襲撃の参加者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:03 UTC 版)
この日バスティーユに押し寄せた多数の群衆のうち、実際に襲撃に参加した者を「バスティーユの征服者」として認定するため憲法制定国民議会は1790年にそれぞれ954人、871人、662人の参加者の名前が記された3種類のリストを承認した。このうち記載人数の最も多いリストに見られる954人を襲撃の参加者数とする見方もあるが、G.リューデによればこれらのリストはいずれも氏名の重複や記載漏れが多くみられるなど不完全なものであり、各リスト間のこのような記載の不備を整理すると、実際の襲撃参加者は約800〜900人前後であったと見積もっている。この中から98人の死亡者、73人の負傷者が出たが、死亡者のうち即死した者が83人、重傷を負って後に死亡した者は15人であり、負傷者のうち13人は戦闘によって手足を失う重傷を負ったという。 一方、守備隊側の兵力は数日前にスイス人連隊から派遣されていた増援32人を含めて約110人前後であったが、敗北後に司令官を含む6〜7人が虐殺され、また士官4人、兵士15人がのちに死刑となったのを除くと戦闘中の死者1人、負傷者3人であった。 また前述の3種類のリストのうち、参加者数を662人とするリストはバスティーユ襲撃の際に中心となって活躍したスタニスラス・マイヤールによって作成されたもので、参加者の氏名のほかに住所、職業などが記載されている。それによれば年齢的には8歳の少年から70歳の老人、職業は海軍士官(当時はほとんどが貴族であった)から肉体労働者まで、また外国人も39人(イタリア人13人、ドイツ人、ベルギー人各12人、オランダ人、スイス人各1人)含まれるなど、広範囲にわたる年齢、身分、職業、さらには国籍の人々がパリの各地区から集まっていたが、大多数はバスティーユに隣接するフォーブール・サン=タントワーヌ地区およびその近隣地区の住民であり、中でも小規模な工房を営む親方や職人といった手工業者が全体の約3分の2を占めている。これらの人々を含む約600人の一般市民のうち、7人中6人までが当時パリの治安維持の中核を担い、登録にあたっては財産など一定の資格制限があった民兵隊のメンバーであったことから、この襲撃事件が革命に否定的な人々によって従来非難もしくは嘲笑されてきたような、単なる貧民の暴発とは言い難いものであったことがG・リューデによって指摘されている。
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