バスティーユ襲撃事件
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「バスティーユ広場」の記事における「バスティーユ襲撃事件」の解説
詳細は「バスティーユ襲撃」を参照 18世紀後半、アンシャン・レジームに対する民衆の怒りが頂点を極め、1789年7月14日、パリ市民は圧政や国王の権力の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃した。この際収容されていたのは7人に過ぎず牢獄はほとんど空の状態であり、この7人も偽造犯が4人、精神障害者が2人、そして父の怒りをかった若い貴族が1人と政治犯は含まれていない。襲撃当時、バスティーユ牢獄には管理者であった80人の廃兵(戦場で戦うことが出来なくなった兵隊)が守備兵として配置されていたが、すぐにスイス人傭兵によって構成された32人の擲弾兵が加わり、補強された。 朝方、バスティーユ牢獄を取り囲んだ8000人の群集は牢獄側に対して投降を呼びかけ、牢獄の武装解除や武器庫に保管されている武器や弾薬の開放を求めた。これに対して牢獄側は代表者2名を招き入れて交渉を行ったが、交渉は思うようにまとまらず昼過ぎには一部の群集が中庭に繋がる跳ね橋を落とし、中庭に侵入。これに対して守備兵が発砲して応戦したため銃撃戦となった。そこへさらに一部のフランス軍が群集側に加勢しバスティーユ牢獄は降伏、午後5時30分ころに牢獄は陥落し囚人たちは解放された。
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