襲撃の後日談
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「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の記事における「襲撃の後日談」の解説
ハーパーズ・フェリー襲撃は一般に国全体を南北戦争に向かわせた点で大きな要因となった。南部の奴隷所有者は当初何百人もの奴隷制度廃止運動家が関わったという報告を聞いて、その余波が小さかったことに安心した。しかし、彼らは他の奴隷制度廃止運動家がブラウンを真似て奴隷の反乱を指導しようとすることを恐れた。それ故に南部は老朽化した民兵制度を再構築した。これらの民兵は1861年までに基礎のしっかりした形になり、そのまま南軍として戦争に対する備えができあがった。 南部の民主党員は奴隷制度廃止論と密接な共和党の政策綱領があり、それがブラウンの襲撃を必然的にもたらしたと非難した。1860年11月の大統領選挙が近づくと、共和党のジョン・ブラウンに対する政治的また論説的対応は、できるだけジョン・ブラウンから距離を置くようにし、襲撃を非難し、ブラウンを非常識な狂信者として排斥した。ある歴史家が説明するように、ブラウンは政治の世界を二極化させた。ブラウンの襲撃は鮮やかに成功した。ためらいがちで脆かった野党-共和党連合に楔を打ち込み、間もなく民主党と合衆国との間を引き裂くことになる派閥的二極化を強めることに貢献した。 北部の数千の奴隷制度廃止運動家はブラウンを国の罪のために犠牲となった殉教者と見ていた。襲撃の後直ぐに、ウィリアム・ロイド・ガリソンは「リベレーター」紙のコラムの中で、ブラウンの襲撃は「善かれと思ってなされたが、悲しくも誤り導かれたものであり」、「粗野で無益な試み」と評価した。 ガリソンとその周囲は北部や南部の新聞でブラウンを中傷する者からブラウンの性格を防衛したが、アメリカ独立戦争の原理を支持した者はブラウンの襲撃を一貫して非難はできないと主張した(ブラウンが処刑された日のボストンでのガリソンの演説では、その点を繰り返し強調し、「いつから始めても、私は奴隷の反乱が成功することを願わずにいられない」と付け加えた)。 ウィキソースにオサワトミーのブラウンの原文があります。 南北戦争の勃発後、ジョン・ブラウンの殉教者としての位置付けが確立された。北軍の兵士は「ジョン・ブラウンの体」を歌いながら戦闘に進んだ。1859年12月22日、ジョン・グリーンリーフ・ホィッティアは、「オサワトミーのブラウン」というブラウンを誉め称える詩を出版した。 南北戦争が終わった後で、黒人の指導者フレデリック・ダグラスは次のように書き記した。 ジョン・ブラウンは失敗したのか?ジョン・ブラウンはアメリカの奴隷制を終わらせる戦争を始め、この自由の共和国を作った。彼の自由を求める熱意は私のものよりも絶対的に優れている。私のものなどか細い灯りに過ぎない。彼の熱意は燃える太陽であった。私は奴隷のために生きることができる。ジョン・ブラウンは彼のために「死ぬ」ことができた
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