バスティーユ監獄の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:10 UTC 版)
「フランス革命」の記事における「バスティーユ監獄の占領」の解説
詳細は「バスティーユ襲撃」を参照 国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した。 すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた。7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスティーユ要塞監獄に向かった。群衆が占領したバスティーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。 ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と言い和解を宣言した。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった。 この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった。 この時生まれた革命のスローガンは「自由・平等・財産」だった。
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