虐殺
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1562年3月1日、2代目ギーズ公フランソワは自身の領地への移動中、ヴァシーに立ち寄りミサへと参加することにした。フランソワは、ユグノーが納屋を教会として使用し、大規模な集会を開いて宗教的行事を行っているのを発見した。サン・ジェルマンの勅令(王令)ではユグノーの礼拝は街の城壁外での礼拝が条件とされていたが、この礼拝はそれに反するものであった。 公爵の一行の何人かがユグノーを道へ押し出そうとしたところ反発された。この出来事はエスカレートし、やがては石が飛び、公爵にぶつけられた。これに憤慨した公爵は部下に街の制圧と教会を焼くことを命じた。これにより62人の非武装のユグノーが殺され、100人を越える負傷者を出した。
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虐殺
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テキサス軍はゴリアドに戻され、捕虜として捕らえられた。彼らのすべては数週間足らずで解放されると信じていた。捕虜たちに起こりそうな宿命を知り、ウレア将軍はゴリアドを出発し、ホセ・ニコラス・デ・ラ・ポルティリャ大佐に指揮を任せ、のちにサンタ・アナに対してテクシャンたちへの寛大な措置を要請する手紙を書いた。ウレア自身の日記に、「私の個人的な責任で妥協することなく、これらの命令をできるだけ避けたかった」と書いている。 1836年3月26日午後7時、ポルティリャは捕虜たちを処刑せよというサンタ・アナからの命令を受け取った。1836年3月27日午前8時ごろ、ポルティリャ大佐は342名のテクシャンを、デファイアンス砦からベイア・ロード、サンパトリシオ・ロード、ビクトリア・ロードに3つの縦隊で並ばせた。縦隊が選んだ場所まで来ると、メキシコ軍兵士は捕虜の片側に二つの列を組んだ。無防備で非武装のテクシャンは、そこで砦から数百ヤードほどの至近距離から撃たれた。テクシャンらはバタバタと倒れた。最初の一斉射撃から生き残った者はメキシコ軍騎馬隊になぎ倒された。コレトの戦いで負傷していたファニンの兵士は、寝ながらにして撃たれるか銃剣で突かれた。ファニン大佐は、兵士らが虐殺されるのを見た後に、最後に処刑された。彼らの遺体は積み上げられて焼かれた。この時、死んだ振りをしたか他の事情でなんとか脱出できたテクシャンは28名いた。3名の生存者はヒューストンの軍に逃げてサンジャシントの戦いに参加したことが知られている。 サンタ・アナによる捕虜虐殺の命令は、現場指揮官にとっては不本意なものであり、口実を設けて救えるだけ救ったとも言われる。いずれにせよゴリアドの虐殺の暴挙は、アラモ守備隊殲滅の件と相俟って、メキシコ軍は残虐であるとの印象をアメリカに与えた。 ゴリアドの虐殺の説明で登場する、メキシコ人女性のフランシタ・アラベス(しばしば別の名前で登場する)は、数名のテクシャン兵士を救出し、「ゴリアドの天使」として知られる。
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「ウィリアム・ヘンリー砦」の記事における「虐殺」の解説
詳細は「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」を参照 降伏の後起こったことは、歴史的、そして一般的には虐殺とされている。惨事が起こったにもかかわらず、殺された、もしくは負傷した兵たちは比較的冷静であった。歴史家のイアン・スティールは200人以上もの兵(捕虜の約7.5パーセント)が殺傷されたとは考えられないと述べている。 降伏条件として、イギリス軍と随行者はフランス軍の護衛の元、最高の栄誉を以てエドワード砦まで退却を許され、その代わり兵たちは参戦を1年半の間控えると言うものだった。マスケット銃の携行は許されたが弾薬は認められず、礼砲1基を除いて大砲を持って行くことも許されなかった。加えて、イギリス当局は、フランスの捕虜を3か月以内に解放しなければならなかった。 モンカルムは、この条件に同意する前に、インディアンたちがこのことを受け入れ得るかどうか、イギリス人捕虜の解放で、族長たちが彼らを抑えられるかを確認しようと考えた。イギリスの駐屯兵たちは砦から引き揚げ、野営地に向かった。マンロはフランス側の野営地にいた。そこにインディアンたちが来て砦に侵入し、略奪を始め、砦に残っていた負傷兵や病人の一部を惨殺した。野営地に配属されていたフランスの衛兵は、インディアン兵を連れ出そうとしたがうまく行かず、彼らがイギリス兵の頭皮を剥ぐのを止めさせるために、かなりの労力を払った。モンカルムとマンロは、当初はその翌朝、捕虜たちを砦の南に沿って進軍させようとしていたが、この惨殺が起こったため、その夜に進軍させることにした。しかし、捕虜が解放されると知ったインディアンたちが、野営地の周辺に群がっており、両軍の首脳はこの手段を取り消さざるを得なくなった。 翌朝、エドワード砦に向けてイギリス軍が態勢を整えるかなり前から、インディアンたちは、無防備なイギリス軍に新たな攻撃を仕掛けてきた。午前5時、インディアンたちは砦の、フランス人軍医の治療を受けているイギリス兵の部屋に入りこみ、彼らを殺して頭皮を剥いだ。マンロは、降伏条件の本質的な部分が踏みにじられてしまったことに不満を述べたが、彼の部隊が進軍を進めるためには、多少の邪魔が入るのには目をつぶらざるを得なかった。また、イギリス兵たちは、隙を窺ったインディアンから武器や衣類をひったくられ、抵抗しようとする者たちは女であれ子供であれ、黒人の下働きであれ、力ずくで引き離した 。最後の兵が野営地を離れたその瞬間、インディアンたちの鬨の声が上がり、隊列の後方にいた兵たちを捕えた。 モンカルムとフランスの士官たちは、それ以上の攻撃をやめさせようとしたが、彼らを除くフランス人士官たちは止めに入ることはせず、イギリス兵をそれ以上護衛するのをはっきり拒否した。この時点で隊列は崩れ、ある者はインディアンの猛攻撃から逃れようとし、一方ある者は積極的に彼らと戦おうとした。マサチューセッツ民兵の大佐であるジョセフ・フライは、着ていた軍服の大部分をはぎ取られ、何度も脅されて森に逃げ込み、3日後の8月12日になってエドワード砦に辿り着いた。 虜囚者・戦死傷者の数に関しては諸説ある。イアン・スティールは200人から1,500人の間であるとまとめている。スティールが細部まで検証した分では、この時の惨事と、その後での最終的な行方不明者と死者は69人から184人で、これは降伏した兵2,308人中、多くても7.5%である。このスティールが出した数字と、イギリス軍がかなり多くの死傷者を出したバンカーヒルの戦いとを比較すると、バンカーヒルでは1,054人の死傷者(死者26人、負傷者828人) で、3,000人の兵のうち30%の割合である。 砦の中の傷病兵殺害をも含むこの虐殺が、如何に非道であるかについては、包囲戦中にケガや病気で亡くなった兵の墓を暴いて、さらなる戦利品を求めたという証言もある。その結果、この墓暴きに参加した多くのインディアンが天然痘にかかり、それを自らの集落に持ち込むことになった。一方フランス軍は、戦いの後、カリヨン砦に帰る前に、この砦を組織的に破壊した。
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虐殺
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チェリーバレーは、ブラントがコブルスキルを襲撃した後で、村の集会所周りに防柵を巡らせた砦だった。大陸軍第7マサチューセッツ連隊の300名が駐屯し、イカボッド・オールデン大佐が指揮を執っていた。アルデンとその参謀は、11月8日にオネイダ族インディアンのスパイを通じて、バトラーとブラントの部隊がチェリーバレーに向かっているという警告を受けた。しかしオールデンは細心の注意を払わず、砦から400ヤード (360 m) ほどの距離にある作戦本部(ウェルズという開拓者の家)を占領し続けていた。 バトラー隊は11月10日遅くにチェリーバレー近くに到着し、探知されるのを避けるために火を使わない宿営を張った。町を偵察した者がオールデンの配置の弱点を識別し、部隊を2つに分け、1隊はオールデンの作戦本部に、1隊は砦に攻撃を掛けることになった。その夜に開かれた作戦会議で、バトラーは部隊のインディアンから非戦闘員に害を及ぼさないという約束を取り付けた。 攻撃は11月11日早朝に開始された。血気に逸ったインディアン数人が、近くで木を切っていた開拓者に発砲したので、急襲の効果が損なわれた。開拓者の1人が逃げ出して警告を伝えた。リトルベアードが率いたセネカ族部隊がウェルズの家を包囲し、部隊の主力は砦を取り囲んだ。作戦本部を守っていた士官と兵卒の少なくとも16人が殺され、その中にはウェルズの家から砦に走って逃げようとしたオールデンも含まれていた。この時の証言に拠れば、オールデンはもう少しで砦の門に辿り着くところだったが、立ち止まってその追跡者を狙撃しようとした。その追跡者がジョセフ・ブラントだった可能性がある。オールデンの拳銃が濡れていたのか何度も失火している間に、飛んできたトマホークが額に当たって殺された。副指揮官のウィリアム・ステイシー中佐もウェルズの家を宿泊所に使っており、捕虜になった。ステイシーの息子のベンジャミンと従兄弟のルーファス・ステイシーは、銃弾の雨の中を走って砦まで逃げられたが、ステイシーの義兄弟ギデオン・デイは殺された。ウェルズの家を襲った者達は家の中に入り、白兵戦になった。そこにいた兵士の大半を殺した後、セネカ族はウェルズ家の家族12人全員を殺した。 砦を攻撃した襲撃隊は重火器が無かったのでうまくいかなかった。防御柵に対して効果的な損傷を与えられなかった。インディアンが開拓地の他の部分を荒らして回る間、ロイヤリストが砦への監視を続けた。1軒の家も建っているものは無くなり、報復を求めていたセネカ族は出遭う者全てを殺したと伝えられている。バトラーとブラントはインディアンの行動を抑えようとしたが、無駄だった。特にブラントはその中の多くの家族を知っており、友人の中に入れていた者達がセネカ族の暴行の餌食になったことを知って動揺した。例えばウェルズ、キャンベル、ダンロップ、クライドの各家族だった。 アルデン大佐の連隊で補給係将校だったウィリアム・マッケンドリー中尉は、その日誌にこの攻撃の様子を次のように記していた。 バトラー大佐とブラント大尉の指揮するファイブ・ネーションのインディアン442人とトーリー200人が直にやってきて、作戦本部を攻撃し、オールデン大佐を殺し、ステイシー大佐(原文ママ)を捕虜に取った。アルデン砦を攻撃し、3時間後に砦を落とせずに退却した。 マッケンドリーはこの虐殺の犠牲者として、オールデン大佐、その他13人の軍人、30人の住民を挙げていた。殺された兵士の大半はウェルズの家に居た者達だった。 ステイシー中佐が捕まった時の証言では、危うく殺されるところだったが、ブラントが仲裁した。「(ブラントは)オールデン大佐が殺されたときに捕虜になったステイシー中佐の命を救った。ステイシーはフリーメイソンであり、それがブラントを動かして救われたと言われている。」
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「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「虐殺」の解説
降伏の条件に関して、イギリス軍とその随行者たちは、フランスの警護により、栄誉礼とともにエドワード砦まで撤退すること、1年半の間戦闘に加わらないことを条件として受け入れた。イギリス軍は銃剣を持って行くことと、一台きりの、形式的な大砲を持って行くことは許されたが、弾薬は禁じられた。さらに、イギリス当局は、3か月以内にフランスの捕虜を釈放しなければならなかった。モンカルムはこの条件に同意したが、インディアンの同盟軍が果たしてこれを理解し、首長たちが、兵たちを自制させられるかどうか確かめようとした。多くの部族が集結しているインディアンの野営地では、この条件は混乱を極めた。一部の兵は、今そこにいるヨーロッパ人には理解できない言葉をしゃべるものもいた。イギリスの駐屯兵が、砦から引き上げ、塹壕で囲まれた兵舎へ移動した。そしてモンロは、フランスの兵舎をあてがわれた。その後インディアンたちが砦に入り、中のものを略奪して、ケガや病気で動けなくなっていたイギリス兵を虐殺した。 塹壕で囲まれた兵舎の、周辺に配置されていたフランスの歩哨は、インディアンを砦の外に出した点ではいくらか成功したものの、略奪と、頭の皮をはぐのを止めさせるのには大きな骨折りが必要だった。モンカルムとモンロは、翌朝に捕虜を南に向けて移動させようと計画していたものの、インディアンたちの蛮行を目の当たりにした後のため、夜のうちに移動させることにした。イギリス軍の移動準備が完了したのに気づいたインディアンたちの、多くが兵舎の周りにひと塊りになり、朝まで進軍させないようにして、フランス軍の首脳をてこずらせていた。 翌朝、イギリス兵たちが、エドワード砦進軍の編隊形成もしないうちから、インディアンたちは、彼らに攻撃を再開した。イギリス兵の大部分が防御手段を持たないにもかかわらずである。午前5時、砦の兵舎の小屋にインディアンたちは入りこんだ。そこには、負傷して、フランスの軍医の手当てを受けているイギリス兵がいるはずだったが、インディアンたちは彼らを殺し、頭皮をはいだ。モンロは、これは条件付き降伏に違反すると苦情を申し立てたが、彼の部隊は、兵たちの進軍を可能にするために、この厄介な出来事に耐えなければならなかった。進軍を始めた兵たちは、あちこちから姿を現すインディアンに悩まされた。彼らは隙を窺っては、兵器や服を横取りし、その行為に抵抗する者は無理やり列から引き離した。女性や子供、使用人や奴隷もまたしかりだった 。最後の列が野営地を離れた時、勝ちどきが上がり、アベナキ族の隊が、イギリス兵の背後から襲いかかった。 モンカルムと他のフランス人士官は、それ以上の襲撃を止めようとしたが、他の兵たちはそれをしようとせず、一部の者ははっきりと、これ以上イギリス兵を保護しないと口にした。この時点で隊列はばらばらになり、ある者たちはインディアンの猛襲から逃れようとし、またある者は積極的に防御に努めた。マサチューセッツの大佐であるジョセフ・フリエは、身ぐるみのほぼすべてを剥がれ、何度も脅されたと書いている。彼は森林に逃れ、8月12日になって、やっとエドワード砦に辿りついた。 困難を伴いつつもやっと包囲からのがれたと思ったら、今度は蛮行が我々の部隊に降りかかった。我々の後発隊は、殺され、頭の皮を剥がれ、止まれの号令をかけざるをえなくなった。結局大混乱になったが、先頭の方で、最後部で何かが起こっていることに気づいて、最前列の兵をもう一度進撃させた。我々がフランスの前衛軍の兵のところにたどり着くまでこの騒ぎが続いた。騒ぎの元のインディアンたちは、士官や、兵士や、女性や子供を連れ去り、そのうちの何人かは、その後路上で殺され頭皮を剥がれた。血と虐殺による、この見るも恐ろしい光景により、我々の士官は、フランスの哨兵に警備を依頼したが、フランス軍はそれを拒否した。我が軍の士官たちは、兵を森林に連れて行き、どうにかして逃れるように伝えざるを得なかった…。 — ジョセフ・フリエ この時の死者、負傷者、そして捕囚者の推定人数には、かなりばらつきがある。イアン・スティープルは、推定人数は200人から1,500人の間とまとめている。包囲戦とその後との、細かい部分を見て行くと、最終的にはイギリス軍の行方不明者と死者は69人から184人の間となり、最多の184人だとしても、降伏した人数2308人の7.5%である 。
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バタクは反オスマン帝国の反乱であった4月蜂起の中心的な役割を担った。蜂起の数週間後、町では独立が宣言された。革命委員会による町の統治は9日間におよんだ。バタクの反乱は1876年4月30日にトルコ人の当局に報告された。アフメト・アガ・バルン(Ahmet Aga Barun)に率いられ、非正規兵・バシ・ボズクを主体とする8千人のオスマン帝国の兵士が町を包囲した。最初の戦闘の後、バタクの市民はアフメト・アガとの交渉を決定した。アフメト・アガは、バタクの武装解除を条件として軍を引き上げることを約束した。反乱者たちが武器を差し出すと、バシ・ボズクは自衛の術を失ったバタクの市民を攻撃した。犠牲者の多くは斬首された。 ブリタニカ百科事典第11版によると、バタクだけで5千人が虐殺された。フィリッポポリス(プロヴディフ)地区全体での犠牲者数は1万5千人に達する。また、『デイリー・ニュース』に掲載されたユージーン・スカイラー(Eugene Schuyler)の報告によると、4月蜂起の中で、3つの地区で併せて36の村が焼き払われ、少なくとも1万5千人が殺害されたとしている。 スカイラーは自身が見たものについて、次のように述べている: あらゆる方向に人間の骨、頭蓋骨、肋骨が、中には完全な骸骨もが、長い髪を束ねた三つ編みに飾られた娘の頭が、子供の骨が、いまだ衣服をまとったままの骸骨が転がっている。ここには家があり、その床は、灰と、生きたまま焼かれた30人の居住者の炭化した骨で白くなっている。ここでは町の名士トランダフィル(Trandafil)が矛で刺され、焼かれ、後に埋葬された。ここには不潔な穴があり、その中は腐敗した遺体で満たされている。ここには水車ダムがあり、膨張した死体で埋め尽くされている。ここには学校の校舎があり、200人の女性と子供が逃げ込んだが、生きたまま焼かれた。ここには教会と庭があり、あまたの腐りかけた死体に埋め尽くされており、囲いの中は高さ数フィートに達する山があり、腕、脚、頭が、彼らを覆い隠すために荒っぽく積まれた石の合間から姿を見せており、空気を汚している。 この訪問をきっかけとして、ムタサリフ(mutasarrif)の命令によって、遺体の腐敗を防止し、疫病を予防するために、タタール・バザルジクのカイマカム(Kaymakam)が石灰をもってバタクに入った。 虐殺を指揮したアフメト・アガは、勲章を受け、ユズ・バシ(Yuz-bashi)へと昇進した。 虐殺の形跡を見たもう一つの証言は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、Januarius MacGahanであり、見たものについて以下のように述べている: 我々は木工品が燃えて黒こげになったまま破壊や損傷を免れている教会を見た。それは屋根の低い、背の低い建物であり、背の高い人が下に十分入れる程度の重厚で不規則なアーチによって支えられていた。我々がそこで見たものは、一目みるだけで恐ろしい光景であった。数え切れない程の、部分的に焼け焦げ、炭化し、黒くなった遺体が、低くて暗いアーチのほぼ半分を覆っているかのようであり、これによってアーチはいっそう低く、暗く見え、遺体は腐敗が進んでおり、恐ろしくて正視できない。想像を絶する恐ろしさであった。我々はみな恐れてめまいを感じ、動揺し、恐ろしい疫病の巣窟から脱出して、心底ほっとして路上へと戻った。我々はその後もたびたびこの場所を思い出し、何度も同じ光景が浮かび上がった。男性の骸骨は衣服に包まれたまま、ぶら下がった肉の腐敗が進んでいる。女性の骸骨から垂れた、ほこりにまみれた髪。子供や幼児の死体は至るところにころがっている。ここには、20人が生きたまま焼かれたという家がある。そこには大勢の娘たちが逃げ込み、その最後の1人までが、骨が確認できるまで虐殺された。全ての場所が恐怖の上に恐怖であった。 イギリスの長官、ベアリング(Baring)はこの出来事について、「今世紀の歴史を汚した、最も憎むべき犯罪であろう」と述べた。10月には、ベアリングはオスマン帝国の犯罪に関する記録の中で、再度の報告を求められた。委員会の閉会から6週間の後、バタクの虐殺が犯罪か否かについて決定はなされなかった。
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「広州大虐殺 (唐代)」の記事における「虐殺」の解説
ペルシャのアラビア語著述家アブー・ザイド(Abu Zayd Hasan Ibn Yazid Sirafi)によると、ヒジュラ紀元264年(877年から878年)、淡水の大河のほとりにあるカンフ(Khanfu خانفو)という大都市を制圧したヤンシャウ(Yan Shaw يان شوا、黄巣を指すと考えられる, Y/Bの混同によりBan-schou, Ban-schou-naとも読まれる)の軍は、ユダヤ人、ムスリムのアラブ人やペルシア人、ゾロアスター教徒(ペルシア人やインドのパールシーなど)、キリスト教徒などを虐殺した。近辺の桑林もヤンシャウの軍に荒らされた。虐殺の犠牲者は裕福な外国人だった。マッキントッシュスミス(Tim Macintosh Smith, Shaykh al Nāsirī)によるアブー・ザイドの地理書のアラビア語原文からの英訳(2014, 2-2-1節)は、カンフの位置が広府(広州)とは全く異なることを示す(淡水の大河のほとりにある、養蚕のための桑林が多い)。Shine Toshihiko(2020, p.59)は、ヒジュラ紀元264年(877-878年)に虐殺が起きたカンフの位置は、760年に虐殺が起きた邗府(かんふ、いまの揚州)と合致しており、アラブ史料においてふたつのカンフ大虐殺(760の邗府=揚州大虐殺と877-878あるいは879年の広府=広州大虐殺)の混同があると指摘する。Shine はまた後者(広州)のカンフについて桑原に従い Khanfu と Kansu の混同があるとし、Khanfu を広州(Kansu)から600km西にある欽府(欽州)に比定する。遣唐判官平群広成の陳述によれば、欽府(欽州)は753年に林邑で遭難した広成らを救出した熟崑崙と呼ばれる商人たちの母港であった。 外国人の犠牲者数は、12万人から20万人まで諸説ある。 中国に外国人が住み着いた時期は何度かあるが、彼らがしばらく居着いたそのたびに虐殺が起きた。例えば、9世紀にイスラーム教徒などが広東に住み着いた。そして889年、そこで12万人ともいわれる数の外国人が虐殺されたのだ —the American Baptist Foreign Mission Society、The Baptist missionary magazine (1869年) 10世紀の歴史家マスウーディーもまた、ヤンシャウ(黄巣か?)という成り上がり者の暴徒の大軍が、淡水の大河のほとりにあるカンフという大都市を攻略し、20万人のムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が殺されたり溺れ死んだりしたと述べている。彼もまた、アブー・ザイドと同様に、暴徒が周辺の桑林を切り倒したのでイスラム諸国への絹の輸出が途絶えたとも述べており(実際には乱のなかで養蚕農家や絹織物職人のコミュニティーが崩壊したため)、絹交易の観点からも、この虐殺事件に対するアラブの歴史家・地誌家の関心の高さがうかがえる。
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「オラドゥール=シュル=グラヌ」の記事における「虐殺」の解説
1944年6月、連合国のノルマンディー上陸作戦の進行につれ現地のフランス・レジスタンスはドイツ軍の作戦を妨害するため、通信攪乱などの各種工作をより積極的に行うようになっていた。参謀本部からの指示を受け、ノルマンディーに向け進軍中であった武装親衛隊の第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」は行く先々で彼らによる攻撃と破壊工作に苦しめられていた。 6月10日早朝、とあるフランス人2名より密告を受けた第2SS装甲師団所属の第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」第1大隊指揮官のSS少佐アドルフ・ディークマン(ドイツ語版)は、同僚のSS少佐オットー・ヴァイディンガー(ドイツ語版)に対し「ドイツ人高級将校1名がオラドゥール村でマキ(註:レジスタンス組織)により捕らえられたようだ」と報告した。そのフランス人はオラドゥールの村民ほぼ全てがマキに関わっており、現在マキの指導者たちがオラドゥールに滞在しているとも述べた。ちょうど同時期、リモージュにいた親衛隊保安部員は現地の内通者からマキの司令部がオラドゥールに存在するとの情報を得た。捕らわれたドイツ人高級将校はSS少佐ヘルムート・ケンプフェ(ドイツ語版)とされるが、彼はディークマンとヴァイディンガーの友人であった。なお、その後ケンプフェが発見されることはなくSSが作成した「南フランスでの対テロ作戦中の行方不明者リスト」にも彼の名前は載っていない。 同日、ディークマンに率いられた第1大隊はオラドゥールを包囲し、住民に村中心部にある広場に集まるよう命令した。表向きの口実は身分証明書の検査であった。集まってきた住民のうち、女性と子供は教会に連れて行かれた。しばらく経ったのち男性は6つの納屋に分かれて連行されたが、その納屋には既に機関銃が待ちかまえていた。生存者の証言によれば、SSはまず脚を狙って発砲。彼らを逃れられないようにした後、たきつけで体を包み、納屋に火をつけた。生存者はわずかに5名(納屋から男性6名が逃げ出したが、そのうち一人は逃亡後すぐに発見され、射殺された)で、197名が死亡した。 男性達への攻撃を終えると、兵士たちは教会の中に入り放火した。一説によれば、毒ガスも使用されたとされる(ただし武装親衛隊の装備に毒ガスはなく、またヒトラー自身は使用を厳禁している)。中にいた女性と子供はドアや窓から逃げだそうと試みたが、ここでも待ち受けていたのは容赦ない機関銃による銃撃であった。女性240名、子供205名が混乱のなかで命を落とし、奇跡的に女性1名が一命を取り留めた。また、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団も逃げ延びることができた。その夜、村は以前の面影を窺い知ることができないほどに徹底的に破壊された。数日後、生存者たちは犠牲者の埋葬を許された。
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「マーカス・ホィットマン」の記事における「虐殺」の解説
インディアンの領地内に白人開拓者が流入することで、1847年の麻疹の重大な流行などインディアンにとって新しい病気をもたらした。インディアンはこれらの新しい病気に免疫が無く、限られた健康習慣のために高い致死率となり、子供達が非常に多く死んでいった。ホイットマンが熱心に改宗を勧めることと、多くの白人患者は快復させたことで、インディアン達はホイットマンがインディアンの患者を死なせているという考え方が育っていった。 インディアンには病気を治す能力を持っていると信じられている呪医という存在があり、これが結局暴力沙汰に繋がった。1847年11月29日のホイットマン虐殺と呼ばれることになる事件で、カイユース族がホイットマン夫妻を殺害した。ワイイラップーの建物のほとんどが破壊された。この地域社会にいた他の白人開拓者12人も殺された。1ヶ月の間、53人の女性子供が捕虜になり、その後交渉で解放された。この事件が白人開拓者と先住インディアンとの間の打ち続く紛争の引き金となり、カイユース戦争と呼ばれることになった。 当時の者の証言に拠れば、プロテスタント伝道者と地元のカトリック聖職者との間の打ち続く敵対意識によって事態は悪化していた。ローマ・カトリック聖職者のジョン・バティスト・ブルーイエが生存者を助け、犠牲者を埋葬するのを手伝った。しかしヘンリー・スポルディング牧師はブルーイエ神父を初め、カトリックの聖職者が虐殺を唆したと強調するパンフレットを書いた。「スポルディングのこの惨劇に関する見解はその後の半世紀間、納税者の費用で何度も何度も印刷された。1901年になってイェール大学の歴史家によって最終的に否定された。」
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虐殺
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1943年10月、ドイツ内相・親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがルブリン・ユダヤ人の虐殺を目的とする「収穫祭作戦」を行うよう命令を下した。この命令は「ポーランド総督府」親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーを通じて「ルブリン」親衛隊及び警察指導者ヤーコプ・シュポレンベルクに伝達された。 この時ルブリン地区のユダヤ人はルブリン強制収容所、トラヴニキ強制労働収容所 (de) 、ポニアトーヴァ強制労働収容所 (de) のいずれかで働かされていた。ルブリン強制収容所の付属収容所には「東方工業所」があり、ここで1万6000人のユダヤ人囚人が労働していた。トラヴニキとポニアトーヴァのユダヤ人囚人は解体されたワルシャワ・ゲットーから連れてこられた人々で、それぞれシュルツ社とテベンス社で労働していた。 1943年10月末頃「防空壕」と称してルブリン強制収容所の死体焼却場の近くの第5地区と第6地区に突然穴が掘られた。作業を行ったのは囚人たちであり、深さ2メートル以上、長さ100メートルの穴が3つ掘られたという。 11月3日朝からルブリン収容所にいるユダヤ人囚人8400人、呼び戻された外部作業班やトラヴニキ・ポニアトーヴァから連れてこられたユダヤ人囚人たち1万人ほどが長い隊列を組んで第5地区へ向かわされた。彼らは第5地区のバラックで裸にされ、50人から100人ずつ穴に入れられ、そこにうつぶせに寝かせられて銃殺されていった。次のグループはその死体の上に寝るよう命じられ、また銃殺された。この繰り返しで穴がいっぱいになるまで銃殺が続けられ、11月3日だけで1万8000人が殺されたという。さらに11月4日に殺害されたユダヤ人の数とあわせて犠牲者数は総計4万人以上におよぶという。
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虐殺
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ド・ローネーは捕らえられ、パリ市庁舎に連行された。道すがら、興奮した群衆は彼を殺害しようとしたが、市民代表が「彼にも裁判を受ける権利があるのだ」と制止し、その場はいったん収まった。しかし、市庁舎に着いたところで群衆はついに制止を振り切ってド・ローネーを殺害してその首を刎ねた。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿った。さらに前日に武器の所在についてあいまいな発言を行った市長のジャック・ド・フレッセルも、その対応を「市民を惑わせる裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩いた。その後、7月22日にいたって、ネッケルの後任となるという推測が一時広まっており、自身が行っていた穀物投機のために食糧危機を策謀したとしてパリ市民の怒りを買っていた元陸海軍総監ジョセフ・フーロン・ド・ドゥエ(英語版)がなぶり殺しにされた。またその女婿でパリ知事のベルチエ・ド・ソーヴィニー(英語版)もパリの食糧危機に責任ありという理由で義父と同じ日に群衆に虐殺され、ともに槍首にして引き回された。
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虐殺
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「1891年3月14日のリンチ事件」の記事における「虐殺」の解説
遂に暴徒が刑務所の扉を叩き壊して侵入した。刑務所の看守は19人のイタリア系の収監者を監房から解放し、身を隠すよう促した。刑務所の外に集まった数千人の群衆から自然発生的に私刑が発生し、一部の者が率いる「処刑部隊」が実行した。結局11名が射殺されたり撲殺され、一部の犠牲者の遺体は街灯や木に吊るされた。リンチを免れた生存者は釈放され、裁判にかけられなかった者に対する告訴は取り下げられた。 警察の記録によると、一部の犠牲者はテキサス州やイタリアで犯罪を犯して逃亡中であり、アメリカ国籍を保有していない者もいた。
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虐殺
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「マクペラの洞窟虐殺事件」の記事における「虐殺」の解説
マクペラの洞窟に併設されている建造物は、壁により2つの区画に分けられており、1つはユダヤ教徒が、もう1つはムスリムが礼拝に使用する場となっている。ユダヤ教徒用の区画は、ユダヤ教の割礼の儀式であるブリット・ミラー(英語版)の会場である「アブラハムのホール」や、「ヤコブのホール」、イェシーバー (ユダヤ教学院) などからなっており、毎日多くのユダヤ教の宗教行事が執り行われていた。一方、ムスリム用の区画は、ユダヤ教徒の区画よりはるかに広く、「イサクのホール」と呼ばれている。ユダヤ教徒、ムスリムの双方に、1年の内10日間ずつが、洞窟の施設を占有して使用する期間として割り振られている。 2月25日の午前5:00、800名ものムスリムのパレスチナ人が、1日5回の礼拝の最初の祈り (Fajr) を捧げるため、建物の東の門から入場した。陸軍の制服を着用、IMI ガリル(イスラエル製アサルトライフル)と35発入りの弾倉4個を携行したゴールドシュテインは、ムスリムの集まっている「イサクのホール」に侵入した。ゴールドシュテインは警備を行っていたイスラエル軍の兵士に呼び止められずに侵入できた。これはゴールドシュテインが、「イサクのホール」の隣のユダヤ教徒の区画で礼拝をしに来た兵士と思われたためである。 ゴールドシュテインは洞窟からの唯一の出入口の前、礼拝を行うムスリム達の背後に位置しライフルを乱射、29名を殺害し、125名を負傷させた。ゴールドシュテインは、その場に生き残っていた者達に取り押さえられ、暴行を加えられて死亡した。 事件後の報道内容には多くの混乱が見られた。特に、襲撃はゴールドシュテイン単独の犯行か、他に共犯者がいたのかについては誤った情報が流れた。例えば、目撃者の証言として、「軍の制服を来たもう1人の男がゴールドシュテインに弾薬を手渡した」という話が報じられたこともある。また、ゴールドシュテインがムスリム達に手榴弾を投げつけたと報じられたこともあった。パレスチナ人の指導者ヤーセル・アラファートは、襲撃はイスラエルの予備役兵の部隊を含む12名により実行されたと主張した。しかし、イスラエル軍や後に設置された調査委員会による調査により、洞窟の警備に当っていたイスラエル軍が彼を援護したり、故意に犯行を黙認したことはなく、ゴールドシュテインは単独で襲撃を実行したこと、また、手榴弾は使用されなかったことが明らかになった。しかしながら、複数犯行説を主張した被害者たちは、別々の病院で手当てを受けており、口裏合わせは不可能という報道もあった。
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虐殺
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6月16日の夜にトルコの長官ケマル・ベイと同伴の憲兵6人がギリシャ兵によって暗殺された。彼らの死は翌日の地元のギリシャ人によって支援されたクレタ旅団によるメネメンの一般市民に対する虐殺の幕開けとなった。事件は「大虐殺」として連合軍の4人の将軍から成る調査委員会から呼ばれた。 6月17日のトルコ市民の犠牲者数は200名程度で異なる。調査委員会によって作成された1919年10月の報告書では、翌日到着した代表団によると1000名にも上ったとされる。委員会代表のチャーンズ大佐はトルコ人犠牲者数に比べてギリシャ人負傷者(軍人、民間人を問わず)がほとんど存在しなかったことを比べた。10月の報告書はスミルナのイギリス及びイタリア領事館からのイギリス軍士官と医師たちは1000名の死傷者は誇張であるとして否定し、少なくとも100名が死亡たとし、後のフランス軍士官による調査では200名のトルコ人が殺害され、200名が負傷したとした。 この事件はトルコのシェイヒュル・イスラームによって異議を申し立てられた。ギリシャ軍は町を攻撃したと主張したが、委員会は彼らの声明を信じなかった。委員会は流血の責任がギリシャ軍に一方的にあるとした。 歴史家のジャスティン・マッカーシーは委員会の調査結果を否定する。市内のギリシャ人の家は白の×印が付けられ、略奪と破壊を免れていたことから虐殺は事前に計画されていたものだと主張している。
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虐殺
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「ウンデット・ニーの虐殺」の記事における「虐殺」の解説
1890年12月29日、 朝方、フォーサイスはインディアンたちの武装解除に取り掛かり、4門の速射砲ホッチキス山砲を、四方のキャンプを見下ろせる丘に据えさせた。8時ごろ、インディアンたちが軍の前に半円状に座った。フォーサイスは「20人ずつ銃を持って来い」と命令した。 生き残りの一人、ドッグ・チーフによれば、彼らの銃や武器はビッグ・フット酋長のティピーの横に積み重ねられた。が、まだ武器を差し出していない戦士がおり、フォーサイスは兵士に命じ、ティピーに押し入って無理やり銃を探させた。寝ている女の毛布を剥がす者もいた。この陵辱行為に人々は怒り、キャンプは一触即発の緊張状態となって、にらみ合いとなった。イエロー・バードという戦士ともう一人の戦士がビッグ・フットのティピーの前に立っており、二人とも体に白いシーツを巻きつけ、眼だけ覗かせていた。彼らはシーツの下に銃を隠し持っていた。一人の白人士官がこの一人から銃を取り上げ、イエロー・バードからも銃を奪おうとした時、揉み合いになった。このとき、銃が誤射され、白人士官を射殺してしまった。ドッグ・チーフはそばで一部始終を見ていたが、「完全な事故だった」と証言[要出典]している。 これをきっかけに、ついに米軍はインディアンに対する無差別虐殺を開始した。無抵抗の病人のビッグ・フットは、間もなく、ティピーに押し入った兵士に頭に弾を撃ち込まれて殺された。兵士達の多くは、まだゆうべ飲んだウィスキーが頭に残っていた。 軍は丘の上から速射ホッチキス山砲で無差別砲撃を加えた。さらに新鋭のスプリングフィールド銃 (Springfield rifle) で馬も犬も子どもも狙い撃ちし、皆殺しにした。100人弱の戦士たちは、没収された銃を手にするまでは素手で虐殺者たちと戦った。イエロー・バードは銃をとってティピーに立てこもり、白人を狙い撃ちした。ティピーに火が放たれ、全身に銃弾を浴びるまで戦った。 銃・砲弾の降り注ぐ中、インディアンたちはそれでも3キロメートルばかり逃げたが、負傷のためにそこで力尽き、倒れていった。部族員のほとんどが武器を持たず、それを四方から取り囲んだ兵士達が銃撃した。白人は29人が亡くなった。米軍側の負傷者は39人だった。カスターの部下だった士官もいたが、彼は味方の攻撃の巻き添えで亡くなった。それほどまでのすさまじい無差別銃撃だった。 「ホッチキス山砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロメートル余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」[要出典]と、兵士の一人は回想している。 また、「これまでの人生で、このときほどスプリングフィールド銃がよく出来ていると思ったことはない」[要出典]と、ある白人士官が言葉を残している。乳飲み子もたくさんいたが、米兵はこれも無差別虐殺した。「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」[要出典]と、埋葬隊の一人は言葉を残している。 この無差別虐殺は、発生直後にその報がシャイアンクリークの野営にも届き、直ちに20騎ばかりのスー族戦士団が虐殺現場へと馬で駆けつけた。米兵は彼らに発砲したが、すぐに退却した。救援の戦士団は、ワゴン砲の砲撃でばらばらになったたくさんの死体を見た。こときれた母親の胸で、乳を吸おうと泣き叫ぶ赤ん坊もいた。亡くなった母親のショールに包まって生きていた赤ん坊が3人いた。救援に駆け付けたスー族戦士のブラック・エルクとレッド・クロウは転がっている赤ん坊をそれぞれ一人ずつ見つけ、ショールでくるんで連れ帰った。この二人の赤ん坊はスー族が引き取ったが、白人に連れ去られた赤ん坊もいた(→ロスト・バード)。峡谷では、男児二人が銃を持ち、米兵と戦い、これを射殺していた。この二人の男児は全く傷を負っていなかった。 増援の戦士団に対し、退却した米兵は壕を掘って応戦した。夕方になって米兵は去り、ブラック・エルクたちはようやく虐殺の全容を把握した。彼はこのとき、「自分も死ねばよかった」と思ったという[要出典]。虐殺された人々に対しては、哀れみや同情よりも、「いっそ白人の支配するつらいこの世に別れ、あの世で幸せに暮らすほうがいいかもしれない」と思ったと語っている[要出典]。彼らは白人に対する復讐を誓った。ブラック・エルクたち救援の戦士団はパインリッジの保留地に戻ったが、一度退却した米軍が追跡してきた。パインリッジのスー族はティピーを置いたまま逃げていた。
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虐殺
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「華僑虐殺事件 (バタヴィア)」の記事における「虐殺」の解説
10月7日、中国人の砂糖工場労働者の集団が改造武器を使用して反乱を起こし、工場を略奪し火を放った後、数百人の華僑によってメーステル・コルネリス(オランダ語版)(現ジャティネガラ(英語版))とタナ・アバンで50人のオランダ兵が殺害された。これを率いていたのはNie Hoe Kongではないかと疑われた。これに対して、オランダは暴動を止めるために正規兵1800人をSchutterij(民兵)および徴集兵大隊11個と共に送り込んだ。この部隊は夜間外出禁止令を課し中国の祭りの計画を中止させた。中国人が蝋燭の明かりの下で植民地への反抗を企てることを危惧されたため、都市の城壁内に住む中国人は蝋燭を点けることを禁止され、「一番小さいキッチンナイフ(包丁)に至るまで」全て引き渡さなければならなかった。翌日、オランダ側は近隣のタンゲランとブカシから来た集団に率いられた華僑最大1万人による襲撃を都市の外壁で撃退した。ラッフルズによれば、この襲撃で1789人の中国人が死亡した。これに対し、ファルケニールは10月9日に再度評議会の会合を開いた。 一方、バリ島とスラウェシ島出身の奴隷、ブギス族、バリ島人(英語版)の部隊など、バタヴィアの他の民族集団の間では華僑が彼らを殺害、強姦、奴隷化する計画を立てているという噂が広まっていた。これらの集団は先手を打ってベサル川沿いの華僑の家を焼いた。続いて、オランダ人がバタヴィアの他の場所にある中国人居留地を襲撃し、家を焼いて人々を殺害した。植民地主義を批判していたオランダの政治家W・R・ファン・ホエーフェル(英語版)は、「妊娠中の女性、授乳している母親、子供、震える老人が切り殺された。無防備な囚人たちは羊のように屠殺された」と書き記した。 ヘルマヌス・ファン・スフテレン (Hermanus van Suchtelen) 少尉とタナ・アバン出身の生存者ヤン・ファン・オーステン (Jan van Oosten) 大尉が率いる部隊は中国人の地区を担当していた。スフテレン少尉とその部下は家畜市場に陣取り、オーステン大尉らは近くの運河沿いを担当した。午後5時頃、オランダ側は中国人の家々に大砲を放ち、それにより家に火が付いた。燃える家の中で死んだ中国人もいれば、自宅を離れて撃たれたり、自暴自棄になって自殺した中国人もいた。住宅地の近くにある運河にたどり着いた中国人は小舟で待っていたオランダの部隊に殺害され、他の部隊は燃える家の列の間を捜索し、発見した生存者を殺害した。これらの行動は後にバタヴィアの都市全体に広がった。フェルメレンによれば、加害者の多くは船員であり、それ以外にも社会の「不法と悪の要素」が参加していた。このとき、財産の略奪と押収が大規模に行われた。 翌日、暴力行為は拡大し続け、病院にいた中国人患者は病院外に連れ出されて殺害された。前日に破壊された地域の火災を鎮火しようとしたものの失敗し、炎は勢いよく燃え広がり、10月12日まで燃え続けた。一方、800人のオランダ兵と2000人の先住民からなる集団はガディン・メラティ村 (Kampung Gading Melati) を襲撃し、そこでは生き残った中国人の集団がKhe Pandjang の統率のもとで抵抗していた。中国人らは近くのパニンガラン(インドネシア語版)に避難したものの、後にオランダ軍によってその地区から追放された。2回の襲撃で発生した死傷者はオランダ人が約450人、中国人が約800人だった。
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虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 14:53 UTC 版)
11月27日か28日に船員が27海里 (50 km)離れたジャマイカを発見したが、イスパニョーラ島のフランス植民地サン=ドマングだと誤認してしまった。ゾング号は西方に向かう航路を進み続け、ジャマイカから離れた。この誤解が発覚したのは、船がジャマイカから風下に300マイル (480 km)離れた後のことだった。過密状態、栄養失調、事故、病気により既に数人の船員と約62人のアフリカ人が死亡していた。後のジェームズ・ケルサルの主張によれば、このミスが発覚した時点でゾング号はジャマイカまで10-13日かかる地点にいたが、船には4日分しか水が残っていなかったという。 11月29日、船員らが集まって奴隷の一部を海に捨てる案について検討した。ジェームズ・ケルサルの主張によれば、彼は当初計画に反対していたが、すぐに満場一致で可決されたという。この日、女性と子供54人が海に捨てられた。12月1日に42人の男性奴隷が船外へ捨てられ、その後数日間でさらに36人が捨てられた。また、奴隷船での非人道的行為に反発した奴隷10人が海へと飛び込んだ。水中へと放り込まれる犠牲者たちの悲鳴を聞いて、海へ投げ込むくらいなら残りのアフリカ人の食事と水を一切断ってほしいと1人の奴隷が懇願したが、船員はその懇願を無視した。12月9日までに合計132人のアフリカ人奴隷が海に捨てられた。王座裁判所の報告書によれば、1人の奴隷がよじ登って何とか船に戻ったという。 当時、「投げ荷」は海上保険の補償対象であり、船長の権限で行われることになっていた。船員の主張によれば、船には残りの航海の間全ての奴隷を生かしておけるだけの十分な水がなかったために奴隷を「投げ荷」したのだという。だが、後にこの主張に対して反論があった。12月22日にジャマイカに到達した時点で船には420英ガロン (1,900 l) の水が残っていた。後にケルサルが作成した宣誓供述書によれば、42人の奴隷が殺害された12月1日に1日以上にわたり大雨が降り、たる6個分、11日分の水を集めることができたという。
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虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:48 UTC 版)
暗殺後にナチスは戒厳令を出した。6月10日にリディツェの村は破壊され、住人の14歳から84歳までのすべての男性は射殺された。リディツェが選ばれたのは、その住民が地元のレジスタンスパルチザンを匿い、ハイドリヒ暗殺のチームメンバーを支援したとして虚偽の告発を受けたからであった。その後ゲシュタポは、レジャーキでシルバーA作戦に使用された無線機を発見した。レジスタンス・グループ「シルバーA」のリーダー、アルフレッド・バルトシュはその後間もなく自殺した。6月24日、500人以上の武装親衛隊員とゲシュタポがレジャーキを包囲し、全ての住民を追い出して家が焼き払らわれ、33人の村人が射殺された。その時13人の子供達は引き離されていた。6月26日にこの経緯が新聞発表され事件が明らかとなり、1943年12月中旬、村の残骸はナチスの作業収容所から65人の人員が送られ取り除かれた。 アーリア人化計画に選ばれた子供2人は戦後に帰国したが、残りの子供達11人はヘウムノ絶滅収容所へ送られ、1942年、リディツェの子供達と共にガス室で殺された。 リディツェと違い、レジャーキの村は戦後再建されることはなく追悼碑のみ残っている。
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虐殺
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1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン(英語版)はツチとフツ穏健派に対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、フツ過激派はミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはフツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。 4月9日、国連監視団はギコンド(英語版)のポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した(ギコンド虐殺(英語版))。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州各国軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、『ワシントン・ポスト』紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。4月9日から10日にかけて、アメリカ合衆国のローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。 ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチやフツ穏健派殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(英語版)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派のシルヴァン・ンディクマナ(英語版)が知事に就任すると、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって数日後に殺害された。 4月下旬にはキブンゴ県のニャルブイェ(英語版)においてニャルブイェ大虐殺が発生し、およそ2万人が虐殺された。この虐殺は、フツ出身の市長シルヴェストル・ガチュンビチ(英語版)の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェカトリック教会へ逃れたが、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれて大半が虐殺されるという経過で行われた。地元のカトリック司祭であったアタナゼ・セロンバ(英語版)はルワンダ国際戦犯法廷において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力したため、ジェノサイドと人道に対する罪で有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (École Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって避難民の大半が虐殺された事件(公立技術学校の虐殺)が発生している。この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。 犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』 の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃や、強姦、拷問を受けた。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げられたり、殺害現場に放置された。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラ(英語版)はツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている。 ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行ったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)のアレックス・デ・ワール(英語版)とラキヤ・オマー(英語版)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(英語版)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(英語版)の代表であるジェイムズ・スミスは、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている。 ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、1日あたり1万人が、1時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくは「ルワンダにおける売春」を参照のこと)。 虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK-47や手榴弾といった銃火器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計と調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテの4分の3は1993年に当時のルワンダ政府が中国 から安価で大量に輸入したものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された。キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる。 ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、 ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―。 といった報告が数多く詳細に収録されている。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある。 ルワンダ虐殺の最中に虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もいた。映画「ホテル・ルワンダ」で知られるポール・ルセサバギナの他、ピエラントニオ・コスタ(英語版)、アントニア・ロカテッリ(英語版)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(英語版)、カール・ウィルケンス(英語版)、アンドレ・シボマナ(英語版)らによる活動がよく知られている。
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虐殺
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「フョードル・ココシキン」の記事における「虐殺」の解説
ココシキンがペトログラードに到着するとすぐに、ペトログラード軍事革命委員会(ロシア語版、英語版)の発した令状によって、ボリシェビキは彼を「人民の敵の党」の指導者の一人として逮捕した。そして、ココシキンはペトロパヴロフスク要塞に収監された。 ココシキンは結核を患っていたため、翌年の1918年1月6日、同じカデット党員のアンドレイ・シンガリョフ(ロシア語版、英語版)とともにマリヤ監獄病院に移送された。翌日の夜、バルト海艦隊の水兵たちが病院に侵入し、二人を虐殺した。 殺害の数日後に行われた追悼集会では、少年時代のドミートリイ・ショスタコーヴィチがピアノ曲『革命の犠牲者に捧げる葬送行進曲』を演奏したと言われている。この『革命の犠牲者に捧げる葬送行進曲』は、『シンガリョフとココシキンに捧げる葬送行進曲』としてショスタコーヴィチが作曲したものだという説もある。 後に、殺害事件の犯人たちの指導者バソフが「穀潰しのブルジョアが二人減っただけだ」という理由でこの殺人を正当なものだったと弁明していることを司法省は明らかにした。バソフは裁判にかけられ有罪となったが、他の殺人犯は誰も逮捕されなかった。そして、ボリシェビキの指導者たちは当初こそココシキンたちの殺害を非難したが、後に政治テロル行為だったとしてこの殺人を正当化しようとした。
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虐殺
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このテッサロニカでの暴動の報告を受け、当時メラディオヌム(現在のミラノ)にいたローマ皇帝、テオドシウス1世(大帝) は激怒し、冷静さを失ってしまう。テオドシウス1世はローマ軍をテッサロニカの街に送り込み、兵士たちに報復処置として容赦なくすべての住民を虐殺すように命じた。少し後、激高が収まったテオドシウス1世は冷静さを取り戻し、大量虐殺に至る考えを変えた。 しかし、虐殺の命令の取りやめを告げる皇帝の使者が新しい指示を受けて到着する前に、既にテオドシウス1世の以前の命令の結果としてテッサロニカ市民約7000人がすでにローマ軍によって殺戮されていた。テオドシウス1世の冷静な勅命が間に合わなかったがために、無残な光景が広がる事と成った。虐殺の報を帰都した使者から聞き、自ら激高して報復処置を認め、虐殺を引き起こしたことに対し、テオドシウス1世は落胆したと言う。結果、テッサロニカは一時的に人口が激減したとも言われる。
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虐殺
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その後の午後4時から夕暮れまでに起こったことについて矛盾する報告書が議論のタネになった。北軍の史料では、北軍兵が降伏してもフォレスト隊は彼らを冷血に虐殺したと主張した。生き残った守備兵は、その大半が降伏し武器を投げ出したが、攻撃隊に銃で撃たれるか銃剣で刺されるだけであり、その攻撃隊は「容赦するな!容赦するな!」と叫んでいたと言った。アメリカ合衆国議会両院合同戦争遂行委員会は即座にこの事件を調査し、南軍は守備隊が降伏した後もその大半を銃撃したと結論を出した。アルバート・キャステルによる2002年の研究では、ピロー砦が「抵抗を止めるかあるいは抵抗できなくなった」後も無差別に虐殺されたと結論付けた。 これは第6アメリカ有色人種重砲兵隊のダニエル・ヴァン・ホーン中尉がその公式報告書で「砦の降伏は無かった。士官も兵士も降伏や慈悲を求めることを決してしないと宣言していた」と述べたことで議論となった。 一方、フォレストの兵士達は、北軍が逃亡していたけれども、その武器を携行し、しばしば振り返って銃撃したので、南軍兵は自己防衛のために射撃を続けざるを得なかったと主張した。北軍の軍旗は依然として砦の上に翻っており、そのことはその部隊が正式には降伏していなかったことを示していた。当時の新聞に載ったテネシー州ジャクソンの者の証言は、「フォレスト将軍が彼等に降伏を懇願した」が、「降伏の最初の合図も与えられていなかった」としていた。同様な証言が当時の多くの南部と北部双方の新聞に掲載された。
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「虐殺」の例文・使い方・用例・文例
- 捕虜を虐殺したのは残忍な行為だ。
- 将軍は捕虜全員の虐殺を命じた。
- ひどい虐殺.
- 我々はその大虐殺の現場を目撃して心底から嫌悪を感じた.
- その町の半数以上の住人が兵隊によって虐殺された.
- 虐殺現場を写したと報じられたその写真は作り物と判った.
- 大規模な刑務所の大虐殺が命じられた
- 両者にとって流血と大虐殺を被ったことで特徴づけられる
- フツ族はルワンダでツチ族を大虐殺した
- 大虐殺生存者は、悪夢の中で生きた
- 虐殺の生存者が職員を配置する初期の政府
- 核による大虐殺
- 1836年のサンアントニオの布教施設における包囲と虐殺
- 1649年に当地はオリバー・クロムウェルに占領され、カトリック教徒の住民が虐殺された
- 殺人か虐殺で有罪の
- ウーンデッド・ニーでの目の覆う虐殺
- ルワンダでの虐殺のニュースが入ってきた
- ペルシアの女王になり、人々を大虐殺から救った美しいユダヤ女性について書かれた旧約聖書の本
- 生存者の罪悪感は、大虐殺を免れた人の中で最初に述べられた
- GIAは民間大虐殺のテロ活動を始めた
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