限を強化(法律も上諭と首相の副署が必要)、合わせて内閣を首相中心に動く責任内閣の実現を目指した。 公式令には軍部に対する政治的抑制も図られ、陸軍大臣・海軍大臣が軍令に関する事項で内閣を通さず天皇に上奏する帷幄上奏の阻止を狙い(軍政と軍令の混同による軍部の濫用も問題になっていて、両方の区別もしようとした)、帷幄上奏後に発令される勅令にも首相の副署を加えようとした。だが、調査局の目論見に気付いた軍部がこれに反発、9月2日に山縣有朋が伊藤と会談を行い、伊藤が妥協して12日に軍令に関する件(明治40年軍令第1号)が制定され、勅令とは別の法形式である軍令は陸相・海相の副署だけでよいとなり、軍部を抑える試みは挫折した。ただし、伊藤は1905年(明治38年)に韓国統監に就任してからは現地の日本軍の膨張を抑え付け、山縣をはじめ軍部も軍令と軍政の区別をつけ、首相の副署の勅令による軍関係の規定もいくつか見られるため、公式令による試みもある程度有効だったとする指摘がある。
※この「調査局の意義」の解説は、「帝室制度調査局」の解説の一部です。
「調査局の意義」を含む「帝室制度調査局」の記事については、「帝室制度調査局」の概要を参照ください。
- 調査局の意義のページへのリンク