バスティーユ襲撃とは? わかりやすく解説

バスティーユ襲撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 02:47 UTC 版)

バスティーユ襲撃(バスティーユしゅうげき、: prise de la Bastille)とは、1789年7月14日フランス王国パリの民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃した事件である[1]フランス革命のはじまりの日とされる[2]


注釈

  1. ^ この連隊は戦列歩兵連隊であり、いわゆるスイス衛兵として知られる王室衛兵隊のギャルド・スイスとは異なる。
  2. ^ 暴動が伝えられた当日の国王の日記には、「何事もなし」と書かれていたという。しかしこの表現は、狩り好きのルイ16世が、ほとんど毎日のように行なっていた狩猟の当日の結果について記したものである。当日のバスティーユ襲撃の出来事について記述しているわけではない。
  3. ^ 中世よりパリの市長はパリ商人頭(プレヴォ―・デ・マルシャン・ド・パリ)フランス語版と呼ばれ、古くはパリの商人ギルドのメンバーの中から選ばれた者、後には中央政府の行政官僚が国王から任命されていたが、市政委員会に代わって新しく発足したパリ自治政府は新たなパリ市長(メール・ド・パリ)英語版としてバイイを選出し、以後パリ市長は公選によって選ばれることとなった。

出典

  1. ^ バスチーユとはコトバンク
  2. ^ バスティーユ監獄 収監されていたのは詐欺師や放蕩息子”. NEWSポストセブン (2016年7月22日). 2020年7月2日閲覧。
  3. ^ J.ゴデショ英語版著/ 赤井彰編訳 バスティーユ占領(ドキュメンタリー・フランス史) 白水社 1986、p167および山崎耕一著 フランス革命 「共和国」の誕生(刀水歴史全書96)刀水書房 2018、P52。
  4. ^ 山崎著2018、p52
  5. ^ 澁澤龍彦著 サド侯爵の生涯(新版) 中公文庫 2000、p274ー277。パリが次第に騒然となっていく中、バスティーユではそれまで囚人に許可されていた要塞の塔上での散歩が禁止されることになったが、これに不満を抱いたサドは7月2日に手製の拡声器を使って自身の解放を通行人に訴える騒ぎを起こしたため4日にシャラントン精神病院英語版に移送された。
  6. ^ G.リューデ著/前川貞次郎、野口名隆、服部春彦訳『フランス革命と群衆』ミネルヴァ書房 1963(新装版1996)、p81-82。
  7. ^ a b ゴデショ著/赤井訳1986、p173。
  8. ^ リューデ著/前川他訳1963、p81-82。
  9. ^ 同書、p80-81。
  10. ^ ゴデショ著/赤井訳1986、p178。
  11. ^ リューデ著/前川他訳1963、p81および桑原武夫編著『世界の歴史 (10) フランス革命とナポレオン』中央公論社 1961、p134、136
  12. ^ 以下、参加者の身分や住所、職業などの内訳の詳細についてはリューデ著/前川他訳1963、p82-85およびゴデショ著/赤井訳1986、p173-174を参照。
  13. ^ 同書、p174。
  14. ^ リューデ著/前川他訳1963、p84-85。
  15. ^ リューデ著/前川他訳1963、p72-73。ゴデショ著/赤井訳1986、p178。直接手を下したのは、当時失業中だったデノという料理人だったが、彼はその理由として、ド・ローネーが彼に悪態をついたことに加えて、彼を殺せば愛国者として勲章をもらえると思ったからだと主張していた。
  16. ^ 山崎著2018、p55ー56。同書によればこの2人の虐殺は単なる怒りの爆発ではなく、民衆を不当に困窮させた者に対し、王や政府に代わって民衆自身がその責任を問い糺す「裁判=正義の代執行」という意図があったという。
  17. ^ ゴデショ著/赤井訳1986、p185-186。
  18. ^ 同書、p182。
  19. ^ 同書、p136。
  20. ^ 桑原編著1961、p137。ゴデショ著/赤井訳1986、p185-186およびジャン=クリスチャン・プティフィスフランス語版著/小倉孝誠監修、玉田敦子、橋本順一、坂口哲啓、真部清孝訳『ルイ16世』(下) 中央公論新社、2008、p227-228。なお、ゴデショとプティフィスによればヴァレンヌ事件の後、1792年2月にルイ16世はフェルセンに次のように語ったという。「私は機会を逃した。それは7月14日だ。あの時出発すべきだったし、私はそうしたいと言った。しかしどうにもならなかった。プロヴァンス伯は行かないでくれと懇願するし、ブロイ元帥も私に向かって『メスまでは行けます。しかしその後はどうなさるおつもりですか?』などと言うのだ。(…)私は機会を逃してしまった。そして、そうした機会は私には二度と回ってこなかった」。
  21. ^ 桑原編著1961、p132。ゴデショ著/赤井訳1986、p135-136。 ネッケルの罷免に抗議するパリ市民がパレ・ロワイヤルからチュイルリー宮殿にかけて行ったデモに対し、ランベスク大公が指揮するドイツ人騎兵連隊が突撃して大混乱となり市民の間に死傷者が出た。市民の救援に駆けつけたフランス衛兵隊がこれに憤激し、ドイツ人騎兵連隊に発砲する騒ぎとなった。
  22. ^ リューデ著/前川他訳1963、p71-72。パリを囲む城壁各所に設けられていた入市税関(関税徴収所)は物価高の元凶として以前からパリ市民の憎悪を集めており、7月10日から14日にかけて50あった入市税関のうち40が暴徒に焼き討ちされた。その動きはまず残っていた役人たちを退去させ、その後で建物や書類を焼くというように整然としたものであり、また後に行われた裁判では、必要なものを焼くことが命じられていた一方で盗みは禁止されていたことを参加者が証言するなどこの事件が組織的なものであったことをうかがわせている。さらに入市税関のうち、オルレアン公に属しているといわれた税関は見逃された。これらの点からリューデはこの事件はパリへの人や兵器の出入りを掌握するため、パレ・ロワイヤルを拠点としていたオルレアン公の支持者たちが仕組んだものとしている。
  23. ^ リューデ著/前川他訳1963、p72-73。ゴデショ著/赤井訳1986、p138。 サン=ラザール修道院(不良貴族や罪を犯した聖職者の収容施設でもあった)は慈善用に大量の小麦粉を貯蔵していたが、それが折からの食糧難にあたって不当に小麦粉を退蔵していると見なされ、暴徒の襲撃を受けて多大な被害を受けたが、略奪品のうち小麦粉は市場に運ばれて強制的に流通させられた。


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